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天皇 と皇后 の空間

後宮 と附属 的空間

涼の

4殿 , 

そ して これ らによって周囲を画された小さな複数の庭か らなる空間 (空間修)と呼ぶ), (3)空(2)の

,す

なわち築地回廊で囲 まれた内裏内部の中央北半部に位置 し

,常

寧殿を正殿, 貞観殿を後殿 とし

,両

殿の東西に宣燿・麗景・登花・弘徽の

4棟

の脇殿を配 し

,常

寧殿の南に 前庭 を有する空間(空間●)と呼ぶ

), 

律)空間(3)の東西

,す

なわち築地回廊で囲 まれた内裏の東北 隅 と西北隅に位置 し

,そ

れぞれ築地塀で囲 まれる二つの空間(総じて空間律)と呼び,さ らに二つの 空間のうち東の空間を空間僻

)a,西

の空間を空間(4)bとそれぞれ呼ぶ。

 

また空間僻)aと空間律)bとはそれ ぞれさらに東西方向の築地塀で南北二つの空間に細分され

,東

の空間律)aには南に昭陽・昭腸北両舎

,北

に淑景・淑景北両舎

,西

の空間坐)bには南に飛香舎

,北

に凝花・襲芳両舎がある

),(5)空

(1)の東西に あ り

,空

(2)の南に位置する空間(東の空間を空間(5)a,西の空間を空間(5)bと呼ぶ

)で

ある。

まず この 5つ の空間について

,や

や詳 しくその構造をみると

,平

安官内裏の中央部を南北に 占める空間(1)・ 0)。 (3)の 3つ の空間には

,空

間の構成に共通 した特徴が認められる。 それはい ずれ も基本的には東西棟の正殿

1棟

とその東西に配 される南北棟の

4棟

の脇殿か ら構成 され, さらにこれに東西棟の後殿

1棟

が置かれる場合 もあることである。 これに対 して内裏の四隅に 位置す る空間(4)。 (5)は

,内

裏の中央部を占める空間(1)。 (2)。 (3)のように正殿 と脇殿か らなる構 成を採 らず

,空

間律)では全てが東西棟で

,空

(5)では逆に南北棟の殿舎が優勢を占めてい る。

この ことは平安宮内裏の中に占める位置か らもわかるが

,内

裏の中央部 を南北に占める

3つ

の 空間がその中心的な空間であるのに対 して

,内

裏の四隅に配置 される

2つ

の空間が これを補完 す るよ うな付属的な空間であったことを切らかに示 してい る。

次にこれ ら5つ の空間が有 していた機能や性格について簡単に述べ

,先

に指摘 した平安宮内 裏の構成する 5つ の空間が大 き く二大別できることを示す ことにする。 まず平安官内裏の中央 部を占める3つ の空間についてみると

,空

(1)と空間(2)が内裏において天皇に直接関係を有す る空間で

,そ

の うちの空間(1)が儀式・節会・宴などが執 り行われる公的な空間であるのに対 し

1)

,空

(2)が天皇の日常的な生活の場を中心 とした私的な空間であることには異論がないであ ろ う。 これに対 して常寧殿を中心 とした空間(3)は基本的には皇后(あるいは皇太后を始めとしてそ

2)

の時々にいわゆる後宮を代表する女性

)が

居住 してい た空 間で あ る と考 え られ

,従

来 か ら も皇后宮

。中官 に当たる空間であると考 えられてきた。以上のよ うに平安官内裏の中央部を占める3) (1)〜

(3)の 3つの空間は天皇 とその嫡妻である皇后 に関す る公的及 び私的空間であ ることになる。

天皇 と皇 后 に関わ る これ ら3つの空間に対 して

,内

裏 の方形 区画の四隅 に配 され た4つの小 空 間の うち東北 と西北の隅 を占める空 間は)は

,後

宮五舎 と呼 ばれ る殿合 が配置 され

,皇

后 を除 く天皇 の庶妻 たちで あ る後官 が居住 す る空 間であ ると一方東南 と西南 の隅 を 占め る空 間(5)につ い ては

,西

南 隅 の空 間(5)bと 東南隅 の空 間(5)aと を一応別個 に考 え る必要 があ る。 まず西南隅 の空間(5)bは 天皇の公私両生活 に深 く関わ る蔵 人所 とその管轄下の所 々な どが配置 されてい る 空 間であ る。 なお蔵人所 が平安官草創期 か ら一貫 して この小空 間を管轄下 においてた とみ るの は蔵人及 び蔵 人所 の歴史か ら見 て も困難 で

,蔵

人所 が次第 に充実 して行 く過程で最終的 に実現 され た ものであ る と考 えるのが妥 当で あろ う。 しか し

,翻

って蔵人所 による掌握 を可能 として 行 った ところに

この小空間の本来的な性格 や機能 が必ず しも平安宮 の創建 当初か ら固定 して い たのではな く

,そ

の よ うな事態 を許す よ うな曖味 な性格 を しか有 していなか った と見 ること もで きる。 これに対 して東南隅 の空間(5)aは 御輿宿 や朱器殿 があるが

,そ

の機能・ 用途 は必ず

424

しも明瞭 ではない。

 

しか しそ の 名 称 か ら天皇 が出行 の際 に用 いた御輿 (御輿宿は一名太子宿・

東宮休幕などとも言い

その一部が内裏での儀式に参列する皇太子が予め参入し控えていたりするための 直底 としても使用されている

)や

朱器 な どを収納・ 保管す るための施設 であ った と推定 され るこ とか ら

,本

来天皇 に関わ る物 を保管 す るよ うな収納空 間で あ る とす る ことがで きる。 以上 の よ うに東西両南隅の小空 間の性格・ 機能 を統一的 に把握 す ることは困難であ り

,そ

れ ら両小空間 か ら構成 され る空間(5)の本来的 な性格 や機能 については不 明 とす る他 ないが

,い

ずれ に して も 内裏 を構成 す る主要 な空 間ではな く

,む

しろ内裏 を構成 す る主要 な空間に対 して補完的 な機能 を果 たす よ うな空 間であ った と見 られ る。

以上 の よ うに

,平

安官 内裏 は大 き く

2つ

の空間

,す

なわち内裏の中央部を占める大 きな空間 と内裏の四隅 に小空 間 として存在す る空間 に分 け られ る。 この両空 間の間にはその内部 にある 建物 の配置 とそれによ って作 り上 げ られ る空 間の構造 に明確 な差異が存在 し

,そ

れ は両空 間の うち前者 が天皇 と皇后のための公私両面 にわたる空間で

,内

裏 の中心的 な空 間で あ ったの に対 して

,後

者 が それ を支 えるよ うな付属的 あるいは予備的 な空間であ った ことによる もの と考 え ら孝化る。

ii 

平城官第一次大極殿 院地区第 Ⅲ

‑1期

遺構 の再検討

平安宮 内裏の基本構造 を上記の よ うに把握 す ることが大 きな誤 りでない ことは

,平

城上皇 が 営ん だ「平城西官」 に当たる と考 え られ る平城官第一次大極殿 廃地区第 Ⅲ

‑1期

の遺構配置 に

5)

も明かである と考 えるので

,次

に この点について検討 を加 えてお きたい。

平城上皇 の ために平城官 に詰 めてい た官人達 の官衛 については必ず しも朔確ではないが

,平

城上皇 自身が居住 した と考 え られ る 「平城西宮」 については

,『

報 告 』 で検討が行われ

,平

城官第一次大極院地区の第 Ⅲ

‑1期

の遺構 を これに比定 した。 同報告書では

,そ

の第

V章

考察 において第一次大極殿地区の第 Ⅲ

‑1期

の遺構 について検討 が加 え られてい るが

,重

要 な点で 事 実誤認 もある と考 え られ るので

ここではそれによ らず

,独

自にその空 間構造 を検討 し

,従

来 の見解 に訂正 を加 えることとす る。 なお個 々の建物遺構等 に関 しては同報告書の第 Ⅲ章 の記 載 を追認 す るに とどめ

ここでは再検討 の対象 とは しない。

第一 次大極 院地 区では

,第

‑1期

I期

の築地 回廊 を踏襲 した位置 において東西 590 尺・ 南北

620尺

の規模の方形 の区画を形作 る築地 が設 け られ る。築地 にはその四面 に各

3門

が 設 け られ

,そ

の内部 には中央 やや北寄 りの

,築

地 内部の空間をほぼ南北 に三分す る位置 に石積 擁壁

S X9230が

あ る。 築地 内部の第 Ⅲ

‑1期

の遺構 は

石積擁壁

S X9230を

境 として

,大

き く擁壁上

,す

なわち擁壁 の北 にある遺構群 (殿舎地域)と 擁壁 の南方 にあ る一段低 い庭上 の遺構 群 (広場地域)と に三分 され る。 この うち殿舎地域 は

,の

ちに詳 しく検討す る平城宮 内裏地区の 遺構 や既 に検討 した平安宮内裏の殿舎 と比較 して,「建物配置」 が 「内裏的」であ るな どきわ めて注 目すべ き点 がある。一方擁壁下の広場地域 は

,庭

自身がその北寄 りに設 け られた東西塀

S A7130に

よ って庭 としての存在意義 を喪失 してお り

,『

報 告 』 の推定の如 く

,庭

としての

広場 が不用 であ ったために東西塀 によ って遮蔽 したのであろ う。従 って後者

,す

なわち石積擁 壁下 の広場地域 について独 自に検討 を加 える意味 はほ とん どない ことにな り

ここで平城上皇 の御在所 として検討 の対象 とす るのは

,石

積擁壁上 に展 開す る殿 舎地域 の遺構群 で あ る。

を2J

石積擁壁上には

,建

物 を始 め

,塀

・溝などがあるが

,そ

れ らの中で特 に建物 と塀 の配置に注 日して

,石

積擁 壁上 に配 され る遺構 群 を空 間構造 の観 点 か らみ る と

,大

き く三 つの空 間に分 け て考 えることができる。すなわち

,第

一 は

,石

積擁壁上の殿舎地域を南北にほぼ三分する位置 にある掘立柱東西塀S A 6624よ り南の空間である。 また第二は,S A 6624以 】ヒの空間の中央部 を占め

,北

を掘立柱東西塀 S A 6626,東 を掘立柱南北塀S A 6625によって

,そ

れぞれ画 される 空間である。そ して第三は, S A 6624以 北の空間の東辺部に存在す る空間である。

第一のS A 6624以南の空間には

,そ

の中央北寄 りに四面に庇が続 る桁行

9間

・ 梁行

5間

の東 西棟建物S B 6620があ り

,そ

の東南には南北棟建物S B 6622, さらにその東に も南】ヒ棟建物 S

B8300が

ある。S B 6620は

空間の北寄 りに位置 し

最大の建物であることや身舎の梁行が

3間

であることなどか ら

,こ

の空間の正殿 に当たる。 またS B 6622は桁行

5間

以上・ 梁行

4間

,

S B 8300は桁行

3間

以上 。梁行

4間

で,と もに建物の全容が半」明 していないが

,他

の協殿 との 関係か ら

,い

ずれ も東西両面に庇の付 く桁行

5間

・梁行

4間

の規模の建物であ ったと推定 され る。S B 6622と S B 8300の

2棟

は正殿であるS B 6620の東脇殿に当たる。 なお発掘調査では 設定 した調査範囲の関係か ら確認するに至 っていないが

,正

殿S B 6620を 扶んで東脇殿である

S B 6622,S B8300の 2棟

と対称の位置に西脇殿

2棟

が存在 してい ると見てよいであろ う。従 って この空間は中央北寄 りに正殿を配 し

,そ

の前面東西に脇殿 を配す る

,い

わゆるコ字型建物 を採 っていることになる。 しか し東西それぞれ

2棟

の脇殿 が南北に配置 されるのではな く

,東

西に並行 して置かれてい る点は

コ字型建物配置 としてはやや特殊である。それは,『報告 』 も指摘するよ うに

,殿

舎地区の空間が南北に狭いために生 じた特殊 な現象であると考 えられる。

既 に述べた平安官内裏の殿舎 と比較対応 させると

,正

殿S B 6220は紫震殿 に当 り, S B 6622・

S B 8300は それぞれ宜陽殿・春興殿に相当す る。

次に

,第

二のS A 6624以北中央部を占める空間は

,発

掘調査では確認 されていないが

,こ

の 空間の西を画するための塀がS B 7170を挟んでS A 6625と対称の位置に存在す るもの と考 えら れ るか ら

,北

と東西の三方を掘立柱塀によって囲まれ

,南

は次に述べ るS B 7170の桁行総長分 だけ開けて他は掘立柱塀 によって閉 じられていたことになる。 この空間の北寄 りには この中で 最大の規模を もち

,正

殿 に相当する東西棟建物S B 7170がある。桁行

7間

・梁行

4間

,南

北 両面に庇が付 く。

 S B 7170を

撚んでその東西両側 には対称の位置にS B 6621と S B 7209が あ る。 ともに桁行

5間

・梁行

4間

の南北両面に庇の付 く東西棟建物である。さらにS B 7170の前 面東西に もS B 7170を狭んで対称の位置にS B 7177と S B 7172がある。 この

2棟

は ともに東西 両面に庇の付 く桁行

5間

・梁行

4間

の南北棟建物である。これ ら正殿S B 7170を扶んで東西対 称の位置に配 され る

4棟

の建物 は, S B 6621。 S B 7173と S B 7209。 S B 7172の

2棟

づつで一 つの群をな し

,前

者は東脇殿

,後

者は西脇殿に

,そ

れぞれ相当する。『 報告 』では

平安宮 の内裏 と比較 して

,正

殿S B 7170を「天皇が日常的に起居する後宮の殿舎」である常寧殿

,東

脇殿S B 7173・ S B 6621を麗景殿・宣燿殿, S B 7172・ S B 7209を弘徽殿・登華殿 に

,そ

れぞ れ比定 した。 しか し「天皇が 日常的に起居する後官」 とあるのは明かな誤 りであるか ら論外 と して も

同報告書が

S B7170以

S B 7173・ 6621・ 7172・ 7290の

5棟

の建物 に比定 した上記 平安官内裏の諸殿舎は

,既

に述べたよ うに

,皇

后宮に相当する空間に存在する殿舎で

,天

皇が 内裏において 日常的に生活する空間はその南に存在 していた仁寿殿 を中心 とした空間であった

極 第 の 大 区 期 造 次 地 I構 一院 一問 第 殿

Ⅱ空

イク7

ドキュメント内 A  平城宮・京 出土軒瓦編年の再検討 (ページ 173-200)

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