はじめに
本論の分析枠組みと基本認識を示した第一部に続き、第二部では、ロシア極東地域の具 体的な事例、特に、中国との国境に位置し、この地域の政治・産業において大きなウェイ トを占めるハバロフスク地方における沿海地方の展開を見てゆくこととなるが、本章では その前提として、この中露国境とロシア極東地域におけるこの国境地域が、中露国家間関 係の中で、どのような背景の下に置かれているかを明確にしておく。
中国とロシアは現在約 4300 キロの国境を接しているが、この国境は、間にモンゴルを はさむ形で「西部国境」と「東部国境」に分かれている(1頁の地図を参照)。「西部国境」
に関しては、かつてのソ連と中国との国境の多くの部分が、新たに独立した中央アジア諸 国との国境となった。このため、現在のロシアと中国との「西部国境」は、モンゴルの西 端からカザフスタンに至る約 50 キロに過ぎない。これを除く部分、つまり中露国境のほ とんどの部分が、モンゴル東部の中・露・モンゴル三国の接点から日本海の図們江河口付 近に至る「東部国境」となっている。ロシアでこの「東部国境」を接している地方は、極 東地域に属する沿海地方、ハバロフスク地方、アムール州、そしてシベリア地域に属する チタ州である。
以下、まず「1」では、中露国境、特に東部国境が形成され、その後この国境がアジア とヨーロッパの交流の国境となり、さらには日本や中国との対立の国境と変転し、そして 80年代後半のゴルバチョフの時代に対立関係が解消され、再び交流の国境となりつつあっ た時点までの、その歴史的な経緯をたどる。そして、ロシア極東地域におけるこの国境地 域が、その中でどのような地位と文脈に置かれてきたかを確認する。「2」では、ソ連崩壊 後のロシア連邦において、中露関係がいかに緊密化していったか、そして、その背景には どのような要因があるのかという点について考察する。同時に、その中で国境画定作業や
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国境地帯の軍事的信頼醸成といった措置と並び、当時活況を呈していた両国の国境地域間 の交流が、両国の関係強化の一つの基礎として位置づけられたことを確認する。「3」では、
国境を挟む両地域の協力を促す客観的な条件としてある、その経済的補完性という側面に ついて考察する。
1 1980 年代までの歴史的経緯
(1)中露国境とロシア極東地域の歴史
両国の国境線を歴史上はじめて画定したのは、1689年のネルチンスク条約であった。当 時の中国は康煕帝の時代であり、清朝の興隆期であった。一方、ロシアのロマノフ朝は権 力闘争によって政治的に混乱していた。このネルチンスク条約によって、ロシア極東地域 と中国東北部との間の東部国境はおおむね画定した。この条約によれば、ロシア極東地域 における国境線はスタノヴォイ山脈(外興安嶺)の線に定められ、現在のロシアの沿海地 方やアムール州、およびハバロフスク地方の大部分が中国領に含まれていた。(172頁、図 6参照)ロシアは以前から望んでいた、中国との優先的な貿易権を獲得した。これに関し て毛里和子は、「領土面では中国がいささか有利に事を運び、貿易面でロシアが実利を得た」
としている1。
ロシアは18世紀後半から太平洋進出の野心を持ち始め、1847年にニコライ二世はムラ ヴィヨフを東部シベリア総督に任命、アムール方面国境画定の全権委任とし、この野心の 実現を託した。一方、中国は当時アヘン戦争に破れた直後であり、国力が著しく低下しつ つあった。ロシアは軍事的な圧力を背景にして、1858年に愛琿条約を結び、その結果、ア ムール川の左岸一帯、約 45 万平方キロがロシアのものとなり、ウスリー川の東岸一帯の 沿海州地方は境界決定まで共有ということになった。そして二年後の 1860 年、北京条約 が結ばれ、共有であった沿海州地方一帯、約 30 万平方キロもロシアのものとなった。こ うしてネルチンスク条約の時とは逆に、領土的にもロシア側に圧倒的に有利な形で国境が
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1 毛里和子『中国とソ連』岩波書店、1989年、4頁
画定され、ほぼ現在と同様の中露東部国境が形成された。
この後、ロシアによってハバロフスク、ウラジオストクといった極東地域の都市の本格 的な建設が始まった。これ以前この地は中国領だったとはいえ、中国人が住み始めたのは ここがロシア領になってからのことであった。すなわち、こうしたロシアの開発による労 働需要、とりわけ建設業、林業、鉱業、漁業、運輸業等において、低賃金の非熟練労働力 が必要とされたため、多くの中国人たちが、労働者、技術者として、大量の不法入国者を 含みつつ、国境を越えてこの地にやってきたのである2。例えば、1905 年から 1910 年の 間に、ウスリー地方には、約 34 万5 千人の中国人がこの国境を行き来しており、そのう ち約 8万〜9万人が常時ウスリー地方に住んでいたという。彼らの多くは産業労働者や貿 易業に従事し、あるいはロシア人から土地を借りて農業を営んでいた。1910年には、外国 人の流入が麻薬の売買等犯罪の流入を招いたとして、外国人労働者の雇用を厳しく制限す る法令が定められたことにより、一時的に減少した。この 1910 年には、正式に登録され ているだけでも11万5000人の中国人がおり、実際には15万人が暮らしていると見られ た。これは、当時の全人口の10~12%を占めており、この地域を開発するにあたって中国 人労働力の貢献は大きかった。こうした中で、沿海地方の首都ウラジオストクは、中国人、
日本人、朝鮮人が混在する国際的な交易都市として栄えていた。ロシア革命後の 1926 年 でも、10万人の中国人がロシアに住み、そのうち7割がロシア極東地域に住んでいたとい う3。20 世紀初頭のロシア極東地域は、文字通りアジアとヨーロッパとが交わる地となっ ていたのである。
こうした状況に大きな転換がもたらされたのは、1930年代であった。それまで、中ソの 東部国境を隔てているアムール川、ウスリー川では、国境は厳密に画定されておらず、川 に浮かぶ島の所有権などは定められないままとなっていた。しかし 1930 年代初頭、日本 による中国東北部の占領という状況下で、ソ連は国境における防衛強化のため、このアム ール川、ウスリー川に浮かぶほとんど全ての島をソ連の統治下においてしまった。同時に、
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2 Viktor Larin, "Yellow Perrill again?," Stephen Kotkin and David Wolff eds., Redis ove ing Russia in Asia : Sibe ia and the Russian Far East , M.E. Sharpe, 1995, p.296.
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3 Galina Vitkovskaya, Zhanna Zayonchkovskaya and Kathleen Newland, “Chinese Migration into Russia,” Sherman W. Garnett, ed., Rapprochement or Rival y: Ru s a-China Relations in a Changing Asia , Carnegie Endowment for International Peace, 2000, pp.353-355.
日本海方面の陸地の国境においても、防衛しやすいように国境線の変更を行った4。また、
1937年には、多くの中国人が国外追放され、朝鮮人も中央アジアへと強制移住させられた
5。
以後半世紀に亘り、ロシア極東地域では中国人、日本人、朝鮮人住民は、ほとんど姿を 消すこととなった。新中国が成立した後の 1950 年代はいわゆる中ソ蜜月期となったが、
その時期においても、国境の往来は厳しく管理され、中ソ間の学生、研究者、技術者の交 流は、ロシア西部のより進んだ地域との間で行われたため、ロシア極東地域自体は依然と して対外的に孤立状態にあった6。逆に、その後の中ソ対立の深まりの中で、中ソ国境は再 び厳しい対立の舞台となった。
その後、中ソ関係が悪化しつつあった1963年、中国は、19世紀に結ばれた諸条約が「帝 国主義が旧中国政府を脅迫して結ばせた不平等条約」であるとして、国境の再検討を求め た。こうして、1964 年から外務次官級の国境交渉が開かれた7。中国は、北京、愛琿両条 約は不平等条約だと主張したが、ハバロフスク地方や沿海地方を中国領に含んだネルチン スク条約の際の国境線に戻すことは要求せず、アムール川とウスリー川に沿って引かれて いる境界線を、国際慣行に従って主要航路の中心線とし、それに従ってソ連の占領下にあ る国境の島の帰属を中国に譲渡すべきだという主張をした。この際ソ連側は、中国側の要 求どおり、主要航路の中心線を国境とすることを認め、国境の川の島の多くの帰属を放棄 する用意があった。しかし、ハバロフスク市街地近郊に浮かぶ大ウスリースキー島(中国 名黒瞎子島)の管轄権にソ連が固執し、また中国がアムール川の独占的な航行権にこだわ ったために、会談は物別れに終わってしまったといわれる。
そして、その後の中ソ対立の悪化の中で、1969 年 3 月、この国境河川に浮かぶダマン スキー島(中国名珍宝島)で軍事衝突が起こったのである。しかし、この衝突から約半年 後の 9 月、コスイギン首相が北京を訪問して緊急首脳会談が行われ、その結果、翌 10 月 から国境交渉が再開された。1978 年 6 月まで断続的に続けられたこの交渉は、この時期
4 Независимая Газета, 31 Января, 1997 г.
5 アナトーリー・T・クージン『沿海州・サハリン 近い昔の話:翻弄された朝鮮人の歴史』(岡奈 津子、田中水絵訳)凱風社、1998年。
6 James Clay Moltz, "Regional Tentions in the Russo-Chinese Rapproachment," ASIAN SURVEY, vol.35, No.6, June 1995, pp.513-514.
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7 以下の経緯は、毛里和子『中国とソ連』岩波書店、1989年、88~96頁。