ベンガル革命と英人自由商人
浅田實
はじめに
ベ ンガル革 命 と英 人 自由商 人
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わが国では今日﹁自由貿易帝国主義論﹂の立役者として知られているP・J・ケインとA・G・ホプキンズは︑一九八〇年に書いた論文のなかで︑つぎのように書いている︒
﹁プラッシーの掠奪は産業革命を開始させたのではなかった︒そうではなくてそれは︑イギリスがオランダから国債を
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買戻すのを助けたのだ﹂と︒ここでケインやホプキンズにならって産業革命が存在しなかったとか︑自由貿易帝国主義とは何だったのか等々の議論
に立入るつもりはない︒ただいずれにしても︑一七五七年の﹁プラッシーの戦い﹂を契機としてすすんだイギリス東イン
ド会社のベンガル支配によって︑イギリスからインドへの銀地金の流出は止まり︑木綿はもとより中国の茶さえもがベン
ガルからの掠奪収入によって︑対価なしで本国に輸入されることになった︑その事実を重視したいのである︒時あたかも
アメリカ合衆国独立に伴う戦争で︑イギリス本国はひどい財政難に追いこまれていた矢先であったため︑インド亜大陸や
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アジア各地からの収益の流入は︑注目され歓迎されないはずもなかったのである︒ところでここでわれわれが注目したいのは︑ケインやホプキンズがいみじくも述べている﹁プラッシーの掠奪﹂という
言葉だ︒いうまでもなくイギリス東インド会社は︑商人の会社であり商事会社であった︒決して﹁プラッシーの戦い﹂の
ような戦闘行為はかれらの本来の業務ではなかったし︑商人の常として戦争に伴う混乱をできれば避けようと考えてい
た︒イギリス本国政府も東インド会社の重役会も︑軍事力を使用しようという強い欲求を表明してはいなかった︒K・
N・チョードリも︑つぎのように述べている︒
﹁インドでの政治的ないしは帝国主義的冒険は︑本国の(東インド)会社(本社)では歓迎されなかった︒もっと以前の
時代に新しい商館を開こうとするのを嫌ったのと同じ理由で︑かれらは歓迎しなかったのである︒政治的ないし帝国主
義的冒険は︑直接の財政的収益をもたらさないで総経費をふくらます方向にむかっていった︒東インド会社のような全
般的な商業目標や営業徳目を意識している組織は︑長い政治的操作の伝統にもかかわらず︑短期収益の最大化を計算に
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いれない貿易見地を︑見落すことはできなかった﹂と︒一九世紀はいざ知らず少なくとも一八世紀までの東インド会社の︑以上が偽らない姿勢であった︒ところが皮肉にも一
七五七年以後の実際の結果は︑先例のないほど大きく人口も多い土地を獲得・領有することとなったのである︒これこ
そ︑﹁東インド会社はいやいや不本意に帝国をつくった︒東インド会社は徐々にゆっくりと︑私的商業的関心をもつもの
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から︑政治的行政的代理業者に変容した﹂︑といわれるゆえんである︒( 5 )
以下では︑当時ベンガルで活躍した代表的な自由商人の姿を追跡することを通じて︑﹁ベンガル革命﹂ともいわれる﹁プラッシーの掠奪﹂が︑どのようなものであったかを︑明らかにしたいと思う︒概説的にはこの当時の東インド会社
は︑政治的主権と地主制度と商業的独占との結合した権力を行使することによって︑事実上インド植民地支配をすすめて
いったといわれているのだが︑領土支配・植民地支配には︑東インド会社ばかりでなく︑ときには会社の﹁貿易独占﹂に
反対し︑挑戦さえした自由商人もまた与って力があったことを︑確認したいがためである︒
一一英国系自由貿易商人
ベ ンガル革 命 と英 人 自由商人
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いったい当時のインド植民地化の過程には︑三種類のイギリス人立役者がいた︒イギリス政府︑東インド会社重役会の他に︑私貿易業者・自由貿易商人たちがいた︒さらにこの自由貿易商人は︑少なくとも二種類に分類することができた︒
会社の従業員として正式に勤務していた商人と︑勤務していない商人とである︒わが国の学会ではつとに東インド会社の
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貿易独占が強調されてきたし︑商業資本による統制と制限を加えてきたと︑教えてきた︒しかし実際には︑本国から遠く離れた東インド在住の会社従業員やその他の私商人たちに︑何らかの規制や統制を行う
ことはきわめて困難であった︒アジア在のイギリス人は一八世紀はじめから︑かれら自身の富を追及するのに大いなる自
由を享受していたのである︒かれらは独自の計算で行動しながら︑ベンガル内陸部と海上を通じてアジア各地とのいわゆ
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る私貿易の網目をうちたてていくことができた︒早くも一七世紀末に会社従業員がアジア各地との貿易を自由に営む権利が認められた︒従業員であるなしにかかわら
ず︑アジアーーヨーロッパ問の貿易についてはいうまでもなく東インド会社の独占だったけれども︑アジア各地との地域間
貿易についてはこれを取締ってもうまくいかなかったし︑従業員の給料そのものが安かったからそれを補うものとして
も︑現地での貿易収入を得ることが許されたのである︒
はじめ一六六七年に認可されたのは︑﹁会社自身の二つの指定商品であるキャラコと胡椒とを除く﹂というものであっ
たが︑一六七〇年代中につぎつぎと拡大され︑一六七九年に会社当局はつぎのように主張することができた︒﹁結果的に
はこれら広大な国々の全貿易が自由にされ︑われわれの従業員がかれら自身の資金を増やすために解放されることになっ
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た﹂と︒会社従業員ではない︑まったくの自由商人司話㊦ζ霞島9暮も︑現地総督の統制の下で生活し︑保証金一〇〇〇( 9 )
ポンドを支払った人は︑インドに渡航することができたし︑アジア内での自由貿易の特権も認可された︒一七三六年から一七五六年にかけて︑五九人の自由商人がベンガルに渡航しそこで活躍した︒かれらもまた︑地方間貿易を盛んにし︑居
住地であるカルカッタの町を繁栄させるのに貢献した︒外国船でやって来たり︑ペルシア湾経由で陸路やって来たり︑時
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には会社船の水夫としてやって来︑ベンガルに住みつく者もいたため︑私商人もしだいに多くなっていた︒一七五七年のイギリス東インド会社の政治的勝利は︑そのようにして来往していた自由商入や会社従業員がベンガル内
陸貿易に本格的に参加していく道をも開いた︒ベンガル内陸部各地間の貿易・商品取引は︑それまでベンガル大守(ナワ
ブ)が統轄していた︒ナワブはそれに関税を課することによって︑多額の収益をあげていた︒しかしナワブ権力は︑プラ
ッシー以後著しく弱くなった︒武力でかれらの力が抑制されたからではなく︑自由商人の私企業がそれに介入したからで
ある︒私的利害関係者のさまざまな陰謀が︑それから約一〇年にわたって展開され︑それによってナワブはしだいにその
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権力を奪われ︑へなへなと倒れていった︒すでに私貿易業者たちは︑プラッシー以前から︑ベンガル内陸部での商業取引の機会をうかがっていた︒東インド会社
は︑塩︑明馨︑アヘンの取引を統制下においていたが︑原絹︑砂糖︑インディゴといった商品については︑私貿易業者も
自由に取扱うことができたからである︒プラッシーの戦に先立つ一七五六年のシラジ・ウダウラQQ貯僧∵鼠‑∪9巳聾による
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﹁ブラックホール事件﹂が︑イギリス商人に対する関税をめぐるトラブルに起因していたのを思うと︑ベンガルにおけるイギリスの政治的優越は︑イギリス人私貿易商人の活動が著しく成長したことによってすでに先鞭をつけられたのだ︑と
みることができる︒そしてかれらがかちとった政治的優越がまた︑私貿易商人の貿易活動の余地を高くしたのであった︒
このためにベンガル政治革命から巨大な利益が︑個々の私貿易商人のところにももたらされることとなった︒
よく知られているように︑イギリス東インド会社は一九世紀に入って一八=二年にはインドでの貿易活動を放棄して自
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9 ( 13 )由商人たちに開放したし︑ひきつづいてすべての貿易を自由にしたけれども︑そのように﹁自由貿易﹂が勝利をつかむこ
とができたのは︑一八世紀中のこの頃すでに自由貿易商人の商業活動が本格的に展開され︑すでに相当な実績を挙げてい
たからである︒その意味でプラッシーの政治革命のこの頃︑あるいはすでにその以前から︑アジア各地間ばかりでなく︑
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インド内陸部との商業活動をも自由商人たちが行なっていた事実を︑無視してはならないと思う︒その上︑イギリス政府でも東インド会社そのものでもなく︑会社上級社員や会社軍将校が個人として︑ナワブや地方都
市のインド人支配者相互間の争いを利用して︑プレゼンツをせしめたり︑略奪金をとつたりして︑多額の金をむしりとつ
た事実をも︑見落としてはならないと思う︒かれらはまた︑東インド会社だけに許された貿易特権やインド人権力者だけ
が本来もっていた禁制品の取引認可権をも喰いものにして︑太っていった︒そういったことを背景にしながら︑私貿易商
人たちはますます有利にかれらの貿易を強化していった︒そしてまたかれらは︑従業員であれまったくの自由商人であ
れ︑一連のナワブ位継承戦争を助長し︑それらを通じて一層多くの利得をつかんだのであった︒かれらは︑自由商人であ
ったり私的業者であったから︑ときには東インド会社当局の独占に反対したり抵抗したりしたが︑多くの場合それを利用
しときにはそれをけしかけて︑ベンガルの政治的混乱をかきたて︑そうしたことを通じて太っていったのであった︒つぎ
にその具体例をみていくことにしたい︒
三最悪の人と最善の人
フィリップ・メソンはその著書のなかに︑﹁ベンガルの革命﹂という章を設けて︑﹁プラッシー﹂以後の時代を叙述して
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いる︒そのなかに﹁最悪の人﹂という節がある︒東インド会社従業員のなかでもっともよくない人としてウィリアム・ボルツをあげ︑このボルツを助けた当時のベンガル評議会O︒巨6一一評議員ジョン・ジョンスト!ンとウィリアム・ヘイの二