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年をふりかえる

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2016年7月21日(木)午後7時~

国立病院機構 小倉医療センター 地域医療研修センター 鴎ホールで

NPO法人 老いを支える北九州家族の会 理事長 高田 芳信

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●平成元年(1989)年正月に雲仙へ旅行。大浴場でいつも時間をかけてお湯にはいる妻が 先に上がって、浴場の前で私を待っていた。

●担任の先生より1月4日、①痴呆症であること ②進行を緩慢にすることはできる。③奥 さんはご主人といる時に心が軽くなるようだ。これからは常時一緒に生活していくように考 えてほしい。④あとレントゲン検査が残っている。⑤環境が変われば例えば他の入院患者の 部屋に行くと混乱するようだ。

●レントゲン検査はラジオアイソトープを造影剤にしての検査でおよそ2時間かかり、スト レッチャーに載せられて出てきた妻は私の顔をみて安心したのか涙を浮かべていた。

●担当の先生から脳シンチ血流検査、CT検査、その他の検査もすべて一致して前頭葉の萎 縮を認め、痴呆症の診断の正しさを証明していること。しかし、萎縮に比例してぼけが進行 するということではなく、安定した精神状態であれば20年でも生きることができるし、ゆ るやかな進行ですすむことは可能と話された。

退院後

●退院して通院、九大へ 病院へ行くというと落ち着きがなくなる。JRの駅で待っている がすぐ、出口へ行こうとする。電車に乗って座らせたら、おしっこに立とうとする。病院に 着いても、すぐ外に出ようとする。パンも弁当も食べようとしない。行方不明などあり。

平成2年~平成3年

●道を歩いていて妻が「あれは栄子じゃない?」と自分の妹の名を言う。全然似ていないの ですが、また、別人を見て言う。

●スーパーで全然知らない人に声をかけ、「あなたは野田さんではないですか」と聞き、相 手より変な顔をされた。

●京都にいる姉(二女)が妻の状況を私に電話で聞いてきた時に妻と電話を替わった。中間市 の姉(長女)のところに京都の姉(二女)がきている、すぐ行こうと言い出した。

●中間の姉から親戚の葬儀が明日ある、妻に一緒に行こうと電話がはいると、すぐ行かない と、電車に乗り遅れる、自分が取り残されるとの不安からいらいらしだす。電話の内容を正 確に理解できない。誤解する。でも、この段階では挨拶などはできる、それなりの受け答え もする。

●見当識も混乱、電車に乗ってもすぐ次の駅の名前がわからず、ここはどこと聞いた。筑豊 線にある駅の名を鹿児島本線にあると思ったりする。上り、くだりの区別がつかず、ホーム に電車が着くとそれに乗ろうとし、乗らないといらいらする。

●道路を歩いて信号が赤信号、青信号区別なく歩こうとする。

危ないと手をひっぱるともう一つの手で頭をたたかれた。

●夜一人でトイレに立つのが怖いと言い出し、ついていかなければならなくなった。

●朝起きて服を着るのがうまくできなくなった。病院の検査で数字の3桁を逆から言うのが できなくなった。今どこと戦争をしているのかの質問にイラクと答えた。5品目並べて、そ れを隠し、いくつ覚えているかのテストでは2品目。

●京都の姉が中間にいる、みんな寄ることになっていると言いだす。私が否定すると、一人

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で家を出て行こうとしたり、クスリを飲んでいないので、飲まそうとすると、飲んだといい はって、それを否定すると、家を出ていこうとする。それで、中間の姉に電話し、京都から 誰も来てないよと妻に直接言ってもらったが、それでも行くといい、争いになったことも。

●私が買い物に行く前に、郵便局に寄っていくことを妻に言っていた。私が忘れて買い物の コースに行こうとしたら妻から郵便局に行くのではなかったかと指摘されたことがある。

●まだ、この頃は二、三日前に病院行きのことを言っておくと、当日は覚えていた。

●妻は大体ご飯をよく食べ、おかずはあまり食べないたちですが、この頃はおかずを食べて ご飯を食べなくなりました。

●風呂からあがる時、妻がどうしたらいいのだろうとパンツを私に見せるので、見ると大便 が付いていました。これが失禁のはしりでした。

●服は点検せんとよく間違え、スカートの前後、靴下は片方だけ履いていたり、時には両方 履いていない時もある。

●家の近くのパーマに連れていっても、おうむけにすると腰が痛いといって、洗髪ができな かった。(務め先でのなじみのパーマ屋に連れて行くと安心して洗髪できた)

●平成3年(1991年)の10月に検査で住所と名前を書くように言われ、名前 は書けたが、住所はと聞かれ、北九州市と書き、区は勤めていた区を書いた。

12+5= と言われるとソロバンがないとできないと答えた。先生は記憶力が相当減退して いますねと言われた。

●自分の家いいながら今から家に帰るという。平成4年(1992年)の状態

●クスリを本人に渡して、目を離すとポケットにしまいこんでしまう。一つひとつ確認する ことが必要になった。

●病院での脳波検査ではゆるい波が出ており、3年前の検査では正常であったから機能の低 下は明らか。

●別の日に、CT検査を受けようとしますが、横になろうとせず、先生までお呼びして検査 を受けるようすすめてもらいましたが、あくまで拒否するので、先生も無理しないがいいで しょうと検査をやめた。

●風呂に入っても髪を洗わず、洗わせず、悩みでした。不潔になって、ふけが出だし、薬局 でカロヤンを買い、ふりかけり、摺り込んだりした。パーマ屋に行こうとせず、帽子を被せ て外出した。

●耳が遠くなったのか、そばを通る人が話しているのを聞いて、私が話しているように思い 違いをよくするようになった。

●病院で長谷川式のアメリカ版の検査を受けた。30点中6点だった。先生は重度の障害、

少しずつ進行しており、介護が大変ですねと言われた。

●この頃の悩みは第一に失便です。おしっこはもらさないのですが、大便をもらします。便 所に一人で入った時、後の処置がわからず、下着を汚してしまいます。朝食前後によく失敗 します。朝食に席につかず、私の髪がばらばらだとか、文句じみたことを言う時は、サイン のようです。

●第2は夜がおしっこと大便が気になるのか、早い時は3時半、遅くても4時半頃より起き

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て、何回も何回も便所に行き付いていかねばならないので疲れた。

●第3は妻と買い物に朝1回、昼から1回の2回行きます。散歩するにしても、買い物のコ ースから外れると不安がるからです。買い物から帰ると、妻の好きなあんぱんを与え、落ち 着かせます。暫くはゆっくりして、間がもてるのですが、やがて、新聞を読んでいる私に新 聞を指さして、「どうするの」と何回も聞き、相手してもらうよう督促します。相手をしな い時は部屋をうろつきながら、私のところに来て、次はどうするのかと聞きます。

●第4は食事ですが、朝が落ち着かず、一口、二口食べては、立って洗面する鏡の下のタオ ルをちょっと触ったりして、また、椅子に座って食べるというように時間がかかります。夜 は落ち着き、歌を歌ったり、しゃべったりご機嫌がよいようです。

●第 5 は買い物をゆっくりさせてくれないことです。店に着くなり、もう帰ろうと言い出 し、自分が先に立って店内を歩きます。会計で支払いをしているのに、自分だけさっさっと 歩いていこうとします。ときどき他人の後を付いていったりしています。

●第6はどの病院に行ってもですが、落ち着かず、院内や庭を歩きまわってい

ます。病院に限らず、外出した時、トイレに行きたくなっても、女便所では一人でできず、

男便所に私がついてさせますが人がいるとしません。

●第7は家での掃除の時は黙ってみていて、庭での草とりなどすれば、「明日すればと」や めさせようとする。

●九大附属病院で妻が行方不明にその後、院内で発見されたが、この時の家族の不安、心配 を経験した。

ディサービスに通う

九大に5年程通院して、先生の紹介で家の近くのディサービスに通う。家では食事介助をし ていたが、通所するようになって、人が自分で食べているのを見て、自分で食べ始めた。デ ィケアも利用した。

家族同士の交流が介護の励ましに

下関、火の山公園での交流は感動的だった。お互いが励まし合うために会報の発行、199 3年(平成5 年)、「ディサービス家族の会が1994年(平成6年)にその後、1996(平 成8年)に「老いを支える北九州家族の会」に発展した。現在、認知症コールセンター、さ さえあい相談会、認知症家族交流会・若年性認知症家交流会など市の委託事業を実施してい る。

肺炎で入院

病院で治療の結果、肺炎はよくなったが、おむつをつけたまま寝かされ、このままでは在宅 での生活ができなくなると、婦長さんに相談し、ベッドから降り歩かせリハビリをした。

おしっこが出なくなった

泌尿器科へ入院する。どう尿の患者は受け入れできない施設認知症は隠すのでなく、知って もらうことで支援が受けられる。