第 5 章 マーク・トビーによる東洋美術とシュルレアリスムの受容
1. トビーの経歴と作品 ― 抽象表現主義の中心的作家との相違に注目して
1-1. トビーの活動と作品の展開
マーク・トビーは
1930
年代末から1950
年代をシアトルで活動し、太平洋北西派と呼ば れる芸術家たちの間で主導的存在として賞賛された225。それ以前の経歴を概観すると、1890
年にウィスコンシン州に生まれ、シカゴ・アート・インスティチュートで学んだ後、1910
年代はニューヨークとシカゴに交互に居住し、イラストレーターやデザイナーなどの商業 美術に関わる職に携わった226。1922
年にはシアトルへ移住して大学で構図法と書道を学ん だ後、学校で講師を勤めた。1931
年から1938
年の期間に英国に滞在し、1934
年から翌年 にかけて東アジアを旅し、この頃に書道からの影響を顕著に示す作品を制作し始め、これ らの作品は「ホワイト・ライティング」と呼ばれ、高い評価を得た。1940
年代半ばからニ ューヨークでも作品の展示して認知度を高めた。抽象表現主義の作家たちが彼の活動を知 る機会は多く、1944
年3
月、ニューヨークの67
画廊で「40
人のアメリカ現役作家」展に ポロック、ロスコ、バジオテス、マザウェル、ゴットリーブ、ホフマンと共に参加し、同 年11
月にほぼ同じメンバーと「アメリカにおける抽象とシュルレアリスム美術」展に参加 した。1946
年にはニューヨーク近代美術館で開催された「14
人のアメリカ人」展に出品し、1948
年のヴェネツィア・ビエンナーレで同館の担当したアメリカ館での展示には79
名の出225地理的に東洋の文化が移入され、アジア系作家たちも多い北西派の芸術家たちの間では東洋思想・美術 への関心が高かった。中でも年長のトビーを中心にモリス・グレイヴス、ケネス・キャラハン、ガイ・ア ンダーソンは神秘主義の4人と呼ばれ、注目を集めた。国立国際美術館編『アメリカ北西派の美術』7-9頁。
226
トビーの経歴、先行研究については主に以下の文献を参照。William Chapin. Seitz ed., Mark Tobey (New York: Museum of Modern Art, 1962); Betty Bowen, introd., Tobey’s 80: A Retrospective (Seattle Art Museum, 1970);
The National Collection of Fine Arts ed., Tribute to Mark Tobey (Washington: The Smithsonian Institution Press,
1974); 国立国際美術館編『アメリカ北西派の美術:その心に生きる東洋との出会い』国立国際美術館、1982
年、84頁; Eliza E. Rathbone ed., Mark Tobey: City Paintings (Washington: National Gallery of Art, 1984); Gottfried Boehm ed., Mark Tobey: A Centennial Exhibition (Basel: Galerie Beyeler, 1990); Betsy G. Fryberger ed., Mark Tobey: Works on Paper from Northern California and Seattle Collections, Celebrating the Centenary of the Artist's Birth (Stanford, CA: Stanford University Museum of Art, 1990).
99
品作家の中にバジオテス、ロスコ、テオドロス・スタモスらの抽象表現主義画家と共にト ビーも含まれていた。
1950
年代には国際美術展へ出品することで国外でも評価を高め、数 多くの受賞歴をもった。特に1958
年には、シーモア・リプトン、デイヴィッド・スミス、ロスコと共にアメリカ代表となった第
29
回ヴェネツィア・ビエンナーレで、トビーはアメ リカ人としてホイッスラー以来の初めてとなる一等の受賞という快挙を達成した。1960
年 にスイスのバーゼルに移住し、その後1976
年に逝去するまで同地で活動を続けた。このようにトビーはニューヨークでの活動歴があり、抽象表現主義の画家たちと同時期 に抽象画を描いたが、彼らとは大きく異なる経験をしている。まず
1920
年代の大半、そし て1938
年から1950
年代までの時期にトビーが活動の拠点としたシアトルには、歴史的に アジアからの移民が多く居住し、アジア人芸術家たちの活動も盛んであり、このようなア ジア文化の根付く地域で活動したことはトビーが東洋への関心を高める大きな要因となっ た227。トビーは若い時期から直接的な文化的接触を求めて東アジアなど様々な国を旅し、その経験を人々の集まる光景を描く作品に反映させている。抽象表現主義の画家たちは古 代文明や原始美術に関心をもつ一方で、同時代の文化的な発展を示す他地域への関心を示 さなかった。彼らが西洋の伝統を受け継ぐ自分たちを中心とした世界観をもっていたのと は異なり、同時代の非西洋文化へ強い関心を示したトビーはより広い視野をもっていたと も考えられる。
抽象表現主義の作家たちはその出自や宗教との関係などの個人的な経験、そして作品の 様式の点でも様々に異なっているが、その多くの作家に当てはまる共通点として挙げられ るのが、
1930
年代のニューヨークにおける連邦美術計画への参加、商業芸術分野との関係 の希薄さであるが、トビーはこの2
点についても彼らとは大きく異なっていた。トビーは1910
年代から20
年代にイラストレーターとして生計を立てており、その仕事を肯定的に受入亭いであった228。積極的にニューヨークの画家たちを評価したグリーンバーグは、初期 の論考「アヴァンギャルドとキッチュ」で応用芸術、商業芸術に対する純粋芸術の優越を 強く主張し、芸術家たちの中でも商業芸術を蔑視する傾向が強かった。グリーンバーグが 純粋芸術の創造者としてニューヨークの芸術家を擁護し、評価する際に、彼らが商業芸術 から距離を置いていたことは重要であった229。
1930
年代の恐慌下、ニューヨークの画家たちは労働雇用促進局の進める連邦美術計画に参加することで、絵画教師などの仕事と平行して絵画制作によって収入を得ることが出来、
また、これを機に芸術家同士の交流が盛んとなり、後に抽象表現主義を形成する芸術家集
227 シアトルにおけるアジア系芸術家たちの活動については次の文献に詳しい。Kazuko Nakane, “Facing the Pacific: Asian American Artists in Seattle, 1900-1970,” in Asian American Art: A History, 1850-1970, ed., Gordon H.
Chang, Mark Dean Johnson, Paul J. Karlstrom, and Sharon Spain (Stanford, CA: Stanford University Press, 2008),
55-81.この論考では1940年代後半以降に抽象表現主義を思わせる作風の抽象絵画を制作したシアトルの日
系人芸術家たちへのトビーの影響の大きさが指摘されている。Ibid, 69-72.
228
トビーは二人の挿絵画家の存在が自分にとって重要だったと書き残している。Mark Tobey, “Reminiscence and Reverie,” Magazine of Art 44, no. 6 (1951): 228-232.
229 Clement Greenberg, “Avant-Guard and Kitsch,” in Art and Culture: Critical Essays (Boston: Beacon Press, 1961), 3-21.
100
団の萌芽が生まれる230。一方のトビーは
1930
年代の大半の時期を英国デボン州のダーティ ントン・ホールの居住画家として、絵画の制作と指導を行っていた。1938
年末にシアトル に戻ってから約半年だけ現地の連邦美術計画に参加したが、他のアメリカ人作家のような 経済的困難には直面せずにこの時期を送ったと言える。このような経験はトビーの絵画に どのように反映されているのかを、彼の作品の展開から検討していく。トビーの作品の中で
1920
年代に制作されたものはほとんど現存しないが、1930
年代の初 期作品を見ると、後のトビー作品を特徴づける作風の萌芽が現れている。《冬のサーカス》(
1933
)(図5-1
)では無数の線描が画面を覆い、その中に人物や明かりの灯ったポール、テントなどを思わせるモチーフが織り込まれている。ここではパステルによる青や茶の淡 い色彩が緩やかなグラデーションを見せながら背景と中心的光景の区別を示す。青と白の 円によって点々と明かりが示され、黒い線描と共に画面にリズム感を与えている。トビー は常に複数の作風を同時並行して用いているが、この線描を画面全体に用いる作風を元と して、抽象的な様式が展開していく。また、《
3
羽の鳥》(1934
)(図5-2
)のように、1930
年代前半のいくつかの作品では、輪郭線を用いずに強い色彩を特徴とする表現主義的な作 風で鳥や魚など自然の事物を簡潔に描いている。細い線によって高度に抽象化した光景を表すというそれまでの試みを展開させる形で、
1935
年頃に暗い色の背景に白い線で具象物や風景、そして抽象的パターンを表す作品が制作され始め、これらはホワイト・ライティングと呼ばれるようになる231。最初期のホワイ ト・ライティングとされる《ブロードウェイ》(
1935-36
)(図5-3
)を見ると、赤茶色の下地 に、白を中心とする線描でビル群、ネオン、道を覆う車や人々が画面を埋め尽くすように 描かれる。一点消失の遠近法でブロードウェイとそれを両側から囲む建造物を捉えること で生まれた幾何学的構成には、三次元的空間と平面性を同時に成り立たせる試みが反映さ れている。一方で、公共事業促進局の活動の一環として制作された《科学》(1939
)(図5-4
) は、矩形に分割された背景がキュビスムの空間構成への関心を反映する一方で、裸体人物 像や右上に描かれた手と尖塔には量感を強調するように深い陰がつけられ、表現主義や デ・キリコの作品を連想させる232。掌には十字と星の印が描かれ、画面左下には男女を示 す記号が並んでおり、この作品にはモダン・アートの様々な様式を取り入れられているこ とが分かる233。230
連邦美術計画の詳細とアメリカの芸術家に対する影響については次の文献を参照。McKinzie, The New Deal for Artists.
231
「ホワイト・ライティング」という用語がどの時点で最初に用いられたのかは不明だが、フレッド・ホ フマンは1944年にグリーンバーグによる「ネイション」誌上の批評が初めて全米規模の出版物にこの用語 が載った例だと指摘している。Fred Hoffman, “Mark Tobey’s Paintings of New York,” Artforum 17, no. 8 (April 1979): 29 (n. 6).
232
この作品は公共事業促進局のために制作されたにも関わらず、公開されることはなく、トビー自身は紛 失したと考えていた。しかし、その3年後に2つに分割された同作品を所有する人物からトビーへ売却の 申し出があり、以降トビーの所有するところとなった。Wulf Herzogenrath and Andreas Kreul ed., Sounds of the Inner Eye: John Cage, Mark Tobey, Morris Graves (Tacoma, WA: Museum of Glass: International Center for Contemporary Art; Seattle: University of Washington Press, 2002), 62.
233 以下ではトビーへのキュビスムの影響が論じられている。Hoffman, “Mark Tobey’s Paintings,” 25-26.ここ