33 な一要因として重要なものであった69。
2. 抽象表現主義の版画と初期絵画作品 ― 線描表現に注目して
ニューヨーク移転後のアトリエ
17
では、戦前のパリで活動した第一世代のシュルレアリ スト、及び若い世代のシュルレアリスト、そして抽象表現主義の芸術家たちが版画制作を 行った102。かつてパリの工房に出入りしていた作家で再びニューヨークのアトリエ17
を訪 問するものは多く、1941
年にニューヨークに渡ったエルンストは、1940
年代にはそれほど 多くの版画を制作しなかったものの、1947
年にアトリエ17
を訪れた際にドライポイントの《危険な関係》(図
2-14
)などを手がけた。1937
年に絵画制作を始めたマッタは、初期には 版画制作にさほど積極的ではなかったが、ニューヨーク滞在中にアトリエ17
の所属したニ ュー・スクールに因んで《ザ・ニュー・スクール》と題したドライポイントの版画11
点(図2-15
)を制作している。当時マッタは、オンスロウ=フォードと共にオートマティスムによる新しいシュルレアリスム絵画の発展を目指し、アメリカの若い芸術家たち、ポロック、
バジオテス、ジェローム・カムロウスキらにオートマティスムの理論と技法を教え、彼ら と一種のグループを形成しようとしていた103。そのため、これらのアメリカ人画家たちと その周辺の作家たちが如何にオートマティスムを受容したかを検討する上で、マッタの存 在は無視できない。アメリカ人画家の中で
40
年代初めから半ばにかけてアトリエ17
に参 加し、版画を制作したと伝えられるのは、ポロックとバジオテスの他に、マザウェル、ア ドルフ・ゴットリーブ、マーク・ロスコらである104。以下ではこれらアメリカ人作家たち による版画制作について見ていきたい。2-1. ジャクソン・ポロックのアトリエ 17 での版画制作
1930
年代末までにポロックはヘイターの作品を知っており、二人の共通の友人であるジョン・グラハムを通じてヘイターのことを聞き及んでいた。そして
1940
年代初めにマッタ やオンスロウ=フォードらと交流する中でポロックは、彼らとオートマティスムの実験を 試みていた。1943
年にアトリエ17
で制作していた知人に紹介されたことから、ポロックは102
ヘイターの友人には、同じくイギリス人であるオンスロウ=フォード(Gordon Onslow Ford)や抽象表 現主義のイサム・ノグチ(Isamu Noguchi)、マーク・ロスコ(Mark Rothko)らがいた。ヘイター.デジレ
「S.W.ヘイター在りし日の随想」『特別展 二十世紀美術展開の源流にいた伝説的名匠 S・W・ヘイタ ーの版画芸術 螺旋階段:ギャルリー宮脇PR誌75号』ギャルリー宮脇、2007年10月、2頁。
103
ピーター・ブサ(Perter Busa)はマザウェル、バジオテス、ポロック、カムロウスキらと1942年に出会 い、彼らがマッタのアトリエに集まったことを回想している。Sidney Simon, “Concerning the Beginnings of The New York School: 1939-1943, An Interview with Perter Busa and Matta, Conducted by Sidney Simon in New York in December 1966,” Art International 11, no. 6 (Summer 1967): 18. この3人は、すでに1940年頃、シュル レアリスムに関心を持ち、「優美な死体」やコラージュを試みており、1940-41年に共同で制作した油彩画 にはオートマティスム風の線描が見て取れる。この関心の方向性が一致したことから、彼らはマッタと共 にオートマティスムを用いた絵画の実験的制作を行った。1941年冬、オンスロウ=フォードはニュー・ス クールで美術のレクチャーを開催し、そこでマッタらのシュルレアリストと共にヘイターにも言及してお り、このレクチャーには多くのアメリカの若手芸術家が参加したとされている。ソーウィンはヘイターの アトリエ17に続いて、このレクチャーをニュー・スクールの下で催された二つ目の重要なイベントとして 言及している。Sawin, Surrealism in Exile, 155-159.
104 Ibid. 154.
47
翌年から同アトリエで版画制作を始め、
1944
年秋から1945
年春にかけてドライポイントと エングレーヴィングによる11
点の凹版画を制作した105。1940
年代前半からポロックは筆の 動きを主要な絵画要素とした油彩画を描いており、この動作を重視する制作手法にはマッ ソンによるオートマティック・ドローイングを始めとする作品との類似が明らかである。アトリエ
17
でマッソンとポロックが制作した版画作品の関連については先行研究で度々指 摘されている106。両者の類似に関して、バーニス・ローズは、ヘイターがオートマティッ クな技法を用いた作品の例として、マッソンによる版画《誘拐》(図2-16
)をポロックに見 せたと仮定しており、ムーザーやソーウィンもこの類似を認めている107。中心に具象的な モチーフを配置する初期のオートマティック・ドローイングとは異なり、《誘拐》では画面 全体を縦横無尽に曲線が走る中に、所々細かな線の集合が綿のような影を形作っている。1945
年にポロックが制作したドライポイントの作品《無題》(図2-17
)を見ると、《誘拐》程に大胆な勢いのある線を用いてはないものの、画面全体が肥痩のある様々なタッチの線 で覆われ、細かい線の重なるグレーの部分が点在している点に、マッソンの作品との類似 が見られる108。所々に具象物を抽象化したように見える形体が描かれる。アトリエ
17
での 版画にはより具象的な作品も多く含まれている。《無題》(図
2-18
)を見ると、画面左端に人物が立ち、その顔には十字の矢印は入ってい る。左下方にはフォーク、そしてアルファベットの文字列、そして古代美術における馬の 表象を連想させる線描画が描かれている。ほかにも具象的な形態を暗示する要素がちりば められており、具象と抽象の中間段階を示しているが、その中でも人物の足下に涙を流す 目のモチーフがあることに注目したい。ポロックは作品の中に目のモチーフを描くことが あり、同様にアトリエ17
で制作された版画の一つ《無題》(図2-19
)では、画面右上に肉105 Moser, op. cit., p. 6. また、1941年の展覧会評において、ポロックの油絵がヘイターの作品と類似して
いると言及されたことを切っ掛けとして、ポロックがヘイターに近づいたと指摘されている。Francis Valentine O’Connor, Jackson Pollock (New York: Museum of Modern Art, 1967), 27. 及び、藤枝晃雄『ジャクソ ン・ポロック』東信堂、2007年、46頁。ポロックがアトリエ17に関心をもった理由について、ヘイター とポロックがどちらも線を重視したこと、そして1944年にニューヨーク近代美術館で開催されたアトリエ 17の展覧会を見たポロックが抽象的な手法で制作するシュルレアリストに共感を覚えた可能性が指摘され ている。Lous Fichner-Rathus, “Pollok at Atelier 17,” The Print Collector’s Newsletter 13, no. 5 (November - December 1982): 162.
44年から45年にかけて制作された版画は失われ、一部の試し刷りのみが残されていたが、ポロックの 死後、原版が発見され、1967年にMoMAの学芸員であるウィリアム・S・リバーマンによる監督の下で 復刻された。ポロックによるこれらの版画については、以下の文献を参照のこと。B. H. Friedman, Jackson Pollock: Energy Made Visible (New York: McGraw-Hill, 1972), 73; Francis Valentine O'Connor, Jackson Pollock: A Catalogue Raisonné of Paintings, Drawings, and Other Works, vol. 4 (New Haven: Yale University Press, 1978), 142-152.
106 藤枝、前掲書、91-94頁
107 Bernice Rose, Jackson Pollock: Drawing into Painting (New York: Museum of Modern Art, 1980), 18; Moser,
“Impact of Stanley William Hayter,” 6-9; Sawin, Surrealism in Exile, 369-371.
108
マッソンは、1941年夏にニューヨークに渡り、1945年までの間にアトリエ17で18点のエッチングを 制作した。この期間に制作された版の内、パリに持ち帰った後に印刷されたものも多い。マッソンの版画 作品のカタログでは《誘拐》は1946年頃に制作されたとされている。Saphire, André Masson, L'œure Gravé, Volume I, 140-141, 180-181, 340. またマッソンはオートマティスムを応用し、1926年から27年にかけて一連 の砂絵を制作した。床に置いたカンヴァスに上から砂と膠着剤をかけることで制作された砂絵は、素描以 上に作者の意図によるコントロールが不可能であり、ポロックのポーリングの先駆としても重要である。
48
感的な瞼をもつ一つの目が動物の頭部のような形体に付けられており、ギリシア神話に現 れる一つ目の怪物を連想させる。先に言及したマッソンの版画においても暴力的な目の損 傷のイメージが用いられているように、目のモチーフはシュルレアリスム絵画においても、
そして後で論じるように、抽象表現主義においても重要であった。ポロックはゴットリー ブのようにオイディプス神話という主題に没頭することはなかったものの、その物語の象 徴する視覚という問題には気がついていたはずである。
このような目のモチーフを探究する先行例として、エルンストの存在は重要である。彼 はオイディプス神話をしばしば取り上げており、オイディプスと鳥というモチーフを結び つける作品が複数見られ、コラージュ小説『百頭女』には鳥の頭部をもつ男が登場し、ま た《オイディプス王》(
1922
)(図2-20
)においても鳥の頭部が描かれる。他の主題におい ても彼は頻繁に鳥を描き、とりわけ彼の自己表象であるロプロプは姿を変えながら、多く の作品に登場する。ポロックの《鳥》(1941
)(図2-21
)は、赤い一つ目の鳥、そしてその 足下にやはり一つ目の頭部2
つを描いており、彼がエルンストの一連の作品を学んでいた ことが推定される。シュルレアリスムの画家の中でも知られたエルンストがアメリカ人作家たちにとって重 要な存在だったことは明らかだが、ポロックのポード・ペインティングの影響源としても、
エルンストによる試みは重要である。エルンストは底に穴を開けた缶を糸で吊し、床に置 いたカンバスの上で揺らす手法によって予期しえない線の効果を《非ユークリッド幾何学 的ハエの飛翔に興味をそそられた青年》(
1942-47
)(図2-22
)のような作品に用いており、これは自由連想を取り入れた一種のシュルレアリスムの遊技と考えることが出来るだろう
109
。自分がこの手法を考案したというエルンストの主張に対しては、研究者の間でも懐疑 的な意見が散見される110。ピーリー・ハラスはヘイター自身がこの手法を考案し、エルン ストとポロックに勧めたと述べたと伝えており、ハラスが論じるように、科学的な知識を もっていたヘイターがこの複合振り子による断続的な周期的運動を絵画に応用する手法を 考案したと考えることは自然だと思われる111。同所では、ポロックが測量の仕事を経験し、
数学的な背景知識をもっていたため、科学的素養のあるヘイターが幾分無口なポロックと 容易に交流することができたとも指摘されている。ポロックは
15
歳の時に兄とグランド・キャニオンの測量団に加わった経験をもつが、専門的な知識をもって同職に従事したとは 考えにくい。しかし、アトリエ
17
を訪れる以前からポード・ペインティングに通じる手法 を用い、線による表現の可能性に強い関心を抱いていたポロックにとって、エルンストや マッソンら主要なシュルレアリストたちの制作に顕著な無意識と非合理性への傾倒とは異 なる観点から線の表現を開拓するヘイターの試みを知ったことは、シュルレアリスムの影 響を離れて自身の作風を確立する重要なきっかけであった112。109 Sawin, Surralism in Exile, 207.
110 Ibid.
111 Piri Halasz, “Stanley William Hayter: Pollock’s Other Master,” Arts Magazine 59, no. 3 (November 1984): 74.
112 1940年代初めにポロックが交流をもった若手シュルレアリストのマッタやオンスロウ=フォードはア