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 早朝に出発すると、朝露があまりにひどくて滴るのが見えるほどで、空は灰色だっ た。だがしばらくすると太陽がそれを貫き、空はいまや青くなり、積雲だった雲はいま や、北極のまわりを静かにはねまわる白い海獣たちさながらだ。田舎は人口が希薄で、道 の両側はジャングルだ。数日にわたり、広い道を通って快適な高地を進んだ。砕石舗装は されていないものの路面はかたく、牛車の通行で深い轍ができている。ときどき鳩をみか けたり、ときどきカラスを見かけたりしたが、鳥はほとんどいなかった。それから開けた 平野を離れると、人里離れた丘や竹林を通過した。竹林は優雅なものだ。魔法の森のよう な負に気があり、その緑の影のなかには東洋のお話のヒロインとなるお姫様がいるかのよ うで、その恋人たる王子様が、きちんとその奇々怪々ですばらしい冒険などを実行できそ うだ。日が差し込んで、希薄な風がその優雅な葉をはためかせると、その効果は魅惑的な ほどに非現実的だ。それは自然の美しさではなく、芝居じみた美しさだ。

 とうとうサルウィン川に到着した。これはチベット高原のはるか高地から発する大河 の一つだ。ブラマプトラ川、イラワーディ川、サルウィン川、メコン川。これらは並行し て南下し、やがてその大量の水をインド洋に注ぎ込む。きわめて無知な私は、ビルマに やってくるまでこの川を知らず、その時点ですら単なる名前の一つでしかなかった。ガン ジス河やティベル川、グアダルキビール川といった川と永遠に結びついている各種連想は 一切持っていない。その川沿いに歩くことでやっと、それは私にとって意味を持つように なり、意味とともに謎もやってきた。それは距離の尺度でもあり、最初はサルウィン川か らあと七日の距離で、次は六日。実に遠いものに思えたし、マンダレーでは人々がこう語 るのを耳にした。

「ロジャーズ一家がサルウィン川に住んでなかったっけ? 渡るときには是非とも尋ね て滞在すべきだよ」

だれかがもっと詳しく述べた。「ああご同輩よ、連中はシャム国境すぐのところにいる んだよ。そこから三週間以上のところには出かけないから」

そして道中で珍しく旅人とすれちがったとき、たとえば通訳が彼としゃべって、私のと ころにやってきてサルウィン川を三日前に渡ったそうだと教えてくれる。水位は高かった が、下がってきているとか。悪天候なら渡るのはただ事ではない。「サルウィン川の向こ う」というのは魅惑的な響きで、地域は薄暗く彼方に思えた。私は次から次へとちょっと した印象を加え、無関係な事実、単語、形容、古い本の図版の思い出なども足して、スタ ンダールの本の恋人がその相手に好みの宝石を積み上げるようにその名を連想で豊かにし て、やがてサルウィン川の思いが想像力を酔わせるようになる。それは我が夢の東洋の川 となり、幅広い水が深く密やかに木々の生えた丘を流れ、そしてそこにはロマンスがあり、

暗い謎があるので、ここが源流で大洋に流れ込むとはほとんど信じられず、むしろ永遠の

シンボルが未知の水源から流れ出して己を未知の海へと見失うかのように思えてくる。

サルウィン川からは二日の距離だった。そして一日。高地の未知を離れ、ジャングルの 間をくねり丘陵地を次々にぬける岩だらけの小道に入った。霧が重く、道の両側の竹林は 薄気味悪かった。世界の長い歴史の発端で、絶望的な戦争を戦い、いまや力を失いつつ不 気味な沈黙の中で待ち続け、待ちつつ見張っているがその大将はだれも知らないという巨 大な軍の色あせた生き霊のようだ。だがときどき、直立してそびえるように、背の高い、

すさまじく背の高い木の陰がぼんやりと立ちはだかる。見えない小川が騒々しく水音を立 てるが、それ以外は沈黙に取り囲まれている。歌う鳥もなく、コオロギも動かない。なん だかこっそりと移動しているようで、本来はそんなところにいるべきではなく、まわり中 を危険が取り巻いているとでもいうようだ。亡霊のような目に見張られているかのよう に。あるとき枝が折れて地面に落ちたが、あまりに鋭く予想外の音だったので、こちらは 銃声のように飛び上がってしまった。

だがついに日差しの中に出てきて、やがて薄汚い村に出た。突然、目の前にサルウィン 川が銀色に輝いているのが見えた。私は船首に立った太っちょコルテスのような気分にな るつもりでいて、その水面を大いなる疑念をもって見据えてやろうと準備万端だったの に、それが提供してくれる感情はその時点で使い果たされてしまった。それは予想してい たよりもごく平凡で、あまり壮大ではない流れだった。実はその場でその時のサルウィン 川は、チェルシー橋でのテームズ川くらいの幅しかなかった。乱流もなく、すばやく静か に流れている。

いかだ(丸木船二艘のうえに竹の台が作られている)が水辺にあって、私たちはラバの 荷を下ろし始めた。その一頭が突然パニックに襲われ、川のほうに突進して、だれかが止 める間もなく飛び込んだ。川に流されていき、この濁った鈍重な水流にあれほどの力があ るとは私には予想外だった。川の直線部を、実にすばやく流されていき、ラバ使いたちは 叫んで腕をふりまわす。あわれな獣が必死でもがいているのが見えたが、いずれ溺れるの は避けられず、川が曲がってそのすがたが見えなくなったのは救いだった。ポニーや私物 とともにいかだで流れを渡されたときにもっとしっかり検分したが、まるで丈夫には見え なかったので、向こう岸についても残念とは思わなかった。

バンガローは川堤のてっぺんにあった。芝生と花に囲まれている。ポインセチアがそれ を見事な輝きで豊かにしていた。公共事業局のバンガローにありがちな倹約ぶりは多少ゆ るめられており、ラバや私自身の疲れた手ありを休めるべく数日逗留するのにここを選ん だのを私はありがたく思った。窓からは丘に閉じ込められた川が、修景水のように見え た。いかだが行ったり来たりして、ラバやその荷を運んでくるのを眺める。ラバ使いたち は、休めるので喜んでおり、私はそのチーフにちょっとした金を渡して一同がごちそうに ありつけるようにした。

そして、彼らの仕事が終わり、召使いたちが私の荷物をほどいてから、あたり一面に平 穏がやってきた。そして川は、そのくねる縦列に人が一度たりとも乗り出したことがない とでもいうように無人のまま、その薄暗い距離感を取り戻した。何の音もしない。日が 暮れ、水の静けさ、木に覆われた丘の静けさ、夕べの平穏は、三つのきわめて見事なもの だった。日没直前の一瞬、木々はジャングルの暗い固まりから己を切り離し、個別の樹木 になるように思える。それまでは、森は見えても木は見えない。だがその瞬間の魔法によ り、樹木は新しい種類の生命を獲得しているように見え、するとそこに精霊が宿っている と想像するのも容易であり、そして暗くなれば移動もできるのではと思えてくる。いつか

はわからないにしても、何か不思議なことがそこに起こりそうで、木々がそのときには不 思議な変身を遂げると思えるのだ。息を止めて驚異を待ちうけ、そしてそれを考えただけ で、心は怯えたような渇望でかき乱される。だが夜のとばりが下りる。あの瞬間は通り過 ぎ、再びジャングルが木々を取り戻す。その様子はまるで世界が、若さという天才を身中 に感じている若者たちが精神の大冒険にのりだそうという瞬間にためらい、すると周囲に 飲み込まれて人類の膨大な匿名性に再び沈み込んでしまうときのようだ。木々は再び森の 一部となる。動かず、生気がないわけではないにしても、ジャングルのむっつりした頑固 な生で生きているだけとなるのだ。

この場所は実に美しく、芝生や庭木の生えたバンガローは実に家庭的で穏やかだったの で、一瞬私はそこにたった一日ではなく、一年間、いや一年間どころか一生暮らそうかと いう考えをもてあそんだほどだ。鉄道の終点から十日がかりで、外界との唯一の通信手段 はタウンジーとチェントンの間をたまに行き来するラバの隊列のみ、唯一の交渉は川向こ うの薄汚い村の住民たちのみ、だから世界の混沌、妬み、意地悪や悪意から何年も離れ て過ごし、己の思索、本、イヌと銃だけで、まわり一面は広大で謎めいた豪勢なジャング ル。だが残念ながら、人生は年だけでなく時間単位でも構成され、一日には二十四時間 あって、一時間を切り抜けるほうが一年を切り抜けるよりもつらいというのはパラドック スでも何でもない。そして、自分の落ち着かない精神が一週間で先へ進もうとするのはわ かっていた。進む先はあてどないのは事実だが、とにかく落ち葉が強い風によりまったく 無目的にあちらこちらと吹き飛ばされるように、先へと向かうのだ。だが作家として(残 念ながら詩人ではありません! 単に物語り作者でございます)私は他人のために、自分 では送れない生活を送ることができた。これは恋人たちの恋路にふさわしい場面で、その 静謐で美しい風景にふさわしい物語を考案しようと私は空想を赴くままにさせた。だが、

美の中に必ず何か悲劇的なものがあるというのでもない限りまったく理由はわからないの だが、我が空想の発明品はなにやら異様な型にとびこんでいき、想像力の生み出した希薄 な生き霊たちは悲劇に襲われることとなった。

そのとき突然、敷地内で騒動が聞こえ、グルカ人の召使いがその瞬間にジンとビターズ を持って部屋に入ってこようとした。これは私が去りゆく日に別れを告げるときに傾け るのが習慣だったものだ。私は彼に、何事かと尋ねた。この召使いは、そこそこの英語を しゃべる。

「溺れたラバですが、戻ってきました」

「生きて? 死んで?」私は尋ねた。

「ああ立派に生きております。ラバ屋に思いっきりぶん殴られてました」

「なぜ?」

「分をわきまえないまねをしないよう教え込むためです」

かわいそうなラバ! 擦り傷をさらに広げる重荷と鞍からの自由と、目の前の広い川や 向こう岸の緑の丘を見たときの荒々しい興奮。ああ、一度の脱走! 何日も続いたつらい 労働の後のちょっとした気まぐれと、自分の四肢の強さを感じる喜び、川へ駆け下りて、

流れの抵抗しがたい力に運ばれ、必死の努力と荒い息、突然の死の恐怖、そしてついに数 キロ川下で、安全な岸辺に苦闘してたどりつく。ジャングルの道を駆け出すと、夜がやっ てくる。まあ、気まぐれも満たされたしそれで気分もよくなったから、そろそろ静かに停 泊地に戻って他のラバみんなに加わり、翌日だかその翌日だかにはまたもや荷をかついで 静かに隊列で己の役割を果たして、自分の先にいるラバのしっぽに鼻をくっつけて進むつ

ドキュメント内 パーラーの紳士 The Gentleman in the Parlour (ページ 51-55)