て合衆国最高裁判所︵以下﹁連邦最高裁﹂︶
は﹁通信品位法 一九九七年六月二六日︑ 問題の所在
レノ対アメリカ自由人権協会事件 (R en o v . Am er ic an C i v i l L i b e r t i e s U n i o n ,
521
U . S 8 4 4 . )
4 デジタル時代の表現の自由の課題
3
﹁インターネットの自由﹂の憲法上の位置づけ2
通信品位法(C DA )
事件の意味 目
ー 次
―ーゴ
̲111111111ー
1 1
ー191ー11̲IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIJ︳
ー ト 一 ︱
L﹂
一 一 研 究 ノ ︳
︱
問題の所在
イ ン タ ー ネ
ッ トの自由﹂
に お い
六 七
開した会社員が︑わいせつ図画公然陳列罪で有罪判決を受けて クするだけでわいせつ画像を再生閲覧できるウェブサイトを公 行きを見守っていた︒日本でもその頃︑誰でもマウスをクリッ
Ac t o f
1996
;
CD A)
﹂を違憲と判示 ( C o m m u n i c a t 1 0 n s De ce nc y (1 )
した︒インターネットを利用する世界の人々がこの事件の成り
池
山 而
七V
/
忠
の 憲 法 上 の 位 置 づ け
司
23-3•4-239 (香法
2 0 0 4 )
(4 )
(5
)
0 0 0年︑高度情報通信ネットワーク社会形成基本法が制
0 0二年現在︑日本の人口の半数余りがイ
(6 )
0 0
一年制定のプロバイダ責任
よって支持された︒CDAの問題となった諸規定の︱つは︑未 ト
上 の 表 現 の 自 由 の あ り 方 を 考 え る た め に
︑ 通 信 品 位 法
(CDA)を違憲と判示した連邦最高裁判決を取り上げ︑その
後に︑日本の学説の整理を行いたい︒
事件の内容
CD
Aは
︑﹁
下品
な
( i n d
e c e n
t ) ﹂表現物から子どもを守るため に考案されたものであり︑新たな通信技術の迅速な普及を促進
する規制緩和を内容とする︑
改革立法の一部として連邦議会を通過し︑
成年者がみることのできる形での下品な表現物の陳列行為に二 年以下の自由刑又は二五万ドル以下の罰金を科した︒CDAの 執行は︑フィラデルフィアの三人の裁判官による合衆国地方裁
(7
)
判所︵三人合議法廷︶によって一九九六年に一部差し止められ︑
政府がそれを不服として跳躍上告をしたのが本件である︒当時︑
世界規模で九四
0万台以上のコンピュータを使う四︑
0 0 0万 人の人々をつなぐ︑急速に成長しつつあったグローバルなコン ピュータ・ネットワークに関する最初の上訴裁判所の判決で あった︒連邦最高裁は全員一致でCDAの当該規定が合衆国憲
(1)
一九九六年電気通信法の大規模な
2
通信品位法(CDA)事件の意味クリントン大統領に
六 八
23-3•4-240 (香法
2 0 0 4 )
「インターネットの自由」の憲法上の位置づけ(池端)
と記
した
︒
9 J
2
' ︐
よく達成するフィルタリング・ソフトウエアを含め︑インター 法修正第一条︵または第一修正︶C
DA
の反対者たちは﹁下品な﹂ の自由な言論の保護を侵害す
ると判示した︒この判決は︑
CD
に反対するそれまでに明らA かにされた主張を前提とするとき意外なものではなかった︒
の定義があいまいで過度に広
汎で
あり
︑
CD
の執行は自由な言論の権利を侵害すると主張A
していた︒ホワイトハウスも判決内容を予測していたと述べ︑
クリントンは
W W W ( W o r l d W i d e e b W )
上に陳列される有害 表現物を自主的に取り締まるため︑不快なウェブサイトをブ
ロックする容易な方法を親に見つけやすくするため︑情報提供
者やコンピュータ業界に対してより積極的な役割を求める計画
を公表した︒
連邦最高裁を代表してスティーブンズ裁判官は﹁憲法の伝統
の問題として︑私たちは言論内容に対する政府規制が︑思想の
自由な交換を促進するというよりも︑むしろ妨害しがちである
と推定する︒﹂と宣言し︑子どもを保護するために政府がコン
ピュータ・ネットワークを取り締まるよりも︑その仕事をより ネット上の有害表現物から子どもを守るための別の手段がある
﹁自由﹂の伝統の下のインターネット
インターネット上の︑﹁わいせつ﹂に至らない﹁下品な﹂表
いわば過保護な﹁自由﹂
六 九
の伝統のもとでその表
現物の規制を扱った本判決に特徴的なのは︑﹁下品な﹂という 法律の文言のあいまい性ないし過度の広汎性を理由に違憲・無 効と判ホしたことである︒これは︑表現内容に向けられた規制 を︑いわゆる﹁文面審査の段階﹂で厳しく審査する違憲審査の 手法を採用するものである︒また︑もう︱つの特徴は︑表現内 容に対する公的規制は︑思想の自由な交換を妨害することはあ れ︑促進しないという推定が合衆国の憲法の伝統であると宣言
したくだりである︒これは︑いわゆる﹁思想の自由市場﹂とい
う仮説を合衆国憲法が採用することを再確認し︑表現活動がそ
の他の活動︑たとえば経済活動とは異なり︑その害悪が過小に
評価され︑公的規制が例外とされる︑自立的領域であると理解
するものである︒
この原理的な仮説とそれを実現する違憲審杏の手法は︑印刷 メディアの表現の自由の問題について合衆国の社会が作りあげ
てきた憲法の伝統である︒インターネットも︑印刷メディアが
享受してきた︑
現の自由が保護されることになった︒もっとも本件の連邦最高 裁の判決が﹁印刷﹂モデルを採用したという評価には異論もあ る︒判決は﹁放送﹂と明らかに一線を画したが︑﹁印刷﹂モデ
ルを採用したとは明言せず︑むしろ有害表現物からの子どもの
保護という問題に限定する手法をとり︑新しいメディアの発展
23‑3・4‑241
(香法2 0 0 4 )
( 8
)
( f a i
r n e s
s
d o c t
r i n e
﹂が適)
マス・メディア支配の集中排除の観
(9 ) )
の宣言的命令を合憲としたものがある︒CDAの制定者
( 1 0 )
実際に︑インターネットの主な利用方法である︑電子メール︑
チャット︑電子掲示板︑電子会議室︑
W W W
上のホームページ
の開設などは︑不特定多数者を相手にする場合も多く︑その公
然性を前提とするとき︑インターネットは放送に非常に類似す
る︒ところが本件で連邦最高裁は︑インターネットが放送のよ
うな包括的な政府規制を容認してきたわけではないこと︑周波
数帯域の稀少性を原因とするような利用し難い表現手段ではな
いこと︑さらに受け手の積極的な働きかけがなければ情報にア
クセスできないことを理由に︑インターネットを放送から明確
川これまでのメディアの規範構造
日本国憲法第ニ一条第一項は︑﹁集会︑結社及び言論︑出版︑
その他一切の表現の自由は︑これを保障する︒﹂と規定し︑同
条第二項は︑﹁検閲は︑これをしてはならない︒通信の秘密は︑
これを侵してはならない︒﹂と規定する︒通説によれば︑第一
項の﹁表現の自由﹂はその前に書かれた﹁集会︑結社及び言論︑
出版﹂すべてを包括しうる﹁表現﹂が自由に行われることを保
3
﹁インターネットの自由﹂の憲法上の位置づけ に区別したのである︒ 位置づけられる可能性もあった︒七 〇
23‑3・4‑242
(香法2 0 0 4 )
「インターネットの自由」の憲法上の位置づけ(池端)
らく
続い
た︒
﹁表
現﹂
のう
ちの
﹁印
刷﹂
障するものであり︑歴史的に思想・言論弾圧の対象となった表
現様式をすべて含みうる概念として﹁表現﹂という言葉が使わ
れており︑第二項の前段で思想・言論弾圧の典型である﹁検閲﹂
の絶対的禁止を謳う︒第二項の後段の﹁通信﹂とは︑典型的に
は郵便物の送付や電話の通話を意味し︑そこでは﹁秘密﹂を保
護することによって︑特定者間の情報交換の﹁自由﹂を確保し︑
プライヴァシーを保護する︒そして政府や︑日本郵政公社及び
電話会社の社員にその内容を審査し情報交換を妨げる検閲を禁
止し︑さらにそこで知り得た情報を他者に漏らすことを禁止す
るものである︒
﹁表
現﹂
以上のように︑﹁表現﹂と﹁通信﹂を区分し︑前者に﹁表現
の自由﹂を︑後者に﹁通信の秘密﹂を保障し︑両者に﹁検閲の
禁止﹂を適用するというのが憲法ニ︱条の規範構造であり︑そ
れが憲法の制定当時のメディアを想定していたことは明らかで
ある︒その後︑﹁表現﹂のうち︑表現媒体の特殊性︵電波周波
数帯域の稀少性︶から︑公的な内容規制を受ける﹁放送﹂が︑
の典型とされた﹁印刷メディア﹂から分かれたが︑そ
れでも﹁放送﹂は﹁表現﹂に含まれ︑
と﹁放送﹂︑さらに郵便物の送付や電話の通話を代表とする﹁通
信﹂の三区分がメディアの規範構造として安定した状態がしば
七
となっていた周波数帯域の稀少性や特別の影響力という論拠は
マス・メディアとしての新聞・雑誌な説得力を失い︑放送と︑
どの印刷との区分が疑問視されるようになる︒他方︑日本電信
電話公社の民営化が契機となって︑通信サービス市場に競争原
理が導入され︑新電電
( N
e w
Co
mm
on
a r C
r i e r
)
が
N T Tと競争
することになる︒また︑これらの電気通信事業法上の第一種電
気通信事業者の通信回線を借りて︑付加価値のある通信サービ
スを提供する第二種電気通信事業者も登場し︑特定者間のコ
ミュニケーションとしての﹁通信﹂に︑不特定多数を受け手と
する﹁放送﹂類似のサービスが可能になり︑またそれとはちょ
うど反対に︑これまでの﹁放送﹂が︑﹁通信﹂類似のサービス
を提供する事態が生じている︒インターネットはそのようなメ
ディア融合のまさに最前線に位置し︑インターネット接続業者
は先の第二種電気通信事業者に入ることになる︒それでは︑日
本の学説はインターネットを憲法︱二条の規範構造上どのよう
に位置つけているのであろうか︒
. 2
﹁表
現﹂
・﹁
放送
﹂・
﹁通
信﹂
三区
分説
この立場は︑﹁放送﹂独自の規範を認め︑これまでの﹁表現﹂. の普及によって大きく揺らぎ始め︑﹁放送﹂の公的規制の根拠 の併存構造であり︑それは︑近年︑ケーブルテレビや衛星放送 ただ﹁放送﹂といっても︑当初は地上波放送の
NHK
と民放
23-3•4-243 (香法
2 0 0 4 )
( 1 2 )
見を交換し︑さまざまな議論を行いながら︑社会的な真理に到
達する道を用意しているといえる︒その点で︑インターネット
は思想の自由市場を提供しているともいえる︒インターネット
には︑新聞や放送におけるように巨大なマス・メディアあるい
は国家と脆弱な国民という関係はまだみられないのである︒し
たがって︑国家による表現の自由の確保という必要性は存在し
ない︒その意味で︑インターネットは第一モデルの純粋な形態
を明瞭に示しているといえる︒それは︑そのまま維持するのが
( 1 3 )
望ましいと思われる︒﹂と結論づける︒
①﹁表現﹂・﹁通信﹂二区分説
この立場も︑前説と同様︑﹁印刷﹂モデルを支持する︒ただ
メディアの規範構造として﹁表現﹂と﹁通信﹂の二区分説を採
り︑﹁放送﹂独自の規範を認めない︒マス・メディアとして放
送と印刷は区別できず︑周波数帯域の稀少性は︑多メディア・
多チャンネルの状況下では放送独自の公的規制を根拠づけな い︒情報の多様性は相異なるメディアの併存によって確保さ
れ︑特定のメディアだけで完結する多様性確保の必要を認めな
い︒したがってインターネットの表現行為は︑まずその機能が
﹁表現﹂に近いか﹁通信﹂に近いかで区別し︑前者には﹁表現
の自由﹂︑後者には﹁通信の秘密﹂を適用する︒放送を含む﹁表
現﹂は︑﹁印刷﹂モデルで最大限その自由が保障される︒その
七
23‑3・4‑244
(香法2 0 0 4 )
「インターネットの自由」の憲法上の位置づけ(池端)
現活動は﹁純粋な﹃表現﹄から純粋な﹁通信﹄までのあらゆる
もヽ
一対一の通侶もともに特殊であり︑インターネット上の表 立場をとる︒これまでのモデルとなった一対多の表現︵放送︶ らマスト・キャリー・ルール 結果︑市場原理︑つまり市民が関心のある情報を自主的に手に
入れることを高く評価する︒ただ﹁印刷﹂モデルの下に置かれ
たインターネットが公衆の熟慮に役立つかどうか疑問をもつ︒
人々が自分の支持する見解に耳を傾け︑そうでない見解に耳を
閉ざす傾向があるという指摘に理解を示し︑それを改善する手
段として討議的なドメインの創出に共感を示し︑多様な立場か
ら議論するサイトの設立への公金助成を支持する︒しかしなが
(m
us
t ,
c a r r y
r u l e
)
のような形で
反対意見のリンクを人気サイトに義務づけることには難色を示
し︑それは市民への情報の押し付けであると理解する︒それゆ
え︑個人に任せておけば遠ざけ︑選択しない意見・情報を伝達
し︑それによって市民同士を結びつける接着剤の役割を印刷・
( 1 4 )
放送というマス・メディアに期待する︒
田﹁サイバースペースでの﹁通信﹄﹂一元説
この立場は︑インターネットの出現を契機とする新たな憲法
ニ一条論を展開する︒これまでの表現の自由論が拠って立つ︑
表現︵放送︶と通信の区別︑表現のうちの印刷と放送の区分も
否定し︑﹁サイバースペースでの﹃通信﹄﹂モデルとも言うべき
七
段階のやりとり﹂であり︑﹁表現の自由﹂と﹁通信の秘密﹂の
双方が同時に保護されねばならず︑その結果︑﹁印刷﹂以上の
( 1 5 )
自由が保障される︒
この立場は︑規制緩和にもっとも親和性があり︑自由と秘密
しかに自由の拡大をもたらすが︑前説が説くように︑閉じた空
間内の自由に留まる可能性が高いであろう︒
固﹁部分的規制﹂説
放送規制の根拠が新旧メディアの規範上の別扱いから生じる
便益によって肯定されるという前提からすれば︑インターネッ
トが新しいメディアである以上︑そこは情報の多様性を確保す
るための施策の実験場として捉えられる。その意味でインタ—
ネットは﹁印制﹂モデルで扱うことにはならない︒むしろ﹁放
送﹂モデルになる︒しかしそのことは放送と同じ規制に服する
ことを意味しない︒インターネットの特性に応じて表現の自由
を促進する政策を採ることが許される︒まずは︑放送の自由の
場合と同様︑インターネットの自由があるべきである︒そのと
きインターネットは︑その特性から印刷メディアに非常に近い
自由の保障が与えられる可能性がある︒しかし︑それと同時に︑
﹁表現﹂・﹁放送﹂・﹁通信﹂三区分説の言い回しを借りれば︑印
刷メディアの﹁ネガティブな性格﹂の自由を基盤として︑放送 の両面から保護されるサイバースペースでの通信は︑
一方
でた
23‑3・4‑245 (香法 2 0 0 4 )
,
( 1 8 )
( 1 9 )
のよ
うに
︑ 日本では﹁ネガティブな性格﹂を基本に据える デジタル時代の表現の自由の課題
﹁ポジティブな性格﹂
﹁ネ
ガテ
ィブ
な性
格﹂
﹁表
現﹂
・﹁
通信
﹂
の自由を保障される
の自由の実験が要請される領域で
二区分説が検討したような︑インター
︒
であるとするなら
13 (
l)
松井茂記・福島力洋訳﹁レノ対アメリカ自由人権協会事件合衆国最高
裁判所判決︵資料︶﹂阪法四八巻四号(‑九九八年︶一四七ー一九一頁
参照
︒
(2)東京地判平八•四・ニ―-、判時一五九七号一五一頁。
( 3 )
最決平ニニ・七・一六︑刑集五五巻五号一︳二七頁︒(4)東京地判平九•五・ニ六、判時一六一0号ニニ頁。
(5 )
東京高判平︱︱︱︱・九・五︑判タ一〇八八号九四頁︒
( 6 )
総務省編﹃平成一五年版情報通信白書﹄︵二
0
0三年︶一六頁参照︒
( 7 )
地裁判決についての詳細な分析として山口いつ子﹁サイバースペース
における表現の自由・再論﹂﹁東京大学社会情報研究所紀要﹂五一二号︵一
九九 七年
︶︱
‑三 一ー 五五 頁参 照︒ ( 8 )
長谷部恭男﹁第九章メディア・モデルの探求と溶解﹂﹃憲法学のフ
ロンティアj岩波書店(‑九九九年︶二0六ーニ0
七頁
︒ ( 9 )
FC C v . P ac i f ic a Foundation,
438
U . S .
726
(1 97 8) .
( 1 0 )
CDAの立法者意思について山口いつ子﹁サイバースペースにおける表
現の自由﹂﹃東京大学社会情報研究所紀要j五一号(‑九九六年︶一五
ー三 七頁 参照
︒ ( 1 1 )
合衆国の学説では﹁印桐﹂モデルと﹁放送﹂モデルの対立がある︒そ
れについて︑山口いつ子﹁
Sy mp os iu m, Em er gi ng e M di a Te ch no lo gy n a d t h e F i r s t A me nd me nt ,
10 4 Ya le L .
J . 16 13
│ 850
(1 99 5)
(~!
叩文幻叩人
J I)
﹂﹃ アメ リ
カ法﹂(‑九九七
I‑
︶八四ー八九頁︑福島力洋﹁インターネソトと表
現の自由﹂阪法四八巻四号(‑九九八年︶五七ー八二頁参照︒
( 1 2 )
芦部信喜﹁放送の自由の規制と憲法﹂横浜国際経済法学四巻一号︵一
一四 ー一 七頁
︒ 九九 五年
︶
大沢秀介﹁インターネットと表現の自由﹂法教一九四号(‑九九六年︶
七 四
23‑3・4‑246
(香法2 0 0 4 )
「インターネットの自由」 の憲法上の位置づけ(池端)
19 18 ~ 17 16
八八ー八九頁︒
( 1 4 )
松井茂記﹃インターネソトの憲法学﹂岩波書店︵二00二年︶︒
( 1 5 )
君塚正臣﹁日本国憲法ニ︱条の﹃表現﹂と﹃通信﹄の間に﹂関法五一
巻六号︵二00二年︶︱│五三頁参照︒
Ca ss R. Su n s te i n , Republic.
co m, r P mc et on University
P re s s , p p.
167ー
19 0.
なお本書の邦訳本としてキャス・サンスティーン著•石川幸憲訳「イン
ターネットは民主主義の敵かj
毎日新聞社︵二0
01—一年)一七0ー一九
一頁
参照
︒
池端忠司﹁ボリンジャーの﹃マスメディアの自由﹂論﹂香法一八巻一
号(‑九九八年︶八四ー八五頁︒
山ロ・前掲注(7)•四0頁。
日本社会では︑技術の進歩によって情報伝達メディアの再編が進行
し︑それが否応なく︑表現の自由の価値・機能についての見直しを迫っ
ており︑そのような原理論によってインターネットのような新しいメ
ディアの﹁事実上の自由﹂が﹁法的な自由﹂に着地する必要を説くもの
に ︑ I ts u k o Ya ma gu ch i, B ey on d D
e F
ac to F re ed om : D 1g 1 t al Tr an sf or ma ti on of Fr ee Sp ee ch Th eo ry n iJapan,
38
S ta n
. J.
I n t ' l L . 1 0 9
(2002)~
ぷ参昭図
七五
23-3•4-247 (香法