第2章 社会参加とアンラーニングのサイクルによる社会科授業の開発
第4節 国家社会共同体への参加としての社会科授業の開発
1 複数の状況を想定して意思決定する必要性
本節の目的は、国家社会共同体への参加としての社会科授業の開発を行うことである。科学的な知 識の習得にとどまらず、社会的な論争問題の解決を目指していくことにより、市民的資質まで育成し ようとする立場が意思決定主義の社会科授業である1)。意思決定を原理として様々な社会科授業が開 発され、実践されてきた。そのことを通して、従来の知識偏重とされる社会科授業の改善に大きく貢 献してきた。
意思決定主義の社会科授業は合理的な意思決定という名のもとに、より確かでより正確な意思決定 することを求めてきた。すなわち、合理的な意思決定は他の状況においても有用であると考えられて きたのである。本研究において問題としたいのは、合理的な意思決定は他の状況においても状況横断 的に有用であるかという点である。合理的な意思決定は状況横断的に有用であると自明視され、それ に対する批判はなされていない。よって、科学主義に則った合理的な意思決定を批判し、状況に対応 した意思決定を可能にしていく社会科授業を提案していきたい。
そこで状況論2)に依拠し、新たな社会科授業の提案を行うこととしたい3)。状況論では、知識や行 為は状況に応じて、その度に相互構成されていくものと考える。したがって、異なる状況においては、
既有の知識や行為の意味や価値は失われる。一方で、新たな知識や行為が新たな状況を構成する。す なわち、状況と知識や行為は相互構成されていくのである。よって、どのような状況においても正当 化できる合理的な意思決定はあり得ないと考えざるを得ない。合理的な意思決定とは、普遍的ではな く、特定の状況において正当性を維持できるのである。このような状況論の立場からすれば、社会科 授業で行われる意思決定も状況が異なる度に、程度の差はあるものの異なるはずである。
このように、状況論の立場から意思決定主義の社会科授業について考察がなされていない。したがっ て、特定の状況における特定の意思決定は、その状況の外部については意味や価値を失う可能性があ ることを強く自覚すべきなのである。このように、特定の意思決定は特定の状況において有用であり、
異なる状況におけるその意思決定については懐疑的にならざるを得ないことを状況的懐疑主義4)と呼 び、分析の枠組みとしたい。本研究では、状況的懐疑主義の立場を採用し、新たな社会科授業の開発 を行う。それは、複数の状況を想定してその状況に対応した意思決定をすることを学習目標とした社 会科授業である。
そこで、以下では次のように論じていきたい。第1に、状況的懐疑主義の指導原理について明らか にしたい。その指導原理とは意思決定を正当化できる状況を特定する指導、さらには異なる状況にお いては異なる意思決定を行うことで複数の状況を想定させていく指導のことである。第2に、合理的 意思決定を原理とする社会科授業を取り上げ、批判的に検討する。具体的には、小単元「原発政策」
を取り上げ、状況論的に検討する。そうすることによって、特定の意思決定に終始するという合理的 意思決定主義による社会科授業の限界を明らかとしたい。第3に、状況的懐疑主義に基づいた社会科 授業である小学校第6学年単元「脱原子力発電をめぐる議論」の開発を行い、具体的に事例を示して
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いく。第4に、実践後の考察を行い、その有効性や意義について確認したい。
2 状況的懐疑主義の指導原理
(1)状況的懐疑主義の原理
状況論からすれば、知識や行為は状況に応じて構成されると考える。一方で、知識や行為が状況を 構成する。それらは相互構成的な関係である。そのため、特定の状況においては、どのような知識や 行為が形成できるのか、あるいは形成できないのかを明確にしていくことが重要となっていく。する と、状況が異なるたびに異なった知識や行為が形成されることを自覚できるであろう。このように脱 状況的、状況横断的な行為があるのではなく、状況にこそ対応したそれらがあると考えるべきであろ う。すなわち、異なる状況におけるその意思決定については懐疑的にならざるを得ないことが状況的 懐疑主義である。
では、状況に応じて意思決定するとは、どのようなことであろうか。状況論からすれば、特定の状 況においての意思決定は、その状況の外部において意味や価値を有するものであるか、あるいは意味 や価値を失うかについて検討しなければならない。場や時間を越えてあらゆる状況において、意思決 定を正当化していくことはできないことを明らかとするのである。したがって、状況にこそ対応した 意思決定を行うようになるのである。もちろん、状況が異なれば、他の意思決定の可能性もあり得る ことについても十分に自覚しなければならないのである。むしろそうすることが「合理的」な意思決 定ではなかろうか。
このように、状況の外部においては異なる意思決定が可能であると認識できれば、特定の状況にお ける意思決定は暫定的なものとなることを自覚できるであろう。すると、複数の状況を想定して意思 決定を重ねていく重要性を認識していくことができるであろう。もちろん、特定の状況における意思 決定が全く意味や価値を失うものではない。それは脱状況的、状況横断的に正当化できることについ て懐疑的になるだけであり、特定の状況における特定の判意思決定としては正当化を図ることになる のである。
以上のような、懐疑的な態度をもつことができれば、異なる状況を想定し、意思決定をいくことと なる。異なる状況においては、当然異なる意思決定を行うこととなる。もちろん、始めに行った意思 決定とは全く異なった決定が加えられることもあろう。しかし、それは二律背反的であるようであっ ても、解決不可能であると捉えてはならない。なぜなら、社会的な論争の解決は、絶対的に正しい答 えはないからである。そのため、複数の状況を想定し、それぞれに応じて愚直に意思決定していくこ とが重要となっていくのである。
(2)意思決定の正当性
状況論からすれば、状況ごとに意思決定は行われるべきであり、その状況の外部においては懐疑的 な態度をもつという状況的懐疑主義の立場を選択する。そのことは、特定の状況のみを想定するので はなく、複数の状況を想定することで様々な意思決定の可能性を考察していくことを意味する。した
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がって、状況的懐疑主義に基づいた意思決定が従来のそれとどのように異なるのかについて確認した い。
意思決定主義の社会科授業は、合理的意思決定の原理に基づき開発されてきた。合理的意思決定の 原理とは、「社会的事象や問題に対する科学的な事実認識と反省的に吟味された価値判断に基づいて行 われる実践的判断」5)である。つまり、科学的な事実認識及び反省的に吟味された価値判断の過程を 踏まえることによって、よりよい意思決定ができるということである。そのため、よりよい事実認識 や価値判断が可能となれば、合理的、科学的な意思決定となっていくと考えられている。そのため、
他の状況においても応用可能であると考えられ、脱状況的、状況横断的に正当化が可能であると考え られている。例えば、「集団的自衛権の是非」における意思決定を一般化させて、「原発再稼働の是非」
という他の状況においても応用可能であるかのように考える場合である。
しかし、状況論は次の2つの理由から知識や行為の転移・応用について懐疑的である6)。第1は、
方法は内容に依存するからである。前述の集団的自衛権の是非について意思決定をし、それを一般化 させたとしても新たな状況においては、新たな内容を学ぶことによって意思決定をすると考える。佐 長健司によれば、「日常生活であっても科学研究であっても、それぞれの状況において必要な範囲で知 識や真理を得ることができる。同時に、それぞれの状況の外部では、それらの正当化に対して懐疑的 でなければならない」7)と述べる。すなわち、集団的自衛権における意思決定の方法は、異なる状況 においては意味や価値を失うことを意味するのである。第2は、一般化された意思決定力を想定する ことは、「判断力喪失者(judgmental dope)」8)を育成することになるからである。一般化された意 思決定力は、状況を無視している。すると、状況を無視して一般化された意思決定を行い続けること となる。それは、まるでプログラムされたロボットのように行為し、自らの判断力を失った状態であ ろう。
このような見解に傾聴すると、合理的意思決定主義の社会科授業が主張する転移・応用が可能であ るという意思決定は否定せざるを得ない。すなわち、特定の意思決定は特定の状況においてのみ正当 化できるのである。したがって、その状況の外部においては懐疑的になり、その状況にこそ応じた新 たな意思決定を行うべきなのである。このように、個々の状況にこそ対応し、様々な状況を想定して 行う状況的懐疑主義による意思決定は、合理的意思決定主義の意思決定よりも、よりよい意思決定と 考えられるのではないかとさえ思える。
(3)状況的懐疑主義の社会科授業の指導内容
状況的懐疑主義の社会科授業の指導内容について述べる。第1は、意思決定を正当化できる状況を 特定する指導である。意思決定を正当化できる状況を特定する指導では、意思決定と状況との関係を 認識することが重要である。意思決定と状況は相互構成的だからである。そのため、どのような状況 においてどのような意思決定が正当性を得るのかについて教師と学習者が共同して探ることとなるの である。
意思決定を正当化できる状況の特定する指導は次のようである。ある社会的論争において、その是