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上代覉旅襍考-香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

杉 村 欣 三

て国家組織と覇族の常盤 こ、轟 旋 ︼ 般 1、旋行者 Ⅵ 種 板 行革、官吏の旗行、役丁と遅胸、私人の族行。︵て訴訟の馬や族行 こ、商発の痔の施行 三、自由既発着 四、物見遊山の族 数、逆夢 六、象儀︶ 2、旋 行 の 方 法 こて陸 上 交 通 1、辟 制小 せ 騙 塞 2、交 通 路 線 奈瓦を中心とする路線、︵北方に混ずるもの、南方に通ずるもの、西方に通ずるもの、東方に通ずるもの︶ 京都を中心とする路繚、︵大草府温、東海迫、東山迫、北陸悲、山陰濫、南海道、西海浪︶ 四、水 上 交 通 橋梁、船舶、珂海洋の状態、航行の状態及び航路、遣唐使∵迫新羅使∴造物海使。 上代韓族樵考

上 代 裔 放 穣 考

︵山 〓ニ︶ 二九

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第十四番 発二験 ︵脚則四︶ ≡○ 交通行焉の研究を為す立場には、夫々雛臍螢的なる、文化史的なる稜々の立場がある。此の貸しい論文は何れ かせ玄へほ、文化史的立場をとる物である。 一、園森組放と霧旅の発生 近せ経済単著の抱く交感の概念には槍々な・る見解が存するが、要するに人・物及び音信が人の意志に従って場 鹿を移梢する行為であると定義される。然し此魔では今少し範囲を狭く、交通後産史上からは、第二の時代に苦 る国内交通期に於ける叫般的なる意味の旅行に限定する。 かかる意味の旗行が盛に行はれ始めるには、図表意識が行渡らねばならぬ。故に先づ常時の閥家の細約状態か ら考究を進めで行くべきである。日本歴史の立場から見た苗代生活は、村を以てゆきづまりとする外はない。其 以上は発見遺物単著上の安協を軌封どした賽想に過ぎない。少くも文献を某として知る寄の出来る限りの苗代に は眈にかなりに進んだ村落意織が造ってゐた。村限りの生活が、国家観念に拭って家はじめたのが、飛鳥靭末期 で、それが確か窒息故に入り込む様になつたのが、飛鳥の都から奈良朝にかけての藤代であつた。其以前は屈の 意識はあつても国家を考へる事はなかった時代である。邑自身で仙つの国家と考へてゐても、邑の簾圃としての 図家を考へても見なかったのである。隣り合ふ邑と邑とが、利害相容れぬ典鹿である。何時でも敵図となる竿の 困々であつた。恐らくは同族乍ら邑を異にする反駁心が、分岐以前の歴史を忘れさせてゐる革もあらう。此う云 ふ時代の尊から考へてかからねばなられ仏い。

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● 邑を刃れ・u射とも、り由・動研丹とも云ったのは此の時代である。製り封・︺きlu封・画封引︺u封 は、水中の島から出た語尾でなく、却って村の意味の分化したものと見るべきである。三つ乍ら枕詞或は直様日 本の異名として感じられる様になつて釆た。それほ大和朝廷の時々の根接地になつてゐた村各に過ぎないのであ ヤマト る。大和の北と庭中の平原にぁつた柑々を支配する迄にづぬけて勢力を持って釆たのが、山適郡大倭を土姦にし 上村だつにのである。泊瀬園・青野圃等は萬葉にも平気で使はれてゐる。u封とも〓打とも云ふ村が、大和〓閣 にも、古ければ古い提多かった。大和以外で貰っても、閻の名登呂ふ村の数が後世の鵜原唐あつたか知れない。 しまはくにの古語と言つても良い様である。さうしで此の引・u封の中には、大和朝廷を脅かすもの が可成あつ仁。大和の国中でも、葛城囲等は手張く感じられた印象を、記紀の上に止めてゐる。 飛鳥の村遼に都の固定しだした頃には、園家の意識が梢統仙しかけて釆たものと思はれる。此魔道来れば、何 ぅしても大化の改新は現れなければならぬ繹であつた。あの改新の本意は、村本位の生活を囲本位の生活に引き 直す寄であつに。地方制度の教理・監督官應の設置、豪族の官吏化が、此の改新の肝腎の精神であつたと思はれ る○ かくして日本の囲家組織が次第に進んで来ると、村々は大抵日本の国家に合せられる。図表の支配下となつた 村は存増するが、反抗しじ村は漁れる。則ち祀禽的階段が破壊される。従って在来の村々にあつて、叙事詩の倦 承に首ってゐた二鈷の職葉者︵語部︶がその職菜を失ひ、同時に山つの国家の下に受配きれる様になり、村々の交 上代轟旗扱者 ︵−山五︶ 三一

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る。土地に就いた生柴を潜まや、旗に口もらうと云ふ鮎から、人に蕃はれる者と云ふ侮蔑を含んでは居るが、決 して近世の浮浪人を指すのではない、然も巡膵伶人である寄は確かである。 _ 料と村との睨み合ふ戴持の未だ披け切らぬせの中でむ、此の旗人は割に安心であつたらう。異郷の紳は恐れら イヤヰ れもし尊ばれもした。壌威の碑銘った在来の紳の上に、溶剤たる新木の紳が、隔が禍かめ二つどりを迫つで爽る

通が自由化なつた為に放浪する人が出癖たのである。

地方の語部と云ふ者に就いで簡単に説明すれば、上代に於ては村の会長であつた固迫が同時に画室であつた、

少くも紳に濠も近い着で、紳の心を問ひ明らめる事の出来る着が、神慮のざゝに受配してゐたのが、常時の村々

の政治な′のである。帝明紀に璃ってゐる﹁柑々の疏部﹂と云ふ語からも、此は充分に想像される寄である。団造

の紳に封しての関係は、紳の子孫であるか、最も紳に親しかったものゐ末である。此の関係を設明し経塚立でる

物語︵同時に村の蟹生を敦く寄でもある︶を倦承して未だのが、村々の語部なの・である。即ち語部には、朝廷の

語部と地方豪族の語部とがあつたのである。国家級緻が成立し豪族は青史化され、文字の費生に依り口調の必要

鹿カヒビト の無くなつて釆た寄とから、その職柴を失った彼等は所謂﹁乞食者﹂として村々を放浪し始めたのである。

乞食着は、自分等の柑々に語b倦へられた歌なり物語を持って、緒図を流浪して歩いた仙隆の宗教豪である。

萬革袋懇十六は、叙事詩のくづれと見える物を多く集めてゐる。其中、殊に異風なのは、﹁乞食者詠﹂とある二首

の長歌である。 算十四巻、第三感 此を必しもほかひびとのうたと訓まなくても、常時の乞食者の生活と其の概念とはうかがはれ ︵一一大︶ ≡二

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ぺ事の出来たのも、此鮎を考へに入れなければ納得は出来ない。かくして住み良い魔針求吟る放かち、遽に旅其 番に仕事の方便が展けて釆て、巡膵が仙つの生活様式となつて失うたのである。彼等の持つ信仰が力を失って絡

ウカ

たのである。塘ぎなり提げなりして、二人分二大分もの練物を運ぷ道具胤国訓︵外界︶を作り拇したのも、此の旗 慣れた櫛引研いqの辛からであつた。 月水た於て﹂かぺの如く興紳の信仰を携へ歩い㌍事は幾獲であるか知れない。倭姫の如きも、鸞は日の紳の敬 への布教宥として旗を披けた人であつた。其他多くの貴環流灘渾は、神政びに紳を携へ歩いた人々の歴兜を語っ てゐるのである。俸給的には、遠方に放した貴人の行踏は語られてゐるが、多く遠くより来り臨んだ畠藩時代の 神の物語の人間に翻案されたものである。 前飛鳥醜になると、束囲のある部分を除けば、∴閂は九州の蓮土も低い敵地ではなくなつたが、併し放する者の 多くは地方官や臨時に派遣される官吏達であつに。国璽息識が盛になつて、日本の版図の中を出釆るだけ見よう とする企ては、後飛島斯から着るしくなつて釆てゐる。天子の行革も段々かなゎ遠方に及ぷ様になつてゐる。 は、新釆の紳の威力が如何に人々の心を助かしたかを見せてゐる。 ココ 場合が多かった。異郷から新来の客紳を持って乗る紳人は弼のカをも示した。封引を唱へると同時に、齢と穀 トコす とを荒らす疫病・椙轟を使ふ事も出来た。駿河で流行った常せ紳︵鳩餞紀︶、九州から東漸した八幡の信仰の模様 上代稀旅枕考 ほかひびとの異観を辟巡って生計を立てて宥 〓一七︶ 三≡

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第十四番 発こ蟹 ク ︵則︼入︶ 三四 敬呈盲ふ語に就いてであるが、偽薬では多く客の字を川ひ、まれlこ放・蒔の字を用ひてゐるが、多批ともある から全て討と訓む寄には誤りはない棒である。 容の字から考へられる事は、封細別d別途釆紳の信仰である。まれぴとと富ふ寄は珍客と云ふよりは⋮時的の 光来者を意義する方が古いのであつて、封叫どは敢少の度数の出現を示すのがその潮れる限りの古い意義であ る。引qも人間の意味に個足する以前は、紳及び臓承者の意義があったらしい。英側から札れば封拙到は来訪 する紳となる。二軍苗代の邑藤生活にあつては、村を訪れる見知らぬ人は全て紳成ひは仲人であつた。此等の紳 は春秋の交替期等に盛って村々を訪れたのである。.然しそれ等も爽鵠に紳である蕃を忘れて妖怪硯され、亦成ひ は人が潮に扮して儀式を行ふ様になり、祝言職と見られる様になつて行く、此の祀言職が佃走して最下級の仲人 と考へられる様になつて乞食者なる階級が牽生するのである。此所に人間としての雄行者の凝渥を考へる革に依 り、柳田固男氏は、放は﹁賜べ﹂であると云ってゐられる。此ほ故に口もらつた乞食老の生活から類推されたの である。然し揖斐に見え睾蔵なる語は、⋮単に放行する事でなく、物忌み等に亀って田鹿に伏ったりする場合も合 め、牛日行程の離宮行幸等の場合も兼ひられてゐる。してみれば旗は賜べ打アワと云ふ層も急に断定し難い楼な窺 もするし、亦雛義に拘泥して解樺する寄もかなり危険な審である。今背くは疑問の健置く外はない。併し放と云 ヒークー− ふ事が、旗行する寄よりも、寧ろ生地を放れて他観に生活する事を指してゐたらしい番は富ひ得る。この事は紳 赦の御旗所、田慮に亀って吾旗ならと和した番、一成ひは地方に移り住む他観人を放の人と云ふ事等からも推測さ

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れる。

l﹁霹 族 − 般

1、旅 行者 皿二檻類 交通の資産を概略地方交通、園内交通、世界交通の三段階に分って考へる時、此時代は綿三の観家を領域とす る交通の漸く行はれ始めた時に常る。此魔では此うした旗行の行はれ始めた時から、大慣築号天暦の頃迄を上 代としで扱ふ。 常時の旅行者としで考へられるのは、先づ官吏であるが、嘩上般交通状態を観察する上宜於て等閑視出発ぬ のは行幸である。 飛鳥期に入つで天子の行事が可成頻繁に亦遠方に迄行は、れ始めた覇は眈に述べた、之は支郵の宮廷生活の模倣 であつて、常時の文物を先進財風に改め楼とした事の表れである。従って畿内の離宮への行幸等は驚くべく頻繁 に行はれてゐる。試みに寄紀・鴇紀に表れた行串の中で遁辞離な物を列車すれば、 持統 天皇 銅隼紀伊、六年伊勢、大安元年紀伊武漏洩泉、大軍一年三河。 文 武 天皇 大賀冗年紀伊武漏温泉。 幸代覇鹿樵考 ︵鵬 仙九︶ 三五

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光 正 天皇 養老光年美濃、同二年発濃。 安武天皇 紳砲元年紀伊、同≡年印桶野、天平十二年伊勢。 稲 穂天皇 天平紳葦元年紀伊。 外に故内諾離宮への敷皮の行襲がある。持統天皇の如星口野に行幸さるる番数十虔に及んでゐる。その設備や 状態に閲しで、韓日本紀等の記載に依れば、先づ行幸前約妄月、使を路次諸因に流して行宮を作らしめられ、 愈々出蟄されるに貰っては多数の宮人が軍鷲に屈従する。従ってその行程は極めて緩慢であつて、鬼瓦天皇は莫 濃多度山に赴かれるに十日を費し、大蟹冗年の武漏洩東行車は二十日を要しに。路次の図司・郡司は奉迎に、供 奉に奔愛する。此等図司・百姓伊弊は、路次諸園百姓の田租調役を免じ、図司・郡司の位叫階を進め、封戸若干 を増し輿へる事に依って酬ひられる。かかる行事が、交通路の開修語達に大いに資する磨あつたらう事は想像さ れる。 爾後、光仁・恒武天皇より仁明天皇に至る問の行事は、亦自ら特典な形式を馬してゐる。即ち遠国へ行韓した まふ事少く、多く近郊に辞職し拾ふたに止るのでぁる。其の後は漸く藤原氏軍標の繭し表はれ、文徳天皇あ頃よ りは殆ど行幸も無くなる。行啓に関する資料は放り豊富でないので今は省く。

官 吏 の 族 行

中央集権制度に件ふ必然的な現象としで骨蚤の地方に往来する者が多くなる。 第十四谷 第 こ躾 ︵︼こ○︶ ≡六

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赴任蹄任の簡便 或ひは講師二軍師 放 軍隊の行軍である。 官吏の旅行する者は、先づ此れ位であか。官吏の旅行する者は、公用であると私川であるとを間はす非常に便 宜が輿へられてゐ、た。律令の規定する鹿に依れば、私用放行者でも五位以上は騨合に縛る事が許されて居り、小 野靭臣が病の急に温泉に下った略称は、官費を以て賄はれでゐる。 その種類は種√々な立場から此れを見る事が出水る。兜づ仙股的には、通信機緬王る飛騨佼、部内を巡行する宮 人、任国に赴く簡便等であるが、亦は往来の方淡から群馬に依る駆使、偉属に依る倍使、食馬を給はる給食属僚 とに分ける串も出来る。然し仙番辟幣な方淡は、をの要務に依る分類である﹂ 川 度 使 部 領 使 途文習使 奉 幣 使

急報 使

巡 行 使 特 命 使 上代囁族礁考 液も重大な官位である。朝集佼、託税帳便、大帳疲、調使。 防人部領鹿、鼎挟入部領位、御偶部領僻、買上雑物使。ノ所謂後≠の宰領と同意である。 官仙什・省符をもたらす使である。 篠年醸例の官位である。 飛騨使等である。 閉部を新行する問使、滞察使、按察使を含む。 枚舶佼、甘迭便、布開催等臨時の事件に應中る物である。 ︵二二︶ ≡七

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第十四稔 第二駅 ︵二三︶ 三八 駆使の賛し得る場合は厳重に規定されてあり、その速度に関しては、黎通常叫日十騨以上、帝綬者八辟、遥日 寄凝着六騨以下︵公式令︶と規定されてゐる。 箪防令に規された行軍の制度は、兵士一火十人に就き六駄の馬を宛てられる。′兵士は各自食糧・戒兵を貯へで 行軍の用に宛て、布幕、姦、釜、到碓、斧、整、酎、鎌、火禦熱文等の炊事宿常の用具を携帯する。即ち令に 規定されたる軍隊の行軍は完全なる自給的生酒である。

役 丁 と 道 脚

官に微敬される役丁と買物の運搬者たる運脚とは、亦自ら私人官吏とは別に諭ぜらるべきである。 地方の正丁は、毎年分布上京して諸櫨の労綬に従はねばならぬ。之等の丁男を総鵬して役丁と云ふのである¢ 兜づその積朔は、 役 丁 正丁の豊天なる歳役で、十日間に渡ち私根を用ひる。 屁 役 丁 飛時匠丁 仕 諸固兵士の都に上郡する者、一年交替。 都に於ける諸麓の通常の為に毎年正丁を鮎するもの、功直を賜ふ。 特殊なる役丁である。調牌を冤ぜられ仙年交客である。 五十戸毎に二人、京都の諸優に使役される。三年交替。 仕丁と大鰻同様である。問にて川人乃至仙人。

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人 諸閲兵士の防に向ふ者、三年交替。

此等多数の役丁は殆ど私恨を以て賄はねばならなかった。勿論群衆を利欄イる事は出釆ない。概紀天平十年十

二月戊寅の條に、仕丁役慧警郷始給=桂根やとあるのは稀有の例である。その放の困難を極めたであらう番は充

分察せられる。

運脚は充釆叫般貨物の運搬者を指す語であらうが、此魔では地方より奉る買物の運搬者として見る。

遣途の遠近瞼易を聞はす、全ての固は叫定数の買物を都へ選ばねばならぬ。蕃老令に見るその節類は、春米、

調、慮、諮問貢献物、土モ臨時應レ用着である。此等の責物が如何にしで運搬されたか、此の番に関する令の規

定は極めて簡軍であ1る。

調庸は毎年八月中旬より賛して、近因は十月卿日、中開は十〓月井日、遠国は十二月升目以前に約め終る。そ

の道脚は夫々調庸の家に出さしめる。春米も亦同じく正月から八月升日迄に同様の方法に依る。

則、謀戸は調牌とその運搬者、及びその食糧を出さねばならぬのである。その困難は察するに飴ある。

諸国莞及講者撃郷宕、粗食乏少、無L㌘得レ達∴礪那詫︶ 畢触乳根由二納貫之恒数一、城二硝亜負∴恐一顧レ路之不こ少。︵欄那棉細︶ 市過多二餓人草問共由l、雲拷問調脚不ニレ得遥−レ郷、或無レ根飢塞。︵配電監︶

と云った記事が散見する。勿論隣家を利別し得たと恩はれない。

上代弔旗衰考 ︵二〓ニ︶ 三九

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訓牌以外の雑物道輪及び春米道喩等には、粗を給するを以て原則とし上のである。此の差別は何故であらう か、大河川年九月二十七日の官符には、調庸是雷、飴物見橿。とある。之もその理由であらう、亦交易の番の雑 物と、権威を以て民から徴収する調庸とは自ら其聖且場を異にする畢皇雷貫盛由である。 その道緑藻は、軍は短辟廟の外は用ひられす、舟運、駄馬、入婿に依ってゐる。 鴇日本紀壌亀元年五月甲午の詔に、 或己浩美、或多淑梢、是由㍗問司不上レ順二先制劇之朗レ数億。 とあるのを見れば、政府は原則として隆運に依らしめ棟としたむしい。然し陸運に依る事の困難は甚大である。 天平防賛八年には山陽道、南海造語固の春米運輸を海路に依らしめ︵続日本紀︶、て爾来米は水運に依ってゐる。 後、一種苗式に至っては、全て水運に依る寄を認めでゐる。 陸運にあつては、人括と駄馬が並び行はれてゐる。但馬正挽醸に、皆大京二十六餌を述臆するに常って、駄十 六疋と夫三十六人︵大の十六人は治夫でこ十人は拷夫︶を朋ひに事が記載されてゐる。

私 人 の 旅 行

普代民衆の交通行為が主として如何なる目的に出でにか、その想像され得る各項に依って考察を進めて行く。 叫、訴訟の馬の放行 公式令に、判決に不服なる時は上訴しで太政官に到る寄を許可してゐるが、然しその橙の施行を敢へてしに著 第十四番 笥二㌍ ︵ニー四︶ FqO

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は記録の上には見られない。種苗以後に至って、閻司の非淡を訴訟せん為に上京する首姓が表れてゐるに過ぎな 。 二、商業の焉の鶴行 此の類の次行者は、日本嚢記其他に多くの例を求める事が出来るぐ 或ひは兜武夫畠の御代、大安寺の修多羅分餞を持って敦賀に行き交易し船に載せて躍った奈良帝人、尾張閣草 津川を大船に荷を横んで行く商人、亦は市で物を買ふ為に泊りがけで出掛ける蛾方人の諦等々がある。 三、‖自由職巣窟 此は既に選べた乞食者を筆頭に、、陰陽師、修験者、僧侶等を奉げる寄が出来る。放その事に生活の方便を求め る人々で、云はば職柴的放行者でみる。最も臍和国に渡る放行を為した人々であら,を 四、物見遊山の旅 温泉、別鮮、名勝等への遊山旅行は、側部貴族官吏の間に既に行はれてゐたと思はれる。 仰預図風土記に依れば、造後温泉へは景行より文武に至る甜帝五度の行幸が記され、文武天皇は紀伊武漏派兵 に行幸になり、官吏では山部赤人が伊預の温泉へ︵萬薬袋︶、天平十年小野朝臣が治病の為に那顔面泉へ ︵駿河正 柁帳︶、平安朝に於ても其の例は求められる。然し、小野朝臣の治病の為の温泉行を除いて、聖上の温泉族行等 は、遊山の薦ではなく、恐らく喫の馬であつたと思はれる。亦客質、名勝への遊歴旗行に到っては、文献にその 上代顧族樵考 ︵二脚五︶ 四−

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例静を求める事は困難である。 別荘であるが、続日本紀には、橘諸兄の別糞に梁上の行幸せられた寄を記しで居り、其他藤原魚名、艮枇、乙 叡、機細、伴聾男、平高林、明日香親王等の人々は別業を有しでゐた。 単 五、遊 軸方人に開かれ・た進撃の道を令に見ると、 園畢生は噸に依って大挙に進み得る。 閏拳出身者は買入としで上京し、省試に勤し得る。 郡司子弟の強幹にして弓馬に停禿る者は、郡別叫人京に造って兵衛に宛てる。 五位以上の子孫の現在役任なき者は、式部に迭つで、内舎人、大食人、東宮舎人に宛てる。 内六位以下八倍以上の嫡子の二十仙歳以上で、現在役任なき着は、京に造って、犬舎人、使部、兵術とする。 ふハ位以下の子及び庶人を院内に宛てる。僻ん資人は内人位以上の子を取らない。 以上の如くでめる。常然、進革の希望に燃へて上京す竜者は少くなかったであらう。亦驚際に、地方出身者で 公卿の列に入つた者もある。 六、祭 儀 京の諸大寺、諸樹の困分寺では、毎年恒例の各櫨の洗骨が行はれ、近逸の優婆塞、優姿夷の集った轟や∵程々 昇十四谷 欝 こ渋 ︵二〓ハ︶ 四二

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の所願ある人が、清水・長谷等の観音に参詣した寄は少からぬ賓例がある。 私人の雄行する者は、恐らく此の恥固を拇なかったものと思はれる。

2、旅 行 の 方 法

私用旅行者に於ても、貴贈貧富様々の晶があら、夫々に應じてその状態烏自ら興る。難令に於ては、明らかに 五位以上の私用旅行者の騨家に投宿する寄を認めてゐる。遼墳に於ては初位勤位以上に迄及ぼされる。 道程は勿論燭を川ひ㌔官吏でなくても、奈良朝に於ては偶の使用が意外に成竃、資力ある者は鶉く馬を有 し、外出の際には乗用してゐる。馬上の樽に閲し、令に煩難な規定がある。 凡在レ路相遇者、三位以下遇=親王哀悼丁場、以外准t舞攣、其不キ者常飲レ碍倒立、雄二應レ下草陪乗不レ 下。︵儀制令︶ 凡郡司遇二本閏司義歯下馬、唯五位非二間位以上寄木キ、宋宮人就本閲見者同位即下。︵儀制令︶ 檜尼於二道路議l三夜以上一着隠、五位以上欽レ馬相捧而過。︵伶尼令︶ かうし㍗中産階級以上の旅行者は、宿泊も亦概ぬ人家に於て賞し得たらしいっ今昔物語等にその例を求める事 が出来る。勿論、野宿する番も少くはなかったが、他家に宿泊した例も多い。 ホシイヒカレイヒハタゴハクゴ 唯、路根は全て携帯した、椀、餉の類を放免に入れて持参し仁のである。発は和名抄に飼レ馬籠とあるが、 ハタゴ 人の棍食を入れて用ひに籠も亦旗籠である。其他膵幌、愚、鑑の類を携行し、放亀馬、皮亀馬琴で之を選び、数 上代藤族樵考 ︵二二七︶ 四≡

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国家結成の進度につれて、こ鱒文物と共に交通設備も漸次冬頃されてゐる。應紳・仁徳諸帝の頃より、道路の 開番、橋染架設等が次弗に苔紀に表れてゐるが、此の時代の交通設備を軋る上に於て、見逃す事の出来ないのが 名の従者を孝ゐたのである。︵今昔物碍︶ 然し、亨麻階級になると、運脚・役丁の苦しんだと同様の路銀の紋乏と病に苦しみ、宿泊の不完全に苦しまね ば唸らなかった。人家に泊る寄も、中韓階級の如く容易であつたとは児はれない。此等の救済菓として、天長十 年に武蔵槻多騰・入間の境界に悲田鹿を置いて糊口に資し、弘仁十叫年に骨箱を出して、行路病者の療養に力を 蒸すべく命じてゐる。太宰犬就小野卑守は、私財を投じて掩命院を豆て彼等の宿所に宛ててゐるが︵轄日本紀︶、 此の程度の施設では、到底効兼を期待する事はⅢ来ない。 次に和名抄訳鹿部に見えたる旅行具を畢げる。 食 器 類 雨 具 類 行 勝 頼 枚 褒 第十四琴 第二 班 ムカハキ 行勝、音速レ脚可こ以跳騰−軽便也。 ヴュ カ セ ツエ カナアユ アフコ 枚︶横首枚、絨枚。勒、枚名也。 コロモツツミ フクP オヒ7クP 把幌。襲。.願、嚢之可レ滞也。

三、陸 上、交 通

ミノ オ鹿カサ カサ 蓑、雨衣世。笠、斯︻・血御㌘レ粥也。登、笠有レ柄協。

ス∴リハクゴカレヒケ 鮭、竹壌也。静、飼レ馬弘也。梯子、

ハべヰ 朽纏、脚巾也。 ハシ 俗所謂破千。 アマキヌ 雨衣、油衣也。 ︵劇こ八︶ 四四

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騨制であるし

1、降 制 と 開 基

此の時代に澱て園家は中央集権の確保の薦に、交通課備に充分の空夢彿ふ、所謂詳避制度は此所に採用され る。此れは交通蟄達史上此の段階の最も着るしい特徴であつて、殆ど各国に於て符節を合する如くに探用されて ゐる。 速く埠及・波斯に創つで羅偶に完成されたのである。昔gus−宏帝の中央辞椎柴は、必然的に騨渡部度を産 み出した。その概略を述べて見ると、 夫々の道路には言行程の間隔を置いで防が設けられ、両群の間には五乃至八ケ例の小騨がある。各界には仙 定数の車馬を備へ、姦の資格に依って皇帝の許可を得㌍者が、自由に此れを使用出来る。急を要する官用通信 はー各辟で馬を換へる事に伐つで迅速に俸速される。官吏の旅行者も亦大いに便を得る。騨遽の本質は之に轟盲 る○ 我図の騨制は庸のそれを模したもので、大化の詔に始り大賓律令に完成してゐる。則、大些毎春正月改新の 刀H︼− 一三n−・t 初修=浣師︼琴一畿内圃司郡司闊塞斥候防人膵馬借践可 とあるのが、その創設を示す碓蜜な文献である、然し乍ら駆使の文字の初見は、古寄託崇紳雲霞條であり、其 上代義旗樵考 ︵二脚九︶ 西五

(18)

の他垂仁・貴行・、滑寧の三代に散見し、清寧・欽明・崇峻・推古・豊穣の各紀にも、辟使、辟馬、馳騨等の文字 が頻出す.る。此れに依って考へて見るに、騨制の公布は犬死に始まるが、その資質は速く欽明天皇の噴から徐々 に蟄生しっつあつたと冨ふ事が出水る。かくしで大安律令に至つて精密な規定が立てられ、完全な形態を備へる に至ったのである。其後奈良時代の額展開ぉ経て、平安朝初期︵延麿1延富︶の整理時代に入り、寛平・延嘗の 噴から漸次隠滅への退を辿り、やがで宿がそれに替って現れて来るのである。 律令を基礎としT、我が繹制の沿革に就いて見ると、兜づ厩牧令に、 凡諸道須澄レ膠着、歩≒十選︼寧l刷騨つ 若地勢粗陵及無二水草︼魔、随レ僻安置不レ限二理数可 其乗具及彙笠 等、各准二所レ置偶数l備レ之。 とあり。令制規定の騨家は二つの主なる任務を持つ、仙は人馬の堰立、hは宿と食との供給である。前者の任務 に臆する馬に騨馬と障子が常備される。常然厩舎の設けも必要である。後者の為には辞令が構へられ騨椙が貯へ られねばならぬ。かくして騨戸が差鮎され障子が徴牽される。鰐戸は膵務に執筆する義務を持つ叫定の公戸であ り、障子はその中より徴恐されて辟の労役に服する謀丁である。︵格役或ひは調を免ぜられる︶その仕事は騨偶 の飼育、手荷物の運搬、道案内、辞田の鍬作、鰐常備の蒙笠の製造等々で、驚に煩雑脅極めてゐる。血れがやが て膵戸の疲弊となり、延いては騨制の崩壊を導くに到るのである。 各辟には騨長山人を濃く、之は死・老・病・若しくは費にして任に堪へぎるの外は、免ぜられる事のない終身 第十四番 弟 こ兢 ︵〓ニ○︶ 四六

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役である。︵課役を免ぜらる︶辟務咄切の安住者にしで、辟仮の患の為に乗馬し得す、之に替る同行人無き時

は、その代理を務めねばならなかった。然し彼等は辟家の世話をする一家家に過ぎす、官吏ではなかつたのであ

るJ

膵馬に関する令の規定は、大要左の通りである。

凡諸道撃辞儀大路甘疋、中路十疋、小路五疋、使稼之虚聞司星置不−必攣レ足。債敬二筋骨強敗者嘉、撃 摘各令キ甲中戸蕃飼∴山草馬宥二闘犬衰即以二騨柄南替、其侍儒学郡各五、常用=首席衰強者以一恵鹿骨物− 市充、︵厩牧令︶

毎年固司検閲して大老・大病薬用に堪へざるものは磨り、辟椙を添へで買替へるのである。

各騨の財政は、その始め因循より猫立しに﹁箇の特別合計で、その財汝は辟田であった。

凡騨田皆随レ近給、大路四町、中路三町、小路三町。ハ田令︶

不輸租で膵戸の人々の耕す魔であり、その牧獲に依って繹豪語櫛の費用を菱餅するのである。

それ等の辟栢を貯蔵する倉庫・厩舎・宿舎等を持ち、膵戸を含め患息外に駒大なものであつたらしく、輯後紀

承和八年問九月庚戌の記事に依れば、

以二河内閲丹比郡辟豪院倉八宇屋二軍、撃恕常郡日根野義二韮倉べ

とある。其の位置は大鰻に於て樹衛那衛と位畳を等しくしてゐたらしく、必やしも正確に令制の規定する脚離に

上代覇族裸考 ︵〓ニ劇︶ 四七

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は擦ってるなぃ。そんて普通の御上は弼立んた行故地域を為してゐた棟である。 儲は兵部省兵馬司に管碍され、地方に於ける辞め行政克美づさはつた者は、凝津太夫、大事帥及び諸国の守で ある。厩牧令には騨馬数の裁畳、検閲、補充に閥する閏司の樺限を認めてゐる。聾するに、国司の監督下に防長 が賃凝に習ったのであるが﹂後には郡司が次第に之に囲儲するに挙つてゐる。 かくの如て繹制は天機に於て倍制の模倣であるが、我国特有の物と思はれる物に騨鈴がある。途に上つ王駆使 は之に放つで所定の群馬に来電轟が出釆たので 精潜な規定が作られてゐるが、禁秘勃七億元ば順徳天皇の頃には既に宮中に藩亡く克っでゐたらしく、結局その 尾瀬は明瞭で克い。揖斐集、彗普式、堀河院百首等に依って推察される事は、障子が先頭に立って振るか、馬に 付けるかして、属に角鳴らし乍ら道中し、それに依って前駆人馬の準備を早からしめたらしい番である。内嘉の 飛騨儀に於ても、∴王鈴鈴を鳴らして遣り出づれば、閣外に倹した馬部叫人、鈴聾を聞いて馬に乗って待つとあ る0 辞使は中央政府から許りで昼く、.地方官臆からも亦改造されたのである。従って諸国亦若干の鰐鈴を用意して ゐた。 凡諮園紛レ鈴老、太宰府就月、三関及陸奥図各相月、太上図≡口﹂ 中下囲二口、湛三脚固各拾=閲契二枚用 ︵公式令︶ 昇十田巻▲.算二班 ○ニ三︶ 四八

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か﹂上代交通に於て快くべからざる嬰素であつた辟制も、課役に堪えかねて路子が逃亡する番に依る戸口の減

少、膵戸の疲弊等より財政困難を来し、更に炸悲貧慾な地方官の犠牲となり等しで漸次川朋壊して行くのである。

かくして上代末より中也たかけて、官僚であつに騨が制度の頸磨と共にその樫枯を離れて、完全なか辟長の私営

となつて行く、則ち宿の長者が酢静的なカを得で凍る凄に依って宿に攣化んて行くのである。

最後に水騨であるが、水路の問題は、甚だ不可解である。その制度は厩救命に

凡水辟不レ配レ絹嘩畢閑寧騨別堅融囲碁以下二隻以上∴略し船配′レ丁騨長瀬t由路由り

と規定されるが、脊際の括励に至つては明らかでない。記紀や格や式に途宣その名を見机す串は出来ない。

承騒を解しで波津とする寄は、さして不合理ではない、令凝聯にもその説が兇へる。然し雑令に

凡要路灘臍、不レ堪二渉渡−之虞、惜磋レ舵運渡、依l秦レ浬克復血鶉レ次、岡部宮司椴松及準入夫−宛二其庶子−、

二人己上十人己下、毎二人舶各一触。

とあ藩を、水辟と同山であるとする事は招来ない。水防の鹿盤は亦別に存すると児はれ一る。涯津は雑令に示す如

く渡敗場である。水陸は河上交通の焉のもの、則ち河水を上下する船の相場であつたらう寄は、陵騨の牲好から

も恐像される。

我固に於ては河を横切る東はあつても、之を利川して交通する番は少い。水防の必螢も飴り無かったのであ

る。記事の無いの▼も之等の事帖に依るものであらう。 上代碍旗裸考 ︵〓ニ≡︶ 四九

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弟十四巻.弟二鰐 ︵︼三四︶ 鼠○ 海上の商は亦事情が典る。泊や胎瀬の如き海港は水際ではない、我国に於て水膵と認められるものは、倦に出 羽に馬と共に糖を配する野後、避讐佐蛮、自谷の銅鐸があるに過ぎない。︵琴零式︶之等は水餅を粂ねたもの で、腋暦には水勝とは解し得ぬかも知れぬが、その位畳の不明なる自谷を除いた他の三辟は、相聯蕗したる最上 川淡路の騨である。 瞳奥柴田郡より、山形の盆地に入つた出朋の官邁は、浪士川に漁って西部山脈を横断して庄内平野に出る。そ の山脈の横断に常って陸路の峻を避けて最上川の水路を利用してゐるのである。 渡海の為の膵家を含ます、水膵を前逸の範鞠に限定して見る時、此の机飼の囲辟の外は文献上にその名を求め る事は出来なぃ。 騨制と共に見逃す番の出来ないものに紺塞がある。銅盤の替生について考へられるのは、都‖出の賛達である。 都城と畠洛が黎達するにつれで、其琴を連絡する道路が賛達する。従って放行が簡易となり交通が頻繁となる と、都畠の安寧を保詮する為に、畿外から都島への交通を橡関する開基が必穿となる。文献の上では紳功皇后掩 政の時、忍熊王の乱に封しで針問と昔備に閲を置かれたのが最初である。義徳天皇の大化二年には開基の淡を定 め鈴契を輿へてゐられる。大安令に至って始めて閲の勧が設けられでゐる。︵軍防令︶ 謂レ依レ樺、囲者槍判之魔、刹者堅椅之桝。︵令義解︶ 古来三開として有名なめは、伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛恐であるが、之等は主として北凝地方の侶想

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は瞥感を寄らとしたのであるが、中城は通行税を級した審もある。王朝末期には、樵門、勢家、軋尊等で私に設 けで人々を周らした溺が多かつにのである。 凡欲レ使レ囲者、皆野一本部本司一構退所。︵囲市令︶ クワソ 開所を通るには、適所則ち血税の手形を必要とし、著も私かに閥を越えれば従仙年の刑に廃された。飛鳥奈良 時代には、存外色々な軍事瞥察的施設が揖廃土屈宣、骨鱒の凄寧と秩序を保詮する寒が金牌されて属た。過新車 もそ甲﹁つである。 2、交 通 路 紬 今に依れば、甘迫は大中小の三遷に置分されあ。大路は大串府に至る遥であり、中路は東海・東山の二道、他 の藷適は小路である。今その仙つ叫つに就中で述べる番は非常に煩雑を件ふので、奈良小心のものと、平安朝初 期の京都を中心とするものとに分つで、やの主な路線に就いで述べる事とする。 奈良を中心とする路線 先づ奈良より四方に通やる洛奴であるが▼此は主と心て萬某瑛に寂れた蹄放歌に嬢.って考察した。仙照、常時 の中城克は、現尭の奈良市よりも思づと西方に寄って居り、宮城は太髄今の都跡村北新の北方にあり、其魔から 敵に封する為のであつた。 一腰せきは漢語﹁塞﹂と同じくせきとめるのせ 上代顧族裸考 甘と同語であり、封割・刃引引窓と同独語である。則ち政初 ︵〓ニ五︶ 鼠−

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第十四番 弟二沈

︵.二三ハ︶ 五二

酉簡向して、尼辻出屋傲、柏木を賢く冨線が朱雀大路慮ってゐたと見られる。従って平城京の望は、それ

に放つで比定され、東西南北の交通路銀もそれにより出獲せぬばならぬ。

北方に通ずる路線 汲も多く経由せられたのは奈良山越であつた。乗坂町から般若寺の左方を北進する奈良

凌は比戯的斬らしいもので、常時はもつと西方に東北路が開かれてゐたらしい。多くの票歌から類推して、奈

良山越は結局歌姉越であつて、暑根のこごしい道々伴保から奈良山へ導かれ、奈良萬を越えて管木︵綴喜︶の原 へ出で、宇治川を渡って阿後厄原患音、堀田山︵木幡仙︶を越え石由森・痙坂山を経て大雄へ出烏轟が知られ る−︶ 管木原は今日の綴寄郡都々城村附近で、其應へは歌加越で木津︵泉︶の西方へ出て相楽村の山手を北へ、親閲

村の菅井、狛用材の下狛、三山木村の宮津を経て、田遜町の丘麓㌢縫心っっ大任村に出て、共磨からは都々城村

の上流屋あたりで木津川を越えて、更に久樺川を経て新田1紳明智賢く石坂越に依って宇治へ、更に今の奈良

符遡より少し来手を北進しで石田・鴨醐・山科を箕き、追分かち逢坂山にかかったのである。

嘉、木津川を涯つで上狛から井手・多賀を淀て、久世から山科へ向ふ遣もあつたらし∴亦近江路は大津か

ら船出ルて北題し璃津に上陸したと思はれ牒。

それからは摂津山越で越前の疋附から角賀︵敦賀︶に出にのである

此の路線は昔時最も利用される罫が多かったらしいが、猶常焼こごしく徒歩は勿論騎周でも、相常雄洗を極め

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たらしい。 南方に通ずる路線 西京を出て件保川僻ひに南下し、腰の苗を経て畝傍仙を右に山路に懸り富野川へ、阿太 マッチ から五億附近に至り、大鰻今日の伊勢術遣を商酉に走って亦れ山を越え角附河原へ、紀川の右捧を酉下して菅山 へ出る㌢頂︵謂解明如鮒M帽顎丹雛鋸雛開幣ゐ︶ りふ′ダ 此易に雲梯から雫して穿へ募慄餉錮鰻鮎㌍︶め酉カを戸語雪路組もあり、両級は莞ひは戸毛 附近で合し 西方先遣ずる路線 平城から酉遷して浪華に建する主は、生駒越を傲も普通とした。 生駒鶴賑は少くも三つの順路を尊げ得る。儀北は私端から片田へ出るもⅥであり、中央は甲可から下河原に吊 る捕瀧術遣、最繭は蓋涌から小瀬を過ぎT富雄村追分に糾る曙越で、血れは狼寒から壷級に酉束を指す壊短絡 である。其他向じく生駒越に依るもので、法隆寺から龍田山に伐て龍朝川を渡り、その岸を潤って平群谷を小粛 に出て暗地紋に合する、南大和から浪聾への路線もあり、亦、大潮川岸を西下して、柏原から龍聾寺・平野瑚を 郷て鶴橋か天王寺に則る路線も透った。 貴方に通ずる路線 南方に於ては初潮路を名張に刊電線と、北方に於ては泉川を渕つで加茂・笠悪から拓曙 に州る紐との二級があつたが、多くの場令柳瀬路が挟ばれたら心い。 初潮路は奥迄行けば所謂名儲越となる。平城・名張聞の踏歌は、三輪の南で北東凍尤折れて初潮路に入るが﹂ 上代繹放校考 ︵二二七︶.・濫三

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弟十四怨 菟 こ渋 〓ニス︶ 五四 l1−達郎竹硲郷︵宇多郡多気郷︶を纏て名猥へ削る遣もあつた。名張からは阿傑に出て、上から仰勢璧志郡に入る のでぁるが、名張・阿保問は今日の待遇より北方を通り、蔵持・美濃・波多を経て羽根で現在の脂遣と合則した と思はれる。上津からは馨志郎の河口に机たらしいが、その道肪は繹らない。河口は苗釆関のある期で、其磨か ら簡伊勢へ出るには波多︵河合柑犬寧八太︶へ出で、波多から南東行して今日の冷奴へ出で〓路山田へ入ったの である。 トビシマ 猿、萬l封切qには、伊勢・志摩∴二河の常例は無く、飛鳥から島つゞき伊艮胡崎迄を伊勢と認めでゐ仁のであ る。伊勢と仲良明峰が同叫文化園内に腐心た寄は考古凝的にも澄明され得る。志摩への道順としては、紳廟の建 てられでゐる紳路出を越しで南常に志摩へ入る道筋が、血般に撰ばれでゐた。 京都を中心とする路銀 次に平安朝に於ける京都を中心とす阜閉路に就いて、薙冨式及び降格通・太白本地名新嘗・日本地理志料等に 依って推察して見る。 太宰 府道,山崎を起鮎としで西行亦は酉励行し、描津、播樺、備前、備中、備後、安塾、周防、長門の 各蜘府を経丁九州に渡り、盈前の北避より筑前太宰府に寅る。 支路に播席末箱辟より栄作閲偏に通する遣、長門厚狭除から北方に、日本梅窪に沿って巣北行し石見に於て山 陰追に連絡する遺がある。

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東 海 道 勢多を首騨とし、近江の西南を伊勢、尾張ヾ三河、遠江、駿河、伊豆、相磯、武蔵、下線を

辟て常陸囲府に挙る。

支路には、伊勢路︵鈴鹿騨より伊勢商都を縦麗し大神宮姦て志摩図府に達する︶、甲斐路︵駿河構造騨より 北上甲斐園府に雪︶、上琵︵下級園祭り海岸倦琵上級国府姦て安房圃府に雪︶、及び束山道と聯絶す

るもので常陸開府から北上し磐城東田河郡に出る一線がある。

葉 山 道 勢多蚤警し、近江を横断して兼濃、侶浪、壷、下野、陸奥姦て孟城に警。叫つ

は陸奥柴H郡より分岐して出羽に入り、開府を経て秋田城に至る。

支路に美濃より飛騨国府に至るこ担がある。

北 陸 道 近江穴蒼首騨とし、琵蜃湖北岸を北上して撃馴、加賀、越中、越後を讐警警越えて

休渡図府に至る。

支路には、嘉狭路︵近江より若狭を経て東行敦賀に於で木造と合す︶、能登路︵加賀向上騨より能登園府に更 か︶、束山道と連絡する越後より簡行信濃に通する〓導琴がある。

山 陰 道 大枚を首騨とし、丹波、但馬、因幡、伯菅、糾讐石見等を連ねる。

立路に、丹後路︵丹波より丹後姦て但馬に雷︶、鰐岐路︵出雲黒田鹸ょり隠岐への液津千酌隈に出富︶が

ある○

上代覇旗裸考 〓三九︶ 五泉

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南 海 造 山崎を首騨とし、河内、和泉、紀伊を経て賀太に於て淡路に渡り開府を饗し阿波、兼に讃 岐、仰預に至る。仰預川之江より覇方土偉にも行った。 西 海 道 東酉の二路があり、兜づ酉路は、太宰府より華剛の岨隅を掠め筑後、肥後、薩摩を経て大隅 に至るのであ卜¢末路は、墓前別枠より豊前、篤後、日向を経て大隅に至ったのである。 文路は、束掛柄路を聯絡するものに、大軍府より幾前瀾府に至るもの、筑前永托騨より也複開府に祭るもの、 肥後江田騒より東行山中を経で壌後二義騨に出るもの、肥後件数騨よゎ東南持大隅に入り栄行し日向固府に達す るものがあり、其の他太宰府の北に於て大路に分れ守田行し海岸滑ひに肥前に至り、東松浦郡時子村より梅を渡 って聾岐囲府に達するものや、肥前基辟駐より大路と分れ西南行して肥前園府に通じ、それより二分して、叫は 北上し筑前を経て伊萬蜃附近に於て悪岐路と合し、他は筒下して鳥原牛島に至り海を越えて肥後園府に通するも の等がある。

四、水 上 交 通

陸路に比して水路は、今日その交通状態を癖藤せしめるに足る蒐物も文献も倖少で、推断を下すに多いに困難 を仰ふ。以下不充分乍ら鵜薬集を憑穣として、その考究を進めて見たい。 蒐づ河川粧通に於て、水辟の設のあつた事は眈に述べた、此塩では渡河伊情況主として椅染について考察す 第 十 匹1く 巻 第二耽 ︵一四C一︶ 五六

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る0 橋梁としては、水中にポを奴初老いで此れを跨み渡る石橋、開署に掛けはづしの用来る恐らくは根を仙枚渡し タブ ただけに過ぎざかったであらう打楕、杜を立て罫を威し其の上に枚を叫枚渡した、高い架の様な欄椅、更にそれ のご修高いものと思はれる高橋、その反割に水面に浸浮いた筏を放べた様な唯恨初の梓橋、一枚奴を交互に綾ぎ 合はしてかけた既の様な櫨橋、︵或は中之島泰以て欄いだとも考へられる︶。 0 0 0 ヒPハ・ン 河申に舶を地べてその上に板を渡した船橋、廣の他、舛染りの大橋、檎椅等の名が見られ、比肖披之の名も見え ゝ” と∴ .. る。比呂波之は⋮枚の打棒であるとも、二尋の解さの楯とも、石橋の石上ポとの間隔の構いものと旦不ふが、何 れにレても、﹁比昌波之曾躇威しかね三とあるから隔の敬い橋ではあ牒まい。 かくの如く橋凰の設備は相常に行き渡つて屠り、駆雅令に﹂凡嬰灘津臍不廃藩渡乏鹿、蹄置し糖還渡。とあ るから、要路にあつては渡船の設備もあつたのである。然し、揖斐主観る渡河の多くの場合は、衛、馬上湾河で ふ∵リ、瀬を拾つで厳諦に足結ひ手作り腰作っての徒渉であつた。利根川や木津川の様な廃すら徒渉した形跡があ る。雨につけ軍につけ河の水屋は置々である。往路には瀬であつた題が、鐸終には淵となつて我人を園暑させた 上代讃族樵考 ︵∵四一︶ 五七

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横転事も関々あつた。 種苗式和式に、 山城図泉川樺井波調者、官長撃東大寺工等毎年九月上旬準恕橋鵬 と貰った記事が見えるから、此の渡河の状態はゃ安朝初期に於ても、飴り塾備されて属上とは忍はれない。

所謂、文化遵緯詮の立場に立って現行の船舶中から苗代船舶の残物と偲はれるものを拾ひ出し、軍紀等の記 事を参酌する番に依つで、上代船舶の仙蛾を兢ふ番が出氷る。 兜づ現存の船舶中で古代船舶の形状・ぞ留めると考へられるものに、諏訪湖酉梓の割引む舵、丹後久美濱の丸木 Wモロク︶ 船、黒石引鼠、美保ケ開紳計の祭祀に相ひられる諸手船等の山新抄別路計横線の経路︵Sti註ed.訂at︶が ぁる。之は船舶牽連史上第二段腐豆思すものである。統〓の段階に巌する物は、棚無し小船と呼ばれるもので、 フナクナ ⋮割に材を到り抜いて座乗部を作っただけの所謂丸木船である。次の段階は、神の現生で、劉船の榊側に離別ち 側板を縫付けた縫船である。棚無し小般の名は馬車集を始め古今集等にも見られる。 まるこ船は、三枚の底枚の柄側に丸太を二つ割としてその中側を曇ケ月型に到った側板が付けられ、其の上に 揉を取ったもので、底板も側板打紐釘で釘羞され各のである。 縫釘は日本式蓬飴洪の特徴であつて、曲線を持った錬釘で板と放とを小口で接合するもので、∵万の枚に凹み 集中四令 弟二統 ︵二四二︶ 五入

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針畑ご姑は、中央・右側・左側の木材から成り、それ等を接合して利敵型の形状を造り、鞘側の側板を殊更に 轡的せしめ殊に内側は村を凹園形に削ってゐる。その形状は上部かぢ見れば長方形で尭の補職が多少くびれ、側 面から鬼れば年月形を鶴レ、放から細部へかけで馨るしい反を示してゐる。後部に方形を輿へでゐる櫨枚は、外 側の中央に穴を穿って舵を装置する、牌臍も他酔と興り水で施す必要がない。 美保ケ開紳赦の諸手胎も、久美濱の丸木舶も大磯同州型式の楷である。叫鰭、日本海の到酔は太平洋のそれと 興り平面園が長方形を示しTゐる鮎に特級がある。 マナシカク† 紀・記に表はれる船舶で今日凝間とされてゐるものに、蛭子命を来せで海中に放流きれた北郎舵や無目籠と呼ば れる酔がある。此等の船に関しては種々意見もあるが、現存飴舶中にその筏物と思はれるものを求めで見ると、 テクバイ 先づ葦船臥形を想像せしめ得る放に、緊轍の紆狗で川ひ㌻れる﹁竹排﹂と云ふのがある。此は竹材を縦に幾本も 鈷らべて㌣の両側を上向廿しめで側耐から見ると草月形にしたもので、そわで海の上を走ってゐる。勿論﹂竹 の防聞からどん′1海水が漏って来るので、荷物や客を収容する為に筏の中央に楠が設けられでゐる。此の舵は を作り其魔から縫釘を打込んで他方の枚に建せしめ′、凹みには木亦は石衣を秋川めて之を軸めるのである。 上代覇族裸考 ︵一四三︶ 諷九

(32)

吃水が湧く主として曙礁の多い朗で州ひられる◇茸鴎と云ふのも恐らく此の類の船であつたらう。

トンキン 亦無目乾は、今月印度支那人が安酒・漁女附近で永←痘痕女宣して使用してゐ違舶︵評sket一b邑︶にその

間警留針てゐる。之は基の大意先の様箸ので、その笈の目品晶に蒜姦ぜたもので唄塞したもの

である。大きなものになると二十噸位の荷物を違ぷ事が朝来ると云はれてゐる。

アノ′イハクスブ外 語、苗代牒本朝詰に寂れる船に潔磐蘭︵天磐葦船︶がある◇此の蕩には、.賢嘉に尾張儲桑村で荒

されたが、其後漕失して今は尾張名桝園紛に問を讐に過ぎないものと、明治十八年難波の鋤川で曙掘されたも

の、歪初年姦市外今稿で張掘ぎれ富のと潔るバ此の三つは何れも貫材に讐宕ので亨、二仰以上の

材を組合せて作った複材劉貼である。その接合淡は難波のは糾合セ︵楔合︶に依り、今隔の.は釘着に依ってゐ れに相星いて桐側から人が押し進めたらしく、恰度朝鮮の松草 ス−シャン

る。楠材を用か舶に近く両側に豊があり、そ

セン

舶の警ある。漉等の楠胎は蔵近迄九州・囲攣仲野等で川ひられてゐたと云はれる。董潟の日晶で帝人の使

用してゐる栖鹿は、軍材到讐首尾の隈別なく、櫨警舶材をい、従って少ん・の波にも沈攣る事があると云

はれる。神訴の磐鹿樟船は恐らく此の硬額の⋮単材刹胎であつたらう。

應紳紀に、

糞年十月斜=空尉︼令レ造レ賠。長妄、於既成立。訊浮=†梅i、伸軽泣疾行如レ馳、紋多夷野口=枯野璃

とある。後世、此の伊蒜で墨る警伊掌船と云つ・たものと忍ばれる。ふ掌船は足柄箱痍山中の材で作ら

第十四啓 発〓駅 ︵〓些閤︶⊥ハ○

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れたもので、ノ足柄小姑とち云はれそ︵相模足柄郡と伊意園は山綬きで分ち難き故に伊豆手胎足柄小離も異なら ぬわ仏るべし1鵜薫集略解−︶ 伊官手胎は、威かは膳筏飴とも瓦挺脇の船︵∬争船︶とも考へられるが、伊豆風の漕典を傭へた伊豆手の船、 則ち伊豆由元の放と考へるのが至常であらう。乎は今の封封引の様な媚の事と息はれる。熊野の諸手船は左右両 方に、叫封を付けて梯ぐ凝であつたらうし、足柄箱銀皿中の材で出来る伊豆風の胎は、片手か諸手かは決らぬ が、叫封の様子から付けられた名和である事は略々確かである。 カノ 足柄小紙は前述の如く伊叫且手胎と同一の物であると考へられるが、一方、狩野川齢谷に終野帥批と云ふ神政が ぁって舵に関する侍訟を持ってゐ牒鮎等から考へれば、L或ひは足柄小股と云ふ名柄ゑ単に足柄招来の放と云ふだ けでなく、應和紀の﹁枯野﹂主何等かの細聯を持っものかも知れない。 アカラ サニヌリノ 7ケノソ應 灘羅小於、丹塗小船、朱曾保胎等の丹塗りの船が見られ、朱曾傑船は官給であつたと云はれてゐるが、風土記 の紳功皇后征群数詐中に、出灘に常って放の装を欠く魔められた事のある野から考へて、何か水難惨けの意味を キジ′′ 持っ民俗でぁつにとも考へられる。荒染屋形船等もあり、之は喪船であつたとも晋はれてゐるが、兎に角何等か 異状な印象を典へるものであつた事は訣る。 筑紫出しの筑紫飴、肥前松浦出しの松浦胎等もあも、此れ等は苗代から朝鮮と交墳のあつた魔だけに相常凝固 な蛤であつたらう。 上代碍族挽考 〓四五︶ 六・仙

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虞熊野の諸手船は、左右輌方に臓のある純粋自称型の船で、今推測し得る形状は、別離の納側に舷警補足し

た牒ので舶舵共美方形宮苦乾板が地頭に於て突出した形を持ってゐたものであらう。

カニハ 櫻攻則ち樺櫻の皮を堰いた船、之は今日黒龍正に浮んでゐる樺舶︵浮c冨邑︶の議であらう。

欝は多く足柄精根方面に得たらしく、亦船材としては杉・楠が良い去ふ事が苗寄託に穿てゐるが、望

の檎山から船材を伐り出し、筏に組んで擢で棒いで行く歌も見られる。

上代は擢と棍との問に箭亨、小擢は船側にあつて船姦め、大塔は喝にあつで舵器の用品めで警導い

カラカジ たものと思はれる。則ナ品感︵S−eering畠ごと呼ばれるものである。亦、散舵と呼ばれるものむあり、﹁本朝

メゾカ は完して作る加伊のみ管しに手兼に他木雷へて今警云ふもの後に臍習基りし故に此の名雪らん﹂

︵略解︶、と云はれてゐる。

は引綱に

胎擦って睦苧欝された。此の警苧環に河岸釜てられ左樺祝を地面と呼んだ、今日押捺の カ シ

カシ 繋船場爵岸と呼ぶのは恐らく此の名管であらうか、和名抄に、牌問云胱弼︵媚肘二義訴抄云加之︶桝=以 繋;給とある。

イヵリ

重石も用ひられた、票と雷くのは紙製の物の作られる迄は石を附かたからで、摸字も碇と書くのは看で拙の

位遅を定める意であるq 和名抄四琴字苑云、海中以レ石駄レ船田レ碇︵和名仰加利︶。 第十画巻 弟こ虎 ︵︼四六︺ 六こ

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河 海 港 の 状 態

上代は船の形も小さくて何ん甘港へむ白山に入れたから、今日の海港に改すペきものより寧ろ河港に比すべき ものが蟹達しでゐたと恩はれる。亦、所謂恕でないにしても夜間の晩行を熟れて備泊した株互場所は至石庭にあ る0 ミスノ 常時有名であつ仁港には、洛外へ行く唯仰の港であつた捧津の大和田預︵任音︶を始め、敏馬絹︵菟原郡石刑附 近︶、河港としての高津等がある。 難波の高津は既に此噴から漸時流くなりつゝあつた。常時大阪濁には山背川︵淀川︶のみならす大和川も流入 して屠り、ご修に河川の泥砂道搬率が大きく、、僅々一二年の問に河鹿は大いに埋って、砂岸はどん/\海中に押 し印しっゝあつたのである?高津と云はれたのは今の大阪城址︵督の石川御堂︶のあP∵りで、城址を鍵角として 其の束方に褒状の山大梅礫が溜入して居り、其虎に多数の舶舶が碇泊してゐたのである。三角洲の牽展と共に措 は前進しで、今日の船場から天王寺へかけ︷︰二術の海岸が船着きとなつでゐたらしい。 ミナト 其の他、般瀬の名が見える。船瀬は、今伊波止場の類で規模の小さな築港であろ。水門・入り江と云ふ梓では ない地形の海岸で、次の碇泊斯道の長い船路、戎ひは難所を掩へでその用意をして行か紆ばならぬ魔などで、一 方だけ風あたりを防げば良いと云ふ様な場虚に便宜上設け仁船畑引で、多くは突墳を爽き出して・外鯨の波を 遮ったものらしい。 上代轟族裸考 ︵二四七︶ 六≡

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鶴十闘怨 第こ渋 ︵〓四人︶ 六四

ナヰぞ、フナ三 島共に表れたの厄播摩の魚位の酔朝だけであるが、雅澄が地名としたのは敵りであり、中山厳水の船屑訟も尤

の棟で暦は違ってゐる。舶属は今の船櫨場、造船所、船朝刊uと云ふ棟窒息である。

仙鰐、ノ潮瀬周文郷の土工鋲の・輸入に放って親水たものと見えて∵奈良から平安の初期へかけて文献に象れてゐ

牒ので、庭嘉毒湖仰の刺通の船瀾︵新教三代格︶のやうなものもあるが、多くは播摩灘を中心としてゐだ楼で、 抽樺の大輪由の船瀬︵三代格︶、魚住の楷瀾︵萬薬・忠児封事・三代格︶、水兄の胎瀾等がそれである。

其の構造叔抄ヤ木材ヴし薄青あるかち、波の為に沙石を掠められ、木材は歴々盗まれたりして潮々荒擁す

る枝である︵≡代格︶。其の他形は大同小異と恩はれるから、魚件の胎粛を例にとると、

ヤヤ 明石郡の準警ぁり、廃園の船舶、東に入る・要路なカ。然るに束酉に島克く、覇鯨油く超し。薇風劫吹けば

コレ 波蕃山.の如く立ち、・経過の際能く存する宥鮮し。鼓に関りて、私に封物を以て賠泊を草創しっっ︵三代格︶

と透る。然して、多くは民力で経常したものと見えて、魚住・和禦ハに克典寺の檜侶が開係してゐるのは、功徳

の焉の私設であらう∵水晃の賠瀬は延暦十年と八年とに、国人で宿を敵って外綻五位下を篭ったものが二人迄あ

リシヲ

る︵校紀︶。亦、天暦元年に造船瀬朗を逸って外従五位下を授つたのも、矢張りこの水見の事であらう︵祷紀︶。か ふ云ふ風に寄附に倣ったものだから﹂船瀬功徳由と造船瀬料田とは放びに不輸和田とされたのである。一︵主税式︶

ユタ

ヲテレ

ヲ︼ 厘裏元年八月、筑前宗形郡大領外型ハ位下宗形朝匡溌津授二外提五位下共妻無位竹生玉従五低下?並以巌こ テ 竹澤應誘l道中金峰糟瀬上也.。﹂︵標日本紀︶

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渾・浮城等と背き、葡訟では浮つ纏であると説いてゐるが、如闇図男氏はみを1つくしであるj説かれてゐる。 延欝式雑式には、難波津頭海中串顔棟りとあ.るが、此の膵概は河にも鴻にも立てられたちしぐ、以て水路を梯 ミチビ 示しでゐたのである。亦、二枚の照民が水泳導き則ち水洗案内を務めた笥もある。 航行の状態.及 航 路 前述の如く資料に乏しい為に此の考察は非常に困難であ笥。今は萬某兼のみ字義礎として︵その蒔放歌に表れ た状態から推察して行く番とする。 旅行それ自鰐が伯れられた官時に渥上山恐れられたのは非常なもので、萬某びとの航渾は、川東るだけ梅岸に 沿ぶて進み、止心を得ない時の外は海岸を離れや、沖へHる事々橡力避増て溶小の島々を縫って進んだのであ る。揃倖ひ島偉ひに浪の静かな日を硯って航行を械けたのであか。従って早い海流、殊に瀬戸の早湖等は旗人を 驚異させにのである。 瀬戸内海の潮流は、淡路を痺に遅い士紀伊水活から押し寄せノる潮浪は、島の嫡︵鳴声海門︶と北︵明ポ瀬戸︶とか ら瀬戸内梅に入ヤ兼向して、揮預の海を舵て釆上物塵合して進行を止め、北するものは西折して継路沖から下銅 に向ひ、海峡を過ぎで九州の北岸から来たものせ合しで共に日本海に向つて進行するの.であ、る。此の伯ろしい準 峡に′あ、つては夜は淡路島で職階れして夜の引明け時に翻を見て恋いセ棒ぎ出したのであ.る。 ミヲヤクシ 其の他、港の設備としては、滞棟︵水爬衝石︶がある。滞梗は、水先を示すじ引い棒則ち剃引uである。水 上代緒族裸考 ハニ鱒九︸ 六罫

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︵一五〇︶ 六六 弟十四番,罪〓渋 島影★浦に糖泊りして浮壌の不安を詠った歌や、夜間の航行を伯れる歌、さては朝凪・夕凪・ピ緒ぶ歌が多く見 られ予潮の状態に依っては幾日も汐待もを飴儀なぐされた事もある。如何に彼等が航海を恐れたかは、い数多い搭 放歌の中に盈色の美しさを讃嘆した眞の叙景歌の少いのを見ても訣る。 触路に紺ルては、巻十五の退新羅使人等悲別贈答及海路働情陳忠邦常朗誠詠之苗詞なる叫群の歌の外には、飴 り航路を指示するものは見られないが、新羅使lこ就いては後に述べる。 先づ筆この﹁わだ・つみは怪しきものか﹂の欺から、瀬戸内梅の航路が推定される。それは淡路の西岸を北進し て明前の瀬戸から東向し、梅津の敏埼崎に至ったのである。▲其他、大和から筑紫への航路は、大和から大伴御渾 濱に出て、此所から舶に乗り瀬戸に入つたのである。亦、1土佐に行くには恐らく紀伊水道を由波の岸についで滴 下し、、西に折れて土佐潤に入つたものであらう。 海上交通の振はなかったのに比すれば﹂河川航通はかなy盛であつた之云ひ得る。河川交通に於ては、その多 くは曳き楷に依ったもので、後引きと云って、舶に到封綱を付けて艦を下にしで下す方法宮路られる。浅瀬で カn ナふハビトスヾ.17キトラモコシナヅミ は輯を用ひた事もある。仁徳紀彗那珂波層苫須儒赴泥苫羅所許断郊豆蘭とあるからー多くの損失どもが波に下 カヅ 勺立ち潜きっゝ舵を浦へ入れた事もあるらしい。山背川︵淀川︶等は水温は多かったらうが、河隔が今日よbすつ と駅て洲が方々にあ乃澄荻が繁茂心て居り、水澤は比較的湧かづだらしい。前述、の磐梯椅枇の如く、ノ舶に梓を賞 き摘側から人が押して船を進める方法も行はれて屈り、常時の川舵は恐らく此うした松葉賠系統のものが多かつ

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たのであらう。 飛鳥州や初瀬川の様な威すら、盛に舵が上下してゐるめから考へても、償時大抵の河川には酔の便があつたと 考へて茂美支へない株だ。 最後に常時の最大の旅行であつた海外派退位の番を述べで∵此の樵考を経る番にする。 何しろ船牌が陀射であり、屡々中央から二つに折れたり、その年分に乗カて漂流したりする株常例もあ名寄と て、全くの生命懸けであつた。安偶仲麿は膵朝七断念し、藤原満河は唐土に果てた一のもその番である。従って朝 廷でも酒肴唐賜って厚く牒てなされたのでJ㊦る。迫庸使は兜づ春日に沖合督つで無遠な娩海を而念し、酒肴を賜 り、大伴欄御儲浅から船出して、涙声内海を北九州に出で値嘉島から仙鹿支部に向つたものであつて、南島ぉ経 る耐の引込、山東に向ふ北の射す封の二つがあつたと考へられ遷。 ■嘘、支那圭倒して正式に使節を派遣する番は、堆石天皇の時代に創る。︵常時の支那は随胡である︶。席にな ってからは、朝鮮半島の審で我財と戟ひ、以釆文武天垂の噂迄過鹿の番は.宛え、・爾後引楯き後遺されたのであ る0 0 萬某にあるのは、天平五年・太平防塞四年のそれであるが、巻五の好誼好来歌は憶良が多清比展人廣威に胎つ にものである。 上代覇鹿裸考 遣 ︵ご豊︶ 六克

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邦十四啓 発 〓択 ︵一五二︶ 六入 選人駅威は天平四年八月十七日通庸大伊に任ぜられ、副使には中臣朝債名代が任ぜられ、外に判官・鋒事各囚 人が任名された。九月には壁年播嘩備中等の国々に命じて通庸便船四鰻曽作らしめられてゐる。四つの船は、 夫々、大使・副使・判官・主典の胎でぁる。翌五年三月二十〓旦贋成は朝を挿し、何問三月二十六日節刀を授けら れ、同囲丹三日四肢共に難波津から出張してゐる。翌六年十剛月二十日贋成等は大任を果して多禰島に到着し、 七年ざ月下自都大路を練つで宮中に入ケ節刀を奉還してゐる。其の問丸二年を要してゐる。 次いで天平膠琴一年九月二十四日に藤原朝臣滑河を迫庸大使に、大伴宿臓古層を副使に任ぜられたが、判官・ 主典各囚人の名は明瞭でない。同三年二月十七日には遣唐使の稚色百三十人に叙任の沙汰があり、四月四月には 石川年足等を伊勢大勝に、亦、奉幣佼を畿内七造の諸政に遷し、兵々通庸使の名主所らせられた。十叫月には更 に吉備虞備を副使とせられ、翌四年閏三月九日副使以上を内姦に召して節刀を賜ひ、滑河に正面位下、苗麿に礎 囲位上智授け、留畢生藤原刷雄に徒五位下を授けられてゐるから、其後閑もなく出張したのであらう。頴日本紀 には記されてゐないが、萬実には勅使従班位上高麗朝昼帖侶夢−難波一賜t詣肴入唐使藤原朝臣碑河等︼御歌一首放 短歌とあるから、わぎ′′\迭らしめられたらしい。出番の日は明瞭でないが、天平膠密売年十二月七日に副使菅 ヤク 備虞備の放が益久ノ島に着き、其磨から紀伊卑漏崎に漂着し、六年正月に副使大伴苗麿が唐檜盤眞・淡進等八名 を伴なつて膵胡しJ同月三十日都に入って唐にあ・つた時の事情を具さに奏上してゐる。 然し第一舵は躍らないので、三月太宰府では使を適して其の行方を捜索した朗、奄美島指して出帆しに事は知

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弟たが、、其後の消息は知れなかった。如月に笹つで太宰府から綿四散の判官布勢朝臣入室等が薩摩の石鮨浦︵石 盤鳥か︶に到潜した番を上奏しでゐる。布勢人主は七月十三日に鹿康廊下に叙せられてゐるから、其頃入京した のであ㌢つ。かくて攣二ニ・川敢は蹄つにが、㌧第仙の滴船は逢に膵着しなかつた。 清河は安侶仲麿と共に僧を出倒したが、魔鳳に想って安禰に流され∵貴慮に掃ったまゝ朝廷から召還の幼が 一 下っても蹄むや、途に唐土に狸落した。安藤山の謀叛に逢って辟期を失したと云はれてゐるが、驚は難船に封す る恐怖の薦と云ふのが木造である℃

遭 新 羅 、倍

大窄八年二月二十八目従五位下阿偶朝臣欄臍は迫新羅大使に任ぜられ、四月には参期して恩を謝してゐるから 間もなく机饗したものと忍はれる。副使は大仰荷稲三中、大判官は壬生佼主事太麿、少判官は天城忌寸臍で一行 の歌詠は篤実集巻十五に見られる。 新羅へ行く船は、大仰御津濱から出で敏燭揃・淡路島・明石揃を経て、播磨の家島・諾縮から周防の鞠生揃に mで大島の鳴門を通って熊毛浦に出て、其斯から普通は太箪府に出てゐるのであるが、此時は周防搾婆郡の洛中 で逆風に逢って吹き流され墓前団下毛部分間浦に漂着心た悠に、筑紫館に入つてゐる。引津ノ串から肥前格浦郡 狛島に出て、英断から二興銀に鷺岐島に向つた。萱岐の石田で雷宅麿が病残してh同・の柁歌が見られる。避に叫 行は判島の浅茅浦に進み升目問風待ちして竹数滴に至つ先。此鷹はもう日本の兼で仙歩出れば目的の新辣園が眼 上代醸成樵考 ︵一五≡︶ 大丸

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