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時代認識の変化と地球時代における自国史カリキュラム開発

第1章  地球時代における自国史カリキュラム開発の

第3節  時代認識の変化と地球時代における自国史カリキュラム開発

1 国民国家の教育から地球時代の教育へ

ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下は、核時代の始まりであるとともに,地球時代の始ま りでもあった。人類絶滅の技術が開発され、地球終末のイメージが迫真力をもつ,いわば 負の地球時代がここから始まったのであるが,その後‥私たちは,その時代にあった行為

を始めたというよりは,冷戦構造を典型例として見ることができるように、地球時代前の, つまり,国民国家時代の国家システムやイデオロギー,さらには,思考,行動パターンに 縛られ続けてきた56。

このような「終末の共有」によって「人類は1つ」というイメージが形成されたことの 結果,現実の世界には、南北間題にみる経済格差などの多くの不条理が存在し、その意味

で決して人類は1つではないという問題が、一層強く認識されるようになった。さらに, 貧困や人権抑圧を解決するには,政治的な,とくに経済的な「近代化」と「成長」が必要 だという処方妻が長く用いられてきたが,これは今日環境破壊という地球的な問題に当面

しており,もう1つの地球終末のイメージが人類を覆いはじめることに帰結している57。

一方で,このような危機意識は,新しい平和秩序づくりを目指す動きにつながり,世界 人権宣言のような,平和と人権の地球規模での前進に大きをインパクトをあたえるものも あった58.また,軍事政権の存在や部族間での争い,局地的な紛争も絶えないにもかかわ

らず,巨視的に見れば,世界は大きく民主化‑向けて動いている。このように,国家主権 を楯に,互いにせめぎ合うこと‑の反省の上に,主権の抑制と,その相対的な比重の低下 を求め合う新しい国際秩序を求められる,グローバル・デモクラタイゼ‑ション‑の動き も見られるようになった。しかし,それは,あくまでも,地球時代の入口へ人類が到達し たのであり,既存の国民国家が崩壊し,国家の存在しない世界国家,世界社会が創出され たわけでは決してない。つまり,現代は, 1945年を起点として,地球時代‑の入口にあ り,いまだその時代への過渡期であることも自覚されなければ現実を見失うことになるの である59。

このように,人類は,負の遺産の共有によって,地球時代‑の始まりを認識し,その後

の宇宙技術の進展、学問の進展などにより,その間題意識をより深めていく。しかしなが ら, 「地球時代」という認琴にたつとき,多くの人々の間では,問題の地球性と問題意識 の地球化は進んでいるが,現実の行動や制度は,依然として地球時代以前のものだという 状況を示している60。中でも,教育は,その典型であると考えることができ、今後、地球 時代の教育‑と,多くの部分を変更する必要に迫られているのである。それでは,そのよ

うな地球時代という時代認識に立つのであれば,そこでの教育は,どうあるべきなのであ ろうか。

この間いに大きな示唆を得ることができる,掘尾輝久の論考を,筆者なりに整理すると 以下のようになろう。

「地球時代といっても,決して,国民国家の粋が解消され、世界社会が即座に形成され ることを意味するのではない。しかし,地球時代における新しいインターナショナル・コ ミュニティの秩序をどうつくっていくかという,より上位の理念のなかで「ナショナルな もの」の価値が相対化されなければならない,当然、相対的に低い価値が与えられなけれ ばならない,という問題ももっている。さらに,そこでのインターナショナルというのは, 全体としてナショナルなものを相対化しなければならないという方向性をもちながら,ネ ーションの自覚を媒体として初めて成立するものである。重要となることは、地球時伐と いう時代認識にたち,新しいインターナショナル・コミュニティの秩序の形成という上位 の理念が求められたとしても,ナショナルなものをとばしては,インターナショナルにも ならないことである。つまり、ナショナルなものを通してインターナショナルなものをど うつくっていくかという関係でとらえるべきだと考える。」 61

当然、ここでいう「ナショナルなもの」とは,国民国家時代における「ナショナルなも の」の意味することとは異なる。たとえば、国民国家時代においては, 「ナショナルなも の」といえば,それは,単一民族的で,さらには,統一的国民的であることが前提とされ てきた。しかし,現在では、アイデンティティの問題と関わり、 「ナショナルなもの」の 中に存在する多文化をいかにとらえ,多様なものを含み込務ながら,どのようにして1つ のまとまったものを作り上げていくのかという問題に直面している620

このように考えると、地球時代において,ナショナルなものを通してインターナショナ ルなものをどうつくっていくか,そのナショナルなものをいかに相対化していくかが重要 な課題であり,それは,教育にとっても最大の課題であると考えることができる。そして, ナショナルなものは,まず、インターナショナルな関係で相対化することが重要となるが, 平行して,ナショナルな関係の中においても,そのあり方を問いただすことが必要となる

といえよう。つまり, 2つの意味において,問い直さなければならないと考えることがで きるのである。さらに、そこでは、同時に, 「ナショナルなもの」をいかに作り上げるの かも,重要な課題であろう。

そのためには、様々な方法が見いだせると思うが,自国史カリキュラム開発は,このナ

ショナルなものの創造と決して無縁ではない。むしろ,自国史カリキュラムに親定された 内容が,ナショナルなものであると認識されがちであることに課題を見出すべきかもしれ ない。それでは、自国史カリキュラム開発が,ナショナルなものの創造と密接に関わって いるという前提に立てば、どのような改善の方法が見いだせるのであろうか。

2 地球時代における自国史カリキュラム開発の課題

本研究主題である自国史カリキュラム開発も,たとえば,日本でも,未だに、ナショナ ルな論理が優先され,国民の意識統合のための政治史や経済史に偏向し,自国に生きた多 様な人々や他国との交流、またアジア諸国に甚大なる被害をもたらすことになった近代史 などについての記述は,不十分なままである。さらには、女性,子ども、民衆などの歴史 が扱われることも少ない。もちろん,国民意識や国家意識の滴養は、ナショナル・シンボ ルの創造、ナショナル・モニュメントの作成,さらには,国家的記念行事の開催など,様々 な装置によってなされてきたため63,それらをもみすえた議論が必要となるが、まず,そ の課題克服のためには,自国史カリキュラム開発の論理を転換する必要があろう。

そのための方法は、様々に考えられよう64。先にも言及したように,地球時代において,

ナショナルなものを,インターナショナルな関係性で相対化することと,ナショナルな関 係の中で問い直す,という2つの意味において検討されていかなければならないという観

点は、自国史カリキュラム開発にとっても重要になる。それは,ナショナルなものの創造 の仕方としても解釈できるのである。つまり,このような地球時代の教育にとっての課題 を,自国史カリキュラム開発の文脈で考えるならば,自国史内容を決定する重要な要因と

して,ナショナルな関係を重視して作り上げていくのか,インターナショナルな関係を重 視して作り上げていくのかによって,大きく異なることになるであろう。

伝統的な自国史カリキュラム開発では,国内における自己,社会,国家の関係性を同一 視し,内なる多文化にも目を閉ざし,さらに,対外的にはJ自国の優位性を鼓舞するため に利用されてきたことは,先にも述べた。さらに,そこでは,作り上げられた「自国像・

国民像」を,ナショナルな関係においても,インターナショナルな関係においても絶対化 し,それによって思考や認識までもを規制してきた。このような自国史教育の限界性を乗 り越えるカリキュラム開発の論理,つまり、それぞれについて,開かれたものとしての「ナ ショナルなもの」を探求することこそ,優先的な課題であろう。それが,自国史カリキュ

ラム開発の論理を転換させるために、重要となるといえるのではなかろうか。