第1節 くりかえしの過程のなかにあるすがた
1>「くりかえしの過程」について
ここで「くりかえしの過程」とよんだのは,非連続にくりかえして成立する 動作を,全体としてひとつの過程ととらえてあらわす,その過程のことである。
(122)彼は漢方医が調合してくれる安緬な煎薬を持薬にしてのんでいた。
σ祭辱勿17〜/8)
(123> 不平で不平でたまらないが,いちいち弁解してもおられんから,私は まことによんどころなく不承不承に小狐家の書生にされてしまって,
そうして月々食料をはらっていた。(平凡72)
(124) こうして打開がもとめられていた1950年ごろ,5メートル望遠鏡に よるあたらしい観測・事実がつぎつぎあらわれていた。(掌憲92)
これらは,ひとつひとつの動作は局面に分解せず,それらをあわせて〈そう いう動作をくりかえすという状態をつづける〉という過程のなかにあることを あらわしている。
この過程を図でしめすと,つぎのようになる。
iのむi iのむi iのむi iのむi iのむi iのむi
〈のむ〉と いう 動作を くりかえし つづける一一一のんでいる
このばあいのアスペクト的な意味は,点線でかこまれたひとつひとつの動作 でなく,実線でかこまれた過程に関して実現している。この全体をあわせた過 程がひとつの大規模な持続的動作に相当し,基準時聞は,この大規模な動作の 持続過程をなす局面にわりこんで,その始発と終了の局面をきりおとして,局 面のなかにあるすがたをあらわしている。その点で,この用法は,継続根の基 本的なアスペクト的意味と共通した局面を実現しているといえよう。
けれども,たくさんの動作をひとつにまとめるとか,また,そのひとつひと
108 剃【1部 継続権のアスペク}
つの動作について,動作動詞か変化動詞かに無関心であるといった点で,この 用法は派生的だといわなければならない。ただし,他の基本的でない用法とく らべてみると,その派生のどあいは,そんなにいちじるしくないといえるであ
ろう。
おなじくりかえしであっても,連続的なくりかえしであるばあいは,たいて いの研究者が,ひとつの動作としてとらえている。
(125)その光のなかで,職人がひとり腹ばいになってカンカンと金づちで たたいている。(冬の173)
(126) 欝あら,いいわね。ヨウ,ヨウ。」そばでみんなが,手をたたいた。
(ない31)
これらの例では,動作の連続をひとつの動作としてとらえ,それを,前者は 分割のすがたで,後者は非分割のすがたでさしだしている。
iたたくiたたくiたたくi一………iたたくiたたくiたたくi た た く
連続と断続の中間のようなものがある。つぎのようなばあい,現実には,バ ッターがかわり,また攻めのとき(先攻なら,オモテ,後攻なら,ウラ)は,
やすんでいるが,それでも,アナウンサーは,その投球を連続にちかいものと して,のべているといえる。
(127) ピッチャー山根,たんたんと投げております。(神広)
このような例をとおして,連続的なくりかえしと断続的なくりかえしは連続 しているのだとかんがえられる。
2)大規模な鋤俘とのあいだ
「愛読する」や「かよう」などは,動作としては,ひっきりなしにつづくわ けではない。けれども,こういう動詞は,そうした非連続のくりかえしをひと まとめにしたものを,ひとつの動作としてあらわすのである。この種の動作は,
第1章第2節2)g)であげたが,大規模な動作といえる。
ところで,心理活動をあらわすつぎのようなものは,どうとらえたらよいだ
第2章 くりかえしの過稚のなかにあるすがた 109 ろうか。
(128>かれは街道すじにおおきな宿屋稼業をいとなんでいる客商亮の彼の 実家より,酒づくりの養家のほうを稼業の格が上のようにかんがえて
いた。(厚:物17)
(129)高下は以前から,三池とお加代の恋仲を知っているだけに,姉らしい 気持で,かるい嫉妬ににた気もちもまじえながら,団賃のうわさにも のぼるほどの,好一対の恋愛の行く末に,なんとなく不安を感じてい た。(ない22)
(1鋤 二三は,高枝を信頼していた。(ない69)
これらの心理活動も四六時ちゅうつづいているわけではない。それに,この 種の動詞は,「愛読する」や「かよう」のように大規模な持続過程をさししめす とはかぎらない。その点で,これは,くりかえしのような感じがする。しかし,
この種の動詞のあらわす状態はつづいているようにもおもえる。このようなも のが存在することは,この爾者がちかい関係にあることをものがたっているの だといえるだろう。
3> くりかえしの過程になって,つけくわえられる意味
動作のくりかえし過程を全体としてひとつの過程としてさしだすとき,その ことによって,あたらしい意味がつけくわえられることがある。
(131)春三の話では,この家の主人は元軍人で,現在は会社につとめるかた わら,にわとりをかって卵をうっている。(本H・93)
(132) その隣は竹林寺で,門の前のむかって右がわでは鉄冷鉱泉を売って おり,左がわ,つまり共岡便所にちかいほうではもちを焼いてうって いた。(夫嬬23>
これらの例のなかにある「うっている」は,〈カネをうけとってモノをわたす〉
というひとつひとつのくうる〉という動作があつまって,〈そのような商売をし ている〉,くそのような店をだしている〉という意味がつけくわえられている。
「…一
の ヨ ロ ロ ロ ロ ロ へ は に サ の に ロ ロ コ ロ ロ ぼ コ ロ ロ の ロ ヒ の リ ギ
iうるi iうるi iうるi iうるi iうるi iうるi 商売を している, 店を だしている一一うっている
110 第III部 継続癬のアスペク1・
「うっている」だけが職業をあらわすわけではない。つぎの例もそうである。
(133>私んとこでは農機具を農村にだしています。(闘4・130)
これは,職業だけのことではない。その全体をひとつにまとめた過程が一一定 の生活を三昧するような例はおおい。
(1謝 大一郎は当年十五才,これは東京の叔母一一伯父の妹だ にたく して某学校に勉強している。鼠戸48)
(135)元軍人のご主人と奥さんは真黒になってはたらくのに,お嬢さん二 人は,にわとりにえさをやる手つだいもしないであそびあるいている。
(本EN 93)
さきに第II部eg 4章第4節3)a>でのべた継続穣と完成相のちがいも,この ことと関係している。
いまうえにあげた諸例は,実際の使壌のなかで臨時的にあたらしい意味がつ けくわえられるばあいであるが,それが,語い的な意味のレベルでの派生にお よんだものもある。「自本国博大辞典」の「ごろごろ」の項には,つぎの記載が あるb
④あちこちに,物が雑然ところがっているさまをあらわす語。……※趣味の遺伝 〈夏蹟漱石〉=「揺鉢の中に聡き廻される里芋の如く紛然雑然とゴmuゴmして居
墾」
⑥比喩的に,仕事をしないで,むだに暮らしているさまをあらわす語。……※虞 美人草く夏跨漱石〉一八「勉強もしない。落第もする。ごろごろして居る」
これを図にすると,つぎのようになるだろう。
iごろごろする④i
…::面諭:トー...,i[:翌⊇:脳④:…]
し蝿
鼈黶D一... .一.一一 一一 l!このようになって,語い的な意味のレベルであたらしい意味ができてくると,
それは,大規模な動作の持続過程をなす局藤のなかにあるすがたをあらわすこ とになって,ふたたび継続稽の基本的なアスペクト的意味にもどるわけである。
つぎの旧例は,そういうものである。
(136> あたしが(中略)はたらいてるあいだに,あんたは,ひと月も,ブラ
第2章 くりかえしの過程のなかにあるすがた IU ブラあそんでたのね。値由22)
(137)又七郎は平生阿部弥一右衛門が一家と心安くして,主人どうしはも とより,妻女までもたがいに往来していた。(阿部61〜62>
(138)うわやくに対し,形容もできないほどペコペコしている。(間革146)
(139)東京の東寄りをながれる水流の爾平浅あたりから上を隅田川といい,
それから下を大川といっている。(河HE 244>
このようにみてくると,葬連続のくりかえし過程のなかにあるすがたは,継 続網の基本的なアスペクト的意味にかなりちかいとおもわれる。
なお,(139)は,さらに発展して,コピュラにちかくなっている。
第2節 すがた的なもののくりかえし
いま第1節で,葬連続のくりかえしをひとつにまとめて継続相であらわすこ とについてのべた。このばあいは,ひとつひとつの動作のすがた的な性格は間 題になっていなかった。けれども,これとはちがって,ひとつひとつの動作に ついて継続相の基本的なアスペクト的意味が実現して,それがくりかえすこと
をあらわすものがある。
(14e) このごろ,私はよく夜の明けかかる時分にHをさます。そんなとき は,私はしばしばそっとおきあがって,病入のねがおをしげしげとみ つめている。(風立137)
つぎの例のほうがはっきりしているだろう。
(141) わたしがのぞいたときは,先生はいつも机のまえにすわっていた。
このことについては,工藤真由美1982がつぎのようにのべている。
次のように一見,反復の呪法とみられるものがある。
劃螂寒行っても爾をかいていた。(その妹)
⑲あの頃のことを思うと,百円ぐらいのお金はしょつちmpう紙入れの中に入って いたんですがねえ。(家)
前者はヂ動きの継続の反復」であり,後者は「変化の結果の継続の反復」であ る。この場合には,シテイルの意味が動き動詞か変化動詞かで対立すると同時に,
スルにおきかえることができない。これも文のアスペクチュアリティとしては反 復であるのに違いないが,「動きの継続」「変化の結果の継続」という基本的意味 がかわらないままに,「イii}時行っても」「しょっちゅう」という反復を示す形式が