1節 分析の手法
1 授業分析の意図
概念変換は私たちの頭の中で起きている出来事で、表面的に捉えることはで きない。授業の前後で生徒の概念がどのように変わったかということは、それ なりに調査することで容易に把握することが可能であるが、授業の中で概念が いつ変換したのかとか、どのように変換したのか、ということを特定すること は困難である。
そこで実験授業、特に班での討論における生徒の発話(プロトコル)を記録 し、その分析を行うことで授業中の生徒の概念変換の過程を明らかにし、 「の りこえの構造」を実際の授業の中に見出すことができないか検討を行った。
2 分析の手順
授業分析(プロトコルの分析)は以下の手順で行った。
録音テープの書き起こし
プロトコルデータは音声データである。したがって、録音されていてもデー タには一覧性がない。書き起こしを行い文字情報とすることで圧縮した形でデ ータを通覧することができるのである。また、時間的順序に制約されずに部分 間の比較なども可能となる。生徒の思考過程の流れを追うためにはこの一覧性 は不可欠である。
5章2節3(p63)でも述べたように、実験授業では班での討論を録音して いる。これをすべて音声データに書き起こした。ただし、討論を行っていない 学級は記録を残していないので除外してある。また、第6時の授業は通常の授 業と同一であるのでこれも記録を残していない。
データの精緻化
私たちは通常、言語データに多くのことを付加しながら理解をしている。し たがって、音声データから視覚情報や状況を取り除いた言語データだけではデ ータ処理は不可能である。そこで前の過程で得られた言語データにさまざまな
情報を付け加えていく作業が必要になる。たとえば、「これ」という指示代名 詞のさす指示対象を同定したり、発話と発話の問の行為・状況変化を付加した
りすることがそれらの作業にあたる。
この作業の具体例は表17のとおりである。なお、精緻化にあたっては、デー タ分析がしゃすい形にまとまるように表18のような記述法を用いた。
表17プロトコルデータの精緻化の具体例 書き起こしただけのプロトコルデータ
B 上から来たから磁界が、
A あっ、いいじゃん。
A A
BY
A
YB BA
BA
Bしとるの?
上からだからこっちじゃない?ああ、いいね。
こっちだ。
下から来たとき左回りだよね?
円でいいのかなあ、でも?
吟じやいかん。
円じゃいかんよね?
困じやだめ?
でもいいや。
上から右だったら下から左だよね?
上から右だと、下から、
回りだよね。
完壁じゃん。
精緻化されたプロトニルデータ B1 上から〔電流が〕来たから[磁界]が
[**]しとるの?
A2 あっ、いいじゃん[**]。
A3 〔電流が〕上からだからこっちじゃない?
ああ、いいね。
B4 [**]こっちだ。
A5 下から来たとき〔磁界は〕左回りだよね?
Y6 円でいいのかなあ、でも?
A7 円じゃいかん。
B8 円じゃいかんよね?
Y9 円じゃだめ?
B10 ↓でもいいや。
B11上から右だったら下から左だよね?
A12 上から右だと…下から…
B13 ↓左回りだよね。
A14 ↓完壁
じゃん。
表18発話の記述法の例
連続発話(Aの発話の直後にBの発話が起きている。:↓ で示す。)
A1 昨日、雨がふったね。
B2 ↓ふった、ふった。
同時発話(発話が同時に始まった場合。:両者の先頭に↓をつける)
A1 昨日、雨はふったのかなあ?
B2 ↓ふった、ふった。
C3 ↓知らない。
発話内沈黙(連続した発話だが、しばらく時間の経過がかかる場合。://で示す。)
A4 昨日って、雨ふったかなあ?//ねえ、知ってる?
B5 ふった、ふった。
不明な発言(聞き取りにくい発言。=[]内に発話を入れる。発話そのものが不明の揚合はその 発話を**で示す。)
A6 そう、 [天気]悪かったの。それじゃあ[昨日は**]だったね。
あと、上記以外に( )で状況説明を、 〔 〕で指示代名詞などの補足をおこなった。
D7 (Eに近づいて)ねえ、どの部分が熱いの?
E8 うん、 (試験管をさわりながら)ここ〔試験管の上の部分〕が熱くなってるよ。
一74一
両方のデータを比較してみれば、精緻化されたプロトコルデータの方が発話 の状況が分かりやすくなっているのが理解できるであろう。
原田はこの精緻化の作業について「この過程は、いわば通常の発話理解の過 程を時間的に引き伸ばし、個々の要素を丹念に吟味しながら行う過程鯛」で
あるとしている。この作業を経て発話は少しずつ本来の「意味」に近づき、生 徒の内的な認知過程の理解を深めることができるのである。
この精緻化の作業はすべてのデータに対して行われたのではなく、授業の第 3・4・5時に対して行った。その理由は前の段階の言語データに書き起こす 段階で以下のことが明らかになったからである。
まず、第1時と第2時は導入の課題提示に対する生徒の予想が二者択一的に
というものであった。これに対する生徒の
反応は「ある」「ない」に二分されたが、 図14AとBの空間に違いはあるか その根拠を明確に持って討論に臨んだ生
徒はごくわずかであった。第2時も同様で、
一
「図15で電流を流すと磁針はどうなる『か」という課題に対して、磁針の動きによ
っていくつかの考え方に分かれたものの、図15電流を流すと磁針はどうなるか その理由は「何となくそう思う」というも
のがほとんどで活発な討論は見られなかった。
また第1・2時は、討論そのものに慣れていないことも話し合い活動が低調 であった遠因になっていたようであった。
第7時は第1時から第5時までの授業と流れが少し異なっていた。それは5 章1節「3授業の全体計画」でも述べたように、授業の構成がファラデーの思 考の跡をたどっていることである。それで、導入からファラデーの肖像画や彼 が使用した誘電環の写真を提示したので授業の雰囲気がこれまでと違ったもの になってしまった。
授業では事後にアンケートをとり「これまで持っていた考えが授業でどう変 わったか」ということを聞いているが、他の授業と違って、 「ファラデーのお かげでいつでも電気が使えるようになった。」というように、自分の概念が変 化したことよりも電磁誘導を見出したファラデーの功績を挙げるものが多かっ たことからもこの授業が他の授業と趣を異にしていたと言える。
上記の理由で第1・2・7時は精緻化の作業から除外した。それ以外の第3・
4・5時については実験群、統制群とも精緻化を行った。それを巻末資料10
に掲載した。
分析単位の設定
プロトコル分析では、単一の思考表現ではなく、その思考表現の関係・構造 を分析する。それらの関係・構造を分析単位と呼んでいる(55)。本研究でのデ ータの解析の目的は概念変換の過程において「のりこえの構造」を見出すこと である。そこで「のりこえの構造」をいくつかの段階に分け、それを分析単位
とした。設定した分析単位の詳細については次節で述べる。
分析
設定した分析単位が精緻化された言語データに見出されないか解析を行った。
一76一
2節理科授業にみられる「のりこえ」の構造
1 「のりこえの構造」の段階と分析単位
唐木田はコミットメント、投企、創発、了解という4つのキーワードを使っ て「のりこえの構造」の段階を説明した(56)。それぞれの意味を簡単にまとめ ると次のようになる。
コミットメント…自分自身と外界との両者について、明解で確固とした信念を 確立すること。
投企lprojet)(注1)…現在の状態から出発して未来のある状態をめざす行動の
あり方。
創発(emergence)(注2>…先行予見から予言したり、説明したりすることが不可 能な進化、発展働。
了解…絵画、彫刻、音楽などの文化的産物を心的生活の産物と見て、追体験か らその意味を理解すること。
唐木田がこれらのキーワードを使って「のりこえの構造を」説明した意図は、
「のりこえの構造」を科学の理論の交替を説明する理論にとどゆておくだけで なく、哲学や芸術さらには私たちの行動一般にもこの「のりこえの構造」が適 用されるということを主張したかったからである。言うなれば、 「のりこえの 構造」の一般化である。
本研究ではこの「のりこえの構造」を理科授業という限定された場面に用い るわけであるから唐木田と違って「のりこえの構造」の特殊化を図っているこ とになるわけである。したがって、唐木田の用いたキーワードやその説明を理
(注1)唐木田はこの言葉をフランスの哲学者サルトルの用語から取り入れて使用しているが、元来は ハイデッガーの用語である。(独)e磁wu鵡なお、 projet はフランス語で英語では project になる。
(注2) projet と同様に、唐木田はこの言葉を科学・哲学者であるポラニーの言葉から取り入れたが、
元来は米の遺伝学者モーガンが提唱した概念である。