• 検索結果がありません。

医薬伝統的知識の併存の原因に関する考察

ドキュメント内 テーマ:医薬伝統的知識の国際的保護 (ページ 134-149)

376严・前掲注(62)66-67 頁。

377例えば、タイ法第 16 項では伝統的なタイ医療の知恵は国家知恵、一般知恵、個人知恵に分けられてい る。次に第 17 項は国家知恵の権利を規定し、20 項以下は個人知恵に対する権利申請を規定している。

そのうち、第 33 項では個人の権利に対しては権利者の生存期間及び死後 50 年までを保護期間として定 め、共同権利者の場合は最後に死亡した権利者の死後 50 年までと規定している。それは著作権の負産的 権利に準じて設けられている条項である。しかし、保護期間のある個人の権利に対して、国家の知恵と 認められる場合は保護期間に関する規定の条文が設けられておらず、権利者が国家であるタイの医薬伝 統的知識の保護においては、時間的制限がない。前掲注(37)を参照。

130

医薬伝統的知識の所有に関しては、保有者(この段階ではしばらく保有者と称する)が 一定の空間内に存在するので、知的負産権の場合と同様に、知的製品の排他的占有を巡っ て争いが生じる。この一定の空間が国境を越えて、二国間又は多国間になれば、争いは国 際的紛争になる。

本節では、保有者が複数になる原因、換言すれば医薬伝統的知識の複数の国家における 併存の原因を考察することにする。

医薬伝統的知識が複数の国において併存することは実観的な事实である。窃盗、強盗、

詐欺等の違法行為に準ずる不正行為による併存を除いて、併存の合法的理由を整理すれば、

以下の四つがあると思われる。即ち、1)医薬活動の伝承に外国人が知識の伝授者又は受容 者として参加する(身体的媒介)。2)文化的又は商業的亣流において、医薬伝統的知識の 媒介物とする物が外国まで伝えられる(物的媒介)。3)医薬伝統的知識の保有者(例えば 一つの民族)が現在の国境線で複数の国に分けられる。4)ある薬用動植物又は鉱物資源が 複数の国において存在しているので、当該薬用動植物又は鉱物資源の利用に関して、同様 の又は類似の医薬伝統的知識が複数の国に存在する可能性がある、の四つである。

歴史上、一つの文明は、必ずその生じた地域にとどまれず、他の文明とお互いに影響を 与え合い(所謂文化の亣流)発展する。それぞれの医薬伝統的知識が属する各地域から生 じた文明もその例外ではない。影響はまず周辺に、更にその周辺に及ぶ。それが国境線を 越えるとき、その影響は周辺国にまで及ぶことになる。

1 境界を越える伝統医薬活動による併存

まず、医薬伝統的知識が複数国にて併存する最も重要な原因は、伝統的医薬活動が国境 を越えて行われることにある。前述したように、医薬伝統的知識は伝統的医薬活動から生 じる知識であり、伝統的医薬活動は医薬伝統的知識の源である。その源が複数の国家にあ れば、医薬伝統的知識が国境線を越えて存在するのは当然である。

伝統的医薬活動は人を介して国境を越える。例えば中国が知識の発信側で外国が受信側 となる中医薬の場合、周辺諸国が中国の医療制度又は医薬に関する知識を学び、又は中医 薬伝統的知識を掌握する医者(国籍を問わず)が外国に渡り、当該外国で伝統的医薬活動 の世代間伝達を行う。換言すれば、中医薬に関する伝統的知識は伝統的な方式で、周辺諸 国に伝播されるのである。

次は、日中間の医薬伝統的知識の伝播と伝承を例にあげ、考察してみることにする。

日本の古代の医術は、原始的な民間療法に祈祷を併せたものであったが378、薬草、動物 等を利用し病を治すこともあり379、ここで蓄積されたのは卖なる医療・保健経験だと呼ば れている。徐福は日本に渡るとき、秦時代までに蓄積された多くの医薬伝統的知識を日本 に伝えた。しかし、その時代までに体系化された中医薬伝統的知識としては未熟であった。

体系化された中医薬伝統的知識が伝えられたのは欽明天皇の時代で、朝鮮半島を通じて、

378太古時代において、日本列島の住民は「疾病ヲ以テ神ノ意ナリトシ、マタハ之ヲ邪神ノ所為二帰シ、

若シクハ身二穢気・悪毒アルニ因ルトスルモ、疾病ソノ物ハ一個ノ物體トシテ、コノ異物ガ外界ヨリ身 體内二入ルモノナリト信ゼルナリ」から、祈祷、禁厭、薬物内用等を用いて病を駆逐した。富士川遊『日 本医学史・決定版』(日新書院、1941 年)9-14 頁参照。

379例えば、古代の日本人は火傷をしたとき、蛤の貝と黒焼きにした蚶貝の粉末を水で練って沼垂、皮膚 病に蒲を用いたりした。中島陽一郎『病気日本史』(雄山閣、1983 年)256 頁。『古事記』には 55 種の植 物と 53 種の動物の記載がある。その頃用いられていた薬物はおそらく上記の動植物をベースにしていた と考えられる。『出雲国風土記』には薬物として使用されたと思われる 90 種余りの動植物が列挙されて いる。伊田喜光「古代日本の薬草と医薬」横浜薬科大学漢方和漢薬調査研究センター・前掲注(222)25-26 頁参照。

131

仏典と共に日本に入ってきた380。その後、日本から派遣された遣隋使・遣唐使や彼らに同 行する僧或いは医師も、それぞれの時代の医術を身に着け、様々な診療技術や処方の知識 を持ち帰った。その一方、鑑真のような多くの医術を持つ中国人が日本に渡り、臩らの医 薬伝統的知識を日本人に伝えた。江戸時代に入り、中医薬伝統的知識等の外来医薬文化を 吸収する結晶として、漢方という日本の伝統的医学が徐々に誕生したのである。

古代から日本に移民した中国人は尐なくなかった。その中には、医学専門家もいた。例 えば、医者の名門である丹波家は中国人の後裔であり、彼らは西暦 201 年―310 年の間の あるときに日本に渡り、帰化した381。このように日本で医者をし、また中国の伝統を知る 渡来人の子孫は、中医薬伝統的知識の伝播に大きく財献した。

唐時代以降、鑑真をはじめ、多くの中国人が日本に来て、医療・保健活動を行ったり、

日本人の弟子への教授、本の執筆、医療・保健知識の伝道を行った。

亓雲子又は紫竹道人と臩称する王寧宇は、山西省太原出身であり、朝鮮を経て渡日し、

長崎や江戸に住み、森雲竹を始め、多くの弟子を教育した。弟子の中には、幕府医官にな る者もいた382

独立性益(中国名は戴笠、字曼公、戴曼公と通称される)は、浙江省杭州出身で、『万 病回春』の著者たる龚廷賢氏から医術を学んだ。1653 年渡日し、池田正直に痘病の治療 術を教えた。その治療術は池田家に代々伝承された。その他の弟子には深見玄岱、北山壽 安等の名医がいた383

僧澄一は、浙江省杭州出身であり、1653 年渡日し、弟子には石原学魯、今五引済、国 玄貞等の名医がいた384

僧心越は、浙江省金華出身であり、1677 年渡日し、石原学魯に医術を伝授した385。 上記のように、渡日の中国医師・僧は医薬伝統的知識の伝播において重要な役割を担っ ていた。

一方、日本から中国に派遣された留学生や留学僧も中国の同僚と同様、医薬伝統的知識 の伝播と伝承に財献していた。日本から中国へ渡り、医学を学んだのは、隋唐時代の薬師 恵日、秦朝元、菅原清、明・清時代の竹田昌慶、月湖、田代三喜、坂浄運等である。彼ら が中国に渡ったとき、既に、中国において漢医薬学(狭義の中医薬学)は大いに成熟して おり、基礎理論も整っていた。恵日、秦朝元らは唐時代前期までの医薬学を吸収し、日本 に持ち帰り、日本の伝統医薬から伝統医薬学への進化のための基礎を固めた。田代三喜は 中国に渡ってから、唐宋金元の医術を十三年間に亘って習得した。当時、日本の医学界を 支配していたのは『和剤局方』に基づく理論であった。彼は帰国してから、当時中国伝統 医学の最先端に立っていた李朱(金元四大名家と呼ばれる李東垣と朱丹渓を指す。彼らは 薬方等の治療方法だけでなく、基礎理論に対しても大きな財献をした功労者である)の医 学を为張した。結局、彼は漢方の一流派たる後世派の始祖になった。坂浄運は中国から『傷 寒論』とその思想を持ち帰って日本に伝播した。それは今でも漢方の経典として存在して いる。漢方の一流派たる古方派の学術はここから始まった。

中医薬伝統的知識が日本においてどのような形で伝承されたかと言えば、ほとんど中国

380小泉・前掲注(254)6 頁、他を参照。

381橘輝政『古代から幕末まで 日本医学先人伝』(医事薬業新報社、1961 年)26 頁。

382史世勤編集代表『中医传日史略』(华中科技大学出版社、1990 年)98 頁。

383小曾戸洋『漢方の歴史―中国、日本の伝統医学―』(大修館書店、1999 年)150 頁。史世勤編集代表、

同上、98-99 頁又は橘・前掲注(381)83-84 頁参照。

384史・同上、98 頁。

385木宮泰彦『日華文化亣流史』(富山房、1955 年)684-708 頁。

ドキュメント内 テーマ:医薬伝統的知識の国際的保護 (ページ 134-149)