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概要

円山動物園は、1951年5月、円山の地に「児童遊園」として開園し、9月に「円山動物園」

に改称した。生きた大型の動物を見ること自体が珍しかった時代であったため、入場者は多 く、1951年度の入場者は27万5000人となった。その後、動物の種類、点数も拡大し、さら に札幌の人口増加に伴い、動物園は子連れの市民で年々にぎわった。1959年から、札幌市内 や郊外に次々とニュータウンが建設され、動物園は若い家族が休日を過すいこいの場となっ ていった。1974年度には来場者が124万人になった。

しかし、1980 年代に入って、札幌周辺では大規模な遊園地などが次々と開園していった。

新しい遊具やアトラクションを備えた民間の施設が次々と開園する一方、コンクリートの檻 の中でいつ行っても同じ動物がいる動物園に、子どもたちは魅力を感じなくなっていった。

レジャーの多様化、子どもの減少が、動物園の存在価値を低下させていった。

2005年には、動物の飼料用に寄贈された食品を、職員が持ち帰る不祥事が発生し、これが 大きく報道されてしまった。さらに、動物園に市の行政監査が入った結果、新たに入園者数 の水増しも発覚し、2004年度、2005年度の入場者数は、2年連続の50万人割れであること がわかった。

19 組織名を伏せておく必要から、氏名は全て変更している。

20 本ケースは、三木(2011)、札幌市環境局円山動物園管理課(2007)、札幌市環境局円山動物園経 営管理課(2008)、円山動物園・ホームページなどを基に執筆しており、トライアンギュレーション

triangulation)にも配慮している。さらに、2016518日に金澤信治氏への事実確認に関するイ

札幌市役所は、動物園の立て直しのため、2006年、円山動物園の新園長に、市民まちづく り局男女共同参画推進室長だった金澤信治を任命した。事務職出身の園長は開園以来初めて であった。さらに、鈴木真を経営管理課長に、北川憲司を経営係長に任命した。いずれも、

前任の職場でユニークな実績を挙げてきた市役所の事務職員であった。

その後、園長の金澤を中心に、地元志向を中心とした改革に乗り出し、地域の市民や企業 を巻き込むことによって動物園のにぎわいを取り戻し、復活を遂げた。

これまでの円山動物園

円山動物園は、1951年5月、北海道初、全国では10番目の動物園として、札幌市の円山 に誕生した。当初は「児童遊園」として開園したが、9月に「円山動物園」に改称した。動物 はヒグマのつがい、エゾシカ、オオワシの3種4点だけであり、アトラクションとして、子 ども電車やオートスクーターが設けられていた。生きた大型の動物を見ること自体が珍しい 時代だったため、入場者は多く、1951年度の入場者は27万5000人であった。その後、市民 から、動物の寄付の申し入れが相次ぎ、キツネ、タヌキ、水鳥類など、数年で約50種類、100 点以上の動物を飼育するようになった。札幌の人口増加に伴い、動物園は子連れの市民で 年々にぎわった。さらに、郊外に次々とニュータウンが建設され、第2次ベビーブームの世 代が乳幼児期を迎える1974年度には124万人もの来場者を記録した。

ところが、1980年代に入って、札幌周辺では大規模な遊園地などが次々と開園した。新し い遊具やアトラクションを備えた民間の施設が次々と開業していく中、レジャーの多様化、

子どもの減少などにより、動物園の存在価値が低下していった。

さらに、2005年度には、2つの大きな不祥事が発生した。1つは、「寄贈された動物のえさ 用の食品を職員が持ち帰った」と大きく報道されたことであり、もう1つは、市の行政監査 により、入園者数の水増しが発覚したことである。入園者数については、無料の子どもの入 園者数が多かった時代のデータに基づいて推計しており、実際の計測値と比べると、5 年間 で66万人多く発表していた。このため、2005年度の入場者数は、当初の発表より13万人少 ない49万人に訂正された。これで、2004年に続き、2年連続の50万人割れとなり、2度に わたる拡張で、1957年に現在の規模になって以来、最も低い入場者数であった。

初期の円山動物園

円山動物園は、1951年5月5日、こどもの日に、「児童遊園」として円山の地に開園した。

北海道では初めて、全国では10番目の動物園であった。動物はヒグマのつがい、エゾシカ、

オオワシの3種4点だけであり、アトラクションとして、子ども電車、オートスクーターが 設けられていた。4 点の動物でスタートした円山動物園だが、ヒグマなど、生きた大型の動 物を見ること自体が珍しかった時代だったため、入場者は多かった。1951年度の入場者は27 万5000人であった。

開園時には「児童遊園」という位置づけであったが、1951年9月には「円山動物園」に改 称した。市民からは動物の寄付の申し入れが相次いだ。キツネ、タヌキ、水鳥類など、数年 で約50種類、100点以上の動物を飼育するようになった。

札幌では、人口増とともに、動物園は子連れの市民で年々にぎわった。1959年には真駒内

(南区)、ひばりが丘(厚別区)、1962 年には青葉町(同区)、1969 年にはもみじ台(同区)

と郊外に次々とニュータウンが建設された。動物園は、若い家族が休日を過すいこいの場で あり、子どもたちの遠足の目的地でもあった。1970年、札幌市の人口は100万人を突破した。

さらに、第2次ベビーブームの世代が乳幼児期を迎える1974年度には 124万人もの来場者 を記録した。

動物園の顧客離れ

1980 年代に入って、札幌周辺では大規模な遊園地の開業が続いた。1983 年に留寿都村に カントリーランド(現ルスツリゾート)、1986 年には岩見沢市に三井グリーンランド(現北 海道グリーンランド)が相次いで開業した。1989 年以後は、テーマパークのブームが起き、

グリュック王国(帯広市、1989年)、カナディアンワールド(芦別市、1990年)などが次々 と開園した。

新しい遊具やアトラクションを備えた民間の施設が次々と開業する一方で、動物園は逆に 動物虐待という批判を受けて芸の披露をやめてしまった。コンクリートの檻の中でいつ行っ ても同じ動物がいるという動物園に、子どもたちも魅力を感じなくなっていった。さらに、

レジャーの多様化、子どもの減少が、動物園の存在価値を低下させていった。

どん底の円山動物園

2005年度は、円山動物園にとって、大きな転換点となる1年であった。この1年で2つの 大きな不祥事が発生し、動物園経営のあり方そのものが厳しい批判にさらされた。

1つめの不祥事は、7月15日、札幌市南区の火災にあったスーパーマーケットから、店を

閉めたために売ることができなかった生鮮食料品を動物の飼料用に寄贈したいとの申し入 れがあり、品物を受け取った。しかしながら、動物用とは言っても、弁当や刺身、メロンな ど、動物には与えられない食品も多かった。このため、「破棄したら厚意を無駄にしてしまう」

と、職員がそれらを持ち帰ってしまった。そのことについて、「寄贈された動物のえさ用の食 品を職員が持ち帰った」と大きく報道されてしまった。

その後の調査で、市の予算で購入したものではないため、持ち帰った行為そのものは横領 などには当らず、違法性はなかったが、園長の指示を仰ぐなどの手続きがとられておらず、

動物園のマネジメントに問題があるとの指摘を受けた。

2つめの不祥事は、動物園に市の行政監査が入った際のことであった。4月12日付の監査 結果で、新たに入園者数の水増しが指摘された。入園者数を、無料の子どもの入園者数が多 かった時代のデータに基づいて推計しており、実際の計測値と比べると、5年間で66万人多 く発表していた。これにより、2005年度の入場者数は当初の発表より13万人少ない49万人 に訂正された。結果は、2004年に続き、2年連続の50万人割れであった。2度にわたる拡張 で、1957年に現在の規模(約22万4000平方メートル)になって以来の最も低い数値であっ た。

その他、人件費や飼育費などの支出が入園料などの収入を超過し、年平均約9億円の実質 的な赤字が出ていると指摘された。一方、2005年度、旭川市の旭山動物園の入場者は初めて 200万人を突破した。

円山動物園立て直しのための人事

2006年4月、円山動物園の新園長として、市民まちづくり局男女共同参画推進室長であっ た金澤信治が任命された。代々、動物園は獣医が部長級の園長を務めてきた。事務職出身の 園長は開園以来初めてであった。経営管理課長には西区の琴似二十四軒まちづくりセンター 長の鈴木真、経営係長には、市役所への業務問い合わせ、催事申し込みなど総合窓口となる コールセンターを民間委託で立ち上げた北川憲司が起用された。いずれも市役所の事務職員 で、前任の職場でユニークな実績を挙げてきた。この年春の人事は、「動物園人事」が目玉に なった。

札幌市長の上田文雄が、着任前の金澤に会い、「円山動物園も、旭山のように元気にしてほ しい」と、胸中の思いを告げた。しかし、金澤は首をたてに振らず、「それはできません」と 言った。市長が困惑した表情を浮かべたので、金澤は続けてこう答えた。「円山には、円山に