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大橋元社長に聞く「労働組合」 「人事」 「労務対策」事情の変遷

ドキュメント内 タイの自動車ディーラーの総合的研究 (ページ 118-123)

第3章 タイ日野自動車販売の歴史(後編)

4. 大橋元社長に聞く「労働組合」 「人事」 「労務対策」事情の変遷

ここでは、『30周年史』『50周年史』には書かれていない、「労働組合」「人事」「労務対策」

などの事情を、大橋元社長や、元駐在員からのヒヤリングでまとめた。日本の社史でも、デリケ ートな問題を含むので、大争議でもあればともかく、経営者側によって編集される所謂「社史」

では、余り語られることの少ない分野である。

(1)タイ日野自動車販売と労働組合 大橋氏は以下のように語っていた。

「メーカーと違って、生産現場がなく、労使関係も良かったので、あまり組合問題を意識して 取り組む必要はなかったと思う。単独労組で、過去ストライキも無く、前に述べた通り、私の社 長時代労働局から優良企業として表彰を受けた位である。金融危機の時も労使懇談会で、経営の 実情は正確に伝えてあるので、組合は協力的であった。普段各種の会社行事にも積極的に参加を 要請している。」

(2)タイ人の経営幹部(取締役)の登用について 大橋氏は以下のように語っていた。

「私は経営のトップになって、創業以来頑張ってくれたタイ人スタッフに報いるためタイ人と して初めての取締役として、Mana(Mana Pangsarat)氏とChairoj(Chairoj Russmeesukhnon)

氏を取締役に推薦した。初めて取締役に登用されたMana氏は、この後常務取締役まで昇進して 引退している。もう1名の Chairoj 氏は取締役で退任して後に、直営ディーラーの社長をしてい る。その他現在まで、タイ人の取締役は、副社長まで進まれた Sakda 氏や取締役で退職された Sivo氏などいて、1名は必ず社長に次ぐ高いポストまで昇進している。今もそのようである。」

創業30周年を祝った1992年当時の常勤の取締役は9名で、その内2名はタイ人で、この 両名は1989年にタイ人として初めて取締役に昇格している。以来20年余り、取締役の数は、

常勤9名、内2名タイ人体制を踏襲している。

現在も、タイ人2名の取締役のうち、1名は営業担当の副社長で、残り 1 名は経理担当の女性 取締役である。日本人の7名の取締役の内訳は、社長、副社長、営業担当2名、経理・財務担当 1名、サービス・技術担当2名の合計7名である。

現在日本人は、この取締役7名に、技術職が1~2名いる程度で、総計8~9 名体制である。

1992年当時、取締役7名に、技術職が3~4名いて、10人内外の体制であった。メーカー 部門であるタイ日野工業やタイトヨタと大きく違うところである。

― Mana氏の祝辞

ところで、タイ人として初めて取締役に抜擢されたMana氏は、実は1962年ビクトリー社 として当社が創業した際に、2番目に雇用されたタイ人staffで、生え抜きの最古参従業員として

タイ人staffの中で尊敬を集めている人物である。現在74歳であるので、当社入社は23歳の時

である。取締役になったのは50歳であるので、日本人の感覚からすれば結構早い時期に昇進し ている。Mana氏は、『30周年史』と『50周年史』の2号に亘って写真付の祝辞が掲載された 唯一のタイ人staffである。『50周年史』に於ける彼の祝辞が仲々面白いので紹介しておく。

「私は、1962年5月20日に、会社がまだRattanayonchai Co., Ltd(ビクトリー社のタイ 名)時代に、2番目の従業員として会社に入った。当時当社は乗用車(sedan)を売っていて、

1964年に6輪のトラックを輸入し、その後ピックアップ車、トレーラー、バスを売った。そ して当社は、1973年にタイで初めて「cab over」タイプのトラックを開発したメーカーとな った。

日野で車輌を売ることは、自分の娘を嫁に出すようなもので、したがって、娘の嫁入り後も面 倒を見るのは当然のことである。日野が車輌の提供も、その後のサービスもお客様には家族のよ うに接すると指導しているのはそういう意味で当り前のことである。

私の日野で働いた印象はといえば、当社とお客様とで『日野ファミリー』を当社のどの部門で も作り上げようとするその『一体感』の力強さであったといえる。日野に関係する人は『家族』

だと思っている。そして私達は、兄弟のように話し、助け合い、慈しみ合った。このことは、末 永く守って欲しいものである。

私の日野勤務が最も誇りとするところは、タイ人として最初にの取締役となったことである。

日野の50周年はその意味で大変嬉しいし、100周年も見たいものである。」

彼の祝辞の中にも、タイ日野自販の創業当時の歴史が垣間見ることが出来て面白い。また「日 野ファミリー」を強調していることである。タイ語で「コーロップクルアヒノ」を何度か使って いる。後段の第7章の最後に、ディーラー経営者達の50周年に寄せた祝辞を掲載したが、その 中で「日野ファミリー」が大変多く使われている。この点は詳しく書いておいたが、従業員から も同様であることを指摘しておく。

彼の20年前の『30周年史』の祝辞もほぼ同様の内容であるので省略するが、冒頭から、3 0年のタイ日野自販勤務から得た印象として「タイ日野ファミリー」経営について言及し、「お客 様に家族だと思って接することの大切さ」を繰り返し述べていることを付け加えておきたい。

― Chairoj氏の祝辞

最後に、タイ日野自販で同時期に取締役に昇進したもう一人staffであるChairoj氏の祝辞を紹 介する。彼は、1968年に入社している。1968年という年を振り返ってみる。

1962年にビクトリー社として、タイ日野自販が創業し、1964年に、アユタヤ銀行と経 営権を巡ぐるトラブルが発生した。その後始末のために、1965年に日本の日野自動車が、当 社を日本の直営とするため、日本人経営staffを送り込み、その後ようやく経営が安定し、その結 果1967年に社名を今日のタイ日野自販に変更した、その翌年である。したがって彼の短いそ の祝辞の中に、彼の経歴と共に、当時の経営状況が微妙に反映している。そしてMana氏同様に

「タイ日野ファミリー」についても当然言及されている。そして筆者がわざわざ彼の祝辞を紹介 したもう一点のポイントは、彼の挨拶の中に、タイ人の労働価値観として、大変重要である「楽 しく働く」タイ語で「サヌック」即ち「楽しい」という言葉が使われているところである。筆者 もタイで勤務した経験を持つが、タイの人にとっては「楽しく働く」ことが大切なポイントで、

日本人的な勤勉感とも欧米人の「labor」という語感ともやや違うものを感じたことがしばしばあ ったからである。タイの人は職場に対し、物の面と同時に、心の面の豊かさも要求しているので ある。この言葉が彼の祝辞に中で効いている。

「私は、日野で二回働いた。一回目は、1968年に入社して2000年に引退する迄である。

その後一年家にいたが、二回目はその翌年、Thai Hino(Nakorn Sawan)Co., Ltdに社長として 招かれ、2001年~2005年まで働いた。したがって通算36年勤務した。

私がタイ日野自販に入社した当時は、色々トラブルが多い時期だった。日本側が経営権を持ち、

100%の株主になると勤務環境は改善された。タイ人staffが重要な仕事をまかされ、日本人経 営層は、積極的で、且つ、タイ人staffに敬意を以って接してくれた。勤務中はボスであるが、時 間後は友人であった。この点が今でも印象に残っている。

日本的な顧客指向の経営は、あらゆるお客様の要望を解決し、「3S政策」は成功の鍵となった。

販売後のサービスが重要で日野はディーラーもお客様も家族の如く接してきた。この「日野ファ ミリー」の言葉の下で経営層も、従業員も、ディーラーも、お客様も、お互いに助け合って誰も 置き去りにしてこなかった。

この50周年の記念すべき時に、日野の全従業員が一層結束してさらなる繁栄に向うことを祈 っている。3S政策が成功の鍵であることを忘れないで欲しい。そして「楽しく働こう」。日野の 事業がタイの地で末永く続くことを心から祈っている。」

(3)タイ人経営幹部(部長級)の登用について

部長級のポストのタイ人化については、日本人駐在員の削減に平行して既に80年代に入って 出来る所から実地することで進められてきた。前節で述べた通り、日本人取締役は、社長、副社 長、営業(2名)、財務の事務系5名に、部品・サービスを加えて7人体制が展望されていたので、

現在ではポスト数から勘案部長レベルで配置する余裕がなくなった、というのが本音である。

同業のタイトヨタでは1987年に人事制度を刷新し、日本人コーディネーター制度を導入し、

日本人は全員マネージャーから退いて、コーディネーターになり、部課長は100%タイ人にな る体制に切り替えした。この変更は当時業界内でも評判になった。当社の場合は、タイトヨタに 比べやや小体でしかも販社で職制も単純であったので、同時期に実質的にはほぼそうした仕組み になりつつあった。

しかし、『30周年史』(1992年)に示された、会社の組織図は以下の通りで、この当時部 長(Executive Manager 及び Manager)職の日本人はまだ4人いた。多少日本人枠の余裕もあ り、タイ人取締役との組み合せの関係で、配置されていたという事情もある。しかし、今日そう した余裕はなくなり、部長職の100%現地化はこの後急速に進んだ。

タイトヨタでのタイ人取締役の登用は1992年であり、この組織図の当時には既にタイ人取 締役が生まれていた訳で、そうした点を勘案すれば6~7年遅れで歩んできたことも評価出来る。

(図2)1992年当時の組織図

取締役会

管理本部 営業本部 サービス・部品本部 公共運輸本部

総務部 経理部 財務部 営業部 (1,2,3)

管 理 部 企画部 サービス部 部品部 管 理 部

業 務 部

(出所)『30周年史』

原典は英語表示、日本語は筆者訳

は日本人部長、 はタイ人部長(業務も含む)、 は(co‐coordinator)調整役

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取締役 取締役

取締役 取締役 取締役 取締役

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