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第 34 章

ドキュメント内 パーラーの紳士 The Gentleman in the Parlour (ページ 117-127)

バンコクからは、四、五百トンのほどおみすぼらしい小さな船で発った。薄汚い酒場は 食堂を兼ねており、狭いテーブルが二台、端から端まで通っており、その両側に回転式の 椅子が置かれている。船室は船底にあり、きわめて汚れていた。ゴキブリが床を歩き回 り、いかに穏やかな気質の持ち主だろうと、手を洗いに洗面台にでかけたときに、巨大な ゴキブリが平然と出てくればなかなか驚かずにはいられない。

我々が下った川は幅広くゆったりとにこやかで、その緑の岸辺は水辺に立った杭の上に 建つ小さな小屋が点在している。砂州を越えると、外洋が青く平穏に目の前に広がってい た。それを見て匂いをかいだだけで、私は高揚感で満たされた。

乗船したのは早朝で、すぐに自分がこれまで会ったなかでも最も奇妙な人々のただ中に 投げ込まれたことがわかった。フランスの貿易商二人にベルギー人大佐、イタリアのテ ノール歌手、アメリカのサーカス所有者とその妻、そして退役フランス官僚とその妻だ。

サーカスの所有者は社交家と呼ばれるものであり、気分次第でそういう人物からは逃げ出 したいこともあれば歓迎したいこともあるが、たまたま私は人生にずっと満足しており、

乗船して一時間もたたないうちに握手してドリンクを交わすことになり、動物たちを見 せてもらっていた。とても背の低い太った人物で、白いがあまり清潔ではない

ス テ ィ ン ガ シ フ タ ー

詰め襟上衣 は、その腹部の高貴なる大きさの外形をくっきり見せていたが、カラーは実にきつそう で、窒息しないのかと不思議に思うほどだ。きれいに髭を剃った赤ら顔で、陽気な青い目 と、短く切ったボサボサの砂色の髪をしている。頭の後ろのほうにぼこぼこのトピーをか ぶっていた。名前はウィルキンスでオレゴン州ポートランド生まれ。どうやら東洋人は サーカスに夢中らしく、ウィルキンス氏は二十年にわたりポートサイドから横浜まで、動 物たちとメリーゴーラウンドなどと共に、東洋を行ったり来たりしているとか(アデン、

ボンベイ、マドラス、カルカッタ、ラングーン、シンガポール、ペナン、バンコク、サイ ゴン、フエ、ハノイ、香港、上海、地名が舌をうまそうにつたい落ち、想像力は日光と奇 妙な音と多彩な活動で満たされる)。奇妙な生活を送っているし、それも珍しく、たぶん 各種の珍しい体験の機会を与えてくれるのではないかと思えるのだが、ウィルキンス氏で 奇妙なのは、まったくごく普通の小男で、カリフォルニアの二級の町で三流ホテルか駐車 場でも経営しているにちがいないと思ってしまうという点だった。実は、これはあまりに 何度も気がつかされてきたことで、毎回なぜ自分が今さら驚くのかもわからないのだが、

人の人生が非凡だからと言ってその人物が非凡になるわけではなく、逆にその人物が非凡 であるなら、田舎の代理牧師ほどつまらない生活でさえ非凡なものにしてしまえるのだ。

ここでトレス海峡の島に会いにいった隠者の話をするのが適切だと思えればよかったのだ が。その人物は難破した船員で、そこにたった一人で三十年暮らしていたのだ。だが本を 書いているときには、自分の主題の四つの壁に捕らわれているのであり、私自身のさまよ

う心の楽しみのためにその話をここに置いたとしても、表紙と裏表紙の間に何がおさまる のがふさわしく、何がふさわしくないかという感覚により、結局は削除することになるの が落ちだ。とにかく要するに、その自然や思考との長く親密な交感にもかかわらず、この 人物は三十年たってもおそらくその最初の年と変わらない鈍重で鈍感で粗野な人物だった という話だ。

イタリア人歌手が通り過ぎて、ウィルキンス氏によれば、彼はナポリ人であり、バンコ クでマラリア発作のために劇団を離れねばならなかったのだが、いまや再合流すべく香港 に向かっているところだとか。巨漢で、とても太っており、椅子にどすんとすわると、椅 子が不満げにきしむ。トピーを脱いで、長く巻いた脂っこい髪を持つ大きな頭を見せて、

その髪にずんぐりした指輪だらけの指を走らせた。

「あまり愛想がよくない御仁でね。葉巻をあげたら受け取ったのに、一杯やろうともし ない。何かおかしなところがあっても不思議じゃないね。いやらしいやつだぜ。そう思わ ないかね?」

それから小柄で太った女性が白い服で甲板にやってきて、ワワザルの手を握っている。

サルはまじめくさって女性の横を歩いている。

「こちらウィルキンス夫人」とサーカス団長は言った。「そして一番下の息子。ウィルキ ンス夫人、椅子を持ってきなさい、こちらの紳士にお目にかかるといい。お名前は存じ上 げないが、すでに二杯おごってくれているし、これまでやったのよりましな賽の目を出せ ないなら、たぶんお前の分も払ってくれるだろう」

ウィルキンス夫人は漠然とした生真面目な表情ですわり、青い海を見据えたまま、レモ ネードでもいただければありがたいんじゃないかと示唆した。

「まったくお暑うございますね」と彼女はつぶやき、トピーを脱いでそれで自分を扇 いだ。

「ウィルキンスは暑さを感じているんだよ。もう二十年も続いている」とその夫。

「二十二年半よ」とウィルキンス夫人は相変わらず海を見ている。

「そして一向に慣れないんだよな」

「これからも慣れないのは知ってるでしょうに」とウィルキンス夫人。

彼女は夫とまるで同じ大きさで、同じくらい太っており、同じ丸い赤ら顔で、同じ砂色 の乱れた髪をしている。二人が結婚したのは実にそっくりだからなのだろうか、それとも 年月をともにするうちに、この驚くほどの類似性を身につけたのだろうかと私は不思議に 思った。彼女はこちらに顔を向けることもなく、ぼんやりと海を見続けた。

「動物はお見せしたの?」

「あたぼうよ」

「パーシーのことはどう思ったって?」

「すごいとさ」

私は一貫して話題になっているのに、不当にも会話から閉め出されているように感じず にはいられなかったので尋ねた。

「パーシーとはどなた?」

「うちの長男よ。空飛ぶ魚のエルマーもいるわ。オランウータンなの。今朝はちゃんと 食事を食べた?」

「きれいに。捕まってるオランウータンとしては世界最大でしてね。千ドルもらっても 手放しませんよ」

「そしてゾウはどんなご親族で?」と私は尋ねた。

ウィルキンス夫人はこちらを見もせず、青い目で相変わらず無関心に海を眺めていた。

「親族なんかじゃないわ。ただのお友達」

ボーイはウィルキンス夫人にレモネードを、夫にウィスキー&ソーダを、私にはジント ニックを持ってきた。サイコロを振って、私が伝票にサインした。

「振る度に負けるようだとかなり高くつくでしょうねえ」ウィルキンス夫人は岸辺に向 かってつぶやいた。

「エグバートもそのレモネードを一口欲しいんじゃないかな」とウィルキンス氏。

ウィルキンス夫人は微かに首をまわして膝にすわったサルを見た。

「ママのレモネードがほしいかい、エグバート?」

サルは小さなキイキイ声をあげ、それに腕をまわした夫人はストローを渡した。サル はちょっとレモネードを吸って、十分飲むとウィルキンス夫人の豊かな腹に再び沈み込 んだ。

「ウィルキンス夫人はエグバートが本当にお気に入りでね。無理もない。末っ子だから」

とその夫。

ウィルキンス夫人は別のストローを取り、考え深げにレモネードを飲んだ。

「エグバートはいいわよ。この子は何も変なところはない」と彼女。

ちょうどそのとき、すわっていたフランスの役人が立ち上がって行ったり来たりしはじ めた。バンコクではフランスの大臣と秘書官一、二人、王族の王子が一人見送りに来てい た。そして大量のお辞儀や握手が行われ、船が埠頭を離れると、やたらに帽子やハンカチ が振られた。明らかに重要員物だ。船長が彼をムッシュー知事と呼ぶのを耳にした。

「この船の大立て者よ。フランス植民地のどこかの知事で、これから世界一周だとさ。

バンコクでうちのサーカス見に来たよ。何を飲むか聞いてみようかね。あの人を何と呼べ ばいいだろうかね、妻や?」

ウィルキンス夫人はゆっくりと首をめぐらせて、レジオンドヌール勲章のバラ飾りをボ タン穴につけたフランス人が行ったり来たりしているのを眺めた。

「呼ぶまでもないわよ。輪っかを見せりゃ嬉々としてくぐろうとするから」

私は思わず笑ってしまった。ムッシュー知事は小男で、平均身長よりかなり低く、小作 りできわめて醜い小さな顔をしていて、顔立ちは太く、ほとんど黒人めいていた。そして ぼさぼさの灰色の髪の毛に、ぼさぼさの灰色い眉毛、ぼさぼさの灰色い口ひげをしてい る。確かに小さなプードルのようで、プードルのような柔らかく知的で輝く目をしてい た。その次に彼が横を通ったとき、ウィルキンス氏が呼びかけた。

「ムッショー、あなた何かとるしますか?」そのアクセントの奇妙さはとても再現でき ない。「ポイト酒グラスちょと」そして私に向き直った。「外人どもはみんなポルタ酒を飲 むんだ。あれならまちがいないって」

「オランダ人はちがうわよ。あいつらシュナップス以外何も飲まないんだから」とウィ ルキンス夫人はまだ海を見ている。

立派なフランス人は足を止めて、いささか不思議そうにウィルキンス氏を見た。そこで ウィルキンス氏は胸を叩いてこう言った。

「ワタシ、モチヌシのサーカス。ご訪問イラッシャイ」

そして、理由は皆目見当がつかないが、ウィルキンス氏は両腕で輪の形を作り、プード ルがそこに飛び込むのを表す身ぶりをしてみせた。それからウィルキンス夫人が未だに膝

ドキュメント内 パーラーの紳士 The Gentleman in the Parlour (ページ 117-127)