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概要

はとバスは、1948 年の創業以来、東京観光の代名詞として抜群の知名度を誇っていたが、

1988年には 4年連続の赤字を計上し、70億円もの借入金を抱え、倒産寸前の状態となって いた。この危機的状態を脱するため、1998年に元・東京都庁の公務員であった宮端清次が社 長となり、改革に着手した。改革によって、初年度には黒字化を達成し、4 年後には累積赤 字も解消し、はとバスはV字回復を遂げた。

これまでのはとバス

はとバスは、東京都内とその近郊を中心に、バスによって観光を行う目的で、1948年に「新 日本観光株式会社」として設立された。その翌年の1949年には、団体貸切第1号車となる成 田山初詣バスを元旦に運行した。また、新たに女性ガイド第一期となる5名を採用し、東京 都内の定期観光バス運行開始第1号車となる「富士」号を走らせ、東京都内の半日コースな どの観光業務を行っていた。

21 本ケースは、宮端(2010)、株式会社はとバス・ホームページ、都政新報・ホームページなどを基 に執筆しており、トライアンギュレーション(triangulation)にも配慮している。さらに、20165 21日に宮端清次氏への事実確認に関するインタビューを行っている。また、ケースのため、一部の表

1963年には、運転台を低くして客席から前方の眺望がよくなるように工夫された定期観光 用スーパーデラックスバスを導入し、この年に、社名(商号)を現在の「株式会社はとバス」

に変更した。

創業から 50 年以上の長きに亘り東京を中心に近隣の名所などを巡る観光バスとして活躍 し、東京観光の代名詞となるまでに至った。

はとバスの低迷と危機

これまで、はとバスは、数々の試練があったが、それらの試練を乗り越え、東京観光の代 名詞として活躍してきた。しかし、1990年代の景気後退、所謂「バブル崩壊」後は、娯楽費 に対する支出が減少し、はとバスのようなレジャー産業は深刻な事態に陥った。さらに、1995 年には、阪神・淡路大震災、東京の地下鉄サリン事件などが追い打ちをかけ、はとバスの乗 客は激減した。

1988年8月、宮端清次は東京都庁から呼び出しを受けていた。宮端は、東京都庁では交通 局や総務局などで勤務し、交通局長を最後に定年退職した。定年退職後は、東京都地下鉄建 設株式会社で専務取締役として勤務し、地下鉄建設の業務に従事していた。2 年後には地下 鉄大江戸線の全線開業をひかえており、宮端は工事の進捗状況でも聞かれるのかと思いなが ら東京都庁へと出向いた。しかしながら、そこで宮端が聞かされたのは、翌月の9月の株主 総会から、はとバスの社長になり、経営を立て直してほしいというものであった。

はとバスの社長は代々、筆頭株主である東京都庁の交通局のOBと、もう1つの大株主で あるJTBのOBとで交代で歴任していた。

宮端は、東京都庁の交通局時代には、「お客さまあっての都営交通だ」、「我々の給料はお客 さまからいただいているんだ」、「知事や局長ではなくお客さまの方を見ろ」と言っており、

東京都庁内外から、「役人らしからぬ」、「都庁からはみ出た異端児」と言われていた人物であ った。宮端は、自分がそのような人間だから、はとバスの再建の話がきたのかもしれないと 思っていた。

宮端は、これまでずっと世話になってきた東京都庁からの指示であったため、断ることは できないと考え、引き受けることにした。

改革の開始

宮端がはとバスの状況を調べてみると、4 年連続の経常赤字となっており、借入金につい

ても 70 億円にまで膨らんでいた。運転資金にも困るようになっており、銀行からの融資が 止まれば倒産というような状況にあった。

ホテル事業や不動産賃貸事業では利益があったにもかかわらず、観光バス事業や子会社の 海外旅行事業、料理飲食事業の赤字が大きく、グループ全体では危機的状況に陥っていた。

宮端は内示を受けてすぐ、新役員予定者に集ってもらい、全社員の意識改革、徹底した合 理化、CS(サービス)の向上などの再建の基本方針を決定し、具体化を急ぐこととした。

また、はとバスの本社などにも出向き、前任者の了解を得て、管理職や労働組合の幹部な どにも挨拶し、懇談した。そこで宮端は、このように感じた。

・社員は経営常態に不安を感じているものの、最後は大株主が何とかしてくれるのではな いかという親方日の丸的な安心感(期待)を持っていること。

・総じて「まじめ」ではあるが、覇気に欠ける面が見られること。

・はとバスという会社が好きで入社してきて、この仕事を続けていきたいという希望を持 っていること。

しかし、宮端が意外に感じたことは、労働組合幹部(委員長は運転士)と話し合ったとき のことであった。労働組合幹部は、はとバスの管理職以上に危機感を持っており、「合理化絶 対反対」とは言わなかったことである。宮端は、観光バス業界、特に首都圏の同業他社の厳 しい状況を熟知していたからだと考えていた。宮端は、「この会社と社員を守りたい」という 一点において、「同志的な連帯感」を持てたことが、貴重なパートナーを得た喜びであると感 じた。それだけにいっそう誠実に対応しなければいけないと自覚した。

宮端は、引き受けてはみたものの、「えらいことになった」と感じていた。しかし、東京都 庁では20年以上管理職を経験し、交通局長も務めた。さらに、東京都地下鉄建設株式会社で は専務取締役ではあったが、実質的に会社の経営責任者として動いていた。また、経営書を 何冊も読み、自分なりに経営について学んできた。これらの自負から、合理化と効率化のメ スを入れれば、はとバスをなんとか再建できるだろうという気持ちもあった。

宮端は、赤字を黒字にするためには、支出を抑えることが緊急課題であると考え、合理化 を行うこととした。はとバスでは、6月決算、9月末が株主総会であり、その株主総会で宮端 が社長に就任する予定であったが、宮端はその前の8月から、社長予定者としてグループ内 で収益の上っていない事業からの撤退、集客率の悪い赤字コースの見直しや廃止、社員の昇 給の停止など、合理化のための検討を指示していた。

しかし、このような合理化策では、効果が出てくるまでにある程度時間がかかる。黒字化

のためには、より即効性のある合理化策が必要であると、宮端は考えていた。収益の増減に かかわらず、毎月必ず出て行くのが人件費である。人件費の削減が合理化の大きなポイント になると、宮端は考えた。

宮端がはとバスの社長に就任した 1998 年当時は、日本は不況の中にあり、厳しい状況の 中で、さまざまな企業がそれぞれ合理化を行なっていた。同業の観光バス会社でも、非常に 厳しい合理化を実行しているところがあった。従業員をすべて解雇し、銀行から借金をして 退職金を支払い、優秀な社員だけを再雇用するというものである。再雇用する際は、正社員 ではなく契約社員として雇用し、そこでも人件費を削減していた。

しかしながら、はとバスでは、銀行からの借金が難しいうえに、東京都庁を始めとする大 株主や労働組合の了解が必要となるため、さすがに全員解雇という思い切った策を講じるこ とはできない。このため、他の方策で、支出を削っていくしかなかった。

そこで、宮端は、リストラは行わず、その代りに全社員で痛み分けをしようと考え、社長 3割、役員2割、社員1割という全社員の賃金カットに踏み切った。さらに、運転士やガイ ドには本給の他に手当が支給されるが、この手当も、それまでの拘束時間からハンドル時間

(実際にバスが動いている時間)で計算するように変更し、人件費の削減を図った。また、

それまでは60歳定年であったが、管理職は55歳で役職定年とし、調査役になってもらうこ とにした。

当時のはとバスの年間人件費は約55 億円であった。社員1割の賃金カットを行うと、大 まかな計算では、約5億5000万円のカットとなり、年間に5億円以上の支出を削減するこ ととなる。しかし、賃金をカットされる社員にしてみれば、大きな打撃となる。

次から次へと繰り出す合理化案を、何の説明もなく行うわけにはいかないと、宮端は考え ていた。このため、労働組合とも協議し、そのうえで各職場へ出向き、運転士、バスガイド を含めた全社員に、仕事の合間を縫って集ってもらい、はとバスの現状を伝え、「このままで は会社が潰れてしまう。申し訳ないが、賃金カットをはじめとする数々の合理化に耐えてほ しい」と頭を下げた。労働組合や多くの社員は理解を示した。賃金カットを理由に会社を辞 める人はほとんどいなかった。

しかし、その中に一人だけ、宮端に抗議する運転士がいた。はとバスで20年以上バスの運 転に携わってきたベテラン運転士である。その運転士は、「私たち従業員は何十年にもわた り、会社の方針どおり、指示どおりに一所懸命働いてきました。それが社長の話では、4 年 も前から赤字になっているという。従業員が安心して働けるようにしてくれるのが経営者で