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今 和次郎「考現学」の射程と比較文化

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. はじめに

本稿は、2007年2月13日におこなった大学院日本語教育研究科の最終講義

「『考現学』の射程−今 和次郎と比較文化−」を基に、口頭による解説を加筆 したものである。OHPで映写した図版資料については、その焦点部分を図表 として採録して掲げる。

考現学は、今和次郎の創始による時代・世相研究の実践的学問である。日本 で誕生した比較文化の方法論としては、画期的かつユニークな視点に立脚した 体系が展開されている。

今和次郎の研究の出発点は、『日本の民家』に代表される建築の詳細な調査 であった。伝統的な民家に暮らす人びとの、生活のぬくもりが感じられる微細 を極めた観察の姿勢は、考現学という源泉を掘りあて、そのゆたかな水脈が、

住居学、服装学、生活学の形成へと、それぞれ大河川となって流動する間にも、

終始一貫した通奏低音として受け継がれていった。

考現学という名称は、新たな生命の息吹を感じさせる学問のあけぼのと受け とられて、多岐にわたる対象の組織的な調査結果にも関心が集まるなか、人口 に膾炙していった。

その実践期間は、1920年から30年代のはじめにかけて、大正末期から昭和 初年の10年未満にあたる。若き研究者が集中的に、学問形成へ向かう疾風怒 濤の時期である。目前にある現在を、鋭くかつリアルに見つめる学として収斂 してゆく触媒作用をはたしたのは、1923年の関東大震災であった。人間の生

今 和次郎「考現学」の射程と比較文化

佐 藤 洋 子

キーワード

考現学、今和次郎、世相研究、

異文化体験、多文化共生社会

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命、暮らしを一変する破壊のエネルギーに遭遇して、ものの考え方、見方が大 きく揺らいだ。従来の慣習を維持する者と、新しい流行を取り入れる者との混 在現象がつぶさに観察され、実態が採集され、記録された。

第一次世界大戦後のヨーロッパでも、価値観の大転換が起こった。都市化状 況のなかの大衆は、大きなうねりをもって生活文化の担い手となっていった。

働く女性層の出現は、世界共通の社会現象だった。今和次郎は、考現学をもっ て、同時代の研究に取り組んだ。

2006年度秋学期、日本語教育研究センターが設置する全科目(外国人留学 生対象の日本語科目、及び学部学生を対象としたオープン科目)ののべ履修者 数は、日本語センター学生2590名、国際教養部学生2455名、学部・大学院学 生1790名の、合計で6835名、前年度は6227名で、飛躍的な伸びの途上にあ る。地域別・国籍別では、アジア17、アフリカ3、ヨーロッパ32、北米2、

中南米7、オセアニア2、アフリカ4の、7地域を網羅した、67か国に及ぶ。

地球的規模の学生が集う現実がここにある。

世界中の文化背景を基に学生の求める関心分野は、日本の近現代の推移とあ り方である。この現実に鑑み、外国学生への比較文化教育の座標軸として、考 現学を講義・授業の参考にしてきた。

広辞苑には、考現学は、「現代の社会現象を組織的に研究し、現代の真相を 考察しようとする学問。考古学に対する造語。モデルノロジー。」とある。今 自身のことばを忠実に咀嚼しながら、協力者吉田謙吉らと精力的に採集した、

時系列の現象から、当時の時代風俗を見ていきたい。

考現学の実践研究は、東京銀座でおこなわれた。1925年、初夏の昼下がり、

道ゆく男女の服装比率、女性の和服99%、洋服1%という調査は、今日の現 代人のもつ認識にも驚きを投げ掛ける。

女性の着物柄では、友禅の染めより、絣・縞の織りが圧倒的で、江戸の粋が 感じられる。若き学徒今の、あらゆる人間行動学への好奇心は、テキヤの人寄 せ術の観察・分析にも及んでいる。

以下、主に今和次郎の著作からの引用文と、採集された観察スケッチを図表 として掲載する。

(3)

1

. 考現学とは?

[引用1]「私たち同志の現代風俗あるいは現代世相研究にたいしてとり つつある態度および方法、そしてその仕事全体を、私たちは『考現学』と 称している。・・(以下、中略を・・であらわす)

私たちの携わる仕事は主として文化考現学(文化社会考現学)であること をも認識したい。・・時間的には考古学と対立し、空間的には民族学と対 立するものであって、もっぱら現代の文化人の生活を対象として研究せん とするものである。」(「考現学とは何か」1927年10月)

1–1

. 命名モデルノロギオ(Modernologio)の由来(初出時)

[引用2]「まず『考現学』という名辞の説明からしておくと、それは昭 和2年(1927)の秋に、新宿の紀伊国屋書店において同店主田辺茂一氏の すすめによってわれわれ同志は、それまでにやっていたいわゆる調べもの の展覧会をやることになった。・・現在われわれの眼前にみる生活のなか にある事象を対象として記録考究するというモットーから、・・現代学す なわちモダノロジー(Modernology)としたらばいいということが可決さ れたが、どうせ新名ならエスペラントでモデルノロギオ(Modernologio)

としたほうがいっそうよかろうというので、これをそえて展覧会場で発表 したのであった。・・現に私は昨年(1930)欧州諸国を捜したところでは その名辞がみられなかったし、またアメリカで流行研究をやっている ナイストロム教授(Prof. Paul N. Nystrom)にコロンビア大学の研究室で 会って・・人類学者と商業学者とが、近代あるいは現代の生活用物件を対 象としてそれぞれ独得の方法および技術で研究している。」(「考現学総論」

1931年11月)

1–2

. 風俗総合調査―東京銀座街風俗記録

[引用3]「男は洋服のほうが多く、女は和服がほとんど全部だという状 態です」(「和服と洋服の比」1925年初夏、大正14年5月7・9・11・ 16日)

(4)

図 2 Modernologio(モデルノロギオ)しらべもの[考現学]展覧会 会場 1927

図 1 東京銀座街風俗記録統計図索引「男女 INDEX」1925

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図 5 テキヤさん人寄せの術!!!(I,II,III) 1927 図 3 着物、平常着と外出着の割合、着物と羽織の柄 1925

図 4 銀座東側と西側の人出比較 1925

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2

. 今和次郎、人とその業績

今和次郎の生涯は、建築学に始まり、考現学の創始をもって、大きな地歩を 確立した。今の民家の研究と、同時代世相研究は、ともに先駆的な業績であり、

その実践が核となって、住居、服装、流行の造型へ枝を伸ばし、総合成果とし ての生活学に結実したとみられる。

今の学問を包括的に見れば、現代の社会現象のみならず、文化変化の研究と いう太い幹が見える。日本の近代史を踏まえて、激動のなかに身を置くことで、

ものの見方、考え方の変遷現象までをも、世界的視野のなかで比較文化的にと らえようとしたスケールの大きさがある。

その生涯の略歴からは、業績の相互関係でも、はっきりとした分水嶺が現わ れている。1925年の「しらべもの」展を、27年「考現学概論」で世に問い、

視野を広げて30年の欧米視察後、翌1931年の「考現学総論」によって学問体 系としての枠組みを示す。その後実質的に、時代の観察調査は漸次後退してゆ く。そして、40年にわたる沈黙期間を経て、「考現学の思い出」として、記憶 のなかに浮かぶ精神的支柱が蘇ってくる。

今和次郎の考現学は、欧米一巡後の1931年で頂点に達し、その後、分水界 は住居論、服装史、生活学へと、方法論を継承しつつ、それぞれの分水線を形 成し流れていった。

日本の首都東京の観察に始まる考現学の開拓期から、先進国視察で比較文化 の実態把握に努めた成熟期及び回想期において、学問的可能性を内蔵したまま になった部分もある。今回女性研究者の視点でこれを見直し、考現学の射程に 入る新たな範囲を明らかにしたい。

今和次郎の生涯には、青年期と壮年期に、その後の方向を決定する転機があ った。

東京美術学校卒業と同時に、開設されて間もない早稲田大学建築学科の助手 となった後、柳田国男の民俗学と出会った。日本の伝統的な生活文化を研究対 象とし、新渡戸稲造らの農村調査にも加わって、文献以外の伝承を手がかりと する学問の勃興期に身を置いていた。民家研究では、対象物スケッチの才能で、

独自の成果をあげていたが、関東大震災を契機とする考現学への傾斜で、柳田 の不興を買い破門され、師弟関係は断絶された。

(7)

民俗学が農村と過去を対象とするのに比し、考現学は都会と現代を考察する ので、両者が袂を分かつのは、ある意味で避けられない必然性をもっていたと もいえるだろう。

第2の転機は、1930年の1年にわたる欧米視察にあったとみる。築き上げ た考現学の学問的土台は、日本の都市化現象の特殊性ではなく、世界的な普遍 性をもつ問題の解明につながるという確信は得られたが、文化比較の座標軸は 容易に引けるものでなかった。論証となる世界の比較文化的観点がいまだ未成 熟で、これが、その後の考現学の理論体系の構築に至らず、梅棹忠夫をして、

「発育不良」とされる原因となったと思われる。だが、帰国後の「総論」を詳 細に見れば、著者自ら「研究者の見落としているもの」と表明した事項が、21 世紀の世界的状況を予見した社会的現象として述べられているのである。

考現学者今和次郎が、70数年前に深い洞察力で指摘した予見は、次項以降 で扱うが、略歴と、初期の観察結果を掲げる。弟、今純三はエッチング作家と して故郷青森から調査報告図を送った。民家のスケッチは生活感にあふれ、働 く女性の暮らしにも注目している。早稲田界隈の調査は、学生を動員した数値 で、時代の貴重な証言となっている。

2–1

. 同時代世相研究者、今 和次郎(1888 − 1973)の略歴

1888(明治21)年 7月10日、青森県弘前市、津軽藩典医の家に生まれる。

1893(明治26)年、弟純三生まれる

1907(明治40)年 東京美術学校図按科に入学、在学中特待生

叔父の勤務先、慈恵医大で解剖スケッチのアルバイト

1912(明治45)年 東京美術学校卒業。早稲田大学に開設して1年の

建築学科の助手となる。佐藤功一に師事。1914年 講師、15年助教授、20〜59年教授(勤続47年)

1917(大正6)年 柳田国男らの古民家研究「白茅会」に参加、民俗学

1918(大正7)年 新渡戸稲造宅の「郷土会」に出席、合同で農村調査

1923(大正12)年 9月1日、関東大震災。麹町富士見町から戸塚町へ

吉田謙吉らとバラック装飾社を設立

1925(大正14)年 初の考現学調査を行い、『婦人公論』7月号に掲載

(8)

1927(昭和2)年 考現学の旗あげにより、柳田民俗学より破門される

1930(昭和5)年 2月、欧米(フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、

ノルウェー、スウェーデン、スイス、アメリカ)出張 1931〜1950年 農林省、文部省、戦後復興院等の専門委員委嘱される

1951(昭和26)年 旧来家政学への危機意識から、日常生活の総体を

主題とする「生活学」を提唱、1972年、学会初代 会長

1971(昭和46)年 『今 和次郎集1〜9』(ドメス出版)より刊行

1973(昭和48)年 10月27日、心臓麻痺により逝去、享年85

2–2

. 考現学、研究範囲と関連諸科学

[引用4]「1、人の行動に関するもの 2、住居関係のもの 3、衣服 関係のもの 4、その他。・・社会学や、心理学や、能率学や、あるいは 地理学など、研究者の見落としているものあるいは手の届かないところを やるにある。」(考現学「概論」1927年10月)

2–3

. 考現学は、発育不良か?

[引用5]「考現学は、学 問としては発育不良にお わ っ た と い っ て い い。・・完結した理論体 系をうみだすものではな いが、現代社会研究の有 力な方法を提供する、社 会 学 の 補 助 学 で あ る。・・考現学方法の特 徴は、徹底した客観的観 察・・全体的把握・・比 較である。・・その論証 は、世界の比較文化論的

図 6 エッチング作家、今純三自画像/調査ハガ キ、青森県野辺地駅弁当(和次郎宛)

(9)

図 7 愛知・日間賀島の民家、漁家スケッチ 1925

図 8 6畳半(学校教師)、4畳半(オフィスガール)間借のスケッチ 1925

(10)

観点にたち、伝統文化の研究にたちながら、きわめて現代的な視点をもっ ている」(『今和次郎集』第1巻「考現学」所収、梅棹忠夫「解説」)

3

. 都市に生きる市民層の出現

今和次郎の考現学は、風俗総合調査から始まった。「動物学者や植物学者は、

動植物を注意深く観察する。われわれは現代人の生活ぶりを求めて銀座に出る」

が基本姿勢だった。1925年の「東京銀座街風俗記録」は、雑誌『婦人公論』

の協力によって、画期的成果を収めた。今の定義によれば、風俗は生活様相と も生活様式とも言い換え得る事象であり、「いかなる組織の社会の生活にも必 然その社会生活体の表面的様相として現われる、サムシングをさしている。」

そして「一区域内の事象は、他の区域との比較において、文化の分布、伝播、

変化、あるいは文化相その他の諸解釈におよぼしていくところ」を注視し、

「小樽市大通(花園町)服装調査」では、銀座方式によって、地方都市の現代 風俗を明らかにした。

調査区域は、東京の繁華街、人出の多い場所での流行状況の観察から、下町 図 9 早稲田付近各種飲食店分布図 1926 図 10 早稲田学生の集散状態調査 1927

朝8時登校は、3%(300人)

(11)

の密集地区での貧困生活の実態採集にわたった。前者は、「デパート風俗社会 学」や「盛り場新宿の飲食店分布図」等であり、後者は、「本所深川貧民窟付 近風俗採集」で、「本所深川男の欲しいもの」「女に入用な品物値段入詳細」が 調べられた。とくに都市のボトムともいえる震災後の庶民生活は、まさに採集 者が対象に肉迫する体当たり的熱意で記録された。

上野公園、井の頭公園でも、男女の散策組み合わせや、展覧会の集客状況、

ピクニック等が採集され、「早稲田・慶応・帝大ぐるり調べ」では、3大学周 辺の店舗が対比された。1929年の調査が現代に引き継がれていると思われる のは、古本屋を含めた書店数で、早稲田39、慶応8、帝大27は、一時代の記 録とはいえ、興味深いものがある。

住居・室内の観察では、居住人の持ち物の徹底的調査で、時代の住生活を明 らかにした。「新家庭の品物調査」は、新婚夫婦がプライバシーの侵害に甘ん じた犠牲的成果ともいえるが、家庭内に置かれた品物から、所有者個人の特徴 から生活階層までを類推できる結果を示している。大学の建築科を卒業したば かりの若きサラリーマンの新婚家庭は、かなり裕福な生活を想像させる品物が、

この時代の、大正デモクラシーの文化的雰囲気を物語っている。この調査の主 旨は、同時に、考現学者今和次郎が、イギリスの工芸家、社会改革家であるウ ィリアム・モリス(1834−96)の「Arts & Crafts Movement」思想推進に少な からぬ関心を抱いていたことの反映の証左とも受け取れる。

わずか15年、新時代を予感させる文化の風が吹いた大正期、近代国家へと 踏み出した明治期から、日本は文明開化・富国強兵の道をひた走っていた。世 界の動きのなかに日本を対峙させたとき、哲学者三木清(1897−1945)は、

第2次大戦の終結を待たず獄死したが、透徹した歴史観で、時代とその精神の あり様を看破していた。

大正末期から昭和初期にかけて、日本女性の衣服は洋装化が進み、1928年 の調査で、和服86%に比し、洋服16%になった。今は、スカートの長さの変 遷史に執着した。第1次大戦後のウエストラインの切り替え、布地節約の経済 性、既製服の普及と大量生産が、アメリカの流行学と関連づけられた。しかし、

すでに19世紀後半から、ヨーロッパでは、自転車、登山などスポーツで、ズ ボン姿の女性ファッションが登場している。身体運動とダンスは、ワルツから

(12)

タンゴに移り、コルセットからの解放も見逃せない事実であった。

3-1

. 20 世紀の時代風潮、明治・大正・昭和

[引用6]「あの第一次世界大戦といふ大事件に会ひながら、私たちは政 治に対しても全く無関心であつた。或ひは無関心であることができた。や がて私どもを支配したのは却つてあの『教養』といふ思想である。そして それは政治といふものを軽蔑して文化を重んじるといふ、反政治的乃至非 政 治 的 傾 向 を も つ て い た 。 そ れ は 文 化 主 義 的 な 考 へ 方 の も の で あ つ た。・・それは文学や哲学を特別に重んじ、科学とか技術とかいふものは

『文化』には属しないで『文明』に属するものと見られて軽んじられてい た。言ひ換へると、大正時代における教養思想は明治時代における啓 蒙思想−福沢諭吉などによつて代表されている−に対する反動として起こ つたものである。それが我が国において『教養』といふ言葉のもつている 歴史的含蓄であつて、言葉といふものが歴史を脱することのできないもの である限り、今日においても注意すべき事実である。」(三木清『読書遍歴』

1945)

3–2

. 大正デモクラシ−の市民生活への波及 市民生活にあらわれたもの:

洋装の女性、洋風の食事、文化鍋、文化カミソリ、文化住宅、アパートメ ント

大正9年、東京市の小学校児童・生徒を対象とする文部省調査:

社会主義、普通選挙、階級打破、改造、自由平等、個人主義、婦人週間

(70%の回答率)

3–3

. 都市の崩壊と再生、関東大震災、1923(大正 12)年、9月1日

[引用7]「地震、火事、伝染病、戦争というようなものに襲われて、は じめて東京はそのいかさま物であったことを暴露せられたのである」(長 谷川如是閑『いかさま都市の滅亡と新帝都』「中央公論」1923年10月 号)/『白樺』は廃刊/当時の流行り歌:「たちまち並んだバラックに、

(13)

夜はねながら、お月さま眺めて、エーゾエーゾ、帝都復興、エーゾエー ゾ」/アメリカ人設計による丸ビルは無事

3–4

. モボ・モガの記録

[引用8]「震災以前からしきりに華美に傾いていた東京人の風俗をぜひ 記録にとっておきたいと私は考えていた(『東京銀座風俗記録』)。丸ビル あたりと銀座は当時の評論家新居格さんが命名した モガ たちの散策区

図 11 銀 座 の カ フ ェ ーWaitress服 装 採 集/東京風俗図 1926

図 12 新家庭の品物調査、2・6・4半の3室、月給150円 1926

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図 14 戦後の合理化スタイルと次の戦争前 の ロ マ ン 化 ス タ イ ル ( 次 の 戦 争 前??))

図 15 ヨーロッパの女性ファッション(1937)

(1930年頃、ズボンにマキシコートで 銀座を歩いた第1号は戸塚文子の由)

図 13 スカートの長さの変遷

(15)

域だった。・・ショートスカートというものは、第一次大戦で、婦人も労 働をしいられることになったから、鹿鳴館張りの長スカートではいけない。

つまり、これからのモダンな社会を築くための姿なのだ。それが日本にど のような順序で感化を与えるか、和装との対決はどうか、などを追及しな ければ・・。(『考現学の思い出』1970年3月)

4

. 同時代人の文化活動

今和次郎とほぼ同年齢の文化人の活動を見てみよう。日本人の異文化体験が 大きく開花する。

まず、柳宗悦。民芸運動の創始者であり、宗教哲学者としても知られる。

1936年に日本民芸館を設立した。1910年創刊の『白樺』には、いちばん若い 同人として活躍し、ドイツの画家ハインリヒ・フォーゲラーに表紙画を依頼す る文通も担当した。ウィリアム・ブレーク、神秘主義の研究を経て、初期キリ スト教から仏教に関心が移った。李朝工人のつくった陶磁器の美に目覚め、そ の無心の仕事と日常の生活美学への構想を抱きつつ、京城に朝鮮民族美術館を 設立した。京都で陶芸家河井寛次郎らの知己を得、木喰仏や沖縄にふれ、仏教 に根ざす美意識のあり方を追求した。MINGEIは世界語となった。

次に、斎藤佳三。東京音楽学校師範科でオペラを学び、中退後、東京美術学 校図按科に今和次郎と同年に入学して舞台美術にかかわる。卒業と同時にドイ ツに留学。作曲、美術、衣装デザインから舞踏にいたる幅広い舞台芸術を、疲 れを知らぬ青春の情熱で吸収した。1914の帰国時には、ドイツ表現主義芸術 の牙城シュトルムから、オリジナル版画70点を託されて、日比谷美術館で展 覧会を開催、『白樺』のロダン展以来の刺激を与えた。1922年には、アメリカ、

フランスを経て、再度ドイツを訪れているが、図案と装飾を生活美に応用した 斬新な表現主義デザインを生み、1930年の日本を華麗に彩った。

さらに、山田耕筰を忘れてはならない。東京音楽学校では1年後輩に斎藤佳 三がいた。1910年から4年間ベルリン王立高等音楽学校に留学、異文化の豊 穣な体験者となった。斎藤とともに表現主義絵画を紹介し、カンディンスキー らの「青騎士」は山田の訳になる。帰国後は、交響曲・交響詩を発表、黎明期 の日本音楽界を指導し、挫折を経て活躍した。1927年には自作の『童謡百曲

(16)

集』を出版、有名な『赤とんぼ』等多くを収録している。1930年5月以降は、

「耕筰」と名乗る。

1930年7月、今和次郎の欧米旅行中、吉田謙吉の『モデルノロヂオ(考現 学)』が発行された。ジャンパーを脱いだ今の欧米見学は、上記3者と相違が ある。異文化受容の柔軟性と順応性において、20代の青年と40代の壮年では、

限界が生ずるのは当然であろう。

最初のパリ滞在4か月間、寄宿舎では日本の大学教員のタコ壺的縮図が展開 されていた。7月21日、ベルリンに入った今は、すぐにライカを購入するが、

撮影された被写体は、即物的で都市の表面観察の感は否めない。建築学者とし て目指したデッサウのバウハウス見学でも、「そこの校長は在来の美などには 振向きもせず、建築のほうに純粋な科学的立場で研究を進めていました(その 後・・彼はついにドイツを去ってロシアにはいり、よい立場を与えられてい る)」と、事実錯誤が記される。校長はグロピウスであり、ロシアで要職にあ ったカンディンスキーは、バウハウスに招聘される以前の1918年に、モスク ワ絵画美術館の初代館長となり、ロシア芸術科学アカデミーを設立していた。

1932年バウハウスはナチにより閉鎖された。1922年、ワイマールのバウハウ スを訪ねた斎藤佳三も、すでに工業生産との連携を掲げていたデザイン活動を 見過ごし、芸術第一主義の感想を残している。日本人の外国芸術運動の理解は、

まだ消化不良の部分があった。

4–1

. 柳 宗悦(1889 明治 22 − 1961 昭和 36)

[引用9]「(一)生活に一番深く交わる実用品であること、(二)健康と 質素との徳を最も豊に有つ品物であること、(三)地方的な伝統的な性質 を保有する為、最もよく固有な国民性を現す工芸品たること、実に是等の 重要な三つの性質こそ、民芸が絶大な価値を有する所以です。」(雑誌『工 芸』1931〜1949)

日常雑器のなかに「用の美」を見出だし、「民芸」という概念を世界的に した。

(17)

4–2

. 斎藤佳三(1887 明治 20 − 1955 昭和 30)東京美校図按科卒業

[引用10]「世界文化国の水準まで日本も其独特の文化力を以て漕ぎつけ ていくより外に道はない。・・模倣ではいけない。・・日本婦人の生活そ のものを正視し、各々の個性を尊重して創作を謳歌すると同時に、共存生 活、国際生活の尊厳を重視して、・・こうした考へ方以外に正しい日本の 生活文化はあり得ないといふ處(基本理念と表現様式の確立)にまで進み たいと思ふ」(『生活美』1947)

20世紀初頭ベルリンに留学。美術、音楽、デザイン、舞踊、演劇に多彩 な活動をおこなった。

4–3

. 山田耕筰(1886 明治 19 − 1965 昭和 40) ベルリン音楽学校留学

[引用11]「一体、私の美術館や展覧会見物は、散歩の一種だった。が、

斎藤が来てからは通学と均しかった。見に行くというより勉強という方が 適当だった。」(『若き日の狂詩曲』1951)

1914年帰国時、斎藤と持ち帰った表現主義<Der Sturm 木版画>展を開 催した。

4–4

. ジャンパ−脱いで今先生、考現学欧米の旅 1930・2〜 1931・1

[引用12]「(『考現学の目でみた欧米一巡記』 1931年3月&6月)

そこで私は慣習(T)と流行(F)と合理(R)という関係に注意をはらい ながらヨーロッパを回りましたら、Tの要素の多いのは、イタリアとイギ リス・・Fの項目にぴったりあてはまるのはフランス・・ドイツにいく と、R的、すなわち合理的要素が多い。・・新しいアパートをみると、理 論だけで建てた実に気持のいいものがあります。・・アメリカは・・高層 建築は商業的競争で建てられて・・家庭電気器具で能率的に家事を運んで いる・・国柄の違いというのでしょうか。」

(18)

図 17 斎藤佳三図案『夏の生活美・表現浴衣』

1930頃

図 16 ヴラスタ・ヴィンケルヘフェロヴァ『MINGEI』,

人民新聞出版社 2006

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4–5

. 1930 年、ドイツの社会状況

1月失業者320万(前年10月米大恐慌の余波)/S.クラカウアー『サ ラリーマン、最近のドイツ』刊行、都市ホワイトカラー、プロレタリア化 した中間層に/4月M.ディートリッヒの『嘆きの天使』封切/ナチス松 明行進、ヒトラー前夜

図 20 今和次郎ライカで写したデッサウ、バウハウス正面ベルリン、ブランデ ンブルク門、バス停留所標識(左から)

図 18 ジャンパーにサヨナラして1年間 紳士に化けて欧米見学

図 19 ロンドンの労働者・パリの労働者は 夕方にはミレー<晩鐘>の都会版と

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5

. 都市化時代の生活大衆

1930年の欧米視察で、考現学者今和次郎は、何を見たのだろうか? その 後40年間の沈黙は、第2次大戦が影を落としているとはいえ、何を意味する のだろうか?

今和次郎は、1年間の外国出張のために、幅広い分野の研究にも目を通して いたと思われる。イギリスのW.モリスについては、芸術と生活を一致させ る試みとしてのアーツ・アンド・クラフツ運動には、専門との関連から関心を 抱き、その理念に賛同していたが、運動成果としての「赤い家」は訪問してい ない。19世紀の工業化のなか、家具や調度品のデザインで知られる新しいラ イフスタイルは、伝統を重んじる生活では見出せなかった。ロンドンで見たの は、「20年前に学んだ建築」で、オックスフォードとケンブリッジの建物には、

「いかにも予想外の貧弱さで驚いた」ことが報告され、1か月の下宿生活も、

「昔の通りの家計でやっている」適応性の欠如に、改良を求めない保守性を感 じている。

「合理万能のドイツ」には、社会経済学者のヨ−ロッパ変遷史が背景に語ら れている。ヴェルナー・ゾンバルト(1863−1941)は、近代軍隊の発生から 18世紀末まで、戦争が育てた商工業を、豊富な資料と文献で分析した。第1 次大戦後は、マルクス主義的階級闘争史観を放棄したが、1930年代はナチズ ムへ接近し、やがてその民族中心主義に批判的態度を標榜する。振幅の激しい 学者の世界観は、ドイツそのものの運命だった。

戦争と資本の膨脹の狭間で翻弄され、ドイツ工業の合理化の推進による発展 と、大恐慌と失業という時代の申し子となったのは、新しい中間層の都市大衆 であった。なかでも、都会で働く女性は、集団の現象となって出現した。ルポ ルタージュの作家クラカウアーが報じる職業の女性は、今の視野には登場して いないが、社会の不可欠な構成員だった。

ゾンバルトの火を吹く論客の風貌を絵筆で残したのは、ドイツ表現主義の傑 出した女性画家パウラ・モーダーゾーン=ベッカー(1876−1907)である。

現在ポーランド領シュライバーハウの冬に出会った学者の肖像は、翌1906年 パリで成立した。浮世絵の大首絵に触発されて、世界像の構築に燃える知性の 表象が、迫力をもって描かれた。

(21)

今和次郎の欧米体験は、圧倒的な現実世界の激動の前に、筆も萎縮したかに 見える。

しかし、観測する考現学者として、時代を見据えていく姿勢が帰国後に表明 されている。眼前にあるのは、外国人との共生社会への予見である。日本には 焦眉の急の課題であった。第2次世界大戦で、ドイツと同じ狂気の時代を空費 した敗戦後、人間とその生活の意味を問い直し、総合的な生活学が提唱された。

時代の変化と現象を考察しようとする学問が復活の兆しを見せた。

考現学空白の40年を経て、今和次郎の脳裏に去来したのは、戦争と平和だ ったろう。戦後の破損したからだの老兵たちには、限りない社会的弱者へのま なざしが見て取れる。

図 21 パウラ・モーダーゾーン=ベッカー<W.ゾンバルト肖像>(1906)

(22)

図 22 1930年、ベルリン・ポツダム広場(上左)、失業者(上右)、

マレーネ・ディートリヒ(下)

(23)

5–1

. 大衆文化は大都市サラリーマン文化

[引用13]「社会経済学者ゾンバルトによれば、中世紀の奢侈品商業は、

王候貴族にのみ付随していて極限されていたのだったが、ルネサンス時代 になってブルジョアあるいは中産階級へと奢侈品商業は手を広げて、それ が一般近世商業の発展の原動力となったといわれているようなことにたい して、現代アメリカで開発されつつある衣服生産およびその商業は大衆へ 大衆へと進出せんとするところに立場がある」(『スカートの長さを主題と しての服装論』 1929年10月)

[引用14]「ゾンバルトはかつて、われわれドイツの大きな都市は、今日 では工業都市ではなく、サラリーマンと官吏の町であるとのべた。それが 妥当する町があるとすれば、ベルリンである。ここでは、サラリーマンの 大群を自分の中から生み出す経済的プロセスが、もっとも広く進展した。

ベルリンは今日では、明白にサラリーマン文化の町である。・・明白に女 子店員、既製服仕立屋、速記タイピストなどなどのある種の標準タイプが 図 25 1930年7月〜8月、ベルリン訪問

時の今和次郎

図 24 1931年、ゲッベルス対チャップリ ンの戯画

図 23 1930年、パリの街の戦傷兵

(24)

出現した。そしてそうしたタイプは、雑誌や映画に表現され、同時に育成 される。」(S.クラカウアー『サラリーマン』1930)

5–2

. 外国人との共生社会への予見

[引用15]「慣習的社会からうけついだ伝統においてのみ生活せんとする 人があり、また気分を主とした安易な自由さにのみ生活せんとしつつある 多衆があり、科学的な理論的な生活を求めてすすまんとする人びとがあ り、・・われわれはすべてそれらの人びとの生活のしぶりの現実の記録者 であり報告者である。そして異なる面容の人びとのどれだけずつの混合で 時代がすすみつつあるかの観測者でもある。」(『考現学総論』1931年11 月)

5–3

. 第二次世界大戦後、生活学の提唱

[引用16]「人間の生活行動の各分野を内容的に吟味した、労働論、休養 論、娯楽論、教養論、などを一貫したものとして総合思索した生活言論を 築きあげ、そして、衣、食、住などの姿をそれに則して新たに調整して各 論として形成させていくというような生活学の樹立を、と空想してみたく なるのである。」(『家政学から生活学へ』1951年11月、1972年 日本生 活学会設立)

5–4

. 戦争と平和、社会的弱者へのまなざし

[引用17]「戦争というものの悲惨な印象が、その当時第三者であった私 たちに克明に与えられたのである。・・1930年のパリの戦傷者たちは、

軍服(くたびれた軍服)を着ていた。それは戦勝国の軍人であるという当 人たちの誇りからか、いまだに大ナポレオンの崇拝者である大衆に答える ためか、比較的明るい表情だったのである。あとでドイツにいったとき、

そこにも戦傷者たちが街にみられたが、敗戦国の戦傷者であるせいか、い ずれも暗い表情だったので哀感をそそるものがあった。そしてすでに 1930年には、ヒトラーが強大な勢力を示して立ちあがりかけていたので ある」(『考現学の思い出』1970年3月)

(25)

6

. 考現学の継承

考現学は、現在、今和次郎の精神を引き継いで、多様な活動がおこなわれて いる。

建築学や表現界からも注目され、路上観察学会はユニークな記録を報告して いる。国立民族博物館では、今の「新婚家庭もの調べ」を踏襲した韓国人家族 の生活展を開催した。日本の諸都市で、「活字人口」の考現学調査をする比較 行動学者の呼び掛けも、メール時代のものだろう。

早稲田大学日本語教育研究センターの「日本の生活」「異文化間コミュニケ ーション」「世相」「日本の美術」及び大学院の「比較文化」では、考現学を参 考とした理論展開と実践の講義・授業をおこなった。

6–1

. 路上観察学会 1986 年発足、1992 年「ライカ同盟」結成

メンバー:藤森照信(建築史)、赤瀬川原平(画家)、南伸坊(イラスト レーター)

6–2

. 国立民族学博物館< 2002 年ソウルスタイルー李さん一家の素顔のくら し展>では、一家の生活財、3千数百点を公開、すべてをトータルにみ せて生まれる新たな価値を展示した。

6–3

. 正高信男(比較行動学)『大阪と東京の考現学』(みんぱく 2007 年2月 号)

[引用18]「必ず乗客をウオッチング・・大阪は多くが新聞、それもスポ ーツ紙やタブロイド夕刊紙が多い。重い単行本となると、かなり稀なのだ。

時間帯や場所を移してもおおよそ、東京は大阪の1.5倍は「活字人口」

が多い勘定になる。

メールをしている乗客数・・数百人規模で、日本語の語彙数や読める漢字 数も・・関西はもともと話し聞く文化なのに対し、関東は書く文化。福岡 や札幌では?」

(26)

6–4

. 外国人との共生考現学<観察・把握・比較>の理論構築及び実践 結びにかえて(多文化共生時代、比較文化の指標を語るスイス生れの作家)

[引用19]「文化は、人が自分、そして相手を注意深く、思いやりをもっ て扱う『技』を身につけることに始まる。・・文化は、社会や政治に従属 するものではなく、『人間性』に立脚するものだから」(アドルフ・ムシュ ク)

第1次資料:『今 和次郎集1〜9』、ドメス出版、刊行 1971 ・2年

(1.考現学、2.民家論、3.民家採集、4.住居論、5.生活学、

6.家政論、7.服装史、8.服装研究、9.造型論)

第2次資料(展覧会カタログ、参考文献等)

1.今純三・和次郎とエッチング作家協会<採集する風景/銅版画と考現学の出会 い>展,2001

2.<東京−ベルリン、ベルリン−東京>展、2006

3.『アート・トップ、東京−ベルリンの邂逅』Vol. 208、芸術新聞社、2006 4.平井正『ベルリン1928−1933』、せりか書房、1982

5.ヴェルナー・ゾンバルト/金森誠也訳『恋愛と贅沢と資本主義』、諭創社、1987 6.―/―『戦争と資本主義』、諭創社、1996

7.<斎藤佳三の軌跡>展、東京芸術大学大学美術館、2006

8.『Das XX Jahrhundert, Kunst, Kultur, Politik u. Gesellschaft in Deutschland』, DuMont

最終講義(2007年2月13日)

(27)

佐藤洋子教授 略歴

学歴

1964年3月 早稲田大学第一文学部独文学科 卒業

1967年3月 早稲田大学大学院文学研究科独文学専攻 修士課程修了

(修士論文:ゲーテ『タッソー』研究)

職歴

1967年4月〜1971年3月 早稲田大学語学教育研究所全日制副手

1969年4月〜1969年7月 早稲田大学語学教育研究所日本語講座担当講師 1969年9月〜1971年3月 早稲田大学国際部日本語授業担当講師

1971年4月 早稲田大学語学教育研究所専任講師

1974年9月〜1975年1月 ドイツ民主共和国ベルリン・フンボルト大学 国際交 流基金派遣講師

1976年9月〜1978年3月 同上

1976年4月 早稲田大学語学教育研究所助教授 1978年6月〜1982年6月 慶應義塾大学国際センター非常勤講師 1984年4月〜1985年3月 同上

1982年4月 早稲田大学語学教育研究所教授

1982年9月〜1984年3月 ドイツ連邦共和国ボン大学 国際交流基金派遣専門家 1988年4月 早稲田大学日本語研究教育センターに本属変更 2001年4月 早稲田大学大学院日本語教育研究科に本属変更 2007年3月 定年により退職

(専攻分野) 比較文化、異文化コミュニケーション、日本語教育

(学会関係) ジャポニスム学会理事(2005年〜)

主な業績

(70〜80年代の「講座日本語教育」を除く)

小  論 世界の大学「ベルリン・フンボルト大学」 早稲田学報 76. 2 編集協力 Grundkurs der modernen Japanischen Sprache

VEB Verlag Enzyklopaedie Leipzig 82. 10

報  告 ボン大学東洋語研修所出張報告 ILT News No. 76 84. 10 共同編集 外国学生用日本語上級教科書¿,À 日本語センター 88. 4 論  文 「日本事情」の構築に向けて 講座日本語教育 第24分冊 89. 3 論  文 「日本事情」で扱う年中行事 講座日本語教育 第25分冊 90. 4 論  文 「文明」と「文化」の変容 日本語センター紀要3 91. 4

(28)

論  文 日欧文化の相互影響の問題について―『明星』『方寸』とヨーロッパ 文芸雑誌 日本語センター紀要8 95. 4 論  文 日欧文化の相互影響の問題について―万国博覧会と文芸雑誌から

日本語センター紀要11 98. 4 論  文 日欧文化の相互影響の問題について―造型芸術における伝統と

潮流の受容 日本語センター紀要14 01. 4 論  文 柳宗悦の思想形成と民芸運動 日本語センター紀要15 02. 4 論  文 林忠正コレクションとパウラ・モーダーゾーン=ベッカー

日本語センター紀要16 03. 4 著  書 パウラ・モーダーゾーン=ベッカー―表現主義先駆けの女性画家

中央公論美術出版 03. 5 論  文 日本文化における「影響」の多義性 日本語センター紀要17 04. 4 論  文 彫刻家ロダンと日本における近代の形成

日本語センター紀要18 05. 6 翻  訳 パウラ・モーダーゾーン=ベッカーとヴォルプスヴェーデの画家たち

素描と版画 1895–1906 伊丹市立美術館図録 05. 9

(Paula Modersohn = Becker und die Worpsweder

Zeichnungen und Druckgrafik 1895–1906, ifa, 97)

論  文 パウラ・モーダーゾーン=ベッカーにおける浮世絵の触発と統合

(The Inspiration and Integration of Ukiyoe in Paula Modersohn = Becker)

パウラ・モーダーゾーン=ベッカー展図録 05. 10

(図録は、05年度美術館連絡協議会奨励賞を受賞)

書  評 クラウディア・デランク「ドイツにおける〈日本=像〉」

水藤龍彦・池田裕子訳 思文閣出版 ジャポニスム研究24 06. 3

論  文 クララ・リルケ=ヴェストホフについて Flaschenpost Nr. 27 ゲルマニスティネン学会誌 06. 5 論  文 パウラ・モーダーゾーン=ベッカー展をめぐって

ジャポニスム研究26 07. 3 論  文 今 和次郎「考現学」の射程と比較文化

日本語センター紀要20 07. 6

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