はじめに
1992 年初頭から開始された急進的な市場経済化の改革がロシア極東地域に混乱をもた らす中、前章で見たような地方政府の「保護主義化」とともに進行したのが、同地域にお ける「中国脅威論」の高揚である。社会的な意味では、それは極東地域と中国との急激な 交流がもたらした軋轢が、歴史的な背景と相まって高揚したものということができる。さ らにこの「中国脅威論」は、1991年に締結された「東部国境協定」に基づく国境画定作業 に対する反対運動が、国境に位置する沿海地方やハバロフスク地方の地方政府から起こっ てくるという事態をももたらした。それは、国境の地域間協力、地方政府間交流をもって 対中国関係強化の下支えとしようと考えていた中央の意図を真っ向から否定するものであ り、なおかつ、中露関係を安定的なものに維持するための最も重要な基礎である国境協定 をも危機にさらすものとなった。
とはいえ、地方政府にとってこの中露国境画定問題は、必ずしも文字通り地元の領土を 守るための運動というだけでなく、すでに見てきたようなロシアの中央・地方関係のあり 方や、地元の政治状況の下で、地方リーダーにとっての政治的資源として意図的に煽られ たという側面を持っている。また、長期的には中国との経済協力が地元の発展において不 可欠である以上、地方政府の姿勢はアンビバレントなものとなる。地方政府による中国脅 威論や国境画定問題に対する姿勢が持つ、こうした政治的な側面はまた、ハバロフスク地 方と沿海地方との姿勢の相違の背景を考察する中で明らかになる。本章では、こうして一 見中国人入国者の問題や領土問題で紛糾しているように見えるこの事態が、実際は様々な 政治的要因によって規定されているという側面に光を当てながら、その経緯を見てゆきた い。
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1 対中脅威論の高揚と地方政府の対中強硬政策
(1)中国脅威論高揚の背景
前章で見たように、1992年初頭から開始された急進的な市場経済化がもたらした混乱の 中で生産が著しく低下し、同時にハイパーインフレがもたらした輸送コストの高騰によっ て他地域との経済連関から切り離されたロシア極東地域は、輸送コストの小さいアジア太 平洋地域諸国との経済的な結びつきを急激に強めた。しかし、とりわけそれは、長い国境 を接し、安価な消費財が豊富な中国との、「担ぎ屋」やバーター貿易のような前近代的な交 易に偏ることとなった。そうした歪んだ急激な交流の中で「中国脅威論」が高揚すること となった。
第四章で見たように、中露国境貿易は、1983年からソ連の外国貿易公団「ダリイントル グ」と中国の黒龍江省・内蒙古自治区との間で再開されていたが、ビザ無し訪問の許可や、
貿易や労務協定などの国境地域間での経済協力を促す制度的整備が進んだことにより、ソ 連末期からは「ダリイントルグ」を通じたフォーマルな取り引きよりも直接取り引きが増 大していた。そしてソ連崩壊に伴い、こうした直接的な交易の量は急速に加速した。特に、
国境管理が曖昧になったこともあり、ロシアにおける膨大な需要に引き寄せられる形で、
中国人商人と中国商品が雪崩をうってロシア側へ流れ込んだ。中国におけるロシア極東地 域との主要な国境通過地である黒河(ロシア側はアムール州ブラゴベシチェンスク)およ び綏芬河(同じく沿海地方ポグラニーチヌィ)における出入国者数は、ソ連邦崩壊をはさ んだ1991年から92年にかけて、黒河で2倍以上、綏芬河では4.3倍にまで激増している
(表9参照)。1992〜93年におけるハバロフスク地方、沿海地方の対外貿易に占める中国 の割合は非常に高く、特に輸入はハバロフスク地方が 93 年度において 64.4%、沿海地方
は92~93年度とも50%前後と圧倒的である(表10参照)。しかもこのロシア側の数値は、
「担ぎ屋」貿易や第三国、他地域経由のものが捕捉されていないため、実際の輸入依存度 はより高い。
そして、ソ連崩壊後に中露国境貿易においては、中国からの輸出が衣類、家電製品など 163
表9:黒河、綏芬河の中露国境を通過した人・貨物の推移(人数/人:貨物/㌧)
1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999
人数 863 11,181 80,495 130,892 268,645 591,796 741,863 306,161 376,773 409,410 505,093 501,293 524,284 黒
河 貨物 2,208 37,041 180,935 177,499 232,248 416,780 543,432 230,764 158,557 153,731 184,638 182,769 275,328
人数 24,553 32,982 63,041 71,255 137,054 587,831 628,673 403,074 404,784 485,059 551,088 467,572 582,945 綏
芬 河
貨物 997,088 1,183,172 1,113,946 813,765 1,006,765 1,226,366 1,304,215 888,117 822,068 1,024,987 1,467,013 1,671,235 2,163,608
出所:黒河市人民政府ウェブページ(http://www.heihe.gov.cn/bmkouan/keyunbiao.htm)、
綏芬河市人民政府ウェブページ(http://www.suifenhe.gov.cn/zwzc/tjzl/1987-2003.htm)
表10 :ハバロフスク地方、沿海地方の対中貿易額(上段)、および両地方の全貿易額に占める対中貿易額の割合(下段)の推移 (百万ドル/ %)
1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003
80.6 21.7
161.4 31.3
31.1 7.7
32.7 5.9
496.6*
58.3
82.4*
12.0
632.9*
61.1
131.8 25.2
524.0 39.8
1402.1*
68.3
620.4*
44.6
876.9 51.2 ハバロフスク(輸出)
地方
(輸入) 33.7 26.8
230.1 64.4
22.4 17.2
45.9 15.9
49.2*
19.9
67.2*
23.2
52.2*
27.8
33.3 22.1
30.3 21.5
34.2*
20.4
71.5*
32.2
96.3 33.1 106.8
30.3
187.3 30.1
59.0 13.6
43.7 6.9
111.0 18.5
185.6 16.2
159.0 17.5
160.6 18.6
284.0 28.5
195.0 15.5
284.2 28.6
366.0 39.1 沿海地方(輸出)
(輸入) 320.0 55.1
115.4 48.7
24.0 15.4
67.1 11.0
90.7 14.4
129.2 14.8
91.0 16.8
83.6 22.7
92.0 24.5
117.0 22.4
323.3 40.0
354.8 36.8 注:*サービス貿易を除く 出所:『ロシア東欧貿易調査月報』2002年11月号、『ロシア東欧経済速報』2004年6月5日第1296号
の日用品であるのに対し、ロシアからの輸出は大半が石炭や石油やくず鉄、木材、魚・海 産物などの、未加工の燃料や原料、一次産品であり、しかも中国からの輸出がロシアから の輸出を大きく上回っていた。さらに、極東地域における生産の低下により、他地域から の移入品を輸出に回さざるをえない事態にさえなった1。
こうした担ぎ屋貿易やバーター貿易が、かなりの程度ロシア極東地域の住民の生活を助 けたことは間違いない。しかし、突然の大量の中国人の流入がもたらした心理的脅威は、
中国人の商人が売る商品に粗悪品が多く、犯罪の流入にもつながっているという風評にも 煽られ、拡大された。事実、ロシアに入国した中国人の中にはかなりの数の不法入国者、
不法滞在者がおり、それは短期的な利益を目論む商人たちや質の悪い商品の流入、密輸、
不法就労等と結びついていた。しかも 1980 年代半ばに提起されたような極東地域の生産 物の付加価値化という課題が果たされないまま、担ぎ屋貿易、バーター貿易と資源の切り 売りに頼らざるを得ないという状況は、著しい経済発展を遂げる中国との経済力の格差の 拡大と自らの脆弱性の意識を強めることとなった。ロシア極東における失業率の高まりも あり、中国人がロシア人の就業機会を奪っているという認識も広まった。
もちろん、「中国脅威論」にはさらに歴史的な背景がある。すでに見たように、1689年 のネルチンスク条約以後、1858年の愛琿条約に至るまで、現在のハバロフスク地方、沿海 地方を含むロシア極東地域のかなりの部分は中国領だった。このため中国では、この地が
「ロシア帝国主義によって不法に占領された領土」であるといった主張が存在する2。1960 年代には全面戦争の危機にさえ晒されていた中ソ対立の記憶は、いまだ生々しく残ってお り、中国は脅威の対象として住民の心理に刻まれていた。それゆえ、1930年代のスターリ ンの政策によって約半世紀にわたって中国人をはじめとするアジア系住民が姿を消してい たこの地に、突然大量の多くの中国人が流入したことは、それ自体が大きな脅威であった。
しかも、ロシア極東地域の人口は、ソ連崩壊の時期においておよそ800万人たらずであり、
しかも経済・社会環境の悪化のために人口流出が著しかった。これに対して、中国では東 北三省だけで1.2億人の人口がある。こうした膨大な人口圧力が国境の対岸に迫っている
с
1 村上隆「中ロ国境貿易の現状と問題点」小川雄平、木幡伸二編『環日本海経済・最前線』日本評 論社、1995年、104〜105頁。
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2 В.Л. Ларин, Китай и Дальний Восток России в первой половине 90-х : проблемы регионального взаимодей твия, РАН. Дальневосточное отделение, 1998, стр.178.
ことを考えれば、大量の中国人の突然の流入という事態が、極東地域住民におのずから大 きな心理的的恐怖をもたらすことがわかるであろう。こうした住民意識を反映して、「中国 政府が中国人を極東に大量流入させることによってこの地を静かに占領しようとしてい る」という見解が、メディアだけでなく、中央、地方の政治家によっても公然と語られる ようになったのである。
(2)対中国関係の緊張
例えば、1994 年 4 月のハバロフスク地方議会での公聴会では、ハバロフスク地方副知 事は次のように中国人への不満を表明していた。「中国人たちは合弁企業において、ロシア のアムール川沿岸地域の経済を発展させるということに関心を持っていない。彼らはブロ ーカーとして活動することを好む。また、共同生産事業への中国の資本は外資全体のたっ
た10%に過ぎない。たいていの場合、中国人ビジネスマンは合弁企業を100%中国資本で
設立しようとする。彼らは不動産を奪い取り、自分のものにしてしまおうとする。外国人 に関する法的基礎が不完全なため、中国人は極東をわが家のように扱っている」。さらに、
連邦防諜局ハバロフスク地方支部局長は「中国はロシアの東部地域に向かって『静かな拡 大』を行っている」「中国人は科学技術、特に軍事関係の技術をつかもうとしている。連邦 諜報局は中国政府が特に兵器の買い入れを促していると考えている」という懸念さえ表明 している3。
国境管理が杜撰であっただけに、ロシア極東に入国した中国人の数を特定することは困 難であったが、しかしメディア等ではそれは明らかに実際よりもデフォルメされて伝えら れていた。例えば、『イズベスチヤ』のような中央紙や『ウラジオストック』といった地方 紙において、極東には 200 万人の中国人がいると繰り返し語られ、脅威が煽られていた。
しかし、ロシア科学アカデミー経済研究所のミナキルの試算によれば、中国人の大量流入 が問題化した1992〜93 年の時期においてさえ、ロシア極東に滞在していた中国人の数は 5万人から8万人程度を超えるものではなかった4。また、1992年から95年までの間で、
с
3 Приамур кие Ведомости, 23 Апреля, 1994 г.
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4 Pavel A. Minakir, “Chinese Immigration in the Far East: Regional, National, and
International Dimensions,” Jeremy R. Azrael, Emil A. Payin, Kevin F. McCarthy, and Georges