ここではオーストラリアが移民社会となった背景について述べ たい。この社会的背景を理解することにより、なぜ移民の親から 子への政党支持が殆どないかを説明する手助けとする。先に結論 を述べると、私が調査対象とする 1984 年当時の非英語圏からの移 民は、政治知識が殆ど無く、政治にあまり関心が無かったとされ ている。そのため子に与え得る政党支持が無いと仮定できるので ある。以下は関根政美著『マルチカルチュラル・オーストラリア』
(1991)をまとめたものである。社会的背景を知ることで、私の調 査目的に適した移民の存在する理由が理解できると思う。
2−1.前白豪主義 (1788 年・白人入植期−1851・ゴールドラッシュ開始前後まで) 政策時代 英国、アイルランド系白人達のオーストラリア入植 が始まったのは 1788 年である。当初英国植民地省は 1820 年頃ま ではオーストラリアを一般植民地としてよりは、流刑囚の送り先 として位置づけていた。初期入植者の奉公人として有色人種が、
また流刑囚人としてインド人が労働力として移住してきたとされ
ている。しかし 19 世紀前半の英国本国における奴隷制反対運動に より、有色人労働者の数は非常に少ない。有色人労働力の利用が 本格的になったのは、1830 年代の後半に羊毛の輸出が本格化して からである。囚人流刑が中止され、一方で拡大する放羊産業を前 に労働力不足が深刻になった為に、低賃金労働者としての有色人 労働者利用が求められた。しかし白人移民の雇用の問題や、人種 的同質性の維持、有色人労働者がヨーロッパ式の労働に不慣れだ ったなどの理由から、有色人労働者導入は失敗している。1848 年 からは中国人が移住してくるようになる。始めは低賃金で辛い牧 場、農場労働に従事していたが、1851 年にゴールドラッシュが始 まると、そちらに参加する者が増えていった。
2−2.白豪主義 a) ゴールドラッシュ時代(1850−1860 年代)
政策の時代 1851 年にゴールドラッシュが生じ、1854 年頃から中国人が金 鉱堀りとして大量に入植した。これ以前の全有色人労働者は 3−
4,000 名ほどであったのが、ゴールドラッシュのニュースが中国 で流されると大量に中国人が押し寄せ、1860 年にはオーストラリ アの中国人人口が 4 万人弱にもなっている。このような急激な中 国人の到来は経済、文化、社会的理由から特に白人金鉱夫との対 立を招き、中国人移住制限へとつながっていく。だがこれはゴー ルドラッシュが下火になると、制限法の撤廃がなされるようにな る。
b)中国人移住制限と白豪主義政策の形成(1870−1880 年代) オーストラリアにおける中国人移住制限の運動はこの時期再び 活発になる。その理由はゴールドラッシュの再来、帰国しなかっ た中国人の低賃金労働者化(白人の雇用を脅かす)、伝染病発生と 中国人の因果関係の問題などである。この時期、中国人以外にも インド人、日本人、南太平洋諸島人そして中近東からの人々も低 賃金労働力としてオーストラリアに住んでいたが、それらの人々 は排斥されることは無かった。
c)白豪主義政策の有色人移民全体への拡大・適用(1890 年代) 1888−1889 年にかけて完成した中国人制限の統一的実施とそれ
を支えた白豪主義を受けて、移住制限が他の有色人種にも適応さ れる時代であった。しかし、有色人種による低賃金労働力におい て政治、経済的利害があった為に統一した政策とはならなかった。
d)連邦白豪主義政策の発展(1901−1940 年代)
1901 年に開かれた最初の連邦議会において連邦移住制限法が成 立し、その後の州の差別法の制定により差別が強化された。人種 的、文化的に有色人種は異質とみなされ、文化、社会発展の度合 いも低いと考えられていた。英語系の人々と有色人種が一つの社 会で共存する、あるいは同化することは困難であり、英語系の人々 の文化、社会的レベルを低下させるという認識があった。
2−3.白豪主義政 a)大量移民導入期と同化主義時代(1950−1960 年代)
策の終焉と 1943 年頃から大量移民計画が議論され始め、1947 年に実施に 多文化主義 踏み切られる。その原因は以下のようなものである。まず、第二
次世界大戦の経験より、大陸防衛と内陸開発の為の人口増加策と して。次に戦後の経済復興の基礎となる工業化のために必要な労 働力の供給策として。またオーストラリア経済の拡大と自立化の ため。さらに人道主義的な立場より、争いによって祖国を失った り国を追われて行き場を無くしたりした難民庇護の為。最後に文 化的発展を目的として、大量移民政策が行われた。
初めは英語系の移民が中心であったが、1950 年代の後期から 1960 年代にかけて南ヨーロッパの移民の受け入れが急増する。大 量移民政策において、移民はオーストラリア社会への同化を強要 され、定着して永住することを求められた。
b)白豪主義政策の終焉(1960 年代中期−1970 年代前期) 、 さらに移民供給地は多様化していき、やがて中近東の人々やアジ ア人も移民の対象となっていった。1972 年に政権の座についたウ ィットラムは、政治、経済、文化など社会の多方面に渡って改革 を行った。その中には移民政策も含まれていた。1973 年には「移 民法」及び「オーストラリア市民権法」の改正を行い、1975 年に は「人種差別禁止法」を制定した。この事により、連邦全体に適 用し得る人種差別禁止法が実施された。これで、オーストラリア
社会における長い白豪主義政策の終焉となるのである。
c)マルチカルチャリズムの時代(1970 年代中期−現在)
1970 年代中期より経済環境が悪化した為、移民政策には大きな 変化が現れる。経済低成長のために大量の移民労働力の調達が以 前ほどは必要でなくなった。大陸防衛と経済成長を目的とした移 民政策は終結し、移民数は制限された。1976 年からのフレーザー 政権も移民政策には慎重であった。ただ白豪主義政策は取れなか ったので、移民の家族呼び寄せや難民救済の政策を堅持した。特 に 1978 年に始まった大量のインドシナ難民の受け入れは東南アジ ア地域の政治的安定にとっても重要であったため、難民が有色人 であっても受け入れを避けることができなかった。その結果、移 民、難民の出身国の多様化はさらに広がった。1980 年代の初頭に 到着した移民のうち、アジア系の移住者の占める割合は 3,4 割に も達した。1983 年のホーク政権の移民政策は、年毎に景気の回復 にあわせて移民数を増加させるものであった。近年の移民政策は その時々の経済状況に大きく左右されているが、労働力や資本家 を中心とした移民に比べ、家族呼び寄せや難民を中心とした受け 入れに傾いている。オーストラリアにおいて戦後始まった大量移 民そのものはまだ続行されており、今後も移民、難民を中心に人 口構成がさらに多様化していくと考えられる。
以上、オーストラリアが移民社会となる背景を述べた。初めは白 豪主義に基づき制限されていた移民の受け入れが、19 世紀半ばの 大量移民計画によって拡大され、それと同時に移民供給国が多様 化していった。それに伴い非英語圏からの移民や難民が増加し、
オーストラリアがマルチカルチャリズム化していったのである。
2−4.移民社会 次にオーストラリアの人口動態について注目する。図1−1よ オーストラリア り、1986 年ではオーストラリアの人口の 21.3%が移民及び難民 の人種、エスニ ということになる。図1−2の海外出身者の内訳より、英国、ア
ック集団 イルランド、アメリカ合衆国、ニュージーランドなどの英語圏か ら移住してきた人々は外国生まれの約半分と言える。逆に言うと、
全移民人口の約半分は非英語圏の国(図で塗りつぶした国)からの
人が占めていると言えるのである。移民、難民供給国は世界中に 広がり、100 カ国以上に渡っている(関根 1991, p. 21)。これらの 移民が、なぜ政党支持を持たないかについての理由を、移民の特 質から見てみる。
図1−1
オーストラリアの出生地別人口
海外出身者 21%
オーストラリ ア 79%
海外出身者 オーストラリア
図1−2
海外出身者の内訳
英国・アイルランド 43%
ユーゴスラビア マルタ 6%
2%
ポーランド 3%
レバノン 2%
ギリシャ アメリカ合衆国 5%
1% ソ連
2%
マレーシア 2%
インド 2%
ヴェトナム 3%
オランダ 4%
ドイツ ニュージーランド 4%
7%
イタリア エジプト 10%
1%
中国 1%
南アフリカ 1%
出所:DIEA (1987) まず教育問題について取り上げたい。同じ移民でも英語系の移 民はオーストラリアで順応しやすいと考えられるが、非英語系の 移民には言葉の壁が大きく立ちはだかる。関根は以下のように述 べている。
南ヨーロッパ系移民、さらには中近東、東南アジアなど第三世 界からの難民は教育レベルも低く言語的にも文化的にも大きく異 なるので、適応や同化は難しいとされている。特に難民は、長年 の戦争や強制労働によって十分な教育を受けていないことが多い 上に、たとえ(自国で)十分な教育を受けた人でも長い避難生活、
難民キャンプでの生活で大きなハンディを背負うことになり、問 題は深刻である(関根 1991, p. 45)。
オーストラリアに移民してきて教育を受けられれば良いが、多 くの場合は自分の身の安全確保のため、あるいは職を求めて移住 してきていると思われる。その場合、社会に出てもなかなか英語 は上達せず、社会のことも分からないままとなることが十分予想 される。
関根の指摘する問題のもう一つが労働である。非英語系の人々