第 3 章 予言者としての芸術家
1. 抽象表現主義の初期作品におけるギリシア神話
抽象表現主義を代表する画家であるマーク・ロスコは
1947
年頃に複数の矩形を上下に配 置するフォーマットによる絵画の様式を確立し、その独特の抽象画によって1950
年代には 国際的な名声を得た。しかし1940
年代前半、彼はギリシア神話や聖書を主題とする具象的 な作品をシュルレアリスムの絵画を思わせる作風を用いて数多く制作した。他の抽象表現 主義の芸術家たちと同様に、ロスコも神話的主題の導入や心理学への関心という点でシュ ルレアリスムから影響を受けたことはしばしば指摘されてきた。しかし具体的にロスコが 何をシュルレアリスムから学んだのかについて、十分な研究が行われてきたとは言えない。そこで本章では、彼の作品の中からオイディプスを含むギリシア神話の物語に登場する盲 目の予言者を描いた作品《テイレシアス》(
1944
)(図3-1
)に注目し、この作品で黒い隻眼 によって表される「盲目性」と「予言」という主題について、シュルレアリスムの影響と いう観点から分析を行う。見るという行為は芸術家が精神的な直観を得ることを示唆する ことから、シュルレアリスムにおいてはとりわけ目というモチーフと視覚という観念には 重要性が置かれており、複数の作家たちが盲目や視覚の喪失を主題とする造形作品を制作 している中、ロスコがシュルレアリスムから目と視覚に関する思想を学んだ結果が、顕著 な形で《テイレシアス》に現れている。《テイレシアス》以前の作品にも予言や予兆に関連 のある神話の物語や登場人物を描いたものがあり、これらの作品と共にロスコによる声明 を分析することで、彼が《テイレシアス》に体現される盲目と予言の能力を芸術家の特性 と考えていたこと、そしてこの特性がロスコが理想とする芸術家のあるべき姿を示唆して いることを明らかにする。以下では、まずロスコによる神話主題画の展開とその中での《テ54
イレシアス》の位置づけを確認した上で、《テイレシアス》に表された盲目性に言及する先 行研究を挙げる。そしてシュルレアリスムにおける盲目性と視覚の喪失という主題につい て分析し、シュルレアリスムの絵画作品、特にジョルジョ・デ・キリコとマックス・エル ンストによる作品と《テイレシアス》との比較を行う。更にロスコが芸術についての彼自 身の思想を綴った文章を取り上げ、そこに記された彼が理想とする芸術家像を分析し、視 覚と予言に対する解釈が如何に関わっているかを検討する。盲目性と予言はロスコの考え る芸術家像に密接に関連し、彼の作品にも反映される観念であるため、これを考察するこ とによって、
1940
年代前半の初期作品だけではなく、1940
年代末以降の一連の抽象絵画の 制作についても一層の理解を導くことを目的とする。1-1. 1940 年代前半の抽象表現主義作家による神話主題画と「目」のモチーフ
1940
年代後半に独自の画風を確立することになる抽象表現主義の芸術家たちの多くは、それ以前の
1940
年代前半から半ばにかけて、シュルレアリスムからの影響を示す作品を制 作した。後に見るように、ロスコは集中的にシュルレアリスム絵画に特徴的なギリシア神 話という主題を採用し、ミロやエルンストを思わせる簡潔な有機的形体や人物像を描いた。ロスコがこのような作品を制作するようになったのは、友人のアドルフ・ゴットリーブと 共に新しい絵画を探究する試みについて話し合ったことに端を発する。
1930
年代、ロスコ とゴットリーブは年長の画家ミルトン・エイヴリーの家へ通い、素描会や読書会に参加し て親しく交流していた121。ゴットリーブは1941
年に写実主義を排除し、神話から主題を得 ることをロスコと話し合ったと回想しており、彼によると、ロスコはアイスキュロスの演 劇から主題を選び、ゴットリーブはオイディプス神話を扱うことを決めたという122。この 頃、ゴットリーブは画面を格子状に分割し、それぞれの区画に目や手、顔などのモチーフ を配置する作品群であるピクトグラフを制作するようになり、《オイディプス》(1941
)(図1-5
)など最初期のピクトグラフではオイディプス神話を主題とし、特に目のモチーフを多 用した。ピクトグラフは身体の一部を画面の各所に配置し、水平・垂直に画面を区分する121 1930年代にエイヴリーを中心として集まった画家仲間の中には、バーネット・ニューマンやジョン・
グラハムといった作家たちも含まれていた。James E. B. Breslin, Mark Rothko: A Biography (Chicago: The
University of Chicago Press, 1993), 92-93.ロスコ、ゴットリーブ、エイヴリーの交流は断続的ではあったもの
の1960年代まで続いた。後年の彼らの関わりについては次の文献を参照。Philip Cavanaugh and Sean Avery Cavanaugh, Coming to Light: Avery, Gottlieb, Rothko-Provincetown Summers, 1957-1961, ed. E. A. Carmean (New York: Knoedler & Co., 2003).
122
次章にて再び触れるが、ゴットリーブは次のように回想している。「マークはアイスキュロスの演劇か らいくつかのテーマを選び、私はオイディプス神話について思いを巡らせたが、これは古典的テーマであ ると同時にフロイト的テーマでもあった。」Alloway Lawrence and MacNaughton Mary Davis, Adolph Gottlieb:
A Retrospective (New York: The Arts Publisher, Inc., 1981), 35.
ロスコが神話主題画を制作する最初期にソフォクレスが戯曲化したオイディプス神話に関わる作品を描い ていることに疑問が残るが、アイスキュロスにもラプダコス三部作と呼ばれるオイディプス一族を扱った 作品があったことがメディチ家旧蔵の写本に記録されている。サテュロス劇『スフィンクス』を伴うラプ ダコス三部作は紀元前467年に上演され、このサテュロス劇及び三部作中の『ライオス 』『オイディプス』
は失われ、最終章である『テーバイ攻めの七将』のみ現存する。高津春繁『ギリシア悲劇I アイスキュ ロス』筑摩書房、1989年、464-483頁。
55
点で、同時期のロスコの作品と共通した特徴を有している。ゴットリーブのピクトグラフ については次章でより詳しく述べることとする。
1940
年代初め、ニューヨークの画家たちの中でも特にシュルレアリスムのオートマティスムに関心を持ち、シュルレアリストであるロベルト・マッタと共に実験的制作を試みた 作家の中に、ウィリアム・バジオテスがいる。バジオテスは心理的オートマティスムに強 い関心を寄せたが、彼の作風が大きく変わる
1947
年に制作された複数の作品に隻眼のモチ ーフを描いている。《サイクロプス》(1947
)(図3-2
)では楕円形の頭部に青い隻眼をもつ モチーフが中央に置かれ、その右上には尖った歯が描かれており、《ドワーフ》(1947
)(図3-3
)では頭部に隻眼と歯が一体となり、視覚の凶暴さを暗示する。この形体の源泉について、第一次世界大戦の際に切断された兵士の写真を見たことがきっかけとなっているとバ ジオテスは語っており、また歯や目などの部分はワニやトカゲの姿から喚起されたと述べ ている123。バジオテスは動物や自然を主題とすることが多いが、ギリシア系アメリカ人で あり、マッタやオンスロウ=フォードら亡命シュルレアリストたちと交流のあったバジオ テスはギリシア神話中のサイクロプスの物語と、後で論じるように、シュルレアリスムで 重視された内的視覚という観念を認識していたことは明らかである。
バジオテスらと共にシュルレアリスムの技法の実験を行ったポロックは、
1940
年前後に ユング派の精神分析を受けていた。治療の際に持参したスケッチ(図3-4
)の中には目に釘 が刺さる描写が含まれており、ここには無意識に関する心理学理論に関心を寄せたことが 反映されている124。またアトリエ17
で制作した版画作品に顕著なように、1940
年代半ばに はオートマティック・ドローイングを連想させる線の交差の中に具象的なモチーフを織り 込む表現を試みており、1946
年の《熱の中の目》(図3-5
)では網目のように密集する筆触 の中に目のモチーフを散在させ、一見抽象的なうねるような動きを示す筆触に覆われた画 面に目の視線という異なる動きを加えている。彼らの他に、
1940
年代前半以前の作品を残していないバーネット・ニューマンも、聖書 や宇宙と共にギリシア神話を後期の抽象画の主題として題名に付しているように、抽象表 現主義の画家たちの多くはシュルレアリスムからオートマティスムと神話主題を学び、そ れらの探究は明らかな形ではないにせよ、彼らの後期作品にも受け継がれている。1-2. ロスコによる神話主題画の展開と《テイレシアス》の位置づけ
1930
年代、ロスコは《地下鉄》(図3-6
)のように人物や建築を単純化した形体として捉え、都市で生きる人々の孤独を表す表現主義的な作風の具象画を制作していた。そのよう な具象的な作風からシュルレアリスムを連想させる作風への突然の変化が生じたのは、お よそ
1
年間絵画制作を中断した直後の1940
年前後だと考えられる。この制作を休止した時 期に、ロスコはシュルレアリスム運動の発生に大きな影響を与えたフロイトによる『夢判123 Michael Preble, William Baziotes: Paintings and Drawings, 1934-1962 (Milano: Skira, 2004), 19.
124
ポロックと精神分析に関しては、マイケル・レージャが詳しく論じている。Michael Leja, “Jackson Pollock and the Unconscious,” Reframing Abstract Expressionism, 121-202.