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カント哲学における宗教的情操について

第 5 章 学校教育における「宗教的情操」について

第 2節 カント哲学における宗教的情操について

宗教的情操について検討を加えるには、西洋の近代思想にその論の基をたどる必要があ る。この点については、道徳教育と宗教教育に関係する批判哲学の祖である Immanuel Kant (以下、カント)が、古くからふれているところである。カント哲学において宗教的 情操は、道徳教育においてどのように位置づけられているかを明らかにする。

1 いかなる宗教教育にも、道徳教育は先行しなければならない

ヨーロッパの中世には、キリスト教の教義を論証し、学問的に体系化しようとするスコ ラ哲学がおこった。そこでは、「哲学は信仰の侍女である」とされ、哲学は否定的にみら れ、信仰の優位が説かれることが多かった。

『神学大全』*33を著したThomas Aquinas(以下、トマス=アクィナス)は、アリストテ レスの哲学を積極的に取り入れて、これまで神の啓示によってのみ与えられるものが知識 だったのが、同時に被造物である自然についての経験的な知識もあるとした。ただし、彼 は理性によって自然を探求する哲学は、神への信仰のもとに従わせることによって2つの 調和を図ろうとした。

近代においては、カントは『純粋理性批判』*34において、形而上学的な、経験を超えた 問いについては答えることはできないという、認識の限界を証明した。つまり、霊魂や自 由な心や神の存在など超越的な事物について認識は不可能であるとした。カントは、理性 によって、人間の内面にある神と自分のつながりのような、宗教的であやふやな部分につ いて解明していくことができると答えた。

カントは、理性をとことん使って何が道徳的に正しいのかを考え抜くことはできると考 えた。逆に、神についてもその存在について、以下のように限定して説明した。つまり、

神は統制的な理念として現象の世界原因者であり、最高存在であるとされているにすぎな い。かろうじて類比的に限定されて示されているのみで、理論理性の認識対象としてはこ れ以上明らかにされない存在とした。

だからこそ、カントの道徳教育の考察においては、宗教教育を想定していない。広瀬悠 三*35は、「道徳教育における宗教-カントの道徳教育論の基底を問う試み」(2015)の中 で、「最高善に到達するために、そこで要請される神の存在があるにすぎない」と Kate

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A. Moran*36の説を紹介している。また、Robert B. Louden*37がこのことについて、「宗教 的問答法を道徳の授業の中にとりいれるとしても、いかなる宗教教育にも道徳教育は先行 しなければならない」としているとの説を付け加えている。

道徳を子どもに教える場合に、最初に神がいるから神の教えとして道徳を教えるとする と、これは宗教的な道徳となってしまう。実際は、神の言うとおりにしなくてはならない という一種に権威的な部分も見えるような考え方に陥る状態でもある。この危険性をカン トは訴えたかったのだろう。

それよりも、自分の内なる声に耳を傾け、その理性が命ずるところにより道徳的実践を 行うことが大切だとするカントの道徳教育では、神の声が聞こえるのはまず道徳的実践を いかにするかの問いかけがあったときであり、その道徳的課題に直面しないかぎりにはい つも神の声がさまざま頭の中でこだましているわけではない。だからこそ、宗教よりも道 徳が必ず先行するのであり、神がいるから道徳心をもつとか道徳的行いをしなさいと言う 上下の関係ではない点をカント哲学において道徳と宗教の関係性を考える場合には、十分 に理解する必要があろう。

2 実践理性における神の存在について

広瀬*38は、カントの理論理性と実践理性のそれぞれから宗教とのかかわりをみている。

『純粋理性批判』には詳しく理論理性と宗教との関連について書かれている。なかでも、

人間存在の原因としての最高存在であるのが神であるという定義は明解である。

また、『実践理性批判』*39では実践理性について、神について考察できる可能性を示し ている部分であるという。実践理性の本性からの要求であるところに最高善(道徳性と幸 福とが一致する状態を指す)がある。この最高善を成り立たせる可能性として、神の存在 を必要条件にしている。さらに、カントは、人間が道徳性を完全に実現することに幸福を 見出す最高善にいたるには、絶え間なく自己を改善する必要があるとしている。この自己 改善の可能性の条件として、魂の不死を保証してくれる神の存在がなければならないと説 き、やはりここに神の存在が発生してくるとしている。

このように、カントは理論理性ではなく、実践理性に神の存在は関係していると考え た。『実践理性批判』には、次のように示されている。「物自体そのものの本性の理論か らではなく、われわれの固有の理性が権威をもって命ずる道徳法則から神の概念は生ずる のであり、実践的な純粋理性が神の概念を自分で作るようにわれわれに強いるのであ る。」(Ⅷ401)*40

そもそもカントは、定言命法の立場にたって「自分には厳しく、他人には優しく」とか

「寛容であれ」など行為の主観的原理(モットー)について、「汝の意志の根本指針がつ ねに同時に普遍的立法の原理となるように行為せよ」と言っている。

そして、定言命法に3つの方式を作り、道徳法則*41についてもふれている。

〇定言命法の第一方式(自然法則の方式)

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「汝の行為の根本指針が、汝の意志によって、あたかも普遍的自然法則となるかのように 行為せよ」

形式的には、自然法則と同列になるような根本指針にしたがって行為せよとしている。

〇定言命法の第二方式(目的の方式)

「汝自身の人格にある人間性、およびあらゆる他者の人格にある人間性を、つねに同時に 目的として使用し、決して単に手段として使用しないように行為せよ」

道徳法則固有の対象が人格であって、物ではない。人間性に他ならないのだから、相手 にも自分と同様に人格があるから、相手の人格を単に自分の行動の手段として使用しては ならないとしている。

〇定言命法の第三方式(自律の方式)

「自己自身を同時に普遍的に立法的と見なしうるような、そのような根本指針にのみした がって行為せよ」

規律は自分自身が律して決めていくことであり、そこに初めて本当の自由が生み出され ることを言っていて、自由の概念の根本となる点である。

ただし、この定言命法の部分には、自分自身の実践理性についての姿を理性から感性へ の命令という流れで示しているのみで、宗教的な情操を自分自身に求めるようなことはな い。また、宗教的情操が実践理性を鋭くするとか、実践理性を高めていく要素になるなど という記述も見当たらない。神の存在は、権威をもって理性が命ずる道徳法則の側に概念 として発生するというのである。そのためこれが宗教教育においてこれまで用いられた宗 教的情操とはその概念を異にしており、宗教的情操の教育が学校教育において可能かどう かを明らかにすることはない。

それでも、いつの時代にも理性の声や道徳法則を命ずる側の最高善に神が位置するな ど、西洋哲学から発生する道徳教育においては、こうした神の存在を抜きにしては考える ことができない。神との関係の部分は必ず残ってしまう。

孔子は自らの経験を大切にし、こうした霊や神といった存在を自分たちが思考していく にはその領域にたつことはできないから考えることはしないとした。これとは異なり、キ リスト教の影響が深く影響している近代西洋の社会では、全く神の存在をぬきにして哲学 の基本にすることはできないのであって、道徳教育を考える場合にも少なからず、道徳的 価値を考えたり、道徳的実践を追及していったりする場合に、神の存在なり神の意志など という発想は切ることはできない点があると推察される。

そのために、2014年に視察したイングランドのロンドンでは、学校教育において宗教教 育を大切にしてきた理由も、あらためてカントの批判哲学を学ぶなかで、学校教育におい て全くキリスト教育の学習や宗教教育を実施しなくてもよいというわけにはいかない部分 が必ず生まれてくる意味も確認できたところである。

ただし、カント哲学に影響を受けた学者たちは、カントの教育学と宗教について次のよ うに語っていることを補足しておく。例えばMartin Heidegger(以下、ハイデッガー)*42