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第1節 授業モデルの題材
まちを総合的・批判的にとらえた上で,子どもの参画の資質形成を目指したまちづくり
学習とするには,「自地域」,「他地域」,「過去」,「現在」,「未来」のまちづくりを組み込む必要があることを第皿章で明らかにした。そこで,以下のようにまちやまちづくりの現状
を題材として授業モデルで取り上げる。
(1〉 「自地域」としての名古屋1
「自地域」としては名古屋のまちづくりを取り上げ,地方公共団体の政治の働きを理解 できるようにする。
名古屋は地理的に我が国のほぼ中央に位置し,全国的な物流,交流機能が集積する上で 有利な条件を有し,温暖な気候と肥沃で平坦な地形に支えられた住みやすいまちである。
また,人口は約220万人であり,全国でも有数の大都市である。そして,大都市としては 東京,大阪ほど過密でなく,空間的・時間的なゆとりがあるまちであり,他の大都市と比 較してみても生活・産業・文化のバランスがとれたまちということができる。
これまでに,熱田神宮の門前町,織田信長の拠点,尾張徳川氏の名古屋城入城,明治時 代以降の耕地整理・区画整理,戦後の復興土地区画整理事業,1955年以降の組合施行土地 区画整理事業などによってまちづくりが進められてきた。特に,1610年に当時尾張国の中 心地であった清洲のまちを,名古屋城下に移転したことが本格的なまちづくりの始まりで
あった。
まちの特徴としては,生活文化に根をおろした産業技術が明治時代以降に近代産業に転
用され,先端的な産業・技術が集積している点が挙げられる。戦国時代に織田信長,豊臣
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秀吉,徳川家康といった3人の武将を生み出し,この地を支配する武将が巨大な富を所有 したことにより,城下町には多くの人々が集まり,産業が発展する要因となった。そのた め現在でも,中京工業地帯の拠点として製造業が盛んな地である。そして,ものづくりが 産業,文化の基盤となっており,東京,大阪に次ぐ第3の経済圏となっている。
ところが,このようにまちが発展してきたにもかかわらず,これまで名古屋は「特徴の ないまち」,r文化不毛の地」,「大いなる田舎」,「白いまち」などと椰楡されてきた。そこ で現在では,「名古屋新世紀計画2010」として新しいまちづくりを計画し,2005年の愛知 万博開催,中部国際空港開港に合わせて都市基盤を整備し,特色あるまちとして世界にア ピールしようとしている。この計画は,生活・環境・文化・産業のすべてにわたって調和 のとれた「誇りと愛着のもてるまち・名古屋」を目指しているが,この目標を実現するに は市民・企業・行政のパートナーシップが最重要と考えている。
このようなまちづくりの特性はどのまちにも見られることであり,どのまちにおいても まちづくり学習は可能であるということになる。そこで,本研究における授業モデルでは 筆者が勤務し,子どもたちにとって身近な地域である名古屋を「自地域」として取り上げ
る。
(2) r過去」のまちづくり2
もともと名古屋は,目本武尊と草薙の剣とのかかわりがある熱田神宮から歴史上に登場 している。また,戦国時代には名古屋周辺から信長,秀吉,家康など,その時代に活躍し た人物を多く出している。そのため,短期間であるが歴史の中心になったこともあり,そ れに伴ってまちが発展してきた。
名古屋がまちとして本格的に形成し始めるのは,1610年に徳川家康の命を受けた加藤清 正が名古屋城を築城し,そこに尾張徳川氏が城主として入城してからである。それまでこ の地域の中心地は,織田信長が城下町を築いた清洲であった。しかし,家康が大阪城の豊 臣氏を牽制しその動きを封じるため,東西交通の要であったこの地に名古屋城を築城した ことから,城下町ごと引っ越しをさせた(清洲越し)。これに伴って清洲の市民が移り住み,
以来城下町として尾張藩の中心となった。名古屋城の周囲には武家屋敷,幅員三間の道路 で区画された碁盤割の部分に町屋,防衛上の要所には社寺を配置した計画的なまちづくり
が行われた。その後,1889年の市政施行で名古屋市となり,人口も市域も増加・拡大し,大都市とし
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て発展した。しかし,太平洋戦争により当時の市域の約4分の1を焼失した。そのため,
戦後にはいち早く復興都市計画事業に着手し,100m道路の建設,平和公園への墓地移転な どの大事業を行った。この画期的なまちづくりは,当時の名古屋市長佐藤正俊氏の下で,
助役の田淵寿郎氏によってマスタープランが策定されたことによって始まった。
このまちづくりは防災面や未来の自動車社会を見通したものとして賞賛され,その後は 道路や地下街が発達したまちとなった。しかし,その反面,地上に人通りが少なくなった ためにまちに活気がなくなり,「市民が培ってきた長い歴史が圧殺された」,「機能は優れて いるが生活に潤いがないまちとなってしまった」,「画一的で面白みのないまちになった」
と批判されるようになった。
このような江戸時代から戦後にかけて行われた「過去」のまちづくりを組み込むことで,
子どもたちがまちの変遷を理解し,まちを総合的・批判的にとらえることができるように
する。
(3) 「現在」のまちづくり3
戦後のまちづくりによる課題を受けて,市は少しでも地上を歩く人を増やそうと道路事 業を進めた。さらに,1989年には世界デザイン博が開催され,都市整備事業は常にデザイ ンを意識してつくられるようになった。しかし,このまちづくりに対しても,「市民生活と 直結するものとなっていない」とこれまでと同様の批判を受けた。
そこで,1991年に市はまちづくりのシンクタンク,交流活動拠点,情報発信拠点とし て,名古屋都市センターを設置した。これは,まちづくりの調査・研究,情報収集・提供,
人材育成・交流を目的としている。センター内には,まちづくりライブラリー,まちづく り広場(展示コーナー)等の施設が備えられ,市民に開放している。そして,この都市セ ンターを中心として,市民や企業との協働でまちづくりを目指している。また,このよう な市民参画のまちづくりをサポートするために,まちづくり基金制度が設けられている。
これは市民からの寄付を基金として積み立て(賛助会員制度),その運用益によって,活動
資金の助成や専門家派遣などの技術的な支援を行うものである。このような動きは,これ
までのまちづくりへの批判と同時に,ごみ処分場として計画していた藤前干潟の埋め立て
問題による環境問題への取り組みが大きなきっかけとなっている。それまで他に方法がな
いということで埋め立ての姿勢を堅持してきた市が,環境を守ろうという市民の声に押さ
れ,代替地が決まらないまま計画断念を公表した。その後,市民によるごみ減量の取り組
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みが進み,減量が実現した。このことにより,市は単独でのまちづくりの限界を認識し,
市民参画をうながそうとするようになった。
都市センターを中心として進められた市民参画のまちづくりとしては,築地地区の事例 が挙げられる。築地地区は,市南部にある名古屋港の一番奥にあたる地区である。その歴 史は1907年に名古屋港の開港に伴って埋め立てられたことに始まった。しかし,1950年 代以降,船舶の大型化,港湾機能の拡大に伴い,旧来の港湾施設では対応できなくなり,
港湾機能の沖合展開が進められ,港湾機能の低下,商業・業務機能の停滞,人口の流出が 顕著となった。このような中で,1960年代以降,市民に親しまれる港づくりが課題として 取り上げられ,緑園や水族館などの施設が建設された。
このような都市計画によるまちづくりが進む中,市民参画によるまちづくり活動として,
1986年築地ポートタウン21まちづくりの会が発足した。その中で福祉・景観を中心とし た専門委員会として夢塾21が発足し,この会と都市センター,民問のまちづくり研究所で あるスペーシアが連携してワークショップを開催し,公園や防潮壁の整備などのまちづく
りを進めている。
このような市民参画が見られるようになってきた「現在」のまちづくりの現状を組み込 むことで,子どもたちがまちに存在する課題に気付き,まちを総合的・批判的にとらえる
ことができるようにする。
(4) 「他地域』における先進的なまちづくり4
他地域における先進的なまちづくりの成功例として,滋賀県長浜市を取り上げる。
長浜は戦国時代に豊臣秀吉が長浜城主となり,小谷城下などの商人を集めて,楽市をっ くったことが基礎となっている。その後も,商業都市として発展してきた。ところが戦後 になると徐々に衰退し,中心市街地の活性化が叫ばれるようになった。そこで市は,1981 年に市民の寄付による長浜城の復元,1982年に博物館都市構想の実施による国友鉄砲の里 資料館の開設など,歴史的な建造物を生かしたまちづくりを進めた。さらに,1988年のふ るさとづくり特別対策事業による北国街道整備事業を進め,街道沿いの道路補修や町家の
保存を行った。このような都市計画によるまちづくりが進む中,1900年に建てられた旧第百三十銀行長 浜支店の取り壊し問題がもち上がった。ところが,この建物は市民から「黒壁」と呼ばれ,
親しまれてきたものであったため,保全を求める声が高まった。市としても保全しようと
ドキュメント内
小学校社会科におけるまちづくり学習の授業設計 : 子どもの参画の資質形成を視点にして
(ページ 110-117)