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七月王政とその精神

第2章  デモクラシーにおける革命  二月革命の考察

第2節  七月王政とその精神

  全体的には、七月王政は安定した時代であった。1830年憲章に基づく、勅選の貴族院および制 限選挙によって選出された代議院が構成する二院制議会と国王を両輪とするオルレアン型議院

内閣制(parlementalisme orléaniste)の導入により、フランス革命以来混乱の絶えなかったフラン

ス政治は落ち着きを取り戻す。外交政策では周辺諸国とりわけイギリスとの善隣外交を推進し、

国民全体が甚大な影響を被るような戦争に巻き込まれることもなかった。1840年代以降、七月王 政の実質的な最高指導者はギゾーであった。

  七月王政期のフランスは劇的な経済成長と産業化を果たしている。

  たとえば、この頃のフランスの経済成長を支えた要因のひとつに鉄道整備がある。171841年時

点で、4,000 キロの鉄道が整備されていたイギリスに対して、フランスの鉄道総延長距離は 575

キロに過ぎなかった。この遅れを打開するために、フランスでは総裁アレクシス・ルグランAlexis Baptiste Victor Legrand(1791-1848)に率いられた国家の土木局(Corps des Ponts et Chaussées)が 企画した全国鉄道網整備計画とサン=シモン主義者が提唱した地中海・北海間最短縦断鉄道の 2 種類の整備案が存在していた。このうち土木局の整備計画は、セーヌ川を基幹交通とするパリが 国土の他の地域、特に南東部から分断されてしまっている状況の解決、低調なロワール川の水運 の代替、冶金工業の中心地であったオート=マルヌ県との接続の改善等を目的としており、この 計画を推進するために 1842 年に鉄道法が制定された。つまり、フランスの鉄道整備は、民間主 導であったイギリスやアメリカの場合とは異なり、国家計画として推進されていた。

  トクヴィルは、国家主導の経済・産業政策について、政府はこの20年でより活動的になって、

従来では想像もつかない事業にも手を出し、「工業製品の最大の消費者(consommateur)」「この国 における最大の事業者(entrepreneur)」となったと述べている。18前章で紹介したデモクラシーに おける政府ないし国家の帰結は、父権的(paterenal)な性格を持った民主的専制であった。この 考察は主として1830 年代に行われたものであるが、1840 年代を経た後のトクヴィルの社会分析 において、政府には「消費者」と「事業者」という新たな性格が付与されることになる。鉄道整 備の手法の違いを見てもわかるように、これらの新たな性格はフランス国家の特徴でもあった。

民間だけでも潤沢な資金を有していたイギリスに比べて、経済成長に遅れたフランスでは民間で の資本蓄積は十分とはいえず、積極的に開発を推進するためには国家を通して巨額の資本を民間 に提供をしていくことが不可欠であり、国家自体が「消費者」にも、また「事業者」にもなる必

17 モーリス・レヴィ=ルボワイエ『市場の創出  現代フランス経済史』中山裕史訳(日本経済評論社、

2003年)140-145頁。

18 AR, 3:4, p. 204. 〔邦訳365頁〕。

要があった。すなわち、元々は政治的主体であった国家ないし政府が、この時代になると経済的 主体としても登場することになったのである。そしてこのことは政策のみならず、政治自体に対 して、否応なくその性格の変更を迫るものでもあった。デモクラシーにおける国家の負の帰着点 として民主的専制を予想し、国家が人々の物質主義をいたずらに刺激することを批判したトクヴ ィルは、当然ながら国家の経済主体化に対しても警戒の念を抱いた。19

  さて、経済のみならず、フランスにおけるほぼあらゆる政策は首都パリを中心に計画され、実 施される。先述の鉄道もパリを起点として、全国に向かって放射状に整備が進められていった。

パリはあらゆる産業の中心となり、トクヴィルの言葉を借りれば首都パリを「フランス第一の工 業都市につくり上げ、労働者という全く新たな人々を引き寄せた」20。ここに「労働者階級」(class

ouvrière)という新たな階級が成立することになる。21

  モーリス・レヴィ=ルボワイエは、当時の労働者が置かれていた環境について次のようにまと めている。22この当時、何よりも労働者は孤立していた。その第一の理由には、フランス革命で 同業組合(corporation)が廃止されたことによって職業の自由は保証されたが、労働者は自由な 労働市場の中での孤立を強いられていたことがある。第二に、労働者には団結権や団体交渉権、

団体行動権のいずれも認められていなかった。1791年のル=シャプリエ法は賃金引き上げのため の団結を禁止し、賃金は労働者と雇用者との契約によって定められるべきだという認識が広がり、

これは刑法にも適用された。その結果、団結や団体結成、そしてストライキは犯罪として扱われ る こ と に な っ た 。 第 三 に 、 労 働 者 に 一 体 感 を 抱 か せ る 組 織 だ と し て 、 政 府 が 職 人 組 合

(compagnonnage)や友愛会(fraternité)といった相互扶助組織を解散させたことが挙げられる。

これらの施策の結果、労働者は孤立状態に陥ったが、彼らはまた同時にきわめて貧困でもあった。

引き続き、レヴィ=ルボワイエの見解を引くならば、労働者の貧困の原因には機械化の進展と低 賃金があった。機械化の結果、専門職工という職種が成立しなくなり、男性労働者も単純労働者 として労働市場において女性や児童と競合することになった。また、失業の危険も大幅に増加し

19 ただ、この当時政治家であったトクヴィルは地元シェルブールとパリを結ぶ鉄道の敷設に熱心に取 り組んでおり、県会議員も兼職していた彼はマンシュ県議会に度々鉄道敷設に関する報告書を提出し ている[OC, X[Correspondance locale], pp. 591-726]。政治理論家・思想家としては国家に対する依存と 隷属を批判したトクヴィルだが、同時に彼は地元への利益誘導を熱心に行った政治家でもあった。そ のため、理論家としてのトクヴィルの言動と政治家としての彼の行動との間にある矛盾に対して批判 を加えることは容易であろう。トクヴィルが提出した報告書のうち、1844年の報告書の中で彼は鉄道 敷設には民間企業主導で行う方法と国家を中心とした方法の2種類があり、前者の場合は敷設地域が 利益を得やすい場所に偏る傾向があるのに対して、後者は国家全体の利益に配慮した整備が期待でき ると分析しながらも、彼は民間企業案の方がより経済的で賢明だろうと記している[OC, X, p. 625]。

トクヴィルは国家主導の経済と民間企業主導の経済の両方の長所と短所を冷静に見抜いていた。

20 S, 2:1, p. 777. 〔邦訳110頁〕。

21 ルイ・シュヴァリエが公式統計に修正を加えたものによると、1801年には547,756名であったパリ の人口は、七月革命後の1831年には785,862名となり、二月革命前の1846年には1,053,897名に増加 している[ルイ・シュヴァリエ『労働階級と危険な階級  19世紀前半のパリ』喜安朗/木下賢一/相 良匡俊訳(みすず書房、1993年)177-180頁]。ここでシュヴァリエは単に人口増加のみに注目するの ではなく、それによる経済的・社会的・精神的影響に目を向けよと述べている。

22 レヴィ=ルボワイエ、前掲書、62-65頁。

た。これは単に人間の労働が機会労働に代替されるというだけでなく、不況の際に雇用者が労働 者を解雇することに対して経営者が躊躇しなくなったという心理的影響が大きい。そして、労働 者に貯蓄の習慣が存在していなかったことが、彼らの経済的自立を困難にした。元々、当時の労 働者は賃金のすべてを消費に回す傾向があり、19世紀前半に実質賃金が低下するとそれは益々著 しくなった。23

  厳密な意味で階級意識を持った労働者階級はこの当時存在していなかったと考えるレヴィ=

ルボワイエとは反対に、トクヴィルは新たな階級の誕生を覚知した。トクヴィルによる労働者階 級の分析は決して精緻なものではない。また、労働者を見る彼の視点は政治家として、支配層と しての性格を多分に含んだものになっており、客観的なものとは言い難い。ただ、この時代の一 定数の知識人や指導層は労働者階級の誕生とそれが内在している危険性について認識しており、

その点でトクヴィルの労働者観もこの時代としては一般的なものであったということができる。

この頃の労働者階級観を代表するものとしては、オノレ・アントワーヌ・フレジェHonoré Antoine Frégier(1789-1860)の『大都市の民衆における危険な階級およびその改善方法について』Des classes dangereuses de la population dans les grandes villes, et des moyens de les render meilleures(1840)があ るが、ここで労働者階級は「危険な階級」(classes dangereuses)と定義され、それは「まさに社会 にとって不安な対象」と見なされた。24また、ここでフレジェはそのような階級が危険化する要 因として貧困を挙げている。彼の主張に基づけば、犯罪行為自体だけでなく、それが発生する可 能性もまた「危険」(danger)に含まれており、そして犯罪の発生には貧困(pauvreté)が大きく 作用していた。25つまり、ここに次のような図式が成立することになる。経済成長とそれに伴う パリへの人口集中によって労働者階級という新たな階級が成立する。彼らは貧困状態にあり、恒 常的に犯罪への契機が存在しているため、この階級は「危険な階級」として定義される。このこ とによって、社会問題と治安問題は一体化することになり、トクヴィルをはじめとする当時の指 導層の多くは治安問題としても貧困を考える必要に迫られた。26

23 レヴィ=ルボワイエは、社会主義運動は、労働者階級が一定の政治的成熟を遂げ、個々の労働者が 社会の中で何らかの階級に帰属意識を覚えなければ実現できないと考える。そして、19世紀前半のフ ランスで社会主義革命が実現されなかったのは、政府の政策によって単一の「労働者階級」に属して いるという階級意識が彼らの中に存在していなかったこと、労働者が一定の経済的独立を確保してい なかったこと、そして適当な指導者が存在していなかったという3つの要素のためであるとしている

[レヴィ=ルボワイエ、前掲書、62頁]。これに対して、喜安朗は、当時のパリの労働者たちが「ア ソシアシオン」(association)を通して多様な人間関係を構築していたこと、そして彼らがそれらを通 して社会と積極的に関与しようとしていたことを主張する[喜安朗『夢と反乱のフォブール  1848年 パリの民衆運動』(山川出版社、1994年)100-105頁]。それによると、七月王政期になると職業や職 種ごとに労働者が結集して、賃金改定を求めてストライキを行うという労働争議の形が確立するよう になり、このような結集(アソシアシオン)を「コルポラシオン」と呼ぶようになった。二月革命以 後は特にその流れが定着していくが、単一の運動体が形成されていたわけではなかった。

24 Honoré Antoine Frégier, Des classes dangereuses de la population dans les grandes villes, et des moyens de les rendre meilleures (Paris, 1840), p. 7.

25 田中拓道『貧困と共和国  社会的連帯の誕生』(人文書院、2006年)81-83頁。

26 シュヴァリエは、実際の犯罪発生やそれへの恐怖もさることながら、そもそも当時のパリ民衆にと って犯罪がきわめて一般的なものであり、「民衆文化の一形態」であったことを指摘している[シュヴ