文献調査は、これまで敬語やスピーチスタイルについて行われてきた研究や、それに関 する記述を調べた。これまで日本語学習者のスピーチスタイルの運用に関する研究は数多 く行われており、その考察から重要な示唆が得られるため、再度考察していく。
(1)”The data clearly show that most students possessed both styles, yet they were unable to switch appropriately, as their discourse characteristically carried a mixture of both plain and polite styles which did not accord with the Japanese norm. The selection of the plain style constitutes a deviation in itself, and although this matter was not discussed in detail, the learners frequently employed a pidginized version of it, omitting the necessary final particles which often accompany plain style predicates.” (Marriot 1995:217)
[筆者訳:データは、ほとんどの学生が普通体と丁寧体を身に付けているのに かかわらず、適切に切換えられない様子を示している。彼らは談話内で丁寧体 と普通体を混ぜており、それは日本語の規範と一致していない。普通体の選択 は、それ自体が規範からの逸脱となり、この点は詳細に議論されなかったが、
学習者は頻繁に、ピジン化された普通体、つまり必要な文末を省略することで 付随する普通体、を使用している。]
(1)の Marriot(1995)の記述は、丁寧体と普通体の形式的認知を教授する必要性を示唆
している。研究対象の学習者は丁寧体と普通体のどちらも身に付けることができているが、
規範に逸脱する形で両者を混ぜてしまう。Marriot(1995)の例は、交換留学を経験した高校 生の例である。彼らは、教室学習も経験しているが、自然習得環境の中で使われている異 なるスタイルが丁寧体と普通体のどちらであるかというフィルターを通さずに取り入れ、
使用しているため、この様な規範から逸脱するスピーチスタイルの運用をしてしまう。特 に、何が普通体で何が丁寧体かという、形式的な認知ができていないため、文末の省略が 普通体を示していることが分からず使用してしまう。このような文末の省略は、日本語学 習者によく見られることである。
(2) T:中国、〈はい〉あのーどこですか、中国の S:中国のダイレン (KYコーパスCIH1)
学習者は積極的に普通体として待遇しようとするわけではなく、文末を省略した形が普 通体とは知らず、文法的には正しいため、この様なスタイルを使用しているのである。普 通体と丁寧体を教えるということは、「どのような形式が丁寧体、普通体であるのか」とい う点を考慮して、教示する必要があると言える。
(3)”Both Greg and Henry chose to use the plainstyle as the base syle in post-OPIs―though this choice may be considered inappropriate. Crucially Both Greg and Henry’s choice is not due to their inability to use the polite style. When the situations called for an expression of deference, they demonstrated their ability to consistently use the polite style, which reflects their understanding of the social/situational meanings of the polite style.” (Iwasaki 2008:69)
[筆者訳:グレッグとヘンリーは事後 OPI テストにて、不適切だと思われる 普通体と丁寧体を使用している。グレッグとヘンリーの選択は、丁寧体を使う 能力がないという点に起因するのではない。尊敬を表す状況になると、一貫し て丁寧体を使う能力、つまり、丁寧体の社会的・状況的意味への理解を、示し ている。]
(4)「(外国人には)、敬語と言うものが、人間の平等の原理をおかし、「目上」への 屈服の象徴だと思い込み、自分は絶対に使わないと決めている人もいる。(中 略)。外国人のこのような態度は、敬語を一方的に「目上」という概念で説明
し通そうとしている日本語の教材に強く支えられているのである。キャスリン という私の学生も、この様な反敬語派に属していた。日本語がよく話せるが、
デス・マスを少しまぜる以外は、敬語を使わないから、「なまいきな若い外国 人」という印象が強い。しかし、英語に切りかえると、彼女は、非常にていね いで、育ちのいい若い女性に変身する。」(ネウストプニー1982:108)
上のネウストプニー(1982)の記述・考察は、スピーチスタイルの教育に関して二つの 重要な示唆を含んでいる。一つ目は、教育で敬語の概念を正確に教示する必要性を示して いる。キャスリンという学生は、敬語を使いたくないと思っているのは、敬語は、目上に 対して社会的な立場を提示、その関係性を絶対的なものとして示す敬語の一側面だけに注 目してしまっているのである。もちろん敬語の使用には、その様な機能があるし、ドラマ や映画などで誇張されて表現されることもある。たまたま、その学生が敬語のその様な使 用場面に遭遇し、強い反発感情を覚えた可能性もある。ネウストプニー氏自身が指摘する ように、教科書でその様な説明しかなされていないことから、その様なイメージを持って いるかもしれない。どのような要因であろうと、この様な間違った敬語、スピーチスタイ ルへのイメージを学習者が持つ可能性があり、学習者は日本語のスピーチスタイルの運用 について明示的に知識を学んでいく必要性を示唆している。
二つ目は、母語でのスピーチスタイルと第二言語のスピーチスタイルは必ずしも一致し ないということである。上のキャスリンという学生は、英語における印象と日本語におけ る印象は大きく異なっていることがわかる。当然学生自身も周りの反応などから、この様 な点に気付いていないはずがない。それでも敬語への反発から気にしていないのである。
筆者の個人的な経験からも、外国語におけるスピーチスタイルの運用が母語のものと異な るのは、珍しいことではない。日本人の英語習得を見てみても、母語で非常に丁寧のスピ ーチスタイルを使用するにも関わらず、第二言語の英語では、非常にぞんざいな話し方を する学習者もいる(Takahashi&Beebe1987)。その原因には、目標言語のスピーチスタイル の運用を一側面だけ理解し、それを拡大解釈してしまうことが大きいと考えられる。日本 語母語話者は英語では、日常でくだけたスピーチスタイルを使うことが多いため、フォー マルな場面でもそれが許されると思ってしまうというようなことである。つまり、母語で いくら社会言語学的な規範を身に付けていようが、目標言語でそれが自然に学べるとは限 らないのである。加えて、第二言語である一定のスピーチスタイルの運用を身に付けると、
それが自分のアイデンティティとして認識してしまう可能性がある。
つまり、ここまで文献考察からわかることは、たとえ学習者が母語で目標言語の日本語
に似た社会言語学的な規範を持っていようが、日本語のスピーチスタイル運用の規範、そ の場面と形態面の特徴を教育する必要があることがわかる。