第1節 「みえる」「きこえる」
「においがする」など
1)テンスのうえでの特殊姓とアスペクトのうえでの特殊性(準アスペクト)
「みえる」「きこえる」「においがする」などの動詞の非過去形が,話し手の 知覚によってとらえられたものや現象の現在の状態をあらわすことについては,
テンス研究のがわからすでに指摘されている。つぎの例は,鈴木重幸1965から かりたものである。
(125) ほら,トラックがまだみえるよ。(石坂洋次郎「青い山脈」)
これは,完成相の形式をとりながら現在のことをあらわす点において,テン スのうえで特殊なのだが,同時に,完成相の形式をとりながら持続過程のなか にあることをあらわす点において,アスペクトのうえでも特殊である。
(126)七八軒先のスキー製作所からかんなの音がきこえる。(雲国48)
(12?) 「なんだかリンゴのにおいがする。ぼくいまリンゴのことをかんがえ たためだろうか。」カムパネルラがふしぎそうにあたりをみまわしまし た。fほんとうにリンゴのにおいだよ。それから,野いばらのにおいも する。」(銀河287〜288)
(128) あれ,へんなこえがする。(晴計15)
(129) においます。かいでみてごらんなさい。(戒厳10)
(1謝 バイバイして零君,まだみえる。(極私24)
これらの完成桐形式によってあらわされている状態は,発話時よりまえから 存在しており,また,そのあとにも存在しつづける。つまり,発話時という基 準時間が持続過程のなかにある。その点において,これらは,継続相アスペク トと共通である。非過去形によって現在のことをあらわすことができるのは,
そのためである。
けれども,継続相アスペクトは,動詞のあらわす動作過程から一定の局面を とりだして,その局面のなかにあるすがたで動作をさしだすのである。だとす
第3章 状態の持続のなかにあるすがた 61 れば,この「みえる」やrきこえる」のように,動作から局面をぬきだしたの でなく,はじめから状態である持続過程のなかにあるすがたをさしだしている ものは,継続相の基本的なアスペクト的意味とおなじ意味をあらわしていると はいえない。
継続椙のばあい,分割か非分割かで完成相と対立する。それは,その動詞が 動作過程をあらわすという前提のうえになりたつことである。ところがこの「み える」や「きこえる」のばあい,動詞が状態過程をあらわしていて,形式的な 対立をもっていても,アスペクト的な意味のうえでは対立しない。ここにあげ た例は,すべて「みえている」「きこえている」のように継続構形式にかえられ るのだが,そのようにかえてみても,おなじことをあらわしてしまって,内容 としては,アスペクト的な対立をもたないのである。そのことは,実は,これ を継続相形式にかえても,その継続相形式が継続掘の基本的なアスペクト的意 味をもたないこととつながっている。奥田靖雄1977が,このfみえる」と「み
えている」のような形式上の対立を「えせアスペクト」とよんだのは,このこ とを意味している。
この「みえる」や「きこえる」などがアスペクト的に特殊だというのは,完 成梱形式をとりながら継続網のアスペクト的意味をもっているから特殊だとい うのではなくて,アスペクトのうえで完成樒の基本的な意味も継続相の基本的 な意味ももっていないということが特殊なのである。
それでは,動作過程の分割・非分割の対立をもっていないということがアス ペクトからの完全な解放を意味するかというと,それはそうでない。なぜなら,
状態もできごと過程のひとつであって,基準時間がこの過程とかかわっている からである。そのことは,つぎの第4章でのべるアスペクトから解放されたも のとくらべると,あきちかになる。この報皆では,状態持続の過程のなかにあ るすがたをあらわすものを「準アスペクト」として位置づける。
2) モーダルな性格
「みえる」ヂきこえる」などの知覚動詞の非過去形が現在の外界の状態をのべ るとき,それは,現在の話し手の認識をのべるしかたでのべている。このばあ い,現在の認識をのべるということとからんで,のべる形式としての陳述性が まじりこむ。「〜とみえる」のような陳述的形式に発展する可能性は,この段階
62 第II部 完成相のアスペクト
でも,すでにめばえとして存在しているといってよいだろう。
話しの内容としての対象に話しの形式としての陳述性がわりこむと,対象の できごと過程を話しの過程と客観的につきあわせることができなくなって,そ のできごと過程のアスペクト的なすがたをあらわせなくなる。こうして,第4 章でのべるように,「おもう」「かんがえる」などは,アスペクトから解放され
る。
けれども,「みえる」や「きこえる」などは,「おもう」や「かんがえる」な どとちがって,はなしの内容である知覚の対象が外界の現実として答観的に存 在している。このため,「みえる」「きこえる」のばあいは,アスペクトから完 全には解放されないで,状態持続のなかにあることをあらわすのだろう。
おなじ「みえる」「きこえる」であっても,知覚そのものをあらわすばあいに は,アスペクトからの解放の度あいがたかくなるといってよいだろう。つぎの
2例は,電話の会話であって,これにちかいとおもわれる。
(131) こちらはひどいふぶきですよ一一はなしがきこえますか。(伸子93)
(132)一またご病気。いいえ一ええ,きこえます。(真知!69)
第2節 「存在する」「すむ」「つづく」など
存在や持続をあらわす動詞も完成根の形式で持続のなかにあることをあらわ すぼあいがある。
(133> この問題は,依然として残存する。(人格82>
q鋤 (四月×H)ベニの帰らないHがつづく。三三205>
これらは,その単語のあらわす意味が動作でなく,状態であるので,動作過 程の分割・非分割が問題にならず,本来のアスペクト性をもたないのだろう。
これらも,継続掘形式にかえて「残存している」「つづいている」にすることが できるが,その意味はおなじである。この対立もえせアスペクト的な対立であ
る。
実際のはなしや文章のなかでは,完成相形式で準アスペクト的になるものは,
終止形をとることはひじょうにすくない。終止形であっても,ほとんどの例は,
文の終止につかわれていない。
(135) これに反して,枯尾花なるものは実在すると信じられている。
第3章 状態の持続のなかにあるすがた 63 (哲学218)
(1謝 この山にサルがすむといううわさだけはあったが,(高崎32)
第3節
「ある」「いる」について「ある」やヂいる」は存在をあらわす動詞であって,「ある」「あった」,「いる」
fいた」の形で状態持続のなかにあることをあらわし,アスペクト的な意味の 点から,準アスペクトであるということができる。金剛…春彦1955がこれを状 態租にいれたのは,この性質に注冒したからである。
「ある」「いる」は,ゼあっている」「いている」という形式がなく,形式的な 藤でアスペクトの対立をもたない。したがって,この「ある1「いる」を形式的 にも完成相形式であるといえない。ただし,意味的にはアスペクトから完全に は解放されておらず,準アスペクト的な性格をもっているので,ここにとりあ
げた。
64 第H部 完成報のアスペクト