第 6 章 ユーラシア草原地帯東部における青銅器文化の形成と展開
第 1 節 前 2 千年紀前半における動態
(1)セイマ・トルビノ青銅器群分布の背景 西漸説の再検討
第
2
章で行った分析を基に、チェルヌィフのセイマ・トルビノ青銅器群西漸説を再検討しよう。本論で分析対象としたのは有銎矛、有銎斧の二つのみで、セイマ・トルビノ青銅器群には他の器 種も存在する(図
2-5)が、器形が簡素もしくは数量が少ないものであり、型式学的検討は困難
であった。さて、セイマ・トルビノ青銅器群の起源地であるが、特にウラル以東に広がりつつ時 期的変化を示す有銎矛A、B、C
類に注目しても、ウラル山脈より東のアルタイを中心にA
類が 多く、西にC
類が多いとはいえない。また、これらの金属成分でも、アルタイ(東方)起源説を 積極的に支持する情報は得られなかった。有銎斧Ⅰ類も分布全域におおよそ等質に広まるもので あり、錫を含むものもアルタイ付近に特に多いと言えない。現状では、有銎矛、斧ともに鍛造品 から鋳造品の幅広い型式(サムシ・キジロボ青銅器群(有銎矛D
類、有銎斧ⅡB類)は除く)が 安定して存在するウラル山脈附近が、その発生地としての可能性を有すると考えられる。このこ図7-1 セイマ・トルビノ青銅器群拡散の状況
図7-2 サムシ・キジロボ青銅器群拡散の状況
とは、成分分析とも矛盾しない。
さらに注目したいのは、有銎矛ではウ ラル山脈附近からオビ川流域(西シベリ ア)附近までが有銎矛 A~C 類という変化 を共有していることである。これは特定 時期における一度きりの集団移動では説 明できず、モノや情報の特定の起源地が 存在したとしても、一定期間、上の領域 でコミュニケーションの更新が可能であ ったことを示している。もちろん、さら に細かい型式やコンテクストの分析で地 域性が析出される可能性は十分に考えら れ、アルタイあるいはウラルでの地域的 な発展を考えることも必要であるが、こ のような領域的関係性がいかにして保 持、再生産されていたかということも今 後の重要な課題といえよう。さらに有銎
矛
HA、HB
類の変化も有銎矛A~C
類のそれに類するもので、ウラル山脈をはさ ん
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で重なりつつも、東西でそのコミュニケーションに大きく域差がみられることが示された(図
7-1)
。 有銎斧Ⅰ類については分布域全体に等質に分布するが、有銎矛C
類との共伴例が知られる有銎斧ⅡA 類はウラル山脈以東にその分布が偏り、有銎矛
A~C
類に見られたコミュニケーションに対 応する可能性がある。セイマ・トルビノ青銅器群とサムシ・キジロボ青銅器群
次に、セイマ・トルビノ青銅器群よりも時期的に後出するとされるサムシ・キジロボ青銅器群 について考えよう。両者の前後関係を層位、一括資料から検証することは現状では困難であるが、
有銎矛の脊の三叉部の形態や有銎斧の偽耳などから考えて、セイマ・トルビノ青銅器群を基にし てサムシ・キジロボ青銅器群が発生したと考えられる。さて、分析で示したように、有銎矛およ び有銎斧ではサムシ・キジロボ青銅器群(有銎矛
D
類、有銎矛Ⅱb類)は、上述のセイマ・トル ビノ青銅器群の諸型式から系譜はたどれるものの、両者は明らかに型式的傾向、分布が異なる。現状ではサムシ・キジロボ青銅器群に関して、ウラル山脈より東の何処に起源するかを決めるこ とは難しいが、セイマ・トルビノ青銅器群とサムシ・キジロボ青銅器群は、その背後にある内容 については異なるものであろう。セイマ・トルビノ青銅器群に見られるコミュニケーションはし ばらく保持されたが、そのままウラル山脈を中心に一定方向へ変化していくのではなく、新たな サムシ・キジロボ青銅器群に示されるように内容や中心が変化したのである(図
7-2)
。この点が 本論文の分析で得られた、チェルヌィフのアルタイの一元拡散モデルとの大きな差である。特定 の内容を持つ青銅器文化圏が長く続かず、内容、中心地を変えていく現象は、第2
節で記すカラ スク期における状況とも共通している。セイマ・トルビノ青銅器群の性格
セイマ・トルビノ有銎矛
A~C
類、HA~HB類の大型化で、銎の部分を中心に細める、或いは 銎の口部を広げることを示唆したが、これらは実用的とは言えず、チェルヌィフの言う戦士集団 とはあまり符合しないように思われる。ただし、写真で見る限り明瞭に研がれたものもあり、実 用性の議論にはさらに詳細な観察が不可欠である1。有銎斧における変化に対する評価は難しいが、総じて装飾が豊かになる傾向であり、機能的な変化ではない。
セイマ・トルビノ青銅器群は詳細な出土状況が不明なものが多い。しかしながら、人骨を全く 伴わず、利器が床や壁に突き刺さって発見される「空墓」が一定程度存在する。チェルヌィフ自 身も言及しているが、当該青銅器群の出土状況は非常に特殊なものである(Chernykh 2008)。ロ ストフカ墓地でも墓本体以外に、墓に伴う埋納も多く存在する。このような状況も有銎矛の大型 化となんらか関係するかもしれない。またサムシ・キジロボ青銅器群に関しても、「祭祀遺跡」で の発見が多いという。このように考えてくると、ユーラシア草原地帯では、実用的な青銅利器(簡 素な刀子など)を主体とする以外に、特殊な青銅器を広範囲で共有しているとことなる。特殊な 青銅器の広範囲での共有という事象も、後述の前
2
千年紀後半におけるモンゴリア青銅器様式の1 仮に、セイマ・トルビノ有銎矛のA~C類が実用品でないとしたら、錫青銅という強靭な合金で最初期に出現 するものとして興味深い。
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状況と類似するものである。(2)初期青銅器分布の背景
第
3
章の検討により、前2
千年紀前半の新疆、長城地帯において、二つの境界が引くことが出 来た。まず新疆東部の天山山脈における境界1により、EAMP(チェルヌィフのユーラシア冶金 圏)との類似性が低下する。さらに内蒙古西部における境界2において、工具と装飾品の割合が 逆転する。以下ではまず、第3
章における初期青銅器の①a群(EAMPに類似品がみられるもの)を中心に取り上げ、それぞれの境界の意味を考察しよう。
境界1における青銅器の変化について
まず学史での認識を整理しておこう。梅建軍は哈密地区(境界1のすぐ東)の青銅器とアンド ロノヴォ文化(EAMP)の青銅器との類似性を強調している。そして、ユーラシア草原地帯と河 西走廊との中間地点として、新疆の哈密地区を重視する(Mei 2003)。一方で、劉学堂(2005)
はおおよそ境界1を挟む青銅器の器種を中心とする相違について指摘している。つまり、新疆の 青銅器に関して、天山以北,以南(本稿の区分とほぼ同じ)に区分し、両者は本来文化系譜が異なっ たもので、天山以南の青銅器が長城地帯に伝播したとする。
本稿の分析結果では境界1は型式、出土状況差によって確認され、劉学堂の見解がある程度支 持される。しかし、境界をはさんで対比可能な型式も相当あるので、劉学堂の言うように境界
1
をそれほど強固なものにみなせるかどうかは不明である。境界1以東は以西と区別されながらも、梅建軍の言うように何らかの関係は有していた可能性が高い。境界1以西では、青銅器の型式の 殆どが
EAMP
あるいはそれと同様の領域に分布の主体がある青銅器群と対比可能なものである。さらに、デポの存在からから考えて、基本的に境界1以西は
EAMP(アンドロノヴォ文化)の広が
りの一連のものとみなせる可能性が高い(Kuzmina 1998、2001)
。土器の分析(韓2005)でも、
新疆の西部がアンドロノヴォ文化に含まれることになっており、この結果がある程度支持される
(図
7-3)
。なお、新疆の最西に位置する塔什庫爾干では今のところ墓地しか見つかっておらず、同じく境界1以西である温泉県における墓葬と、その様相において若干相違がある。この差に関 しては、アンドロノヴォ文化あるいは
EAMP
全体を含めて議論する必要があり、今のところは保 留しておく。アンドロノヴォ文化のそのものの広がりに関しては、非常に議論が多いところであ る。クジミナは牧畜の開始による階級分裂の進行を想定し、青銅器のデポに関しては軍事的緊張 の結果で、工人と家族のそれがあるとする(Kuzmina 1998、2001)。一方、コルヤコバはアンド ロノヴォ文化の段階はその前段階より社会の複雑性は減退するものの、総じて、社会的不均衡は 増す傾向にあるという(Koryakova 2002)。いずれにせよユーラシア草原地帯中部以西における 本格的な青銅器時代の開始として、社会進化が想定されている。一方、境界1以東では青銅器の数量自体は増えるものの、EAMPに類似する青銅器(①a群)
は減少し、在地の土器文化に帰属する主に墓葬から出土するものが多い。在地の土器文化の土器 は基本的に彩陶であり(図