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第 38 章

ドキュメント内 パーラーの紳士 The Gentleman in the Parlour (ページ 133-137)

こうしたあれやこれやの元素の騒動に読者諸賢がいささか困惑されているかもしれない ので、こんどはその啓蒙のために、いくつか一般的な関心を集める事実を少々記述してお こう。アンコールは大きな都市であり、強大な帝国の首都で、五キロ四方にわたりそこを 飾った神殿の廃墟がジャングルに点在している。アンコールワットはその一つでしかな く、他のものに比べて考古学者や復元者、旅行者の関心を集めてきたのは、西洋に発見さ れたときに荒廃がそれほど進んでいなかったからだ。なぜこの都市がこんなに突然放棄さ れたのかはだれも知らない。石切場には、未完成の神殿に運ぶための石材が見つかってい るというのに。専門家たちはうまい説明を探し続けてきたが、答は出ていない。

神殿の一部はまるで相当部分が意図的に破壊されたように見える。だから、ここの支配 者たちが武運つたなくこの国から逃げ出したとき、何世代にもわたりこうした巨大な建物 を建てるために命を捧げてきたあわれな奴隷たちが、恨みをこめて血と汗により作らされ てきたものを壊したのだ、という説がまことしやかに流布している。これは一説にすぎな い。唯一確実なのは、ここに繁栄した人口の多い都市があり、いまやそこには神殿の廃墟 がいくつかと、うっそうとした森林があるだけだ、ということだ。家屋は木造で小さな敷 地に囲まれ、ごく最近チェントンで見た家と同じで、腐り落ちるのに時間はかからなかっ ただろう。ジャングルは、しばらくは人々の営みで抑えられていたが、人の無駄な活動の 場面に抵抗しがたい緑の海となってどっと流れ戻ったのだ。十三世紀末には東洋最大の都 市の一つだった。その二百年後には野獣たちのリゾート。

アンコールワットはきちんと東西を向き、そのてっぺんにある五つの塔の真後ろから太 陽が昇る。幅広い濠に囲まれ、それを渡るには板石で舗装された大きな堤道を通るが、濠 の静かな水面には木々が繊細に反射している。

美しいというよりは圧倒的な建物で、心に響く美を得るためには、夕暮れの輝きや白い 月光のまばゆさが必要だ。灰色でかすかな緑に覆われているが、緑はそれが経てきた数々 の雨期によるコケやカビの色だが、日没時には淡黄色で淡く暖かみを持つ。全土が銀色の 霧に包まれる夜明けには、この塔は不思議と実体がないような側面を見せる。昼間の厳し い白光の中では書けている、空気のような軽やかさを見せるのだ。一日二回、日の出と日 没には奇跡が起き、塔はまったくちがった美しさを獲得する。それは精霊の高い城砦にあ る謎めいた塔だ。寺院とその付属建築は厳密な様式の平面図にしたがって建てられてい る。こっちの部分があっちと釣り合いを取り、片側は反対側の繰り返しという具合だ。建 築家たちはここではあまり発明の力を行使せず、宗教の儀式が命じるパターンにしたがっ て建設した。無茶な欲望や鮮烈な想像力はなかった。突然のインスピレーションに屈した りもしなかった。入念だ。規則性と広大さによって効果を出した。もちろん現代の目は、

いまや実に容易に建設できる巨大ホテルや巨大アパートなどの大建築によりゆがめられて

おり、アンコールワットの大きさはがんばって想像しないと認識できない。だが当時この 寺院を目の当たりにしたものにとって、これはとんでもない代物に思えたにちがいない。

ある階から次の階につながるきわめて急な階段は、ひたすら高さを際だたせる。儀式や行 列にふさわしい、西洋の広く立派な階段ではなく、秘密の謎めいた神の御前で急いで昇る ための面倒な手段なのだ。それは聖なるものを自分から遠く謎めいた存在に仕立て上げ る。塔ごとに階が四つあり、そのそれぞれには大きな貯水池が掘りこまれ、清めの水が入 れられる、そしてそうした異様な高さにある水は、静けさと畏怖に異様さを加えたはずだ。

この宗教では、寺院は空っぽで、神は信者たちがなだめるべく贈り物を捧げる決まった期 間以外は、孤独に住んでいる。今やそれは無数のコウモリのすみかであり、空気はコウモ リだらけだ。暗い通路と荘厳な部屋のすべてで、そのチイチイという鳴き声が聞こえる。

この建設の平板さは、彫刻家たちに装飾の機会をたっぷりもたらした。柱頭、付け柱、

ペディメント、戸口、窓は想像を絶する多種多様な彫刻が豊かに刻まれている。主題はわ ずかだが、その上に多くの美しい発明が縫い付けられているのだ。ここでの彼らは好き勝 手に任され、創造の激烈さをもって、この狭い制約の中に躍動する魂の冒険すべてを押し 込んだ。寺院から寺院へとまわるにつれて、何世紀もたつうちに、こうした無名の職人た ちは荒々しい強さから完璧な優雅さへと繊維した様子がわかっておもしろい。そして当初 は全体など無視して装飾それ自体を目的としていたのに、長いことたってやっと、自分を 全体の計画に従属させることを学んだのもわかる。力強さで失ったものは、趣味の良さで 取り返した。どちらが好きかは見る者次第だ。

ギャラリーは浅いレリーフで飾られている。しかも延々とそれが続く。世界的に有名 だ。でもそれを表現しようとするのは、ジャングルを表現するのと同じくらい愚かしい。

こっちには頭上に国の傘をかかげてゾウに乗った王子たちが、優雅な木々の中を進んでい る。これは心地よいパターンとなって、紙のパターンのように壁の端から端まで繰り返さ れている。あちらには、戦いへと進軍する兵士たちの長い行列があり、その腕の身振りと 脚の動きはカンボジアの踊りにおける踊り手たちと同じ形式化されたデザインに従ってい る。だがそれが戦闘に参加すると、バラバラになり狂乱した動きとなる。死にかけや死ん だ兵士ですら暴力的な態度へと身体をよじらせている。その上では首領たちがゾウや戦車 に乗って進軍し、剣や槍を構えている。そして抑制のない活動の感覚、戦闘の混乱と緊張、

息詰まる感覚、扇動に無秩序の感覚が生じ、とめどなくおもしろい。空間は隅から隅まで 人物や馬、ゾウや戦車で覆われ、そこには秩序もパターンもなく、この混沌の中で唯一目 が休めるのは戦車の車輪だけだ。リズムなどない。というのも芸術家たちが求めていたの は美ではなく、動きなのだ。身振りの優雅さや線の純粋さなど意に介さなかった。彼らの 狙いは静謐の中で回想された感情などではなく、一切制限のない生きた情熱だ。ここには ギリシャ人たちの調和などまったくなく、濁流のような流れとおそろしく苛烈なジャング ルの生の本流があるのだ。それなのに、古代ギリシャ大理石彫刻に匹敵するほど美しいも のが少なからずあり、それを見て純粋な美のもたらす熱狂にとらわれない者はよほど退屈 な人物なのだろう。だが無念かな、この優れた作品はごく短期間しか作られなかった。と いうのもそれ以外の絵はおおむね下手でパターンも退屈なのだ。彫刻家たちは何世代にも わたり、奴隷のようにお互いをコピーするだけで満足していたようで、あまりの退屈さだ けでもときどき新しいデザインに進出したいと思わせはしなかったのだろうかと不思議に 思ってしまう。その入念なドローイングを作成する製図家たちは、その相似性の中に多く の差異を見いだすが、それは百人の手が書き写した散文に見られるような差異でしかな

い。その筆跡はちがっていても、意味は同じままなのだ。そして、これほどの退屈なもの の中をわびしくうろつきながら、なぜ人類がある一つの状態に決してとどまれないのかを 説明してくれる哲学者がいてくれればと私は願った。なぜ最高のものを知りながら、人類 はこんなに安楽に凡庸なもので満足してしまうのでしょうか、と尋ねたかったのだ。状況

――それとも天才、個人の天才か?――が人をしばらくの間高みに持ち上げるが、そこで は呼吸が楽にできないために、落ち着いた低地に人は喜んで舞い戻ってしまうのでしょう か? 人類は水のようなもので、人工的な高さに無理矢理持ち上げることはできても、力 を取り除けばすぐさま元の高さに戻ってしまうのでしょうか? まるで人類の通常の条件 というのは、環境に適応した最低水準の文明であり、その状態にのみ時代から時代へと変 わらずとどまれるかのように見えるのですが。すると我が哲学者は、塵より高いところに 自らを引き上げることができる人種はごくわずかで、それすらごく短期間しかできないの だと語ったことだろう。そしてその人種自身ですら自分の状態が非凡なものだと知ってお り、獣より多少ましな程度の状態に喜んで退行してしまうのだ、と。だがもしそう言われ たら、私としては人間というのが完璧にはなれないものなのかと尋ねただろう。だが彼が 次のように言ったとしたら、私は唯々諾々と承知したことだろう:おいで、そんなところ でわけのわからんことをしゃべってどうする、昼飯食いに行こう。静脈瘤でもあって、長 いこと立っていたので脚が痛み始めたんだろうと私はつぶやいたはずだ。

ドキュメント内 パーラーの紳士 The Gentleman in the Parlour (ページ 133-137)