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第 30 章

ドキュメント内 パーラーの紳士 The Gentleman in the Parlour (ページ 103-107)

これまでの道中で通り過ぎた慎ましい小さな僧坊寺院にもこうしたものがもっとあった ように思えた。その木の壁や草葺き屋根や小さな安ぴか物の仏像で、そうしたところには 家庭的なものがあったが、でも謹厳さもあり、それがゴータマの説いた家庭的ながら謹厳 な宗教にはふさわしいように思える。それは、私の勝手な思いだが、都市の宗教というよ りは田舎の宗教であり、聖なる者がその悟りを見つけたという野生のイチジクの木がもた らす緑の木陰がつねにそこにつきまとっているのだ。伝説は彼を王子に仕立て上げ、世捨 て人になったときに権力や大きな財力や栄光を放棄したかのように思わせた。だが実際に は彼は、田舎紳士の良家の子供でしかなかったし、だから世捨て人となったときには、せ いぜい水牛何頭かと多少の田んぼをあきらめたくらいだと思う。その生涯は、私がシャン 州で通過してきた各地の村の首長たちと同じくらい単純なものだった。彼は形而上学的な 考究に情熱を傾ける世界に暮らしていたが、形而上学には手厳しかったし、巧妙なヒン ズーの賢者たちによって無理に議論を強いられると、いささか苛立った。彼は宇宙の起 源、意味、目的などに関する憶測などまったく取り合わなかったことだろう。「まこと、

身の丈六尺ほどながら意識を持ち心を宿した死すべき肉体の中には、世界をその起源があ り、その去りゆく先もある」。その弟子たちはブラフマン博士たちに、己の立場を形而上 学的な議論で説明するよう強制され、時間がたつにつれて、哲学的な人々の鋭い知性を満 たすような信仰の理論を編み出しただろうが、ゴータマはあらゆる宗教の開祖と同じく、

要はたった一つのことしか言わなかった。疲れ切り、重荷を背負わされた者たちは全て我 が元へ集え、私が休息を与えよう。

世界に現れたほとんどの神々は、人々が自分を信じるべきだといういささか気狂いじみ た主張をして、信じられないという人々に対しては(その人がいかに善良でも)恐ろしげ な罰則で脅した。もたらすはずの大いなる贈り物の提供を妨げる者たちに対して糾弾する ときの暴力には、いささか哀れなものさえある。内心奥深くでは、自分に聖性をもたらす のは他人の信仰であり(まるでその神様の頭が不安定な基盤に立っていて、あらゆる信者 はそれを支える石でしかないとでもいうようだ)、彼らが実に熱烈に説きたがるそのメッ セージが効力を発揮するには彼ら自身が神になるしかないとでも言うようだ。だがゴータ マは、自分を試してみてその結果で自分を判断してくれという医師の主張をしただけだっ た。彼は芸術作りが自分の機能であるからこそ全力で作品を作る芸術家にむしろ似てい て、魂というものを信じないことから必要とされた変更をその信念にもたらしたのだ。と いうのも誰でも知っているように、ブッダの教えでもっとも重要なのは、魂とか自己とか いうものは存在しないということなのだから。万人は、物質的精神的な性質の寄せ集め だ。ちがった者にならなくては寄せ集めたりはできず、死ぬことなしにちがった者になる ことはできない。始まりのあるものは必ず終わりもある。この発想は、日が照ってダウン

ズ丘陵を越える道が足の下ではずむ、さっぱりした冬の朝のように爽快だ。カルマという のは(読者諸賢に説明するまでもないだろうが)というのは存命中のその人の行動が、次 の生での運命を決めるという理論だ。死ぬときに、人生の欲望に影響されて、その人を形 成していた性質の非永続的なる集合が再び組み合わさり、別の日永続的な集合を形成す る。人は長い因果の連鎖における、現在の一時的な輪でしかないのだ。カルマの法則は、

あらゆる行動が結果を持つのだと告げる。それはこの世界の邪悪に関する説明で、心に怒 りを抱かせない唯一の説明だ。

以前のページで、親切な読者諸賢に、一日の始めに形而上学的な著作を数ページ精読す るのだとお話した。これは朝風呂が身体にとって健康的なのと同じくらい、魂にとって健 康的な習慣だ。抽象概念を楽々と逍遥するような種類の知性はないし、自分が読むものを まるで理解できないことも多いが(これはあまり気にはならない。というのも専門の論法 家ですら、しばしばお互いを理解できないとグチを言うからだ)それでも読み続け、とき どき私に特別な意味を持つ一節に出くわすのだ。すてきな一節により我が道はときどき明 るくなる。というのも昔の哲学者たちは、しばしば非凡なくらい上手に文を書くからで、

長期的には哲学者というのは、偏見も個人的な希望も癖もふくめ、自分自身について書い ているだけであり、そしてそのほとんどはかなり強健な人格の持ち主だったので、しばし ばその著作を読むことでおもしろい人物とお知り合いになるという楽しみが得られる。こ の気まぐれな方法で、私は世界に登場した大哲学者のほとんどを読み、人生という迷路の ようなジャングルをとりあえず切り抜けようとする万人の首をひねらせる事柄について、

啓蒙をあちこちでつまみ食い的に学ぼうとしてきた。そして邪悪の問題をどう扱うかとい う方法ほど興味を抱いたものはない。あまり蒙を啓かれたとは言いがたい。最高の哲学者 ですら、長期的には邪悪ですら善だということがわかり、したがって悪に苦しむ人々も偏 見のない心でその苦しみを受け入れなくてはならないという以上のことは言えていない。

困惑して神学者がこれについてどう語っているかも読んで見た。そもそも罪というのは神 学の縄張りだし、神学的にはこの問題は単純きわまりない。神様が全能であるならなぜ悪 を許容するのか? 神学者の答は様々で混乱している。心も頭も満足させるものではな く、私はといえば̶̶私は無知だし問いかけをするのは凡人であっても答を理解するには 専門家でなければならないかもしれないので、こうした問題については控えめな物言いを するのだが̶̶そうした説明はどれも受け入れられない。

さて、たまたま道中で読むべく持ってきた本の一冊はブラッドレー『見かけと現実』

だった。以前にも読んでいたが、むずかしかったので再読したいと思った。でもあまりに 分厚い本なので、表紙を破り捨てていくつかの部分に分けて、もう十分読んでポニーにま たがり一夜を過ごすバンガローから離れるときにも、楽にポケットに入るようにしておい た。読み物としてはおもしろく、ほとんど納得はできないものの痛烈で、著者は皮肉の心 地よい才能を持っている。もったいぶったところはない。抽象的な話も軽やかに扱う。だ が展覧会で見かけるキュビズムの家のようで、軽やかでこぎれいで広々としてはいるが、

線が厳しくあまりに調度に飾り気がないので、暖炉でつま先を温めたり楽しい本を持って 安楽椅子に落ち着いたりしている自分を想像できないのだ。でも悪の問題の扱いまでやっ てくると、ローマ法王が若い娘の形よいふくらはぎを見たかのように、そのとんでもなさ に私は文句なく逆上してしまったのだった。書かれていることによれば、絶対者は完璧で あり、悪は見かけにすぎず、全体の完成に役立つ者でしかあり得ないという。まちがい は、生命の活力増大に貢献する。悪はもっと高い目的に一役買うのであり、この意味で知

らぬうちに善となっている。絶対的なものはあらゆる不協和音によりさらに豊かとなると のこと。そしてなぜか知らないが、戦争初期の光景がふと記憶に蘇ったのだった。それは 十月のことで、まだ我々の感覚も鈍ってはいなかった。寒く凍てつく夜。参加した者は戦 闘だと思ったものが起きたが、でも実際にはあまりにどうでもよくて、新聞にはろくに報 道もされない程度の小競り合いでしかなく、死傷者は千人ほどでしかなかった。彼らは田 舎教会の床に藁を敷いて並べられ、光は祭壇のロウソクだけ。独軍が進軍しており、すぐ さま彼らを撤収させねばならなかった。夜を徹して救急車が照明なしで往き来し、負傷者 たちははやく連れ出してくれと叫び、中には担架にのせられるときに死んでしまい、ドア の外の死体の山に放り出されて、みんな汚れて血まみれで、教会は血のにおいが満ち、人 体の腐臭がした。そして少年が一人、あまりに重傷で移送するまでもないくらいで、それ が横たわったまま、両側の人が運び出されるのを見て、こう絶叫したのだ。je ne veux pas mourir. Je suis trop jeune. Je ne veux pas mourir. そしてこのように、自分が死 ぬまでは死にたくないと叫び続けた。もちろんこれは何の主張でもない。私がこの目で見 て、その絶望的な叫びがその後何日も私の耳に響きつづけたという以外何の意義もない、

どうでもいい出来事でしかない。だが私より偉大な人物、哲学者にして数学者がこの取引 とでも言うべきものについて、心は頭にはわからない理由を持っているのだと言うのであ れば(そして私のように仏教徒の用語を使うなら複合的なものに捕らわれている状態で は)、この光景は形而上学者の細々した理屈に対する反論として十分すぎるものに思える のだ。でも我が心は、自分に降りかかった悪が私の(といっても私の魂ではない、魂は消 えてしまう。他の存在状態における私だ)過去に行った行動の結果だと言われれば納得で きる。まわりで見かける悪もあきらめがつく。若者の死も(なによりもつらい)その若者 たちを不安と貧困と病気と切ない希望の中で生んだ母親たちの悲しみも、そうした悪が苦 しむ者たちのかつて行った罪の結果にすぎないというならば、あきらめられる。この説明 は、心も頭も逆上させることはない。私から見てその欠陥はただ一つ。まったく信じられ ないということだ。

ドキュメント内 パーラーの紳士 The Gentleman in the Parlour (ページ 103-107)