第二章 文化ビジネスとグローバル消費社会の力学
3 一層の消費社会化とエスニック・ヒエラルキー
3-1 市場経済の深化
「『文化』の概念をしだいに変容させてリキッド・モダンを体現するものにしようと する力は,市場を社会的・政治的・民族的要素のような非経済的制約から解き放とうと する力と同じものである.」(Bauman 2011: 27)
近代化論と消費社会論を等号によって即結びつけることは躊躇われるが,しかし,多くの 論者(ラッシュを筆頭(Lash 1990)に,ベック,ギデンズ(Beck et al. 1994)など)が多 かれ少なかれ,少なくとも密接に関連のあるものとして扱っていることは事実である.
消費社会の記号的消費を行う主体は,ゲマインシャフト的な共同体からの脱埋め込みを 経験しており,個人化されているという点,また,かれら個人は再帰的な目線で自らの消費 行動も刷新していき,近年では,嫌消費という行動や,自己選択としての共同体的なものへ の再接近という行動がみられる点も,やはり,2つの概念は関係が深いと考えられ,本稿に おいてもそのように措定する.
ソリッドな近代性では権力は国民国家に集中しており,秩序を寿ぎ,事前に定められたコ ースを維持する.しかし,それがやがて資本と情報の世界的な配分に具現されている権力が 超領土的なものになる中で,政治はローカルなままにとどまる.この政治と経済,文化の不 均衡により,各国政府は規制緩和を進めることになる.経済と文化的プロセスに対するコン トロールはより一層,超領土的に「市場の力」に委ねられることになる(Bauman 2011: 117-8).つまり,リキッド・モダニティとは,市場経済の深度が一層深いところまで到達した時 の,文化の性質の変容を言っているのだ.
以下では,市場経済と資本の影響がより一層に強化された世界における多様性と画一性 への作用項を2つの視点から解きほぐしたい.まず,資本・経営と市場・消費者の関係につ いて,経営学の一分野であるマーケティング論から.続いて,資本・経営と労働者の関係か らはこれも経営学の一分野で昨今話題のリーダーシップ論および,多様な労働者の管理に 供されるダイバーシティ・マネジメント/異文化コミュニケーション研究からの視点で論 じるが,後者については論旨の流れの都合上,「多様性を管理する技術」の項目(4-2)で論 じることにする.消費社会が一層深化し,市場の影響力がより強力なものになっているため,
資本側や経営側が,市場や労働に働きかける手法を確認するのは必然であろう.
消費社会が一層その度合を強めたリキッド・モダニティにおいては,啓蒙する対象として
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の大衆は不在であり,代わりに顧客が存在する.文化的供給物は市場において顧客を魅了し,
魅了し続けようとする.いわゆるポストモダン的なマーケティングによって担われる仕事 が増える.マーケティング論は,企業が販売活動をする上で参照している(中小企業よりも,
大きな販売網をもつ大企業ほど参考にしているようだ)経営学の一分野である.「近代的マ ーケティング論の父」とか,「マーケティングの神様」とその分野では言われているフィリ ップ・コトラーの著書(Kotler et al. 2010)を参考にすると,彼はマーケティング手法の変 遷を3つの段階として分類している.初期のマーケティング1.0では,作った商品を市場に 供給する際には,同質的な商品提供を指し,製品の存在とその性能を告知する手法で,その 次の時代,1970年代以降の2.0では,消費者のニーズを調査によって把握し,市場のセグ メント化,ターゲット設定,それに対応するような自社製品・サービスのポジショニングと いう開発と宣伝方法などのいわゆるポストモダンな時代の多様化する市場の要求への対応 で,商品・サービスの差別化という方法を通して需要を喚起するというものである.1.0か ら2.0への販売側の手法変化は,モダンからポストモダンの移行と時期も内容も概ね対応し ていると考えてよいだろう.
しかしここでは終わらず,コトラーは2.0をさらに深化させた3.0という概念も出してい て,今は2.0と3.0の移行期としている.例の一つとして,ガラケー(注:ガラパゴス化し た一昔前の日本の多機能携帯電話の略)が2.0の申し子であるとすると,それを退場させた
iPhoneは3.0的マーケティングの嚆矢であったという.別名だとCause-marketingと呼ば
れるが,つまり購買者が使用価値を超えた価値を見出せるような意義(革新性であったり,
環境に良いなどの社会貢献であったり,使用することで好ましいアイデンティティが獲得 できるなどだろう.自己実現欲求への機会提供に近いと思われる)を商品・サービスに付与 する方法である.iPhoneは消費者の需要に応えるというよりも,むしろ「世の中を良い方 向に変える」というコンセプトが先行して開発がおこなわれた.そこには,2.0よりもさら に明確にプロボノ的なシニフィエの重要性と,消費者側の再帰的志向をリードしようとす る努力が増していることが垣間見える.供給はそれに等しい需要を作り出す,供給が需要を 喚起するという,一度は放棄された大昔のセイの法則が再び見いだされる時代と言い換え られるのではないか.つまり,今の時代は制作側,販売側の提案が市場の需要に先行し,リ ードしているということである.
コトラーは3.0的手法の中心軸の一つに,グローバル化した市場では文化(ナショナルや エスニックな意味で)に対応した売り方を強調している.グローバル化の画一化に向かう力 と,それへの反作用としての先鋭化されたナショナリズムや地域主義が招く社会的問題に 鋭敏に対応する方法として3.0が提案されている.つまりグローバル企業に抱かれがちな否 定的なイメージの払しょくのために,「公正」なグローバル社会の推進という社会的意義を 掲げることで,消費者の反感を逸らし,意義達成のために消費者の協力および協働の場を設 けるという主旨である(Kotler et al. 2010)つまり,消費者の再帰性をマネタイズ(マーケ ティング用語で,収益化の意)の対象とするマーケティング手法であると言ってもよいだろ
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リキッド・モダンの消費者志向型の経済は,消費者の嗜好と供給物の需要を前もって予測 することが困難であるため,リスクヘッジの観点から,また個人化が進んで他者との差異化 を志向する消費者の特徴から,新製品・新サービスの開発による多産多死型の生産供給を行 い,供給スパンも短く,回転のサイクルは早くなる.多種の小ロット生産はポスト・フォー ディズム経済の特徴そのものである.
バウマンがいう超領土的,あるいはネグリ&ハートが言う脱領域的とはスーパーリッチ や統治機構の非-場化のみならず,昨今のあらたな民族大移動をも含んでいるし,それに先 立つあらゆるグローバル化の現象も含まれていると言ってよいだろう.またそうしたこと が,消費社会が一層深まったこととあいまって,エスニシティが商品化することもよく知ら れている.エスニシティの商品化とは,端的に言って,ナショナルやらエスニックな有徴性 が,ユニークな記号を備えるために商品価値を持つことである.
エスニシティの商品化の一つの例としては,食があきらかである.日本食,ほんの一昔前 までは,西洋圏では寿司は火を通さずに食すので野蛮であると考える人の方が明らかに多 かった.普通に考えても有徴性が高くて,敷居も高いと思われるような寿司が,今では世界 のあらゆるところで人気であり,例えばLAなどの東の文明にも開けた大都市では,むしろ 寿司に偏見を持っている人の方が時代錯誤のようなラベルを貼られかねない.ラーメンブ ームしかり.寿司については,ヘルシーだと考えられているため(実際に健康的か否かより も,一部の人にとっては「ヘルシー」という記号を備えている),健康を気に掛ける時代背 景から,その側面による説明もかろうじて可能であるが,ラーメンブームはあきらかに健康 を気にしての消費ではない.韓国料理のコリアン・バーベキューの人気も同様である.
ところで,以前よりも多くの人々が健康を気に掛けるようになったこと自体が,リキッ ド・モダニティゆえである.不確定要素が高まり,従来の安定した家族関係に期待を抱けず,
かといって,国による保障も充分とは程遠い(オバマ・ケアにより多少ましになったとして も).投資先として回収が確からしそうに思われる自分自身に関心が集中し,自分の健康が 投資対象として相対的にリスクの少ないものになった.
しかし,そのような健康的だから,という消費行動と,ラーメン,コリアン・バーベキュ ーに向けられている熱量は説明できない.むしろ雑食性によって理解されるべきである.寿 司も少なからずそのような要素があったはずである.繰り返すが,ほんの少し以前までは一 部の人びとを除くと,火を通さずに食すことには,野蛮であるとか,後進的であるとかの大 きな負の記号性がともなっていたのだが,ある時を境に受け止められ方が変わった.また今 では,もはや日本的な要素が薄れてローカライズされているという点も大きい.
アメリカ全般にも言えるが,LAでは特に食の雑食性は極まっている.各種の中南米の食 は当然として,それらをローカライズした版はそれ以上に人気であるようにみえる.タイ,
インド,中華,モンゴル,ベトナムの各種料理もローカライズされ,根付いているし,最近