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二月革命当時のトクヴィル

第2章  デモクラシーにおける革命  二月革命の考察

第1節  二月革命当時のトクヴィル

  1839年の初当選以来、代議院(下院)議員トクヴィルは七月王政を容認しながらも、漸進的改 革を求める中道左派の立場に身を置いていた。もちろん、ここでの左派は社会主義を意味するも のではなく、大枠ではギゾーが主導する七月王政与党と共通する自由主義を標榜しながらも、野 党的立場にあったことを示している。七月王政末期、時のギゾー政権による中産階級すなわちブ ルジョワジー寄りの政策に対して、選挙法改正等を争点とする改革宴会運動(Campagne des

banquets)と呼ばれる反政府運動が発生する。6トクヴィルは政権に対する批判的姿勢を堅持しな

(Princeton, Princeton University Press,2001), p.4.

5 Wolin, p. 433.

6 改革宴会運動は選挙法改正を目指して始まって反政府運動であり、政治集会が違法化されていたこ とから会費を徴収する宴会の形式を採用していた。当初は正統王朝派やオルレアン左派も加わってい たが、次第に共和主義者や選挙権を持たない民衆、社会主義者たちが多くなり、過激さも増していっ た。

がらも、この運動には距離を置く。

  1848年2月23日から24日にかけて発生した二月革命によって七月王政があっけなく崩壊する と、民衆に人気のあった詩人アルフォンス・ド・ラマルティーヌAlphonse de Lamartine(1790-1869) や共和主義者アルマン・マラストArmand Marrast(1801-1852)、急進派のアレクサンドル・ルド リ ュ = ロ ラ ン Alexandre Ludru-Rollin(1807-1874)、 そ し て 社 会 主 義 者 ル イ ・ ブ ラ ン (Louis

Blanc,1811-82)、機械工アルベール Albert ことアレクサンドル・マルタン Alexandre Martin

(1815-1895)らによる臨時政府が樹立される。トクヴィルは改革宴会運動に対しては消極的だっ

たが、ギゾー政権の打倒に際にしては自らと同じ改革派自由主義者たちと連携してギゾーを追い 詰める議事日程を作成し、直前の段階で二月革命の発生を事実上手助けした。7だが、いったん革 命が成就すると、それからしばらくトクヴィルは目立った行動を見せることもなく、時局を静観 する態度を取る。ブランらの主導により、臨時政府は「労働者のための政府委員会」(Commission du gouvernement pour les travailleurs)いわゆるリュクサンブール委員会(Commission du Luxembourg) と国立作業場(Ateliers nationaux)を設置するが、臨時政府指導者の多くは労働者対策には消極的 であった。8そもそもブランやアルベールの政権参加自体、民衆からの強い要求を渋々受け入れた ものであった。そのため、リュクサンブール委員会には何の権限も予算も与えられず、財政を圧 迫していた国立作業場についても、臨時政府は早々にその廃止を検討するようになる。

  同年4月23日に行われた憲法制定議会(Assemblée constituante)選挙は、6ヶ月以上同一市町 村に住む 21 歳以上のすべての男子に選挙権が与えられた男子普通選挙であった。普通選挙制度 の導入には急進的な共和主義者たちが大きな役割を果たしたのだが、約900議席のうち、穏健な 共和主義者が500議席を、正統王朝派とオルレアン派が300議席を獲得したのに対して、急進的 な共和派や革命推進派は100議席を得たに過ぎなかった。これは複数選挙区からの立候補を認め る特異な選挙制度や臨時政府による選挙干渉の他、45サンチーム税 9という新税の導入は国立作 業場の維持・運営のためであったという政府の宣伝が功を奏したことによる。10

  トクヴィルはこの議会で議席を得て、さらに憲法起草委員にも選出される。憲法起草委員会で トクヴィルは地方分権の推進、二院制議会の設置、そして間接選挙による大統領選出を主張する。

  憲法起草の最中、1848年6月23日から26日にかけて、六月暴動が発生する。これは国立作業

7 Jardin, pp. 383-384. 〔邦訳446-447頁〕。

8 リュクサンブール委員会は、ブランを委員長とする労働者問題に関する諮問機関である。国立作業 場は公共事業を通して失業者に職を提供する制度であり、仕事が見つかれば2フラン、なくても1.5 フランの日当が支給された。そのため、成立間もない臨時政府にとって、国立作業場は大きな財政負 担となっていた。

9 これは直接税1フランあたり、さらに45サンチームの付加税を課するものであった。そのため、地 方農民は都市労働者のために自分達が犠牲になっているという感情を抱くようになり、農民が保守派 を支持するようになる大きな要因となった。

10 ちなみに、トクヴィルはこの選挙結果について、パリに対する地方の人々の「嫉妬」(jalousie)が 影響したと記している[S, 2:4, p. 799〔邦訳153-154頁〕]。トクヴィルによれば、これは貴族に対して イギリス人が抱く感情と同様のものである。地方の人々はパリに不満を抱きながらも、その力によっ て地方にいる自分たちの利益を確保しようと考えているため、パリに対する人々の感情は愛憎相半ば したものとなっていると指摘している。

場の廃止を決定した臨時政府に抗議するために、パリの労働者たちが起こした暴動であった。六 月暴動を境に、民衆に対するトクヴィルの姿勢は厳しいものとなる。

  新たな第二共和制憲法(1848年11月)に基づいて、1849年5月13日に立法議会(Assemblée

législative)の選挙が行われると、ここでもトクヴィルは当選を果たす。穏健共和派・正統王朝派・

オルレアン派によって構成されていた保守派は以前の憲法制定議会では大多数の議席を占めて いたが、この立法議会選挙で保守派が獲得した議席は750議席の内の450議席であった。対して、

フランス革命にならって山岳派と呼ばれていた急進派の議席は180議席であった。この数字は微 妙な意味を持っている。保守派は絶対多数を確保しているが、憲法制定議会と比べると退潮傾向 にあり、片や山岳派も議席の4分の1を獲得したとはいうものの全国民的な支持には遠く及んで いなかったためである。この政治状況において、保守派は大同団結することで山岳派や社会主義 者、労働者階級の活動家たちに対抗することを試みる。その中核となったのが、前年の六月暴動 の後に結成された秩序党(Parti de lʼOrdre)であった。ピエール・ロザンヴァロンは、穏健共和派・

正統王朝派・オルレアン派・一部のボナパルティストらによって構成されていたこの党派を、イ ギリス的政治の実現を図ったギゾーの政治理念の再興を目指して結び付いたものであるとして いる。11しかし、実際のところ、その第一の目的は伸張著しい急進派や社会主義勢力への対抗に あったと見るのが妥当であろう。そもそも秩序党を構成した諸党派はそれぞれ相容れない政治理 念を抱いており、急進派に対抗すること以外の共通要素は見当らない。何より、六月暴動の後に 活動を本格化したという事実が、秩序党の実態を明らかにしているといえる。そして、トクヴィ ルもこの保守派政治グループに積極的に参加し、その主要な一員としての立場を確立していくこ とになる。

  時は前後するが、1848年12月には、ルイ=ナポレオン・ボナパルトLouis-Bapoléon Bonaparte

(1808-1873)が投票総数の4分の3という圧倒的支持を得て共和国大統領に選出されている(在

職1842-1852)。間接選挙と直接選挙という違いはあるものの、憲法起草委員会でトクヴィルが支

持した、国民による投票という選出制度が、数年前まで暴動の首謀者として収監されていたルイ

=ナポレオンの大統領選出を可能にした。12ルイ=ナポレオンが民衆からの熱烈な支持を集めた 理由はいくつか挙げられるが、そのひとつは彼が民衆の境遇に配慮した政治方針を掲げていたこ

11 Pierre Rosanvallon, Le moment Guizot (Paris, Gallimard, 1985), p. 342.

12 ルイ=ナポレオンは、1836年に熱烈なボナパルティストであったヴィクトール・ド・ペルシニー Victor de Persigny(1808-1872)と共に七月王政に対して一揆を企てたが、ほとんど何も行わないうち に身柄を拘束されてしまう。そのため、この時は七月王政側もルイ=ナポレオンに対して寛大に対応 し、処罰もアメリカ追放にとどめる。しかし、ルイ=ナポレオンは1840年に再び武力蜂起を企て、自 らに従うように軍に対して呼びかけるが応じる者はなく、今回もまたほとんど未遂のまま終わる。た だ、七月王政側は、ほぼ未遂とはいえクーデタを2度も起こした人物を放置するわけにもいかず、1840 年に彼を投獄する。ところが、1846年にルイ=ナポレオンは脱獄に成功し、パリにやって来たのは二 月革命直後の1848年2月27日のことであった[これらの記述は鹿島茂『怪帝ナポレオンIII世  第二 帝政全史』(講談社、2004年)による]。いってみれば“正統派”の政治家であり、そして一級の知識人 でもあったトクヴィルが、このような人物に対して軽蔑の念を抱いていたとしても無理からぬことで あったといえよう。