第 3 章 パタの密教儀礼について
mudrātriśikhāyuktaḥ 29 kṣipram arthakaraḥ sthiraḥ / ya eva vaiṣṇave tantre kathitāḥ kalpavistarāḥ //
1.2. 凡例
前項において言及したように,本経には(a)Trivandrum写本と,(b)NGMPP写本の二種が 現存するため,整定テクストを作成するには,その両本を用いた校訂作業を行うことが理 想である.しかし,前述の通り,(a) Trivandrum写本の入手は困難である上に,(b)NGMPP 写本は断片的に現存する写本であるため,第7章以外は初版本(c)Gaṇを底本として扱うこ とを避けられず,第7章のみ,一次資料である(b)NGMPP写本の対応箇所を校合した.し たがって,一次資料を十分に校合するまでの作業に至らなかったため,今回筆者が提示す るテクストは,あくまで初版本(c)Gaṇを整定した「試作テクスト」である.なお,本論文 の研究篇では,本経第4章から第8章の記述を引用する際に,この試作テクストを使用し ている.
試作テクストの作成にあたり,主に以下の点に配慮しながら作業を進めた.まず,初版 本(c)の編者であるGaṇapati ŚāstrīがPrefaceで言及しているように,MMKは正規の梵語文 法を逸脱する場合が多く見られ,Edgerton[1953]によって提唱されている Buddhist Hybrid
Sanskrit によって解決される文法形態,音韻形態も少なくない.したがって,近年飛躍的
に研究が進展している中期インドアーリアン語やプラークリット(俗語)などの幅広い言語 学,統語論の知識が,本経をより正確に,そしてオリジナルの形で理解するには不可欠で あろう.しかしながら,このような知識を前提とするテクストの精読は,筆者の能力を遙 かに超える作業と言わざるをえない.そこで,正規の梵語文法に依拠して精読することを 第一とし,Buddhist Hybrid Sanskritの形態が認められる,あるいは疑われる場合には,校勘
欄(脚注)においてEdgerton[1953]の参照箇所を提示することにした2.
またチベット語訳は,全体を通じて梵本の読みに比較的対応しており,梵本の精読に有 益であることから,整定作業において大いに活用した.なお,(f)Lolou[1930]も,フランス 語訳を提示している脚注において(c)Gaṇ の読みに関して言及している箇所があり,特に
1 (b)Msの対応箇所は,初版本(c)Gaṇ第7章の冒頭部分を欠いた全体の三分の二程度に相当
する.詳細は森口[1976],Delhey[2012, pp.62–70]を参照されたい.なおDelhey[2012, pp.62–
70]によれば,(b)NGMPP写本は,書写した人物の目的や用途に合わせて原本から抽出され る形で書写されたもの,特に儀礼の実践に必要な儀則が抜き出された,いわばマニュアル 集としての性格が強いようである.実際,(b)NGMPP写本が欠いている第7章の冒頭部分 は,初版本(c)Gaṇと照合すると教説の導入部分であることがわかり,第7章の主要な教説 (真言やパタの作製法を始めとする実践的な内容)を説く部分は(b)NGMPP 写本に現存して いる.
2 Edgerton[1953]のvol.1にはBHSgram.,およびvol.2にはBHSdic.の略号を用いて提示して いる.
(c)Gaṇの読みの訂正を示唆している場合には,校勘欄あるいは後註にその内容を示してい る.
一方,天息災訳には,大幅な意訳と思われる箇所が随所に認められ,梵本と逐語的に対 応しない場合が多い.それゆえ,天息災訳は参照する程度にとどめたが,必要に応じて重 要だと思われる読みは校勘欄において示した.
なお,その他の試作テクストの作成に関する詳細な方針は以下のように設定した.
(1)以下に相当する場合は,校勘欄に表記することなく,作成者の判断によって訂正,削除,
補填を行った.
・sとśの間の訂正.
・bとvの訂正.
・鼻音とanusvāraの訂正.
・rに後続する重複した子音の削除.
・avagrahaの補填
・頻出する不規則なsaṃdhiは,訂正後の形を統一している.
e.g.) bhagavāṃś chākyamunir ; bhagavāṃ śākyamunir → bhagavān śākyamunir
・NGMPP 写本に確認される真言部分の字句の繰り返しを避けるための数字表記は,
字句の表記に直して記載している.
e.g.) hūṃ 2 → hūṃ hūṃ
(2)作成者の解釈により,適宜,読点(,),daṇḍa(/),dvidaṇḍa(//)を削除,補填している.その 際,校勘欄に表記することは省略した.
(3)作成者の解釈により,テクストのセクション分けを行った.なお,研究篇において,本 経第4章から第8章の記述を引用する場合は,このセクション番号を用いている.
(4)チベット語訳は,Derge ed.とPeking ed.のみを用いた.なお,両版の間で読みが異なる場
合,D (Derge ed.)およびP (Peking ed.)の略号を用いて各々の読みを校勘欄に示している.
(5)後註には,アラビア数字に( )の記号を付した箇所を校訂,あるいは解釈する際に参照し た文献の記述や,パラレルな記述が確認される文献の記述などを提示している.
(6)校勘欄には,下記の記号や略号を用いた.
conj.:作成者によるdiagnostic conjecture
corr.:作成者によるcorrection(単純なsaṃdhiの訂正の際に用いる)
第7章において写本の読みを提示する際に,写本の書写者あるいは後代の写本 使用者によって,文字のキャンセルや読みの訂正が示されている場合は以下の ような記載法で提示する.
ac. ante correctionem (訂正前の) ; pc. post correctionem (訂正後の)
e.g.) mahāpuṣpaugham ] Ms(pc. ; mahāpuṣpaumagham ac.) Gaṇ Vai ; me tog gi tshogs chen po Tib
→この場合は,mahāpuṣpaugham の読みを採用し,その読みを支持する梵本は Ms Gaṇ Vaiである.ただし,Msはmahāpuṣpaumaghamからmahāpuṣpaughamに 訂正されていて,訂正後のMsの読みを採用し,本文の読みを支持することを 示す.
なお,後代の写本使用者によることが明らかな場合は,pc.に*を付した.
e.g.) saptasphaṭopabhūṣitau ] Ms(ac. ; saptasphaṭaupabhūṣitau Ms pc.*) ; saptasphaṭāvabhūṣitau Gaṇ Vai ; gdengs ka bdun gyis nye bar brgyan pa Tib
→この場合は,saptasphaṭopabhūṣitauの読みを採用し,その読みを支持する梵本 はMsである.ただし,Msは,saptasphaṭopabhūṣitauからsaptasphaṭaupabhūṣitau に後代の写本使用者によって訂正されているが,訂正前のMsの読みを採用し,
本文の読みを支持することを示す.一方,Gaṇ Vaiは,saptasphaṭāvabhūṣitauの 異なる読みを示す.
em.:作成者によるemendation om.:omitted
<< >>:作成者が補填した部分(本文の中で用いる).
< >:作成者が削除した部分(校勘欄の中で用いる).
:判読できない文字.1つの は1文字分に相当する.
+:破損して判読できない文字.1つの+は1文字分に相当する.
[ ]:部分的な判読が可能である文字.子音と母音を=で挟み,判読できない部分を
で示す.
e.g.) [k= ]→この場合は子音kは判読できるが,母音の部分が判読できないこと
を示す.
e.g.) [ =i]→この場合は母音iは判読できるが,子音の部分が判読できないこと
を示す.
[+ ... +]:破損して判読できない部分で,文字数も判断できない場合を示す.
† ... †:何らかの混乱が推測されるが解決できない部分.
(7)校勘欄には,アラビア数字のみを付した部分の異読を提示した.各註記の左端に示す読 みが作成者によって採用された読みであり,その読みを支持する梵本がある場合には,記 号「]」を挟んで梵本の略号を示した.対応するチベット訳や天息災訳は,「;」を挟んで原 則的に,チベット訳→天息災訳の順で示した.ただし,梵本の読みにem.やconj.を示す際,
その根拠となるTibや天息災訳などの読みを提示できる場合には,略号の直後に( )を付し て示した.なお,Lalou[1930]においても,梵本の読みの訂正が示唆されている箇所があり,
その場合もチベット訳,天息災訳に続いて,その示唆された読みを( )を付して示した.以 下に一例を示す.
e.g.) kuṭiprasrāvam ] Gaṇ Vai ; bshang dang gci ba Tib ; (Cf.若彼作人大小便利.天) ; (gūthaprasrāvam L)
→この場合は,kuṭiprasrāvamの読みを採用し,その読みを支持するのはGaṇ Vaiであ
る.
e.g.) vicāro ] conj. (rnam par spyod Tib) ; viceruḥ Gaṇ Vai ; (Cf.一切眞言行眞言相 天) ; (vicaryā L)
→この場合は,vicāroの読みを採用し,そのconj.の根拠としてTibのrnam par spyod を提示する.viceruḥはGaṇ Vaiの示す異読である.
(8)校勘欄に,広範囲にわたって梵本の読みに対応するTibの読みを示す場合は,作成者が 採用した読みの後に,記号「]」および「;」を付して,Tibの読みを提示した.
e.g.) adhiṣṭhitaṃ me ... me mantrasiddhiḥ /] ; sangs rgyas bcom ldan ’das dang byang chub sems dpa’ chen po rnams kyis bdag gi ras skud ’di la byin gyis brlabs te | bdag gi skye ba(bo P) dam pa ni legs par ’tsho ba yin te | bdag gi sngags sgrub pa ’bras bu med par mi ’gyur ro | Tib
(9)校勘欄に天息災訳を提示する場合,文字化けしてしまう漢字は下記の通りにアルファベ ットに置き換えて表記した.