9 | 日本時計産業の変遷および生産推移について
9.1 日本時計産業の変遷 1)
図 9.2 昭和 20 年代の工場の様子1)
1948(昭和 23)年商工省が実施した第 1 回の品質比 較審査会(時計コンクール)の結果では、止まりの故 障が極めて多く、ウオッチで 34%、クロックで 28.7%
の比率を示しており、翌年 1949(昭和 24)年第 2 回 においても、それぞれ 21.6%、14.9%と向上したもの の、全般的にはまだ戦前の水準には及ばなかった。
1950(昭和 25)年初め、通産省が手動機 200 台、
半自動機 300 台の自動化を含む、「時計工業合理化目 標及び進捗状況」を発表したが、中小企業の多い国内 時計業界にとって、一私企業の力での設備資金の調達 は、極めて困難であり、合理化目標の達成は遠かった。
しかしながら、輸入制限および保護関税による国内市 場の確保とともに、1947(昭和 22)年 8 月以来の貿 易再開後は、為替安によって主に東南アジア市場に輸 出し、国内の旺盛な需要にも支えられて生産を伸長さ せることができたが、品質を買われたとは思われぬ状 態であった。
この後、国内市場においては、ドッジ ・ プラン「緊 縮健全財政政策」および時計の高い物品税(時計には 戦時から 1947(昭和 22)年 3 月まで 60%、以後 1948 年 7 月末まで 50%、その後 30% の物品税)により、
国内景気の冷え込み、国民の購買力の減退が起こっ た。更に、1949(昭和 24)年 4 月、時計の 2 本建て レート(懐中 ・ 目覚 -430 円、腕 ・ 置 ・ 掛 -410 円)が、
360 円の円高単一レートに変更された。また、当時時 計輸出の 70% がポンド地域向けであったが、1949(昭 和 24)年 9 月のポンド切下げ実施などにより、輸出 が大きな影響を受けた。このような状況により、国内 需要の停滞を輸出により回復しようとする時計産業 は、甚大な打撃を被ることになる。
日本の時計産業が本格的に立ち直りを見せたのは、
1950(昭和 25)年 7 月に勃発した朝鮮動乱に負うと ころが大きい。偶々、高度な精密機械をスイスより輸 入することができ、従来の老朽化した機械に替わり、
最新の精密機械によって高品質の時計が生産できるよ うになった。朝鮮動乱による日本経済の急激な立ち直 りに伴い国内需要は活発化し、1954 年には、戦前の 最高生産高を上回る 560 万個を記録した。また、質的 にも、本格的な部品の互換性をもつ段階に近づいて、
精度でスイスの時計を追う兆しを見せ始めた。当時 は、外国時計に対する輸入制限と高率の関税障壁に国 内市場は守られていたが、朝鮮動乱以来、激増した密 輸時計と米軍兵士が持込む中古時計が氾濫、横行し、
時計の正式輸入が認可された 1952(昭和 27)年以降 も安価な密輸時計で市場は混乱し、国産時計の売行き にも多大な影響を及ぼした。
第二次世界大戦は、日本の時計産業に計り知れない 技術的後進性をもたらした。戦中の 5 年間、時計生産 技術の進歩が阻止され、中立国スイスとの間に大きな 開きを生じた。例えば、次のような点は日本の水準を 遥かに抜いていた。
・自動巻ウオッチの完成
・防塵、防水装置の実用化
・磁気不感性ぜんまいの開発
・耐震装置の一般化
これに対し日本は、1949(昭和 24)年に紳士用中 三針形式を採用し始め、1952(昭和 27)年にはカレン ダー付時計、1955(昭和 30)年には自動巻時計、そし て 1956(昭和 31)年に耐震装置付きの時計を発表す る。当初、輸入の合金ヒゲぜんまいを使っていたが、
やがて国産化に成功して部品精度、部品の仕上げでも スイス製品の水準に迫っていた。しかし、1957 年頃ま では正規輸入あるいは密輸入でのスイス時計が、依然 として品質と流行をリードし、性能、デザイン、コス ト等あらゆる面で優っていた時期でもあった。
昭和 30 年代、日本時計産業界は技術の遅れを取り 戻すことが急務となり、各種施策が以下のように実施 されている。1956(昭和 31)年、中小クロック企業 の時計生産技術の改善発達を目的にした「(財)日本 時計生産技術開放研究所」の設立、1957(昭和 32)年、
企業近代化のための「企業合理化促進法」、1959(昭 和 34)年の「機械工業振興臨時措置法」の業種指定 である。
民間側においても、品質の一層の向上を目標に、脱 進機、調速機、歯形、真類(金属よりなる棒状の部品)、
軸受の研究分析、材料、部品、工具類の研究開発が産 学共同で進められた。生産の合理化を図るため、高性
能の自動加工機、測定器、工作機械等を導入した。
数年の間に、工場設備は全く一新され、生産効率、
加工精度も著しく向上したと同時に、ベルトコンベア システムによる流れ作業が可能となった。また、品質 管理をはじめ各種管理技術を生産工程に導入し、作業 の標準化、工程管理の充実が図られ近代的な量産体制 が確立された。(図 9.3 参照)
図 9.3 流れ作業、コンベアシステム作業の様子1)
昭和 30 年代後半に入り、品質は海外品と遜色のな いほど向上し、機能、デザインなど変化に富んだ製品 が多くなり、1959(昭和 34)年以降の一般景気の上 昇による内需拡大に伴って、生産は急伸長を遂げた。
特に 1955(昭和 30)年から 1964(昭和 39)年の 10 年間の伸びは、ウオッチが 5.9 倍、クロックが 3.2 倍 と著しかった。(図 9.4 参照)
国内需要が急拡大したのは、国産品の品質向上ととも にその評価が高まったことと、以下のことが考えられる。
・戦後の空白期間により膨大な潜在需要が生じたこと
・所得水準の上昇に伴って、需要層が低年齢層にいた るまで拡大したこと
・時計に対する意識が、貴重品、奢侈品(しゃしひん)
から生活必需品、流行商品、装飾品へと移行したこと この後、普及の頭打ち、内需の伸びの鈍化の見込み から、成長力維持のためには輸出拡大の方策を講じ る必要に迫られ、1959(昭和 34)年頃より海外市場 に対する本格的な調査が始まる。1963(昭和 38)年、
軽機械の他の 7 業種と共同の軽機械センターが開設さ れ、輸出振興、市場調査の面で期待された。
この頃になると、日本の時計は、品質面で国際水準
に達しており、コストダウンにより価格も安く、十分な国 際競争力も備えていたが、日本品に対する信頼性、ブラ ンドイメージの低さなどが、輸出促進の阻害要因となっ ており、各センターは、各地の情報収集、現地マスコミ を媒体とした広範な宣伝活動などを展開した。
1964(昭和 39)年のオリンピック東京大会で、競 技計測システムに国産時計が初めて採用され、その正 確で統一されたシステムが一躍注目を集める一方、ス イスでの時計コンクールにおいて、国産ウオッチが上 位を独占するなど、日本の時計技術の高さが広く世界 に認識されるとともに、ブランド知名度も一挙に上が り、以降の飛躍的な輸出拡大に繋がる。図 9.4 に示す ように、1955(昭和 30)年代、旺盛な内需に支えら れた生産の伸びは、1965(昭和 40)年代以降になると、
急速な輸出拡大が大きく伸びに寄与している。日本の 代表的輸出産業の一つとして発展を続け、国内の不景 気に遭遇し内需不振となっても、輸出でカバーし得る 体制を確立した。この結果、1963(昭和 38)年の輸 出比率 23% から 1970 年に 31%、1974 年には 42% に 上昇した。特に、ブランドが強化されたウオッチの伸 びは著しく、1974 年の輸出比率は 56% に達し、スイ スに次ぐ生産、輸出国となった。
日本における電子化への動きは、クロックにおいて は 1955 年代から始まっていたが、ウオッチでは 1965 年代に入りスタートする。1966(昭和 41)年、動力 源をぜんまいの替わりに電池に置き換えたウオッチが 出現する。自動巻が主流であった当時、ぜんまいを巻
ウオッチ 生産数量 クロック
生産数量 ウオッチ・クロッ
ク 生産数量合計
ウオッチ 輸出数量
クロック 輸出数量 ウオッチ・クロッ
ク 輸出数量合計
0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 110
昭,21 24 27 30 33 36 39 42 45 48 51 52 53 54
(百万個)
資料:政府統計、54年は日本時計協会統計
図 9.4 戦後の時計生産、輸出推移1)
く必要のない電池式ウオッチは、新機軸なものでは あったが、精度上の貢献は少なかった。
1970(昭和 45)年、機械技術と電子技術の融合を 目指す、金属音叉を調速機とする電子音叉式ウオッチ が現れる。音叉式ウオッチは、日差を一躍 2~3 秒程 度に縮め、時間精度の向上に一役果たしたものの、ク オーツ腕時計の出現によって世界的な趨勢にまでは発 展しなかった。
一方、クロック類には 1962 年頃より採用され、そ の高精度が認められていた水晶振動子をウオッチに利 用することが試みられていた。スペース上制約がある ウオッチの中に、如何に入れ込み携帯可能な小型なも のにするか研究が進められた。
1967(昭和 42)年、クオーツ腕時計の試作モデルが、
日本とスイスにおいて同時に完成する。そして、1969
(昭和 44)年水晶式アナログタイプのウオッチが、世 界で最初に日本によって商品化された。時計本来の特 性である高精度化を追求し、日差 0.3 秒前後という機 械式時計の 100 倍近い精度を有するウオッチとして市 場に出された。この商品化を可能にした電子技術の応 用は、日本のみならず世界の時計産業に大きな変革を もたらした。電子技術の導入は、企業に生産体制の変 革を促すと同時に生産性を著しく向上させ、さらには 画期的製品をも生み出すことになる。1973(昭和 48)
年、機械部分を全く持たない全電子ウオッチ、すなわ ち液晶デジタルウオッチを、日本が世界に先駆けて商 品化する。(図 9.5 参照)
図 9.5 世界初のクオーツ腕時計
(出典 : セイコーウオッチ)
時計の電子化への進展は、普及の飽和状態にあった 市場に新たな需要を喚起すると同時に、従来以上に量 産工程を可能にし、他業種からの参入もあり、日本で は新たにウオッチで 2 社、クロックで 4 社が時計産業 に加わった。各構成部品の性能は急向上し、量産化に よってコストダウンも急速に進み、機械式の価格帯ま
で低減したため、国の内外における価格競争は一段と 激しい方向に進む。
1968(昭和 43)年頃より始まった国内企業の海外 進出は、生産の海外移転による効果のみならず、投資 先からの逆輸入、投資先への資本財、半製品輸出など の効果を通じて、国内産業構造の変化を推進した。労 働集約型産業である時計工業は、豊富な労働力と低賃 金を求めて、韓国、台湾、香港、シンガポール、フィ リピン等に第二の生産拠点を求めると同時に、これら 発展途上国の経済発展にも貢献した。
技術面のイノベーションの進行と共に、生産、輸出 とも順調に推移し、1979(昭和 54)年の生産は、ウ オッチ 5,970 万個、クロック 4,350 万個、総生産は 1 億個を超え、名実共に世界第一の時計生産国に成長 した。競争相手国であるスイスが、クオーツ腕時計の 将来予測を誤ったための電子化への対応の立遅れ、ス イスフランの高騰などにより、低迷 ・ 後退を余儀なく されているのに反し、日本は、価格競争力の強み、ク オーツ式の技術での先行から、着実に国際的なシェア を伸ばしていった。図 9.6 に示すように、その後の主 流となるクオーツの生産比率を年毎高めており、1978
(昭和 53)年 40%、1979 年 57% となっている。図 9.7
図 9.6 1970 年代の日本のウオッチ生産
(電子化への推移)1)
図 9.7 1970 年代の日本のクロック生産
(電子化への推移)1)