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23 本ケースは、小菅(2006; 2008; 2010)、小菅・野田(2011、週刊SPA!編集部(2008)、遠藤

(2010)、旭山動物園・ホームページなどを基に執筆しており、トライアンギュレーション

triangulation)にも配慮している。さらに、小菅正夫氏へインタビューの依頼をしたが、長期海外出

概要

旭山動物園は日本最北の動物園であり、札幌市の円山動物園、帯広市のおびひろ動物園に 次いで、北海道で3番目の動物園として、1967年、旭川市に開園した。開園当初の年間入園 者数は約40万人であったが、旭川市の人口増加に伴い増加していった。

しかし、1980年代以降、レジャーの多様化により、入園者数は減少していくようになった。

その後、大型遊具施設の導入によって、1983年には年間入園者数が約59万人となったが、

それをピークに入園者は減少していった。1996年には入園者が過去最低の約26万人にまで 落ち込み、閉園も囁かれるようになった。

旭山動物園では、小菅正夫が飼育係長になり、旭山動物園が閉園の危機にあることを知っ た。入園者数も予算も少ない中で、動物たちの魅力や素晴らしさを顧客に伝えるためのワン ポイントガイドや、理想の動物園を描いた 14 枚のスケッチなど、来るべき時のための準備 を行っていた。1995年に菅野浩が園長を退任した。小菅正夫が新園長に就任し、動物園を立 て直そうと努力していたが、その努力は実らなかった。

ところが、翌年の1996年に旭川市の市長が代り、動物園の再整備に着目していた市長が、

小菅に話を聞きたいと言ってきた。これまでの準備や小菅の説明の努力もあり、その翌年の 1997年に、市長は動物園に新しい施設建設の予算をつけることを決定した。小菅は行動展示 をベースにした施設建設を進めるとともに、年間パスポートなどの新たな顧客サービスも行 い、日本中から注目されるようになった。さらに、2004年の7月、8月、2005年の7月、8 月、9月には、上野動物園の入園者数を上回り、その後も多くの人が訪れ、「日本一の動物園」

とマスコミで騒がれるようになった。旭山動物園は復活を遂げた。

これまでの旭山動物園

旭山動物園は、旭川市にある日本最北の動物園である。1960年代に、全国で動物園ブーム が沸き起こり、日本各地に新しい動物園ができあがっていった。北海道では、札幌市の円山 動物園、帯広市のおびひろ動物園ができ、旭川市でも動物園を望む声が多くなっていった。

1967年には、北海道で3番目の動物園として、旭山動物園が誕生した。1980年頃までは、庶 民のレジャーも少なく、旭山動物園はにぎわいを見せていた。

ところが、1980年代以降、レジャーの多様化により、テーマパークや大型レジャー施設な どが登場し、庶民の人気はそのような大型レジャー施設に集り、全国的に動物園の人気は低 下していった。

その後、顧客を取り戻そうと、ジェットコースターなどの大型遊具施設を導入していった。

大型遊具施設の導入直後は一時的に入園者数が増加したが、その後長くは続かず、入園者数 は下降線の一途を辿っていった。

初期の旭山動物園

日本最北の動物園である旭山動物園は、札幌の円山動物園、帯広のおびひろ動物園に次い で道内3番目の動物園として1967年に誕生した。1960年代は、全国で動物園ブームが沸き 起こり、日本各地に新しい動物園が出来ていった。

1965年、旭川市にも動物園をつくることが決まり、動物園建設事務局が発足した。その事 務局のメンバーとして、1966年、北海道旭川保健所を退職した1人の若い獣医が加わった。

それが、菅野浩であった。菅野は、獣医兼飼育係として、1985年から定年を迎える 1995年 までの10年間にわたって、旭山動物園の園長を務めた。

菅野は、動物園の初期のことを、このように述べている。「最初は週に1回、全員が出勤す る日をつくって、勉強会を行っていました。それを続けているうちに、どんどん高度な研究 になっていって、やがて飼育係同士で研究発表のようなこともするようになっていきまし た。」後に、旭山動物園の飼育係の研究レベルは全国の飼育研究会で発表するほど高まり、全 国の動物園関係者からも一目置かれるようになっていった。開園から 5 年が経過した 1972 年に、後に絵本作家となるあべ弘士、その翌年の1973年には、後に旭山動物園の園長として 動物園を復活に導くことになる小菅正夫が入園した。

あベにとっても、小菅の存在は大きかったようである。あべは、小菅と一緒に勤務してい た動物園の初期頃のことを、このように述べている。「同世代に、同じ夢を語れるライバルが いたことは、僕にとっても幸せなことだった。小菅さんや牧田さん、ほかの先輩飼育係も交 えて、毎日のように動物園とは何か、動物とは何か、命とは何かという話をしていたからね。

当時、旭山動物園に集まった飼育係は、人数こそ少ないものの、まさに少数精鋭という感じ でしたね。誰一人、怠けるとか、だらしないとか、そういうことがない。動物園の仕事って、

飼育だけすればいいなら、餌をあげて掃除して、それこそ3時間で終ってしまう。でも、誰 一人として定時で帰る飼育係はいなかった。その意味では、日本一公務員らしくない公務員 だね。新しくて若い動物園だったから技術的にはほかの動物園には及ばないかもしれないけ ど、みんな若かったし、飼育係で一番年上でも30代前半だったから、ゼロから創っていく面 白さがあったんだろうね。」

さらに、あべは、旭山動物園の自由と責任について、このように述べている。「僕なんか、

それまでハトとかアヒルとかウサギとか、面白くないからさあ、『キ、キリンやらせてくださ い』って勇気出して言うんだけど、キリンの担当者が『5 年早い』とか言ってやらせてくれ ない。でも、助手としては仕事させてくれる。だから、意欲のあるやつはどんどん仕事がで きるし、やりたくないやつはやらなくてもいいという、厳しい意味での自由な職場だった。

だけど、自由にできるということは、反面、責任を持つということなんだ。」

旭山動物園の飼育係は、朝9時のミーティングが終れば、各自の担当の動物のもとへ出払 ってしまい、昼食まで顔を合わせないことも多い。自由と責任、そして飼育係としてのプロ 意識は、創立当時の若き飼育係たちによって育まれたものである。

動物園冬の時代

開園から10年が過ぎた1970年代後半頃に入ると、旭山動物園の入園者数は伸び悩みを見 せはじめていた。1975年の入園者数は、開園時の1967年の45万8000人より1万人少ない、

44万8000人であった。そのため市は、メリーゴーラウンドや豆汽車といった遊具施設の導 入で集客アップを図っていた。

1980年代以降、レジャーが多様化し、全国で動物園は入園者数を減らし始めた。1983年、

入園者数増のテコ入れ策として、市はジェットコースターを中心とした大型遊具施設の導入 を決定する。その年の入園者数は過去最高の59万7000人を記録した。だが、これをピーク に減少の一途を辿っていくことになる。

菅野が園長に就任したのは、そんな動物園の冬の時代を迎えた、1985年だった。この頃に ついて、菅野は、このように述べている。「開園したばかりの頃は、ただ動物がいるだけで、

みんなが珍しがってやってきた時代です。しかし、どこの動物園でもバブル期を迎えるあた りから、テーマパークや大型レジャー施設にお客さんを取られ、家族連れでやってくる入園 者の数がどんどん減っていきました。」

入園者が減り続ける動物園に、市も予算を出す余裕はなくなっていった。いつしか、職員 の人件費や動物の餌代など、ギリギリの維持費しか出ない時代が続くようになった。これに ついて、菅野は、このように述べている。「20 年も経つと、施設も老朽化してきます。その ため、当時の動物園の印象といえば『汚い、臭い、面白くない。』そんな声がよく聞かれるよ うになっていったんです。園内を回っていると、入園者から『こんな狭くて汚い檻に閉じ込 められて、動物がかわいそう』と言われたりもしました。」

小菅は、市民のこのような反応について、このように述べている。「私を含め、飼育を担当 している者にとって不思議でならなかったのは、一般の人が園内の動物を見てもつまらない という感想を抱くことであった。飼育をしていると、その最中に見せる動物の表情や行動は、

面白くて仕方がない。私自身、動物園に就職してほんとうによかった、こんなに面白いこと をして、給料をもらっていいのかと思ったほどだ。なのに、『つまらない』という感想を抱く ことが信じられなかった。」

それでも入園者を呼び戻したい一心で、菅野は、予算要求のために市役所や市議会を奔走 した。しかし、そんな思いとは裏腹に、一部の市議会議員からは動物園不要論も囁かれるよ うになっていった。

顧客から見放され、市議会議員からも不要論が湧き上る中で、世間からも動物園の存在意 義に疑問が投げかけられていた。「わざわざ野生動物を檻の中で飼う必要があるのか。動物を 見たければ山や海などの自然に行けばいいという考え方です。そのため当時はマスコミでも 動物園不要論や動物園罪悪論などが書きたてられていた時代でした。しかし、私たちの考え は違っていた。動物園は単なるレジャー施設じゃない。展示している動物との触れ合いを通 して、動物と人間、または自然と人間が向き合うためにはどうすればいいのかを、子供も大 人も学ぶことができる素晴らしい場所です。動物園は、決していらない施設なんかではない んです」と、菅野は述べている。

小菅は、まず、「動物園とは何をするところなのか」といった動物園の存在意義の確認から 始めた。動物園には4つの役割がある。それは、「レクリエーションの場」、「教育の場」、「自 然保護の場」、「調査・研究の場」4 つである。こうした「動物園に携わる者としての基本ス タンス」を、朝礼や勉強会など、様々な機会を使って、徹底し、確認した。小菅は、「その基 本に関して、飼育係が共通認識を持っていれば、あとはそれぞれの飼育係に考えさせる。そ れをうまく動物園づくりに生かしていけばいいのだ」と述べている。そして、飼育係は知恵 を絞り合い、「動物園とは何か」というテーマを踏まえて、「われわれは何をしなければなら ないのか」、「動物たちを通して何を見せ、何を訴えるべきか」、「動物たちに何をするべきか」

といったテーマを根本から考えていった。

しかし、市は、再び大型遊具を導入することを決定した。これは、動物園本来の姿とかけ 離れたものであり、その時の菅野の様子を、小菅は、このように述べている。「大型遊具施設 の再導入が決まった時のことは、今でもよく覚えています。菅野さんは、とても温厚な人で、

めったなことで怒るような人じゃないんです。その菅野さんが、園長室で『冗談じゃない。