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―R・ニ―バ―とH・キュングに学ぶー

宗教は社会を変革することは出来ないものの、社会に対して目を開き、その問題を確り と受けとめ、積極的に係わり合わなければならず、その「社会的機能」は「一定の理想的 視点から現実を批判すること」であり、「汚れなき理想を提示すること」により、人々に

「政治や社会の不正」を見分ける「研ぎ澄まされた眼」を保持し続けさせることであると いうのが両者に共通した主張である。

人間は原罪を持ってこの世に生を享けており、人間社会における悪の根源も原罪のなせ るものとの解釈の上に成立している。歴史において人間は不断に自由を求めるが、求めた 自由によって人間は不安に陥る。そして、自由のあるところに罪が芽生え、腐敗が生じる。

実存的不安に耐え切れぬ人間は己を宇宙の中心に据えるなどして、少しでもこの不安を解 消しようとつと努める。己を神に代わる存在にしようとする。

キリスト教と近代政治思想を探る本論文で、特に本章ではグローバリゼーションの進展 に伴う国家共同体における政治倫理のあり方をニーバー、キュングを中心とした宗教との 関連において考察する。もとより政治倫理の醸成はひとり宗教のみに俟つべきものではな い。しかし特に西欧においては宗教がその母体として大をなすものであることに鑑み、本 章においては特に宗教的観点に絞り考察せんとするものである。

第一節 政治倫理のグロ―バル化

政治や経済のグローバル化が加速度的に進行している。経済のグローバル化はともすれ ば文化や習俗の領域にまで足を踏み入れかねない勢いにある。

「人間社会とは、誰しもが追求している生の充実のための基礎的ベイシス(基盤)であ り、同時にそれが獲得できないという報復的ネメシスである1」というニーバーの言葉〔R.

Niebuhr,1932, MMIS;1〕は、社会的存在としての人間の宿命を象徴している。ニーバーに よれば「人間社会とは、生の保持と充実のために与えられる物質的ないし文化的な恵みを、

いかに公正に分配するかという問題に尽きる。人間は他の被造物と異なり想像力を持ち、

またそれに呪われて、欲望を生存のための必要以上に拡大させる。しかし自然がもたらす 資源は人間の欲望をすべて十分に充たすわけには行かない〔MMIS;1〕」のである。

つまり、政治とはこの物質的ないし文化的な恵みの、公正な分配を期す目的のために存 在するものであり、それは必要最小限の組織・活動であるべきものである。しかるに果て

しなき欲望という呪縛を負う人間は、政治の場において恵みの分配を支配する権力の獲得 をめぐる闘争を繰り返し、ときには政治を必要以上に拡大したり歪曲したりし、挙句の果 てにネメシスの咎めを受ける。すなわち、「政治とは歴史の終わりに至るまで、良心と権 力とが衝突しあう場であり、人間生活の持つ倫理的要素と強制的要素とが相互に入り組み、

両者間の一時的・不安定な妥協が成立する場〔MMIS;4〕」なのである。

ニーバーの説くところでは、「現代における平和とは力によるものであって、一時的な 妥協の場であり、それは常に不安定かつ不正なものである。力を持った階級が国家を組織 化するように、力を持った国家が粗野な国際社会を組織化する。そのどちらの場合もその 平和は不正義なものであり一時的なもの〔MMIS;15-19〕」であって、「諸権利を合理的 かつ道徳的に調整することによって作られたのではなく、相反する利害の相互調整によっ てのみ部分的に達成されたもの」であるので、平和がこうした表面的で一時的なものであ る限り、それは再び新しく台頭する力により必ずや破られる、という悲壮な運命にある、

とされる。

近代文明の発展の陰で、キリスト教を始め宗教は時代から遠い存在となってしまってい るが、キリスト者は政治や社会的事象に発言しない、という旧来の殻を打ち破るかのごと くに意欲的に登場したのが、片や20世紀の偉大な神学者ニーバー2であり、他方エキュメ ニズム運動の総帥キュング3である。ニーバーはプロテスタントとして米国に生を享け、主 として20世紀半ばまでを活躍期としたのに対し、キュングはスイス生まれのカトリック 教徒であるが、第二回バチカン公会議や第二回世界宗教会議を主宰するなど、エキュメニ ズム運動を中心に国際的に顕著な活動をしている。両者の活動した時代、所属宗派、活動 地域等の相違を考慮すれば、直接の接触は極めて稀であると推測されるが、キュングが多 分にニーバーの影響を受けていたことは彼の著書の随所に見られる〔GEGPE;35〕。ニー バーの政治哲学では「人間自身による自由の腐敗こそ罪の根源である」と以下のように原 罪を基礎に、罪の赦しを通して歴史へ解放されるという贖罪論的人間観を説く。すなわち ニーバーによれば、「歴史があるところに自由があり、自由のあるところには罪がある〔鈴 木有郷;54、NDM,vol1;80.〕」ので、原始的人間の素朴さも幼児の無垢な心も、自由を 内包しているがゆえに罪から無縁ではありえない。「堕罪神話は人間の生命におけるあら ゆる歴史的瞬間の姿のシンボル」であると理解さるべきであると主張するものである。

キリスト教における基本的解釈では、人間は原罪4を持ってこの世に生まれてきている。

ニーバーでは原罪とは「人間の自己絶対化」、すなわち「自分の不当な要求によって、当

惑するよりも、むしろ、いっそう自分に関心を持つ自我の普遍的な傾向〔Niebuhr;18(邦 訳オーチス・ケーリー1964;20)〕」であり、決して人間の原始性の残滓ではない。原罪 の深い意味を理解することが人間理解の必須条件であるとする。

代表的な罪の形態として、ニーバーは傲慢の罪と肉欲の罪〔NDM,1;228-240〕(The sin of sensuality)とを掲げ、そのうち傲慢の罪については下記〔NDM,1,;178-240〕のように 記している。

傲慢の罪〔NDM,1,;186-203〕(The sin of pride)

実存的不安に耐え切れない人間が自分自身を宇宙の中心と見ることによって不安を解消 しようとする努力のことをいう。すなわち人間が人間以上になろうとすることであり、神 に取って代わろうとすることであって、人間特有のエゴイズムである。

これはさらに四つに大別されるとしている。

a.権力の傲慢(The pride of power)

権力の傲慢はこの世の力への究極的信頼であり、権力を得ることによって実存的不安 を克服しようとする努力でもあるが、この世の力という一時的なものに自己の存在を 賭けざるを得ない人間の儚さを象徴している。

b.知的傲慢(Intellectual pride)

知的傲慢とは理性の絶対視で、一種のイデオロギーともいえる。自らが時間的過程の 中にいることを忘れて自分が歴史を完全に超越している、と考える理性の傲慢である。

c.道徳的傲慢(Moral pride)

道徳的傲慢とは本来相対的な道徳的基準をあたかも絶対であるかのごとくに考える こと。有限なる人間が、己の非常に制約を受けた道徳が究極の正義であるとし、己の 相対的な道徳基準が絶対であるとする見せかけである。

d.精神的傲慢(Spiritual pride)

精神的傲慢とは自己の傲慢を神の名によって正当化しようとする宗教的傲慢である。

カトリックの傲慢、プロテスタントの信条信奉者の傲慢、ローマ法王の傲慢等々。

カトリックやプロテスタント、挙句の果てにはローマ法王まで傲慢のひとつに掲げたの は、政治や社会的現象に積極的関心を寄せたニーバー固有のもので、元来原罪を負ってい る人間には限界があるにもかかわらず、あたかも神のごとくに振舞うことは傲慢の謗りを 免れまいが、本論文ではその是非については主題でないので省く。

ニーバーは聖書から聖書独特の歴史観を体得したといわれる。すなわち、ニーバー研究

家、鈴木有郷によれば、「歴史が人間の創造的可能性と罪の混合である以上、一つ一つの 歴史的事柄の意味は定かではない。聖書においては歴史の意味の曖昧さは、歴史を通して 働き給う神に応答することが出来る、という信仰によって克服されている。正義と深く結 びつかない信仰は信仰ではなく、悪に対し憤らない礼拝は神への冒涜である〔鈴木有郷;

26〕」というのがニーバーの歴史観である。すなわち、ニーバーの「政治や社会的事象」

への積極的姿勢の原点がここにある。「キリスト教は社会や政治の理想像を有しない」、

というキリスト教の基本思想が、キリスト教は社会的事象に口出しせぬ、という半ばキリ スト教信者への戒律ともいうべき基本理念に転換を迫ったのである。

鈴木はニーバーの政治哲学の原点をさらに以下のように分析している。すなわち人間の 自己超越性はその対極的要素である有限性と逆説的緊張関係にある。とくにニーバーはパ スカルこそ思想的恩師と自認するほどにパスカルの感化を受け、「人間とは『宇宙の栄光』

でありながら『宇宙の屑』であるが故に、『安全とか落ち着きとか』を手中に収めること が出来ない。宇宙を超越するとともに宇宙に深く内在する神に支えられてのみ生きること が出来る」というパスカルの逆説的人生観〔鈴木有郷;28〕5を思想の源流としている。

すなわちニーバーにあっては、罪は人間が自らに下す過大評価であり、人間の神に対す る傲慢であって、人間の作る歴史は創造的可能性の場であると同時に破壊の場でもある。

また人間は無限であると同時に有限である、というパラドクシカルな存在である。すなわ ち自然から独立して生きることは出来ないが同時に自然の中に埋没して生きることも出来 ない、不安定な存在が人間なのである。人間は存在そのものが不安定であるがゆえに不安 である。人間はその超越性にもかかわらず、自らの力によって己が存在の意味を成就する ことは出来ない、という定めにある〔鈴木有郷;44、NDMⅠ;2〕6

言わば、特定の場所と時間に生きる有機体である、という意味で人間は自然の生き物で ある。このためにニーバーは「人格は自然と精神の両方が生み出す果実である〔NDM,1;

54.〕」という。生き物に種はあっても人格や個性はなく、それらを有するのは自然に生き ると同時に、自然を超越する有限と無限の総合としての人間である。人間は互いに矛盾す る両極をパラドクシカルな緊張関係にもつ存在である。この緊張関係が緩和されるとき人 格の意味は損なわれるとする。

さらに続けてニーバーは神の本質について、「それは無限にまで高揚せしめられたところ の人間的美徳」であるとし、「人間は宗教において世界を彼自身の生や憧れと関わりのあ る仕方で記述する。宗教とは絶対者の前での謙虚であると同時に絶対者による自己主張で