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大橋元社長から聞く「80年代の不況」と「金融危機」におけるタイ日野自動車販売

ドキュメント内 タイの自動車ディーラーの総合的研究 (ページ 113-118)

第3章 タイ日野自動車販売の歴史(後編)

3. 大橋元社長から聞く「80年代の不況」と「金融危機」におけるタイ日野自動車販売

(1)80年代の不況時とタイ日野自動車販売

次に『30周年史』『50周年史』における社史の空白を埋めるため、当時の経営状況を経営ト ップであった大橋元社長よりインタビューした。

― 80年代前半の不況時とマーケットの概況

まず、ヒヤリングの前提として、各種文献から当時のタイマーケット状況を以下の通りまとめ た。こうした状況をベースに、タイ日野自販での状況を補足してもらった。

1981年7月、長年1ドル=20バーツであった為替レートが約10%切り下げられ、各種 経済環境が悪化し、自動車を始め、耐久消費財の売れ行きが対前年比20~30%落ち込んだ。

1981年10月頃には、三菱、日産、マツダも含め、各社操短を余儀なくされる状況になった。

こうして、1981年後半には、70年代後半の好調から、一転して販売不振に陥ったため、

1981年秋には、各社は大量の在庫の消化のため、販売競争は熾烈を極めた。販売店はもっぱ らインセンティブをあてにして、卸し価格と同額、場合によってはそれを割ってまでも車を売る ようになった。その結果、タイ日野自販でも売り上げは伸びたが、大幅な赤字決算を余儀なくさ れた。またディーラー業績も悪化し、割当地域の侵害や販売店同士の値引き合戦などのトラブル が続出し、販売店対策が各社の腕のみせどころとなった。

こうした大不況の現実とは別に、80年代の前半には、タイの自動車産業は、モータリゼーシ ョンの到来を予想し期待する声が高かった。

1980年代初め、タイの自動車普及台数は二輪車を除いて約90万台であった。人口比で見 ると50人に1台の割合で、日本の3.5人に1台と比較するとまだまだ未開拓の有望な市場で あった。

しかしながら、バンコク首都圏ではすでに自動車の普及台数は45万台を超え、10人に1台 と国全体の経済力を考えると、やや過密気味になっていた。加えて、バンコクの交通混雑が深刻 化していて、首都圏での伸びはあまり期待できず、80年代は、小型トラックを中心に地方市場 への進出が勝負になると考えられた。したがって、タイ農村部の経済開発の進展と地方での購買 力の向上に注目されていた。

こうした状況のなかで、タイ政府は自動車部品の国産化比率を50%まで引き上げる政策を発 表した。自動車関係者は誰もタイ国内での部品の生産体制や品質、性能などの現状からみて、国 産化率の大幅引き上げは、製造コストの上昇を始め、多くのリスクが伴い、困難な状況となるこ とを予想した。

筆者が駐在生活をした70年代後半から80年初頭当時のタイの自動車市場は、きわめて特殊

な状況であった。カローラ250万円、コロナ300万円で、税金の関係で乗用車の価格が非常 に高く、価格の半分は税金であった。これらの自動車の価格は、タイの大卒初任給の4~5年間 分に相当するほど高価であった。しかし、不思議なことに、バンコクの金持ち、商売人、経営層、

夫婦共稼ぎの中流以上の家庭、官庁公用車などに確実に売れていた。また、車検が緩いため、中 古車の減価率は低く、市内には中古車があふれていた。

商用車は、1トン・ボンネットトラックが価格も手ごろで貨客兼用の足として、またソイバス と呼ばれ短距離の営業路線用として使用されていた。そのため、市場に占める小型トラックの比 率はきわめて高く、大型・中型トラックは主として都市間の貨物輸送に使われていた。

タクシーのほとんどは、昔から輸入車であるコロナや日産のブルーバードなど20年前の車が 多く、また、日本製の中古のLPGタンク車も走っている状況で、およそ、新車など走っていなか った。また、サムロといわれる3輪車やソイバスと大型バスが大衆の足となっていた。これらの 車輌がバンコクでは幹線道路にあふれ返っていたのである。そのような状況なので、経済開発の 進展と国民所得の向上が農村部に波及すれば、近々必ずモータリゼーションの到来に結びつくと 誰しも考えたのである。

― 大橋元社長とのインタビュー

Q1.まず、1980年代前半の不況時の対応を教えて下さい。

A.80~87年頃までは、繊維・家電・自動車といった主要産業はどれも全体に不況が続いてい た。タイ日野自販はこの時期は、丁度本社での割賦取り組みから、自社割賦への移行時期に当 っていて、それが不況期に逢着して、難しい問題が多数起きていた。各ディーラーが自社割賦 を開始したが、回収が遅れていて、対タイ日野自販に対する期限経過が86年には、50%も 超える事態となり、モラトリアムを行い、ディーラーの金繰りを支援した。

実際に、G・モーター社が倒産した。85年から訴訟となったが回収手続きを間違えたため、

5千万バーツもの実損を余儀なくされた。余談となるが、この会社の経営者は後に、タイの著 名な政治家の側近となり、現在M社のディーラーとなり、隆盛を誇っている。タイでのビジネ スの一つケースとして、知っていて欲しい。タイ日野自販が実損を出したのは、長い歴史の中 で実はこのケースだけである。コーラートのCディーラーは契約の解除に際して、当社は債権 5千万バーツのリスケを行ったが、5年間できっちり返済した。タイの企業は案外に律気であ る。80年代の不況期での最大の思い出である。

一方この時期は、バンコク及び周辺部は、ディーラーの整理・統合が始っており、Newman(1 978年創業)、Mitsui Bussan Automotive(T).(1981年)、Thai Hino (Nakonsawan)

(1981年)などが、バンコク及び周辺部でこれまでのタイ日野自販による直営を肩代るよ うな積極的セールスを展開して頑張り始め、今日の地盤を築づく時期にも当っている。なお、

Mitsui Bussan A.(T)もThai Hino(N)も倒産した、コーラートのディーラーC社を引き継

いだ店舗で、Newmanの創業者も、そこで修行した人物であった。

また、今日、タイ日野自販のトップ2の1社であるChairatchakarn(B)(1987年)が、

バンコクの西部へ進出してきて、今日の大をなすことになるのは、丁度80年代の不況の終 わり頃であった。不況期ではあったが、割賦の仕組みや、ディーラーが再編される時期でも

あったので、そうした移行期の僅かなチャンスを活かしたのである。

Q2.80年初のマーケット状況に関する補足意見はありますか

A.タイ日野自販が始めた、割賦販売の本社直営からディーラー割賦への移行の仕組みを極く簡 単に説明する。60~70年代では、タイ日野自販で、ユーザーに、36ヶ月(3年)~48 ヶ月(4年)で販売していた。しかしタイ日野自販での資金負担の増加と、タイの金融環境も 整い、70年代後半にFCが急成長するなど、資金の出し手も充実してきたこともあり、また、

ディーラー自体に金融収支に意欲を持つようになり、70年代の後半から、ディーラー割賦に 移行を開始した。

もともとディーラーは、手に入れた中古車を修理して販売するに当たり、自分の懐で割賦を 行ない、収益源としていた。この世界には、タイ日野自販でも関知しないようにしていた。し たがって資金力さえつけば、自然発生的に自社での割賦に移行して行ったと考えてよい。

70年後半から、希望するディーラーには、2年の分割で、金利は市中プライム+2~3%

で販売した。当時の金利にすると18%位だったと思う。これをディーラーは4年のアドオン 方式615%で販売した。実効金利は30%くらいになったと思う。こうして、生まれた実効金 利差約10%がディーラーの金融収益として、ディーラーに落ちるようになった。

80年代の後半では、さらに進んで、資金力のあるディーラーは、タイ日野自販から2~3 ヶ月の売掛期間で現金購入し、これをアドオン3~4年で販売していたので、この金融収益は さらに拡大していた。なお、タイ日野自販とディーラーとの販売条件については、この後種々 バリエーションが生まれている。

なお、ディーラーが割賦販売を行なうに当っての最大のポイントは、当然ながら「リスク」

の計り方にある。この点についても各ディーラーが夫々ノウハウを持っていて、彼らなりの細 かい計算があるようである。

こうして70年代の後半から80年代前半の10年間は、確かに不況の時期であったが、デ ィーラー経営では大きな変化の時代であった。

Q3, プラザ合意後の日系企業の進出と90年代の長期に亘るブーム時のタイ日野自販における対 応について

A.バンコク周辺では、日系進出企業の工場建設ブームと、道路建設ブーム、それにgolf場の建 設など大型土木に、スワナプーム空港の埋め立て工事も始まるなど、大中型トラックへの大型 需要が発生した。90年代の高度成長期は、今でも、語り草になるほどすさまじいものがあり、

振り返ってみると、バンコク周辺の工業化地域と、地方との格差を生み出す時期でもあり、デ ィーラーの消長に大きくあらわれているようである。前にも述べた80年代初頭からの Newman 、Mitsui Bussan Automotive(T)、Thai Hino(N)に加えて、Chairatchakarn(B)

がこの地区の市場に参入して、タイ日野自販の営業部直営だった市場で、圧倒的に業績を伸ば すことになった。資金調達がスムーズだったことも大きなプラス要因であったと思う。

しかし、私(大橋元社長)は車輌売り上げの大手集中や寡占化は充分認識していたが、設立

6 アドオン方式。元本と元本の割賦期間を通した金利(元本×金利×期間)の総額を合算してこれを割賦期間で割 って、均等に返済する。実質金利はほぼ倍増するが、計算が簡単なため、広く普及しており、タイでは今日でも この方式が主流である。

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