トレルチが高く評価される根拠にはキリスト教の人格と文化の倫理を通して倫理学の再 興を企図しヨーロッパ精神形成に輝かしい足跡を残したことの他に、キリスト教と近代世 界の関係を、「自由と人格」、「人権と民主主義」、等のプロテスタント的歴史文化価値 に見出し早くから政教分離を唱える等、自由並びに民主主義に関する思想で先見性を発揮 したことにあった。本稿では特に彼の影響を受けたとされるリンゼイを採り上げ、トレル チとの関係を辿りながら民主主義とを考えてみたい。
トレルチとリンゼイの遺したもの
トレルチの影響を受けたとされるキリスト教思想家のうちでも、ニーバーとの時代的な 隔たりに比較すれば、トレルチとリンゼイとの間は誕生年も14年違いと、半世代の開き があるのみで、両者は略々同世代に属していた。しかし両者の直接の交流はリンゼイとの 面会直前のトレルチの急死という不幸も重なり実現せずに終わった。
半世代とは言ってもトレルチの新しいキリスト教社会哲学、すなわち禁欲的プロテスタ ンティズムの社会哲学はドーバーを越えて、リンゼイに大いなる影響を及ぼさずにはいな かった。
ヨーロッパ文化に関してのトレルチの予てからの主張である「生命統一体」論や、彼の諸 著作から、彼が国家多元論を採っていたことが窺われるが、同じく国家多元論者として知ら れていたリンゼイであるので、両者が互いに相通じるものを有していたことは想像に難くな い 。 以 下 の 通 り リ ン ゼ イ の 主 著 で あ る 『 現 代 民 主 主 義 国 家 』 (Alexander Dunlop Lindsay,1943,The Modern Democratic State, Oxford Univ. Press.)にはトレルチを支持す ると見られる箇所が随所に見られる。
すなわち、その第一は、トレルチの「二つの倫理1」を引用したリンゼイの『二つの倫理2』 であり、リンゼイ自身が『現代民主主義国家』の中で、「中世世界と異なった倫理世界が登 場したことが宗教改革と関連し、かつピューリタニズムとの結合の上で認識されている」、
として、トレルチに言及していること[リンゼイ1969;89-90]、その第二は、後述するト
レルチによる民主主義の諸理論であり、彼の主要欧州各国の民主主義についての比較をリン ゼイがある種の共感を持って言及していること[リンゼイ1969;155-157]である。しかも リンゼイはトレルチがフランスの社会理論よりも、アングロサクソンのものをカルヴィニズ ムとの関連の上で高く評価しているとも敷衍している。
リンゼイが熱意を込めて説く自由教会については、現代から見てもその意義は高く評価さ れる。彼は文明化が進む現代において、教会に期待される役割の一つに、不断に社会に生き 生きとした活力を与えることであると説いた[リンゼイ2006;36]。理性と知性のもとでと かく無機質化が進行していく現代文明化社会では、人間性が日々に喪失してしまいがちであ る。こうした社会の無機質化の進行を多少とも食い止め、潤滑油として組織に潤いを与える のはキリスト教を含む宗教をおいて他に見当たらない。しかもそれは日常の小さな教会活動 を通じて行うのが最も相応しい、というのがリンゼイの主張であった。正に「教会は民主主 義の学校」であった[福田:35]。EUが基本原則として謳う補完性の原理も、その真髄は こうした日常の活動に配慮したものである。正にトレルチが説いたトマス・アクィナスの補 完性原理の継承であり、「禁欲的プロテスタンティズム」の社会哲学そのものであるので、リ ンゼイによって受け継がれていると言って良い。またリンゼイの民主主義論についても、ル ターの掲げた良心論が政治の世界で実践を見ようとしたものと解して良いのではないかと思 う。それはドイツ的な内面性志向の民主主義論とも言えるものであり、やがてアメリカの民 主主義となって結実して行ったと言える。
トレルチの民主主義論で重要なのはカルヴィニズムとの関係である。彼自身はルター派に 属してはいたが、民主主義論では彼の対極に位置した、盟友ウェーバーの属したカルヴァン 派を信奉していた。特に自由教会との関連でカルヴィニズムを明確に支持していた。すなわ ち、ルター派やカトリシズムには、家父長主義とその残滓とがあると判断し、これを排除し て禁欲的プロテスタンティズムのカルヴィニズムを支持した。その結果、プロテスタント的 民主主義を基軸とする近代史の見方によって、トレルチとリンゼイとは一致したのである[近 藤;165]。
さて、キリスト教において民主主義は平和の理念とともに一体をなすものである。そして 民主主義こそ現在のヨーロッパの政治文化を規定するものである。
同じくウェーバー・クライスのイェリネックは近代民主主義の中核理念に「人権」を置い ていた。そしてこの人権の起源をカルヴァンに求め、さらにその淵源はピューリタニズムに あるとしている[阿久戸;19-31]。民主主義の思想はそれ自体が倫理的であると言える。
それは人権という自己の独立した価値それ自体として、明示する人格性の道徳的な権利であ るからである。
リンゼイは、「民主主義とは人間個々の差異以上に人が共通に持つものの方が重要である、
という立場を土台としており、人は皆基本的には神の前で子どもであり等しく貴い価値を持 つ」という[永岡:197]3。リンゼイの民主主義論は正にキリスト教的信仰から始まるので ある。彼は「民主主義は政治理論ではなくて社会の理論である」[リンゼイ1964;81]とも いう。すなわち民主主義精神は奉仕の心であり、喜ばしい精神が満ちて、ある運動が盛り上 がる時の人は、全体を生かすために、小我を没することを学ぶとしている。
また民主主義の原理は世界観、すなわち一つの形而上学と宗教とを意味する。それは徹底 的に目的論的な世界観、すなわち道徳的理性の勝利を心から信じることを意味するからであ る。これにより人間はますます個性的になり、人格的に自立した個人の価値に到達する。民 主主義の原理は、未だ実現されていない原理的な人間平等という前提に基づいている。
トレルチは宗教と政治の関わりに関して、「宗教は精神生活の意味と目的に関わるが、政 治はそのための物質的基盤に関わる前提・準備段階である。宗教は政治の粗暴な要求に対し、
抵抗し影響を与え、政治を宗教や精神生活に奉仕するものたらしめる」としている[永岡;
168-169]。キリスト教倫理は国家倫理の強力な背柱である。そして「キリスト教は最高の 意味で人格主義の宗教であること、キリスト教は神への献身と神への志向の獲得を通じて、
比類のない個人の価値という人格性に到達することを人間の目標としていること、キリスト 教は―人間が過ちと罪との闘いにおいて信頼と献身という純粋な行為を通じてそこへ高めら れるべき―すべての人格的価値の源泉を神の意志の中に見ている」ことであると結んでいる
[トレルチ著作集3、1983;81-82]。
つまりキリスト教の中心にあるのは人格性の理念である。ここに近代の個人主義と民主主 義の重要な源泉がある。大切なのは、キリスト教倫理が政治倫理に対してなす貢献である。
キリスト教は国家を越えている。まさに統合ヨーロッパの建設に相応しいものといわねばな らない。こうしてキリスト教の政治倫理とはキリスト教の理想が国家ないし統合機構に影響 を及ぼすことである。キリスト教的な確信から見て本当に有益なことは国家の倫理的な内容 を高めることに他ならない。
トレルチは民主主義的政治思想についてウェーバー、イェリネックによる影響を多分に受 けており、その主張の詳細は、第十章「キリスト教とヨーロッパ精神の形成」にて別途論じ ているので、ここでは概略以下のごとく述べるに止めることにする[トレルチ著作集3、1983;
78]。すなわちトレルチによれば、「政治的民主主義は、愛と犠牲ではなく、法と安全な秩 序を要求し、普遍的かつ明白に役立つ状態と規範を要求する。しかもそれがキリスト教の人 格性の思想から必要とするのは、法秩序と自明な要求に移行しうるものに過ぎず、キリスト 教が実際の政治にとって意味を持っているのは、国家が道徳的で自立的な価値を持ち、それ にキリスト教が間接的に影響していることである」、としている。
トレルチは『社会教説』において新カルヴィニズムの社会倫理を、トマス・アクィナスに 代表される中世カトリシズムの社会倫理に次ぐ、キリスト教史上第二の巨大な社会倫理と呼 び、「共同体と個人」、「権威と自由」、「強制とイニシャティヴ」、「即時性と感激」、
「貴族主義と民主主義」といった言わば二律背反の調和であって、それによりカルヴィニズ ムは教会の分野だけではなく、キリスト教社会の全領域において社会形成に向かったのだと 指摘している[近藤勝彦;158]。つまりカルヴィニズムには、至る所で個人主義的でデ モクラティックな特徴が見られ、しかも法の権威と不可変性との強烈な労作も見られるとも いう。これに反して、ルター派やカトリシズムでは民主主義はもともと攻撃的・革命的な位 置に留められているという。すなわちトレルチはきわめて「保守的民主主義」の立場を理想 としているのである。この点では、ウェーバーによる「人民投票によるマシーン」を伴った 指導者民主主義こそが選択さるべき民主主義であるとする民主主義構想とは異なる。トレル チは「近代世界の自由ならびに人格の確立に対して、プロテスタンティズムこそがその宗教 的・形而上学的支え」を提供したとしている。
トレルチの考えでは、キリスト教の思想は、一方では自由と人格性についての思想部分で 民主主義を支持する義務があると信じ、他方では権威と秩序についての思想部分で保守主義 を支持する義務があると信じている。そこで西村貞二もいうように、「キリスト教は全体と しても、個々の点においても、一個のまったく歴史的・個別的な現象であって、キリスト教 の現にある姿は、ただ古代文化とローマン・ゲルマン民族の地盤の上においてのみ成立可能 である。ここにキリスト教とヨーロッパ人とが不可分一体ないわば運命共同体を形つくるこ とが根拠づけられる。キリスト教の絶対性は生命であって、思考ではなく、力であって、社 会秩序ではない[西村貞二;49]」としているが、これはまさにトレルチの主張する生命的 統一体としてのヨーロッパ文化の主張そのものである。
統合ヨーロッパは単に経済統合のモデルであり政府機構相互の統合の先駆例であるだけに 止まらない。それは国家を超えた大きな政治単位における民主主議の実験場としての意味を 持っている。