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10号清
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95ハ▼96
か ら19世紀前葉〜中葉 に位置づ けられ る磁器 の中型丸碗 (図
45‑445)が
出上 している。 また埋 上下部 には丸瓦 (図76‑13・14)や
板塀瓦 (図78‑24〜 26)が
多数認 め られ、 ゴ ミ穴 として利 用 された と考 えられ る。【
2号
上坑】(図40・ 41)1号
土坑 を切 って掘 られている。平面 は隅丸 の正方形 に近 く、一辺 はお よそ1.8mで
ある。埋 土 は8層
に細分 され る。埋上の途 中(3層
上面)か
らピッ トが掘 り込 まれてお り、完全 に埋没 す るまでにかな りの時間 を要 した と考 えられ る。埋±6層には瓦が多 く、3〜
4層では陶磁器 が多量 に出土 した。1号
土坑同様、ゴ ミ穴 と考 えられ る。陶磁器 には瀬戸産 の磁器(図45‑439・440)や
大堀相馬産の陶器土瓶 (図58‑314・315、 図59)が
多い。出土遺物 の多 くは19世紀前葉〜中葉 に位置づ けられ る。
【1号井戸】(図40)
D‑26区
に位置 し、南半部 を米軍共同溝 によ り失 っている。井戸 の外枠 は、 レンガを円形 に 組 んでお り、 レンガの内側 には板材が残存 していた。埋土か らは、19世紀中葉 に位置づ けられる大堀相馬産 の鉄絵土瓶の蓋 (図
60‑309)や
洋釘、薬交 な どが出上 している。【1〜
4号
木箱埋設遺構】(図40・ 41、 図版16)1号
木箱埋設遺構 は、M・L‑25区
で検 出された。約0.7m四
方の正方形 の掘 り方の中に、東 側 に寄せて木箱 を埋設 している。本箱 は一辺約50cmの正方形で、現存高 はおよそ15cmある。位 置的にみて、2号
建物 は本遺構 の覆屋であった可能性が高い。2号
木箱埋設遺構 は、1号
溝 に囲 まれたI‑26区
で検 出された。規模、構造 は1号
木箱埋設 遺構 に類似す る。本遺構 の周辺 にも柱穴 と考 えられるピッ トが存在 してお り、覆屋 を伴 ってい た可能性がある。3号
木箱埋設遺構 は、3号
暗渠の南側、H‑26区
で検 出された。本遺構 は、3号
暗渠の南側 に張 り出す形で構築 されてお り、木箱の内部 に溜 まった内容物 は、暗渠 を通 じて排出され る構 造であった と考 えられ る。木箱 は、一辺約75cmの正方形で、現存高 はお よそ30cmある。木箱 とその掘 り方の間 には、ほ とん ど隙間がない。木箱の東側 に接 して石 を並べた痕跡が認 め られ る ことか ら、本来 は暗渠のある北側 を除いて、木箱周辺 に石が敷かれていた と考 えられる。
4号
木箱埋設遺構 は、6号
と7号
暗渠 に挟 まれたG‑29区
で検出された。木箱 は、一辺約50 cmの正方形の掘 り方の中に埋設 されている。本遺構 は、西側で7号
暗渠 と接 してお り、両者 は 一連 の施設であった と考 えられ る。 また、7号
暗渠のある西側 を除いて、6号
暗渠 と7号
暗渠に挟 まれた木箱周辺 には石が敷かれている。
4.出
土 遺 物第
5地
点の調査では、これ までの仙台城二の丸跡の調査の中では、最多量の遺物が出上 した。その種類 も多岐 に渡 ってお り、 これ までには出上 していなかった もの も多い。そのため、江戸 時代 の遺物 については、可能 な限 り資料提示 に努 めたが、明治時代以降の遺物 については、基 本的に省略す ることとした。 また、陶磁器・ 土器・ 瓦 については、共伴遺物や層序関係か ら、
年代が限定で きる重要な一括資料があ り、詳細 に検討 を加 える必要がある。 しか し、紙幅の関 係 もあ り、翌年度 に実施 した付帯施設 区域 の調査
(4次
調査)を
含 め、第5地
点 に関す る全て の報告が終了 した段階で、翌年度の年報 (年報7)に
おいて、改めて検討 を加 えることとした いcそ
のため、 これ らの遺物 については、資料提示 を旨 とし、概要を指摘するにとどめることとする。
(1)陶
磁器 。上器・ 土製品【陶磁器】(図42〜61、 図版17〜33、 表14〜18)
接合、同一個体 の認定作業後の総破片数 は、磁器3313点、陶器4280点を数 える。時期的には、
17世紀前半か ら現代の ものまで様々な時代 の資料が含 まれ る。量的には19世紀前葉 か ら中葉の 資料が最 も多 く、18世紀代の資料が これ に次 ぐ。仙台城二の丸跡の これ までの調査 は大部分が 19世紀代の遺構 に集中 してお り、17〜 18世紀代 に関 しては断片的な資料 しか得 られていなかっ た。 そのため今回第
5地
点の調査報告では、17〜 18世紀 の陶磁器資料 に関 しては全体 の様相 を 呈示で きるようで きるだけ図化 につ とめた。19世紀の陶磁器 に関 しては、同 じ類型 の資料が複 数ある場合、代表例 を呈示す るに とどめている。以下、時期毎の概要を述べ る。17世紀前棄 の資料 には、鉄釉で唐草文 を描 いた志野の小皿 (図
53‑242)や
、吹墨技法 を用い た肥前産 の染付小皿(図48‑480)な
どが見 られ る。出土量 はごく僅かであ り、新 しい時代 の堆 積層や遺構 に混入 して出土す る例がほ とん どである。17世紀中葉の資料 は、草花文 な どを描 いた肥前産の染付磁器小皿類が若干見 られ る程度で、
依然 として量的に限 られ る。舶載品で は、北 区ⅥI‑10層か ら明末清初 と考 えられ る色絵磁器が 出上 している (図46‑454)。 この資料 はいわゆる「呉須赤絵」に属 し、近年遺跡か らの出上が 注 目され始 めた福建省平和県淳州窯系製品に類似する。
17世紀後葉 には、肥前産の染付丸碗が一定量存在す る。色絵の磁器人形 (図50‑513・ 514) も見 られ る。陶器では唐津産 の壼や大鉢がある。 この時期の資料 は、南区の
3層
や北 区のⅧ層 か ら出土す る。遺構では、Ha期
の4号
土坑か らこの時期の資料が出土 している。17世紀末か ら18世紀初頭 に到 り陶磁器 の出土量 は急増す る。北区のⅦ〜Ⅵ層、南 区の 3a、
2d層
な ど、西屋敷廃絶後 に使われな くなった池の埋土や元禄年間の二の丸拡張に伴 うと考 えられ る整地層か ら当該期の遺物が出土する。】巴前磁器では、いわゆる「 くらわんか手」の碗類 (図42‑407・409)や染付の小皿類 (図46‑456)、 波佐見産 と考 えられる青磁小皿 (図46‑455) が多 く見 られ るようになる。磁器 には、複雑な文様 を刻んだ比較的丁寧な作 りのコンニャク印 版が用い られ る (図44‑437,図46‑459)。 肥前産の陶器で は、京焼写 しを含む灰釉丸碗類 (図
51‑201〜
205・ 211・213)や
刷毛 目文碗 (図51‑208,図52‑239)、 見込部分 を蛇 ノロに釉剣 ぎ した銅緑釉の小皿類 (図53‑243・244)が
認 められ る。前代 に引続 き、壺、大鉢、悟鉢 な どの 大型製品 は、唐津産が主体であった と考 えられる (図54‑252〜
256,図 55‑262)。 この段階 に、肥前製品に比べれば僅かな量 なが ら、大堀相馬系 と考 えられる灰釉丸碗 (図51‑206・ 212)力 ゞ 出現する。大堀相馬の創業年代 に関 しては、今 日まで窯跡の調査が進んでいないため確定でき ていない。本遺跡の資料 は、共伴す る記年銘木簡や肥前産磁器か ら、17世紀末か ら18世紀初頭
(元禄年間
)に
大堀相馬が操業 していた可能性 を示す もの として重要である。18世紀前半では、
Ha期
、中奥古段階の3号
土坑 に一括資料が存在す る。肥前磁器 では、染 付の碗皿類 (図44‑433〜
435)、 猪 口 (図45‑448・ 449)、 糸切 り技法 による変形小皿 (図48‑
484)などが認 め られる。陶器では、肥前製品 と大堀相馬製品 とで量的比率が逆転 し、後者が多 数 を占めるようになる。大堀相馬製品 は多様化 し、鉄釉流 し掛 けの皿 (図53‑245)、 腰部 に刻 線 を有する腰錆 (掛け分 け
)碗
(図52‑238)、 灰釉の仏飯器 (図61‑333)な
どが新た に加わ る。大堀相馬製品以外では京・ 信楽系 と考 えられ る灰釉筆筒 (図
57‑345)が
見 られ る。18世紀後半の良好な遺構一括資料 はないが、北区のⅢ層や、南区の
2C層
。2b層
に、 この 時期の資料が比較的多 く見 られ る。陶器ではさらに大堀相馬製品の比率が高 まり、器種 も一層 多様化す る。 それ まで量的に限 られていた瀬戸製品 も石皿 (図53‑247・248)な
どの器種が一 定量見 られ るようになる。19世紀前葉か ら中葉では、Ⅳ期の
1号
溝、1・2号
土坑か ら比較的多 くの資料が出土 してい る。磁器では器種 によって産地 に違いが認められる。すなわち、皿類では引続 き月巴前製品が主 体 を占めているが、碗類 は瀬戸が中心 とな り肥前製品は減少する。瀬戸産の磁器 は、中型の端 反碗 (図45‑440)や
小型丸碗 (図45‑438・439)を
主体 に、小郷 (図43‑420)や
合子 (図50‑500)と
いった器種が認 め られ る。量的には少ないが、切込焼の碗 (図45‑443)や
平清水焼 の皿 (図49‑490)と
いった東北の地方窯の製品 も存在 している。陶器 は、若干の瀬戸製品が見 られ る以外 は、圧倒的に大堀相馬製品によって占められる。大堀相馬製品の多様化 は前代 にも 増 して進み、各種 の碗皿類 にカロえ、火入れ (図57‑291)、 片 口鉢 (図54‑258・259)、 土鍋 (図61‑325〜
327)、 行平鍋 (図61)、 水注 (図57‑331)、 乗燭 (図61‑334・335)、 土瓶 (図58、 図59‑328〜
330、 図60‑309〜
312・ 318・ 323・ 324)と いった 日用製品が数多 く認められ る。内側 に「天保十四□」の墨書のある土瓶の蓋 (図60‑304)は
、大堀相馬製品の編年 を考 えてい く上で重要で あ る。地元 の製品で は、堤焼 の可能性 が高 い大皿 や大甕、乗燭 (図61‑336,337)力S出 土 してい る。
【土器】(図62〜66、 図版34〜37、 表19〜21)
接合作業後 の総破片数 は、土師質土器10,259点、瓦質土器227点、軟質施釉土器323点 で、土 師質土器が、陶磁器 も含 めて最 も数が多い。ただ し、土師質土器 はほとん どが皿であ り、数が 多い上 に形態 。技法の差が少ないため、特殊 な ものを除いては、遺構・ 層 を越 えての接合 は行 っていない。
仙台城二の丸跡の これ までの調査では、幕末 を中心 とした19世紀代の資料が多 く、土器類 に ついては良好 な資料 に欠 け、第
2地
点 。第3地
点で若千 の資料が報告 されていただ けであった (年報1)。 二の丸跡では、今回の調査出上の資料が、まとまった初めての資料 となる。そのた め、ある程度特徴の判明する資料 については、可能 な限 り提示す るように努 めた。土師質土器 には、皿、耳皿、焼塩壼、火消壺の蓋、鉢類 などが認 められ る。元禄年間の整地 層 と考 えられ る北 区18・ 19列
V層
・Ⅵ層・VH層と南 区東部3b層
上面、同 じく元禄年間のHa
期
4号
土坑、二の丸期のma期 3号
土坑 において、 まとまって出上 している。元禄年間以前の 層では、北区18・ 19列ⅥⅡ層、南区3層な どか らも出上 しているが、量 はあまり多 くない。土師質土器の圧倒的多数 を占める皿 は、 ロクロ整形で、外面 をミガキあげた もの以外 は、全 てロクロ整形・ 回転糸切 りによるもので、手づ くねの ものは見 られない。形態で も大 きな違い が認 め られないため、残存状況 を基準 に資料化す る遺物 を抽出 した。口縁端部か ら底部 まで残 存 してお り、かつ全体のほぼ半分以上が残 っているものを資料化 している。 この基準 を満た さ な くとも、形態の特殊な ものや、墨書や穿孔のあるものは、全て図化 した。図
63‑66は
、外面 全体 に「御 目付」「永」な どの字 を習書 した ものである。土師質土器皿の中で、Ⅲa期
の4号
土 坑出上の もの (図64‑41〜50)だ
けは、器高が低 く、浅 い ものが主体 を占める点で、他の資料とは異なる。
瓦質土器 は火鉢 と考 えられ る鉢類がほ とん どで、特 に集中して出土 しているところはない。
残存状況が良 くない ものが多 く、資料化 し得たのは
6点
だけである。軟質施釉土器 としたのは、透明釉 をか けた もので、蓋が1点 (図
65‑102)あ
る以外 は、確実 な ものは全て焙烙である。いずれ も19世紀代以降 と考 えられるので、代表的な ものを資料化 し た (図65‑103・104)。 それ以前の層・遺構 か らも出上 しているが混入であろう。焙烙 は、 これ に類似 した ものが、戦後 まで堤 において作 られている。【土製品】(図65、 図版65、 表43)