• 検索結果がありません。

急進的な市場経済化の改革と地方政府の保護主義化

はじめに 

 前章で見たように、ソ連末期の 1990 年代初頭、ロシア極東地域における地方政府主導 の国際化戦略は、非常に活況を呈したように見えた。しかし、1991年12月にソ連邦が崩 壊し、翌 1992 年初頭から新たなロシア連邦政府によって急進的な市場経済化に向けた改 革が進められる中、地方政府をめぐる環境は大きく変化してゆく。各地方では経済的、社 会的危機が進行し、中央に対する地方の自律傾向が一層高まってゆく一方、極東地域の各 地方政府が進めていた地方主導の国際化戦略は中央の支持を失い、こうした政策にイニシ アチブをとってきた地方政府の「学者政権」は、次々に終焉を迎える。そして、これらの 地方政府は一転して、対外協力に対する消極姿勢と国家支援の強化を強調する保護主義的 なものへとその性格を転換してゆくこととなる。

これはいわば、前章で指摘したような、ソ連末期の中央・地方関係がすでにはらんでい た問題が、こうした急進的な改革がもたらした環境の変化によって顕在化させされたのだ といえよう。ここでは、そうした観点から、この改革がいかに地方主導の国際化戦略を行 き詰らせ、「学者政権」を退陣に追い込み、保護主義的な地方政権への転換をもたらしたか を論じる。そして、その保護主義的な政権が取るようになった行動のあり方がいかなるも のであるかを見てゆくこととする。

1 急進的市場経済化の中のロシア極東地域 

  1992年初頭から、ロシア連邦政府は、「ショック療法」と呼ばれた急進的な市場経済化 の改革を開始した。これは価格自由化と貿易の自由化、国有資産の私有化、緊縮的な財政・

金融政策などを柱とするものであった。これらの自由化によって生産の増大が促されるこ 145

とが期待され、また一時的にインフレが進んだとしても、通貨供給の制限によってまもな く抑制されると想定されていた。ところが、この改革は開始直後からロシア全土に大幅な 生産の低下とハイパーインフレ、失業率の増大など、大きな混乱を巻き起こした。極東地 域ではその混乱は特に大きく、工業生産は1992年から94年までの期間で、沿海地方では

42%、ハバロフスク地方では59%も減少した。とりわけ機械工業の生産の低下は著しく、

エネルギーや燃料、非鉄金属など、資源・原料産業への依存が一層進んだ。インフレ率の 上昇も深刻であり、1992年だけでも、沿海地方で28.8倍、ハバロフスク地方では30.6倍 にも達した1。資金不足により企業の取り引きはバーターや相殺が一般化し、また賃金の未 払いが蔓延して社会不安が増大した。

 他方、こうした急進的な市場経済化の改革が進められる中で、中央の姿勢は、地方独自 の政策的なイニシアチブや地方独自の特恵措置といったものに対して否定的なものとなっ てゆき、「地方主導の国際化戦略」は、一転して中央の支持を失うこととなった。すなわち、

この改革を進めるにあたっては、各地域に同一の条件を課するという原則がとられ、経済 特区のような地域的な特恵措置は次々に廃止されていったのである。沿海地方のナホトカ 経済特区でも、1991年末までに与えられていた特恵措置が92年に入って廃止され、外国 企業の事務所の閉鎖が相次ぐという事態に陥った2。また、各地方でこうした改革の実施を 貫徹させるために、地方の自律性を制限し、垂直的な統制システムを再構築することが中 央によって試みられた。すでに述べたとおり、こうした地方統制の強化の方向性は、前年 の1991年 8月のクーデター後から、各地方への行政長官と大統領全権代表の任命という 形でとられ始めた。ソ連崩壊後には、新たなロシア連邦自体が解体の危機に晒されていた ため、その意味でもこうした垂直的命令系統の再構築は重要視されたのであった。

 こうした中、沿海地方のクズネツォフ知事が進めていた「大ウラジオストク構想」は、

1992年初頭にはエリツィンの承認を得る段階にあったと見られていたにもかかわらず、そ の後省みられることなく、事実上棚上げされることとなる。他方、1992年末以降、中央政 府レベルで対中国関係が緊密化してゆく中、中央政府は大ウラジオストック構想ではなく 図們江開発計画を支持することとなる。図們江計画においては、中国側は当初、図們江河

1 以上の数値は『ロシア統計年鑑』2001年度版より。

146

2 小川和男「1990年代のロ中貿易・経済関係の展開とロシア極東地方」『ロシア東欧貿易調査月報』

1997年1月号、26頁。

口地域に位置し中国領である防川に港を建設する計画であったが、これが困難であると認 識し、ロシアのザルビノ港を利用する計画に傾いていたため、ロシアとしてはより参加し やすい形となった。エリツィン訪中に先立つ1992 年8月、吉林省琿春から沿海地方クラ スキノを経由してザルビノへと至る鉄道の敷設と、ザルビノ港の利用などに関する合意が なされ、10月には、ロシア政府はそれまでオブザーバーとしてしか参加しなかったUNDP における図們江開発計画管理委員会に正式に参加することを表明した3。そして、1992 年 12月の訪中の際、エリツィン大統領は、ロシアが図們江計画に対してより積極的に関与す る意向を持っていることを中国側に伝えた4。第四章で見たとおり、この際のエリツィンの 発言には、図們江計画や国境の地域間協力を中露の経済関係強化の主要な要素として位置 づける考え方と同時に、地方にそのイニシアチブを与えることに対する警戒感が示されて いた。

 「極東人民代議員ソビエト協会」がイニシアチブをとり、ハバロフスク地方のミナキル 第一副知事らによって策定された「極東経済地域およびザバイカルにおける危機打開並び に 2000 年までの社会・経済開発促進のコンセプト」も、やはり当初ロシア共和国政府の 支持を得ていたにもかかわらず、その後棚上げにされることとなった。

地方主導の国際化戦略がこうして逆風に晒されるようになる中で、1993年春、各地の「学 者政権」はことごとく終焉を迎え、地元エリートの選好をより強く反映した「実務家政権」

への転換が見られた。ハバロフスク地方では、第一副知事のミナキルや経済委員会議長の チーホノフといった専門家たちが地方行政府を去っていった。沿海地方では、同地方の鉱 山会社社長であり、地元経済エリートたちによって設立された「PAKT」(沿海地方商品生 産者株式会社)のメンバーであったナズドラチェンコが知事となった。こうした、リベラ ルな「学者政権」から保護主義的な「実務家政権」へ、という転換は、当時ロシアの多く の地方で見られたものであった。こうして地元エリートの意向を強く反映する形で成立し た諸政権は、一転してロシア極東の国際経済における脆弱性と地元の資源擁護の姿勢、国 内市場との結びつきを復活させる必要性を強調し始めることとなる。

3 坂田幹男、前掲論文、309〜310頁。

147

4 ИТАР-ТАСС, 18 Декабря, 1992 г.

2 急進的な改革がもたらした問題 

 「地方主導の国際化戦略」が注目されていたソ連末期の 1990 年代初頭において、実際 は様々な問題が露呈していたことは、前章で論じたとおりである。すなわち、各地方経済 を市場経済化と国際化に適応させるための戦略的かつ合理性、一貫性を持った地域政策が 実施されず、逆に場当たり的で無責任な口約束によって地方の政治的支持を獲得しようと するエリツィンらの行動があり、またそれに促された地方のエゴイズムという問題、中央・

地方間の権限管轄関係や法制度上の未整備がもたらす混乱といった問題がすでに露呈して いたのである。そして、1992年から開始された急進的な市場経済化の改革と、それによっ て引き起こされた経済的、社会的危機は、以上の問題を一層顕在化させ、極東地域の政治 リーダー、および住民の態度を、対外協力に対して否定的な方向に促し、リベラルな「学 者政権」から保護主義的な「学者政権」への転換を促したと考えられるのである。以下、

これを三つの観点から見てゆきたい。

(1)強いられた「国際化」とそれがもたらした対外的脆弱性の意識の高まり

 第一に、すでに見たように、この改革はロシア全体に激しいインフレと生産の全般的低 下をもたらしたが、とりわけロシア極東地域では、輸送コストやエネルギーコストの高騰 という事態がこれに追い討ちをかけた。これによって同地域は、生産の低下と消費財不足 が深刻化し、必然的に、輸送コストの低いアジア太平洋諸国からの輸入、とりわけ中国か らの輸入に頼ることとなった。もちろん、ロシア極東地域がアジア太平洋諸国との取り引 きを増大させること自体は、経済的合理性の観点から望ましいことである。とはいえ、そ れは国内市場から突然切り離され、強いられる形で、無秩序に進展したものとなった。ミ ナキルは、この急進的な市場経済化の改革が始まる直前の1991年を、「この地域の経済発 展のターニングポイントであった」としている。

「〔極東地域経済の〕状況の正確な理解を発展させ、経済を安定化するための最 148