その豊富な知識と高潔なる人格とを慕ってマックス・ウェーバーのもとに参集した多彩 な思想家や文化人は数知れないが1、その中の一人トレルチは比較的地味な存在のまま生涯 を閉じた。しかし彼の思想や、そのひた向きで求道者ぐ ど う し ゃ的とも言える学究姿勢は、後日多く の思想家に高く評価され、やがて後世に多大な影響を及ぼすところとなり現在でもトレル チを見直す動きは根強い。
トレルチが高く評価される根拠には、キリスト教の人格と文化の倫理を通して倫理学の 再興を企図し、ヨーロッパ精神形成に輝かしい足跡を残したことの他に、キリスト教と近 代世界の関係を、「自由と人格」、「人権と民主主義」等のプロテスタント的歴史文化価 値に見出し、早くから政教分離を唱える等、自由並びに民主主義に関する思想で先見性を 発揮したことにあった。本稿では特に彼の影響を受けたとされるニーバーを採り上げ、ト レルチとの関係を辿りながら自由の本質につき考えてみたい。
第一節 自由の意味するもの
自由は人類が誕生以来、永年求めてきた最大目的のひとつであった。しかし求める自由 とは何かとの問いに対しては、人により、時代や社会環境により、そして、文明の進化の 程度によって、その意味する内容は悉く相違していた。そもそも、古代ギリシアからロー マまでの歴史では、奴隷制が前提とされていたし、コーランの世界では「平等」こそ重要 であって、人間の自由はさして問題にならないとも言われる。
このように異なる自由の意味を、クランストン(Maurice Cranston1920-1993)は、主 要な思想家ごとに頗る簡潔、かつ、包括的に取り纏め整理している。以下にその主要部分 を彼の説明に従い掲げてみる〔クランストン;24-35〕。
それらは大別すれば、ロックやヒュームに代表される「自由とは能力である」とするも のと、それとは異なり、「自由とは理性の支配である」とするものである。この後者の部 類に属するものは、ルソーを始めとして近代以降の思想家の主流を占めている。
自由を能力であるとする代表的な理論はロックのそれであろう。彼は、「自由とは・・
人の有する個々の行為を行ったり控えたりする能力である」〔John Locke1997;226〕とし て、「・・からの自由」よりも、「・・への自由」を強調しているかに思える。人間の置 かれた環境的側面よりも、人間の持てる能力的側面を捉えた表現をしている。ヒュームも 略々同様の捉え方をしていて、彼は、「自由とは意志の定めるところに従って行動したり、
しなかったりする力である」〔David Hume2000;72〕と主張している。
彼らによれば自由とは能力そのものであると要約できる。すなわち、能力を伴わない自 由は「無意味」であると言わんばかりである。しかし、クランストンはロックの影響を多 分に被っていると思われるフランスやドイツの思想家の自由に対する見解を引き合いに出 して、「出来る=可能性」ないし「能力」と言う意味のフランス語の pouvoirという語の 持つ曖昧さに起因しているのではないかとして、この能力説の根拠の希薄性を指摘してい る。すなわち、彼は許可ないし可能を示す英語表現であるmayやcanを用いない自由は他 に存在し、必ずしも「自由を能力である」と規定するのは相応しくないとするのである。
しかし後述するアウグスティヌスやその後継者であるトマス・アクィナスのように、自 由の能力説は古来根強い支持もあるのでクランストンのように一概には言えない。
第二の自由論ともいうべき「自由とは理性の支配である」との主張は、アクトンやルソ ーを始め、多くの思想家の採るところであり、彼らの主たる考え方は、自由を束縛の不在 と看做すものから始まり、自己規律、すなわち、理性に固有の権威の維持説まで含まれる。
それらがすべて自由の支配者であって、自由とは支配である、という理論に繋がる。理性、
良心、精神、知性等々による支配説となるのである。代表的な理論を掲げれば、以下の通 りである。
アクトン;自由とは自然による様々の束縛からの自由、病気、飢餓、危険、無知、迷信 からの自由を意味する。
ルソー;自由とは政治的諸制度がもたらす様々の束縛からの自由を意味する。
カント;自由とは道徳法則のみに従い、その他のいかなるものからも独立であること。
〔カント2000;103、106〕
ライプニッツ;自由とは知性の自発性である。〔ライプニッツ1991;63〕
ヘーゲル;自由とは形を変えた必然性である。〔ヘーゲル1996;397/398〕
ハイデガー;自由とは存在するものを存在するものとしてあらわにすることに関与する ことである。〔ハイデガー1980;334〕
スピノザ;自由な人間とは理性の命令のみに従って生きる人間のことである。
シェリング;自由とは最高度に自然的である存在法則を通じての無差別者の絶対的限定 に他ならない
エンゲルス;自由とは自然必然性に関する認識に基づいて我々の行う、我々自身および 外的自然に対する統制である。
このように無数に存在する自由理論の中で、「自由とは理性的自由である」とする定義 が可なり多数の人々の支持を得て比較的優位にあるが、これにより必ずしも能力説が否定 されるものではない。さらにクランストンは、束縛の不在として理解される自由は、自由 に関する卑俗な理解だとした上で、自由は一種の「称賛語」であるという表現を用いてい るが〔クランストン;53〕、この表現こそむしろ自由の能力説を想起させるものではなか ろうか。
哲学者の大半が主張している形而上学的理論からすれば、彼らは、「自由という言葉に 事新しく定義を与える必要はない」とも主張する。
理性的自由は自己規律の中に自由を見出す。さらに、強制可能な理性的自由は規制の中 に自由を見出す。理性的自由は個人主義的であり、個人倫理に結び付く。強制可能な理性 的自由は政治的であり、社会倫理に結び付く。なおクランストンは、ベルジャーエフ、フ ロム、アンドレジッドを列挙して、自由とは強制可能な理性的自由であるとする定義が成 功を収めているとしている。
因みにクランストンでは、同じく自由を意味する語ながら、いずれかと言えば、Liberty は身体の自由な状態を指し、Freedomは精神の自由な状態を指す、と記している。
さらに、フランス語にはLibertyに相当するLiberté という語はあり、ドイツ語にはFreedom
に近いFreiheitという語はあるがLibertyに相当する語はないといわれる。また一般に、フ
ランス人はLiberté という俗的な観念は理解しえても、Freedomをいう哲学的観念は理解で きないし、ドイツ人はFreedomという哲学的な観念は理解しえても、Libertyという俗的な 観念は理解し得ないと記されている。
なお、Freedomがより高い自由を、Libertyがより低い自由を現すと言う説があるが(ブ ーバー)この説は事実ではないとも表示されている〔クランストン;49〕。
自由の定義からは離れるが、自由を性質的側面から表現したものに以下の諸説がある。
例えば、パトリック・ゴードン・ウォーカー(Patrick Gordon Walker)では(『自由再 説』Restatement of Liberty)、「自由とは到達されることの決して無いゴールを目指し ての飽くなき努力である。自由は人々の外部に存在すると同様、人々の内部にも存在す る・・・辛苦して自由を獲得し、自らの社会を自由に相応しい住処となす人々のみが自由 を享受し得る」とし、マイクル・ポラニー(Michael Polany,1891‐1976)では(『自由の
論理』The Logic of Liberty)、「自由であるとは明確な関連を有する一連の信念に対し全身
全霊を捧げることである」としている。
自由に関する実存主義の理論は、マルクス主義の自由や強制可能な理性的自由に対し著 しい対照をなす。そこでは自由とは恐怖語に変わり、サルトルにおいては自由とは恐怖を 意味した〔クランストン;62〕。さらには、ハーバート・リード(Herbert Read Edward, 1893-1968)においては、「自由は一つの価値である。そして実にあらゆる価値の価値であ る」とされ、ベルジャーエフは、「自由とは精神の内的動力であり、存在の、性の、そし て運命の非合理的神秘である」とも記している。
さらに社会的価値が多様化し、社会構造が複雑化した現代においては、J.ロールズがい う、「相互無関心こそが人間の基本的条件であり、自由な社会の基礎である」〔半澤2006;
27-28〕として、自己の絶対的優位性を誇り、他者に対して、拒絶的態度を採る一種の他 者の排除の論理が蔓延ハ ビ コる気風まで現れる状況であるが、人間社会がこのまま現代のような 世相を辿るとすれば、まさしく自由を追求してきた人間の歴史が、自由とは対極をなす不 自由や非自由の世界へ回帰しようとする状況を予告していないと言えようか。
第二節 自由と倫理
ヨーロッパ思想史に於いて「自由」とは 2 千年以上にわたり重い倫理的意味を持った言 葉であり、絶対的な規範として観念され、人の外的行為のみでなく、個人の内面性まで射 程に入れた規範であった。これが「自由」の倫理的力であった〔半澤2006;31〕。
因みに、こうした倫理的意味での「自由」を重視しなかった重要な思想家としては18 世紀のベンサム(功利主義者)以外にはいないと言われるほどであった〔半澤2006;30〕。
しかしトクヴィルによれば、現代民主主義(デモクラシー)社会においては、すべての 人々の精神を強力に支配するのは「自由」ではなく「平等」への衝動である〔半澤2006;