唐木田は「のりこえ」の体系化にあたって人々がよく知っているような事例 を挙げたが、 「のりこえ」そのものはもっと身近なところで、もっとひんぱん に起きているはずである。例えば自分の考え方が何かのきっかけで全く別のも のに変化してしまうことはだれしもが経験するところであるが、これも「のり こえ」のひとつと考えられる。「のりこえ」は自分自身の中でも日常的に絶え ず起きていることなのである。
そうすると本研究で考えた「のりこえ」は狭い意味の中に限定されてしまう ことになる。しかし、唐木田や筆者が考察したように「のりこえ」が起きうる 状況はかなり共通した条件があるようだ。その条件さえ整えれば「のりこえ」
は他の理科授業においても一般化することが可能になるのではないかと考える。
そこで、本研究の結論をもとに、「のりこえの構造」を加味した授業実践を 一般化するために、以下の条件を整えることを提言する。
提言1 自分の考えにこだわりを持たせる
統制群の授業分析でも指摘したが(p100参照)、子どもたちは自分の考え を棄てさり、別の考えに移り変わることに対してほとんど抵抗を抱いていない ように思われた。そこには、理科授業だけでなく他の多くの教科が陥ってしま っている「予想主義」の弊害を感じ取ることができる。
教育学者の佐伯は「予想」について以下のように述べている(60)。
理科の授業で生徒が様々に発言するのは、そのほとんどが「予想」である。これから行うべき実験 結果についての予想であり、それが何通りも出て「盛り上がった」ところで実験する、というのが効果 的とされる。あるいは、実施した実験の結果のデータをめぐって、その説明原理を予想させる場合もあ る。どちらも、確かに科学者もやっていることだといえなくもない。しかし、決定的なのは、「予想(ゲ ッシング)」というのは、その理由や根拠が問われないということである。いってみれば、「思い付き の出しつぱなし」である。
佐伯が指摘するように、予想は「理由や根拠が問われない」のである。理由・
根拠が要求されないならば、どんな考えでも「予想」になってしまう。そんな
「予想」しか持てない子どもに対して、 「自分の考えに責任を持て」とか「最 後までこだわり続けよう」と言うことは、意味の無いことなのではないだろう
か。
本研究では「コミットメント」の重要性が強調したが、その前提として「思 いつき出しつぱなし」の「予想」ではなく、少なくとも理由・根拠が明確にさ れた「予想」を出させることが自分の考えにこだわることにつながると思われ
る。
提言2 授業では考える場を保証する
「探索」の過程は文書作成の「推敲」に作業内容が酷似している。自分の考え をともかく出してみて、いろいろと組み合わせを変えながら直していくのであ る。したがって、「探索」の過程は「推敲」同様非効率的である。第7章で「の
りこえ」は「探索」の最終局面であると述べたが、 「のりこえ」は最短経路の 過程で起きるわけではない。 「のりこえ」のためには「探索」が十分になされ
ることが必要なのである。
ところが、最近の子どもたちは十分に考えるという習慣が定着していないよ うに思われる。提言1でも「予想主義」の問題を取り上げたが、その根底にあ るのはすぐに答えを求めてしまう現在の教育のシステムが背景としてあると考
えている。
菅原は現在の理科教育の姿について「わが国の中学校における理科教育は、
出来上がった科学知識の体系のコンパクトな教授とその修得というパターンが 一般的である。そこでは科学の法則や原理が次々に登場し、知識の定着や記憶 力が問われ、受験のために問題が解けることが理科学習の動機づけとなってい
る(61)。」と述べている。
導入課題を提示しても「どうなるの、これ?」とすぐに聞こうとする生徒、
実験を行う前から結果を知りたがる生徒、実験が「予想された結果」と違った ので「失敗であった」とっぷやく生徒、 「失敗でもどうせ先生が最後には「正 解」を教えてくれるからいいや。」と気にも留めない生徒、…、菅原の指摘ど
一106一
おり、子どもたちは授業iの過程でなくテストなどの結果を重視するようになっ ていることは今回の授業実践でも感じられた。
授業は計画的に行うものであるから時間の制約を取り払うことは不可能であ る。しかし、計画的であれば、ある程度の余裕を生み出すことも可能である。
そのようにしてつくりだした時問で徹底的に考えさせるという、一見無駄に見 えて実は非常に意味のある活動があってもよいのではないだろうか。
提言3 何がどう分かったのか理解させる
授業分析では「了解」の段階を確認することができなかったが、実はこの段 階が「のりこえ」で一番重要なのではないかと考えている。
序章でも述べたように「理科という教科は自然を学びの対象とし、自然の認 識を通して生きていく上で基本的な能力を養う教科である。」と筆者は考えた。
そこで、本研究は「のりこえの構造」を理科授業に取り入れる試みを行ったわ けであるが、その究極の目的は自然の認識という行為を通して自分の位置づけ
(自己の相対化)をはかることである。
自然には本来、形や構造はない。形や構造を自然に見出すことが出来るのは われわれが自分の内的世界に形や構造を構成しているからなのである。「了解」
とはこのように構成した自然の形や構造を一度外に出して見てみる作業のこと なのではないかと考えている。
このように思考を形にすることを認知心理学では「思考の外化
(extemalization)」とよんでいる。これについて、先出の佐伯は以下のよう
に述べている(62)。
ものごとを、 「頭の中」で思いめぐらせているばかりではうまく考えがまとまらないとき、私たち はともかく考えていることを何らかの形で「外に出す」ことがある。つまり、それが他人にも(当然自 分でも) 「見える」とか「聞こえる」、あるいは、「触れる」形態に表現するのである。これが本当に 他人に鑑賞してもらうためのものなら、それは芸術的な意味での「表現」であり、「作品」であるが、
ここではそういうものではなく、ただ「もっと深く考える」ための手段として、「とりあえず形にする」
という場合に限定して考察することにする。こういう意味で、「思考を形にする」ことを、認知心理学 では、思考の「外化(extemalization)」とよぶ。…(中略)頭の中でモヤモヤ考えているよりも、
とりあえず「外に出して」みて、その結果をながめてそれを修正し、だんだんと良いものにして行くと いうのは、文章にかぎらず、絵画でも彫刻でも音楽でもあるだろう。とりあえず形に描いてみながら、
全体構想を練り直すというものである。
自然全体を一度に理解することは到底不可能である。そこでわれわれは自然 の認識という行為を生まれてから毎日何度となく繰り返すのであるが、この行 為に伴って「了解」もその時その時で繰り返されなければならない。 「了解」
がきちんとできていないと自然の全体像が歪んでしまい、「修正」も「全体構 想」も困難になってしまうからである。
本研究では「了解」の段階をとらえることができなかった。そういう意味で はこの研究は緒に就いたばかりであるといえる。「了解」の段階を生起させ、
授業において、その過程を明らかにすることがこれからの課題である。
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謝辞
本研究は、1996年4.月より2年間にわたり、兵庫教育大学大学院自然系理 科教育講座松本研究室で行ったものである。
本研究を進めるにあたって、終始適切なご助言、暖かいご指導をいただきま した松本山下助教授に心から感謝し、お礼申し上げます。
また、主任指導教官としてご指導いただきました山田卓三教授に厚くお礼申
し上げます。
さらに、本研究に貴重なご助言を賜りました本間 均教授をはじめ本学の諸 先生方に深くお礼申し上げます。
また、調査・授業実践にあたり、快くご協力いただきました愛知県愛知郡東 郷町立春木中学校の校長先生をはじめ、島先生方、生徒の皆さんに心より感謝
申し上げます。
そして、率直で有益なご助言をいただきました松本研究室の皆様ならびに、
昨年度松本研究室に在室しておられ、現在では全国各地の小・中学校でご活躍 になられておられる先輩方に心より感謝申し上げます。
本研究が、多くの皆様のご支援のもとに、こうして完遂いたしましたことを 重ねて厚くお礼申し上げます。
最後になりましたが、このたびの研究の機会を与えていただきました愛知県 教育委員会、東郷町教育委員会、そして東郷町立春木中学校の教職員の皆様に 心からお礼申し上げます。
本学で学んだことを今後の教育実践に生かすべく、さらに研鑛に励む所存で
あります。