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このはるか遠い地点に私を連れてきた奇妙な偶然について考えていると、ふとこの旅に 出るよう誘い出した何気ないことばを口走った、あの背の高い超然とした人物のほうへぼ んやりと考えが向いた。その人が残した印象から実際の人物を再現してみようと。という のも、人々に出会うときには、平面としてしか見ず、向こうも一面しか見せてはくれず、

そしてぼんやりしたままだからだ。それが全体性をもって存在するには、身も骨も入れて やる必要がある。だからこそ、小説の登場人物は人生の登場人物よりもリアルなのだ。こ の人物は兵士で五年にわたりロイムウェで軍警所の指揮官を務めていた人物だ。ロイム ウェというのはチェントンから数キロ南東にあり、夢の丘という意味だ。

たぶんあまり熱心な狩人ではなかっただろう。というのも、獲物が大量にいる場所に住 む人の多くは、ジャングルの野生動物を殺すことに嫌悪感を抱くようになるからだ。やっ てきて、トラ、水牛、鹿など、あれやこれやの動物を自尊心の満足のために撃つと、それ で興味を失うのだ。その生活習慣を観察したこれらの優雅な生き物が、自分と同じくらい 生命に対する権利を持っているのだ、ということが自ずと理解されるのだ。一種の愛情を 感じるようになり、そして銃を持ちだして村人を脅しているトラを殺したり、ヤマシギや コシギを鍋用に撃ったりするのも、嫌々やるようになる。

五年というのは人の生涯において大きな切れ端だ。彼はチェントンについて、恋人が花 嫁について語るような口調で語った。実に強力な体験だったので、永遠に仲間とは一線を 画すことになったのだった。寡黙で、英語のようにそこで見つけたことはぎこちないこと ばでしか語れなかった。閉ざされた村で夜にすわり、長老たちと話したときに心に触れた 漠然とした感情は、当人ですら簡単なことばにまとめられたかどうかはわからないし、答 えられるのを待ちつつ黙って(貧窮者向け宿泊所の外に冬場に立つホームレスの男たちの ように)立っているその質問(彼のような状況と職業の人物にとっては実に目新しく奇妙 なものだ)を自問したかどうかもわからない。彼は野生の樹木に覆われた山岳や星空の夜 を愛した。日中は果てしなく単調で、彼はそこに漠然とした湿ったパターンを刺繍するの だった。それが何なのか私は知らない。たぶんそれは、彼の戻っていく世界、クラブと酒 保のテーブルの世界、蒸気機関と自動車の世界、ダンスやテニスパーティ、政治、興味、

賑やかさ、興奮、新聞の世界を、不思議に無意味なものにしてしまったのだろうと推測す るばかりだ。その中に暮らし、それを楽しんだにもかかわらず、それはまったく遠いまま にとどまっていたのだった。たぶん彼にとっては意味を失っていたのだと思う。その内心 には、ついぞ完全には思い出せない美しい夢の思い出があったのだ。

人は社交好きだ。少なくともほとんどの人は。そして仲間と共にあろうとしない人物は 軽蔑さえる。そいつがふうがわりだと言うにとどまらず、そこに何か卑しい動機があるに ちがいないと思ってしまう。その人が我々など必要としないので、プライドが傷つけられ

るから、おたがいにうなずいて目配せし、あんな変な生き方をするのは、たぶん秘密の悪 徳にふけるためなんだろうし、自分自身の国に住まないのは、そこにいられないくらいま ずいことになるからなんだと言う。だが世間に居場所がないと感じる人はおり、そうした 人は仲間を必要とはせず、同輩たちの熱狂ぶりの中にいると居心地が悪いのだ。彼らは不 可侵の寡黙さを持っている。感情を分かち合うと恥ずかしいと思う。みんなで歌を歌うの は、それが国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・キング」であってもいたたまれないことで、歌う ときでもこっそり風呂場で歌うくらいだ。彼らは自給自足していて、どうでもいいという ように、そして認めざるを得ないことだが、軽蔑したように肩をすくめる。というのも、

どうでもいいという形容詞はしばしば悪い意味で使われるからだ。本当にどうでもいいと 思っているにしても、彼ら自身はそんなことを「超越している」。そうした人物はこの地 の表面いたるところにいる。それは何か誓いで結ばれているのではなく、石壁に閉ざされ ているわけでもない、巨大な修道院の一員なのだ。世界中をあちこちさまよえば、各種の 意外な場所でそうした人々に出会う。イギリス人の老婆が、たまたま偶然自動車で通りが かったイタリアの小さな町の外にあるヴィラに住んでいると聞かされても驚いたりはしな い。というのもイタリアは昔から、こうした真面目な尼僧たちの逃げ場所として好まれて いるからだ。こうした人々は通常生活には困らず、イタリア十六世紀芸術について豊かな 知識を持っている。アンダルシアでぽつんと建つ農家を指さして、そこに何年もある年齢 のイギリス人女性が住んでいると聞かされても、当然のことだと思う。通常は敬虔なカソ リックで、ときには運転手と罪深い情事にふけっているのだ。だが、ある中国都市で唯一 の白人が、伝道師ではなくイギリス人女性で、理由はだれも知らないがそこにすでい四半 世紀暮らしているとなると、もっと驚かされる。そして別の一人は南太平洋の環礁に住 み、またもう一人はジャワ島中心の大きな村公害にバンガローを持っている。彼らは孤独 な生活を送り、友だちもなく、見知らぬ者を歓迎しない。同じ人種の人間に何ヶ月もあっ ていなくても、まるで目に入らないとでもいうように道でそしらぬ顔ですれちがい、そし てもし同国人だからと訪ねてみても、たぶん追い返されるだろう。だが迎え入れてくれた ら、銀のティーポットから紅茶を注ぎ、ウスター磁器の古いサラから熱いスコーンをすす められるだろう。実に丁寧に話しかけ、まるでロンドン広場を見下ろすドローイングルー ムでもてなしているかのようだが、でも立ち去るときには、またお目にかかりたいなどと は一切言わない。

男性のほうがもっと寡黙でもっと親しみやすい。最初は口が堅く、頭の中で会話のたね を必死で探すときの不安そうな表情がわかる。でもウィスキー一杯で心がうちとけ(とい うのもときに彼らもきつい一杯がほしいのだ)、すると何でも話すようになる。こちらに 会えてうれしいのだが、あまり図に乗らないようにしなくてはならない。彼らは相手がい るのにすぐ飽きてしまい、無理に話をしなくてはならないことで、苛立ってくる。女性よ り衰えが早く、きわめて乱雑な生活を送り、身の回りや食事にはまったく気をつかわな い。表向きの職業は持っている。小さな店をやっていても、別に何かが売れるかどうか気 にもしないし、その商品はほこりまみれでハエがたかっている。あるいはやる気皆無の無 能ぶりでココナツ農園を経営していたりする。破産寸前だ。ときには形而上格的な考察に 没頭しており、私が出会った一人は何年もかけてイマニュエル・スウェデンボルグの著作 研究と注釈を行っていた。時には学生で、プラトンの対話などすでに翻訳のある古典作品 を、ものすごい手間をかけて翻訳しなおしたり、あるいはゲーテ『ファウスト』のように 翻訳不可能なものを訳している。社会の一員としてあまり有用ではないが、その人生は人

畜無害だ。世界が彼らを嫌うなら、彼らのほうも世界を嫌っている。その世界の喧噪に戻 ると考えただけで彼らにとっては悪夢だ。だからとにかく放っておいてくれというだけ。

彼らが自分たちに満足している様子は、ときに少しばかり苛立たしい。ほとんどの人に とっては人生を生きる価値のある者としているものほとんどを自発的に放棄し、そして自 分の逃したものについてまったくうらやんだりしない連中のことを思って屈辱感を覚えな いためには、かなりの哲学が必要となる。私は彼らがバカなのか賢者なのか、未だに腹を 決めかねている。夢のためにすべてをあきらめているが、その夢は平和や幸福や自由の夢 で、そしてその夢があまりに強烈なために、それが現実のものとなるのだ。

ドキュメント内 パーラーの紳士 The Gentleman in the Parlour (ページ 75-79)