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キリスト教と平和思想を結び付けることは一般の常識1のようになっている〔井上良雄 1955;145〕。そもそもキリスト教はユダヤの信仰を国際化し普遍化(catholicize)して、ヨー ロッパ人の思想形成に役立てたことはもちろん、世界中に通用する形の宗教にした2〔蝋山 道雄・中村雅治;38-39〕。しかし開発と戦争の世紀といわれる20世紀において、わけ ても二次に亘る世界大戦に参加し主導した諸国の大半は「キリスト教国」であった。戦争 を防止し戦争の惨禍を回避することを最大の使命とする宗教であるキリスト教はこの間い ったい何をしたのであろうか。戦争を「必要な悪」或いは「より小さな悪」として肯定し 是認する風潮が、或いはキリスト教そのものに、或いは組織としての教会内部にあるので はないか、キリスト教の唱道する「平和」とは何か、「キリスト教的平和観」とは何か、

むしろ「平和問題」こそキリスト教に対して投げかけられるべき「問い」ではないか。

なお時代区分からすれば、次章で触れるクザーヌスは本章で扱うルターやカルヴァンに 多少とも先行し、本来本章で同時に触れるべきであるが、同章に別扱いしたのは、壮大な 世界観に裏付けられたその平和思想が同時代としては極めて現代性に富み、今後の平和を 思考するに際して十二分に検討に値するものと考えているからである。

第一節 キリスト教的平和観の歴史

旧約聖書イザヤ書第11章におけるイザヤの預言3が語っている光景は、待望された救主 の到来において始まる世界の姿であり、そこに支配するのは被造界全体に及ぶ完全な平和 である。

新約聖書においても神は「平和の神」と呼ばれ、その福音は「平和の福音」と呼ばれて、

イエス降誕のとき天の軍勢は天の使いとともに、「地には平和を」と謳う。キリスト教にお いてもその平和観は旧約時代から新約時代、さらにはヘレニズム文化との交流を経るにつ

れて歴史的変貌を遂げている。その中で中世末期の思想家ニコラウス・クザーヌスの平和 思想はその純粋さ・高貴さにおいて抉出し現在も学ぶべきものが多い。

キリスト教は「内から」見ると、神から人間への啓示(revelatio)としての「出来事」すなわ ちキリストの「出来事」としての平和であり歴史である。但し神の呼び掛けによって人間 の安泰・全き状態Hail(Whole)に向けての出来事すなわち救済史である〔澤田昭夫;16)〕。

全き状態とは旧約にいうシャローム(Shalom4) であり〔飯坂良明「平和とは」〕、それは「平 和史」と言えるが、人間の側から見れば「戦争史」でもあると言える。

(一)旧約聖書に見る平和の概念

旧約においてみられる平和の理念はシャロームによって示されるが、これはラテン語の パックス(pax)やギリシア語のエイレーネ(eirene)より内容の豊かな理念であるといわれる。

一般にシャロームは無傷で完全なことを表し、生物については健康で健全なること、社会 については外的な幸福のなかに生きるよう社会的に秩序づけられていることを表す。また シャロームは総てに亘る力の満ち溢れた生活を意味していた。当時のイスラエルにおいて は「契約」なしには「平和」はありえなかった。「契約」と「平和」とはここでは殆ど同 義語でさえあった。古代オリエントにおいては、シャロームの平和の理念は人間の生活と 思想において支配的立場を持っていた。これは次の二つの理念に由来している。その一つ は旧約に明らかなように、人間の世界から消滅した至福な原始の時代への回想であり、他 の一つは人間の霊魂に根差す平和な秩序への憧憬である。

日常用語として「今日は」「ごきげんよう」「さようなら」等、言いたいときにすべて

「シャローム」という。この時代はやがて来るべき新約・恩寵の時代の前表(profigura)とし ての旧約・律法の時代である。ヤハウェイなる神と選民としてのイスラエル人との契約の 時代である。契約社会であるヨーロッパにおいては既に旧約聖書にあるモーゼの時代より 契約による平和への願望が強かった。それは唯一神であるヤハウェイ神との契約を基本と し、外界との平和を契約によって保とうと云う思想であった。

バビロン幽囚を契機にイスラエルにとってより良いのは、暴力を加えるより暴力を忍従 することであった。またヤハウェイは忍従する「神の奴僕」(Gottesknacht)たるイスラエル を救い給うと悟らされる5。平和は時間を超越した終末/永遠の次元で、イスラエルだけで なく万人にもたらされる完全状態である。この点我が国や東洋における平和論と異なる面 があるのではないかと窺われる。

契約締結の問題がこのように重要であるのは当時のイスラエルの平和にとり契約が必要 不可欠であったからであり、上述の通り契約と平和とは殆ど同義語でさえあった。平和と は通常争いのない状態、或いは心の平静な状態を意味していると考えられるが、ヘブライ 語にいう平和、すなわちシャロームとは、そうした状態とは全く逆に力の漲り溢れた状態 を指す。いうなれば、シャロームは総てに亘り力の満ち溢れた状況を意味していた。この ために当時においてはイスラエル(十二部族6)の強力な団結のみが平和獲得のいわば生存 の掟でさえあったとされる。イスラエル共同体は実質上ヤハウェイ共同体として成立した。

現在のヨーロッパが平和を探求し平和を獲得する手段としてヨーロッパ共同体へと発展し た過程はこのようにすでに旧約時代にそのアナロジーを見ることが出来る。

(二)新約聖書に見る平和の概念

新約聖書は本来平和の聖典であり、「天には栄光、地には平和」とあって、その根源に、

そしてその頂点に、平和の鐘が荘厳に鳴り響いている。しかしこの「平和」という言葉に おいて必ずしもいつも民族と民族、国家と国家との戦争のない状態を言い表しているので はない。旧約聖書のシャロームに対し、新約聖書ではギリシア語のエイレーネ(eirene)が

「平和」を意味する言葉として用いられる。エイレーネeireneは英語のeirenic→irenic(平 和的な)irenology(平和学)の語源であり、以下の八つの意味を含む7〔熊沢義宣;216-224〕。

第一の意味;心理的に平安な感情(コリント人への手紙一章三節)

第二の意味;贖われたものの状態( 〃 七章十五節)

第三の意味;究極的な終末論的な概念としての全人類の救い(エペソ人への手紙一章二 節)である。

原則として上記第三の意味に用いられるがさらに下記の用法が加わるとされる。

すなわち、

第四の意味;あらゆるものの正常な状態(コリント人への手紙十四章三三節)

第五の意味;終末論的な救いとしてのシャロームの展開としての面と平行した救いの究 極的な完成であり、総てが正常に整えられていく新しい創造の状態である。

第六の意味;神の平和(癒し、救い、和解)(エペソ人への手紙二章十四節)

第七の意味;人間相互の平和(ローマ人への手紙十四章十七節)

第八の意味;魂の平安 の八つである。

使徒パウロによれば、新約におけるエイレーネは恩恵と並んでキリスト教徒の間におけ

る挨拶の言葉として用いられた8。そこでは永遠なる神が人となり(受肉incarnatio)、約束 の「平和の君」9 が時間の中に入る。人祖の背信によって崩されてきた神と人間との平和 が神人キリストによって回復され、人は信仰によってその和解や平和に参加する可能性が 与えられる。

しかしシャロームとは異なり、エイレーネは天然自然の平穏な状態であり、ここから戦 争の禍害と荒廃とを免れ、人間が一般に泰平無事であることを意味し、さらに争いや戦争 状態を終結し和睦することを意味した。「エイレーネ」は必ずしも旧約聖書的な「平和」

ではない。すなわち「平和」はイエス・キリストが十字架の死において、その血を通して 創造されたものであり、新約聖書の「平和」とは自然的、社会的、歴史的である前に何よ りもキリスト論的であり、教会的事柄である。それは「神との平和」であり、そして新し い人類の平和である。キリストによってのみ平和であるということは、キリストなくては 平和がないということである。

新約聖書によれば戦争は避けがたい。必ず起こらねばならない。しかしこの戦争は運命 的決定論的ではない。それはまず人間の側からは政治的支配要求の魔物化として、正義と 神々の分裂、すなわち偽りのメシア思想、涜神の獣の出現として起こる。神の側からはこ れに対する怒りと審判とである。このように新約聖書にはいわゆる絶対的非戦論はない〔松 木治三郎;80〕。

「神と人」「聖書と聖伝」「恩寵・信仰と善行」のように「と」により聖俗両秩序の類 比的総合関係を強調、戦争と平和は正戦論の枠の中で考えるのが基本的なカトリックの平 和観である〔澤田昭夫;20〕。それは聖書に準じたものと解して良いが、プロテスタント の平和観は宗派により著しく異なるので以下ルター、カルヴァン、クウェーカーと代表的 なものを掲げる。

(三)宗教改革者たちに見る平和の概念

(1)ルター派

「戦争は不正と悪とを罰することであり、たとえば良医が身体の危機を救済するために 手足を切り捨てる手術に比べられて良いような『愛の行為』であり、したがって軍人の職 務と業務はそれ自体としては神に属する正しいものである」とする。「神の秩序と世界秩 序」、「超自然と自然」、「神性と人性」のごとく各々分離する哲学的存在論的二元論であ りながら、宗教的救済論的にはキリストにおいても「神のみ」、「聖書のみ」、「信仰のみ」と