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シャムを南下するのはゆっくり時間をかけた。国は快適で、開放的でにこやかで、きれ いな小村があちこちにあり、どれも垣根で囲まれて、その敷地に果樹やビンロウの木が生 えているので慎ましい繁栄の魅力的な雰囲気を醸し出している。道路の交通量はかなり あったが、人口の少ないシャン州とはちがってラバではなく牛車が中心だ。平地だと稲作 が行われたが、波打つところではチークの森が生えている。チークは見栄え実に軽やかで 優雅で息詰まるところのないチークの森に馬で入ると、古いロマンス小説の騎士になった ような気分だ。休憩所は清潔でしっかりしている。旅のこの部分で出会った白人はたった 一人で、それは北に向かうフランス人で、ちょうど夜に休もうとしたところへバンガロー に入ってきたのだった。そのバンガローはフランスのチーク材会社のもので、彼はそこの 従業員であり、まったく見知らぬ相手なのに私がそこに落ち着いたのは当然と思っている かのようだった。礼儀正しかった。この業界にはフランス人は珍しく、その人々はジャン グルに出ずっぱりで現地労働者の監督にあたっているが、森林で働くイギリス人よりさら に孤独な暮らしを送っており、だから話し相手ができて喜んでいた。我々は夕食を共にし た。がっしりした体格の人物で、大きな肉厚の赤ら顔と、流暢なことばをやわらかく豊か な音の肌理で覆うような優しい声をしていた。ちょうどバンコクでの短い休暇から戻って きたところで、帽子の数よりは情事の数のほうが人は感動するというフランス人特有の思 い込みから、そこでの性的な体験についていろいろ話した。粗野な人物で、生まれも卑し く馬鹿だった。だがそこで彼はテーブルの上に転がっている、破れたペーパーバックの本 に目を止めた。

「おやおや、これはどこで手に入れましたか?」

バンガローにあったので目を通していたところだと話した。それはヴェルレーヌの詩の 選集で、カリエールによるピンぼけながら、興味深くなくもない肖像写真も巻頭について いる。

「一体全体だれがこんなものをここに残していったものやら」と彼は言った。

そしてその本を手に取ると、さりげなくページを指でめくりつつ、この不幸な詩人の気 持ち悪い各種物語をしてくれた。私のすでに知っている話ばかりだった。そこで彼の目 は、知った一節を見つけて、朗読を始めた。

’Voici des fleurs, des fleuis, des feuilles et des branches.

Et puis voici mon coeur qui ne bat que pour vous.’

この果実、この花、この葉に枝

そしてこれが君のためだけに打つぼくの心

(ただし実際には、一行目の「果実」と「花」の部分はまちがっている)

そして読みながらその声は切れ切れとなり、涙が目に浮かんで顔をつたい落ちた。

「クソッ、赤ん坊みたいに泣いちまった」

本を投げ出し、笑いつつちょっとすすり泣いた。私はウィスキーを注いでやった。とい うのもその瞬間に彼が苦しんでいるこの心痛を、落ち着かせるか少なくとも耐えられるよ うにするためには、アルコールが何よりだからだ。それから二人でピケットをやった。彼 は早めに寝た。翌日は忙しい一日で夜明けから作業開始だったからで、私が目を覚ました ときにはもう姿はなかった。二度と会うことはなかた。

だが、紡ぎ車でゴシップに生を出す女性たちのように元気で素早い日差しの中、馬で進 むにつれて、私は彼のことを考えた。人のほうが本よりおもしろいが、でも人はページを 飛ばせないという欠陥があるのだと思い当たった。よいページを見つけるには、少なくと も全巻を流し読みはする必要がある。そして、棚に戻して気が向いたときにまた読むとい うこともできない。チャンスがめぐってきたその時に読まねばならない。まるで巡回図書 館であまりに任期がある本のようで、自分の順番がやってきたら四と二十時間以上は手元 に置けないようなものだ。そのときは気分が乗らないかも知れないし、また慌てて読んだ ために、それが与えてくれたはずの唯一のものを見逃すこともあるだろう。

そしていまや平原が壮大なほどの広がりをもって展開していた。田んぼはもはや、ジャ ングルから苦労してむしりとった小さな土地などではなく、一面に広がっている。日々は 同時に感動的な何かを持った単調さを持って続いていった。都市の生活では、人々が意識 するのは日の断片だけだ。それ自体としての意味はなく、単にあれこれの幼児をこなす時 間の一部でしかない。我々が活動を始めた時点では、一日はとっくに始まっており、そし てその自然な終わりなど意に介することなくそれを続けている。だがここでは一日には完 全性があり、堂々たる威厳を持って夜明けから日暮れまでそれが展開するのが目に入って くる。一日はすべて花のようだ。つぼみをつけて華開き、そして後悔もなく自然の道筋を 受け入れながら死ぬバラのようだ。そしてこの太陽に浸された広大な平原は、その絶え間 なく続くドラマの野外劇が展開するにふさわしい場面だった。星は起きたばかりの大きな 出来事、戦闘や地震などの場面に迷い込んだ好奇心旺盛な人のようで、最初は一人ずつお ずおずと、それから群れをなしてやってきて、呆然と立ち尽くしたり、何が起きたか痕跡 を探そうとしたりする。

道路はまっすぐで平坦になった。あちこちで深い轍ができたり、小川が横切るところで はぬかるんだりはしているが、これならかなりの距離を車で踏破できる。さて山道を行く ときには、一日十二から十五マイルをポニーに乗って行くのも結構だが、道が広くて平 らだと、こうした旅のやり方は実に苛立たしいものだ。すでに出発してから六週間経っ ていた。果てしなく思える。するといきなり、自分が熱帯にいるのに気がついた。たぶん ちょっとずつ、何事もない日が次々と重なる中で、風景の性質は変わっていたのだろう。

だがそれがあまりに微々たるもので、ほとんど気がつかなかったのだ。そしてある昼、村 に乗り入れたところで、予想外の友人に出会ったように、厳しくせわしない華々しい南部 の香りに出会い、私は喜びで深呼吸した。色の深み、頬に当たる風の熱い感触、目のくら む、それなのに奇妙にくぐもった光、人々の歩き方のちがい、その身ぶりの怠惰な広がり、

沈黙、荘厳さ、ほこり̶̶これぞ本物で、私の沈滞した気分も高揚した。村の通りの街路 樹はタマリンドで、トマス・ブラウン卿の文章のように、豪勢で堂々として自信たっぷり だった。家の敷地の中にはオオバコが堂々とみすぼらしく生え、ハズがその墓のような輝 きを持つ豊かさを誇示している。ココナツの木はそのだらしない頭で、まるで急にたたき

起こされた背の高いやせた老人のようだった。僧坊にはビンロウジュの茂みが、実に背が 高くほっそりと立っており、警句集のように無駄のない精度とむき出しで厳密で知的な露 骨さを示している。南部だ。

今日一日の旅程をなるべくはやく終わらせようとして、東の空に最初の灰色い光が見え ると同時に出発した。日が昇り、背中に暖かくて心地よかったが、やがて熾烈になり十時 には耐えがたくなった。この広く白い道をこの世の始めから旅しているような気分なの に、相変わらずそれは果てしなく目の前に続いている。そして見栄えのする村にやってき て、その町の役人であるこぎれいなシャム人が、にっこりと礼儀正しく、自分の広い家に 滞在するよう薦めてくれた。そしてその敷地に案内されると、そこで私を待っていたの は、ヤシの木陰で切れ切れの日差しに照らされた、赤く、重厚で、信頼できるが誇示する ところのないもの̶̶フォード車だった。私の旅は終わりだ。トランペットの華々しさな しに、静かに、芝居のアンチクライマックスのように終わった。そして翌朝、肌寒い夜明 けに、ラバやポニーをキュザウに託して私は出発した。砕石舗装の道路は建設中で、通れ ないところではフォード車は牛車道を通った。あちこちで浅い小川をはね散らした。でこ ぼこで揺すられ、左右に投げ出された。それでもやはり道、それも自動車道で、時速八十 マイルというめまいのする速度で走り抜けることができたのだった。人類史上、この道を 通過した初めての自動車で、田畑の農民たちは驚愕して我々を見つめた。その中にだれ一 人として、この車の中に見えるのが新生活のシンボルなのだと思い当たったかどうか。そ れは有史以来ずっと送ってきた生き様の終わりなのだ。その習慣や習俗への革命の先鞭な のだ。シュウシュウガタガタと、ちょっと空気の抜けたタイヤではあったがクラクション を決然と慣らしつつやってきた変化なのだ。変化。

そして日没の少し前に、鉄道の終点にやってきた。駅には新しいきれいなペンキ塗り立 ての休憩所があり、ほとんどホテルとさえ言えるほどだ。洗面所があり、身体を伸ばせる 風呂があり、ベランダには横になれる長椅子がある。文明だ。

ドキュメント内 パーラーの紳士 The Gentleman in the Parlour (ページ 89-93)