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新井章慶

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長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第23巻 第2号 43‑76 (1983年1月)

詩的衝動としての「エロス」の問題(12)

‑W. Whitman と R. M. Rilke の場合

新井章慶

On Eros as a Poetic Impulse (12)

‑The Case of W. Whitman and R. M. Rilke

Akiyoshi ARAI

《XII》

芸術におけるリアリティ(空想と想像力の問題) (3)存在と想像力

エロスと想像力(≪エロス的文明≫に見られるH.マルクーゼの問題点) (続)

*

マルクーゼは、しかしながら、次の観点において正しい。すなわち彼は、シラ ーの「人間の美的教育」に関する意見に賛同して、こう述べている。

「もし遊びの領域が、そのはかの点では抑圧的な世界における装飾、著修、休日のそ れであるならば、この様な定式(筆者:人々が強制感なしに美と遊ぶことができること) は無責任な"唯美主義〝となるだろうOしかしシラーにおいては、美的機能が人間の全 存在を支配する原理として考えられている。そしてそれがそうなるのは、それが"普遍

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的〝になる場合にかぎられているのである。 」

「抑圧的な健界」とは、言うまでもなく、個々の人間が断片化され、仕事が単に 食うための労働であり、また遊びが個人的な享楽にすぎず、全体の幸福に寄与し ないような仕組みの生活世界を意味している。ここでは最も高度な美的遊びとも いうべき芸術の創造と享受でさえも人間性の全体にかかわることのない倭少な目 己陶粋のいとなみにすぎない。マルクーゼは、芸術の機能を「人間の全存在」に 浸透するクサニー‑ティヴな原理としてとらえているのである。これは評価される べき点である。彼は、また、文学の原型としてあるオルフェウス・ナルキソスの

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44 新井章慶

エロス像に、人間性界のあるべき楽園像を見ていた。このことについては、すで に述べたとおりだが、彼は、しかし、それについて駄目押しをする。つまり、た とえ、この種のエロスの発現が、 ‑人間にあってリビドーの純粋な自己昇華(た とえば、充分に楽しい、特定個人間の交わりとか、美的創造行為など)であるとしても、

「それは共通の土台の上に進行する超個人的な過程でなくてはならない。孤立し た個人の現象としてあるならば、ナルキソス的なリビドーの復活は文化の建設に

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役立たず、神経症的である。 」と彼は言う。これも、最前の引用したマルクーゼ の観点と符節を合わせることばである。たとえ、それが‑芸術家の、 「奪修」な 生活環境から生じた「休日」的な美の享楽ではまったくないとしてでもである。

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それが「特定個人の孤立した行為である」かぎり「それは死を造り出す」とも彼 は主張する。

マルク‑ゼの考えによれば、伝説のオルフェウスもナルキソスも、ともに他者 たち(つまり人間世界)とのノーマルな関係をないがしろにして、ひたすら個とし て愛と美に投入したために、自らに死を招いてしまった。彼らは、自然のもろも ろを感動させ、それらを調和の想いにふるわせたが、彼らはけっきょく人間たち の悪意によって殺されてしまったのである。孤立した個としての愛者あるいは美 の陶粋者は、悪意ある勢力や階級の前には無力である。彼らは、何ら新しい「文 化の建設に役立つことがない」 。したがって彼らの美的エロスのみごとな開花も、

げっきょく神経症的現象といわざるをえない。マルクーゼの主張する「共通の土 台の上に進行する超個人的なプロセス」とは、特定の愛し合う者たち、あるいは 芸術家たちの政治的参加または政治的志向を意味していることは明らかである。

このこと自体については、特にマルクーゼの謬見として否定する理由は何らない。

ただ、彼はある箇所で、 Rilkeのあの絶妙な≪オルフォイス・ソネット≫の一 つを、詩人の典型的なエロス美として讃めたが、そのRilkeは、終生、あえて政 治的関心から身を遠ざけた詩人なのである(WhitmanもそうであるRilkeほ どに政治に無関心‑それにはRilkeなりの積極的な理由があったが‑では決 してなかったが、彼は早くから政治的参加には見きりをつけ、詩人としての純粋 で、独自なちからを自覚した) 0

「オルフェウス的なエロスは存在を変形する」とマルクーゼは言う。たしかに Rilkeにとって、詩人の内奥にはたらくオルフォイス(オルフェウス)という、讃 めたたえ歌うたましいは、私たちの存在すなわち現世を変形する。だが、 Rilke にとって、それは、あくまで、集団から離れた個のもっとも孤独な中心から生れ でるものでなければならなかった。しかも、それは最も秘かな、超個のちからと

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詩的衝動としての「エロス」の問題0分

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なって現憶の毒と傷をやわらげてゆくのである。 Rilkeはそう感じた。しかし、

マルクーゼの文脈では、オルフェウス的なエロスのカが「存在を変形する」の は、 「解放を通じて」である。すなわち、集団的な政治参加による達成を通じて なのである。 「オルフェウスは残酷と死を支配する」時がくるまで、天来の讃め 歌を延期して、 「大いなる拒否」の力を萩舞しなければならぬと、マルクーゼは 主張する。事実、この私たちの文明には、無量の残酷と死がある。だが、それに もかかわらず、その只中で、オルフォイス(真の詩人)が個としてエロス美に愚 かれることはありうるのである。いや、現世がそうであればこそ、いっそうオ ルフォイスは美に愚かれて、讃めうたう。これは、超個(全体)に向って開か れた純粋孤独のよろこびなのであるRilkeのオルフォイスはそうであった。

Uund fast ein Madchen wars und ging hervor aus diesem einigen Gliick von Sang und Leier und glanzte klar durch ihre Friihlingsschleier und machte sich em Bett in memem Ohr.

おとめ

[そしてそれはほとんど一人の少女。歌と竪琴の/ひとつに融けあうこ

しあわせうすぎぬ

の幸福より現われた/そして春の薄衣を透かして澄みかがやき/私の耳 のなかに臥床をもうけた。 ]ふしど

あの嵐のような昂揚感に吹きつらぬかれたという、 Rilkeの耳に、そのとき、響 いてきたのは、竪琴をかきならすオルフォイスの歌声であった。その幽かな歌の

サ蝣蝣1 1 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^B^^^^^M f 1 1

調べには、春の薄衣をまとうて透きとおるばかりに輝くひとりの少女がいた。詩

おくh'.

人がわが身に体現し、そのロとなるオルフォイスとは、存在の奥処から吹きそよ ぐ愛のよろこびである。そして、このオルフォイスは、残酷と死の真只中にあっ て、それらも触れることのできない愛の神なのであるRilkeのオルフォイスは、

悪意あるバッカスの女たちに五体をひき裂かれた。しかし彼は、最後の瞬間にい たるまで愛を歌いつづけることによって、歌ういのちの神となることができたの である。だから、オルフォイスの霊に領されるとき、詩人も不死の実感を得て、

この世の人々に不死な愛といのちの輝きを伝播する。その至福感が人々のこころ を清め、高めるのである。これは、言葉の遊びではない。本ものの詩人は、詩的 言語を弄しない。美を弄する詩人にいのちの魔力はないRilkeは、通りいっぺ んのオルフォイス伝説は知っていたが、古代の秘教オルフイスムのことは知らな かった。しかし彼が打ちだした詩神オルフォイスの意味は、ピタゴラス、エンペ

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46 新井章慶

ドクレス、プラトンの哲学に脈うつオルフイスムと奇しくもほとんど一致してい る..鄭こ、宅饗宴≫のエロス論は、この密儀宗教の、プラトンによる感性的な展 開・叙述であると言ってもいいものであるが、この4:饗宴≫は、かつてRilkeの たましいを強くゆきぶったものである。

愛の成就をとおし時間を超出したオルフォイスの話は、 Rilkeの打ち出した革 的幻想でありながら、それは、過去形で語られた、人間にひそむ永遠の現在であ った。そう切実に受けとったのは、彼自身である。彼は、それと一体化すること によって、′真の詩人でありえると自覚した。そして、それはとりもなおきず、生

° ●

死をつらぬく人間の全体性の回復をも意味した。この視点から、彼は、自然およ び他者たちとの真の関係(reiner Bezug)を見とおしたのである。死と残酷のな かにおいて、生命と愛のよろこびを誼うことはありうる。ただ、それが「神経症 的」でも「無責任な唯美主義」でもないのは、く存在)の体験をとおしてのみ可 能であろうRilkeのオルフォイス像は、そのようなく存在)体験の象徴であっ

た。

一方、マルクーゼのオルフォイスは、死と残酷の巨大なリアリティを前にして は、いまだ美しい仮象にすぎないのである。それは、憎悪し、征服する力に転化 させられることによってのみ、存在の正当性を与えられる。

Rilkeは、文明と生の裂傷に、ただ超越的な無関心をよそおったのではない。

53:31!

そのことは、あの10の悲歌が如実に証している。ただし、これらもろもろの裂傷

やまい

は、存在の内的現実の前には、痛ましくはあるが、やがては癒されるべき病気で あった。それらは、彼のことばでは、 「変容せる恩寵」であるから、敵意をもっ て対処されるべきものではなく、澄んだく存在)のまなざしをもって対処される べきものであった。まず、何にもまして、く存在)の感触を日々新たにしてゆく こと。 ≪O trotz Schicksal : die herrlichen Uberfliisse unseres Daseins,‑・・・≫

(おお、運命にもかかわらず私たちの存在の輝かしい充溢) (≪オルフォイス・ソネット≫Ⅱ

‑22) ≪Wolle die Wandlung. O sei fur die Flamme begeistert一一≫ (変身を

意志せよ。炎にこそ魅せられてあれ) (Ibid, II‑12)く存在)の炎は、孤独の中心か ら、敬安に見つめる者のこころにのみ点火する。日々新しく、みずからを変身さ せるものたちにのみ、外界は新しくよみがえってゆく。 Rilkeは、世界の「変容」

と言うが、マルク‑ゼは、憧界の「革命」と言うOこの言葉の差異は、見かけ以 上に大きい。 「性」の根源的な力にいっさいの秘密を見た両者であるが、この言 葉の差違は、現実にかかわる両者の姿勢の大きな‑だたりを端的に表わしてい

る。 (この場合、 RilkeをWhitmanと置きかえても同じである。 )

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詩的衝動としての「エロス」の問題8分

47

*

思えば、 Rilkeがオルフォイスの象徴につかまれるに至るまで、彼の20余年に わたる詩業は、魂のたえざる練磨と表裏一体のものであった。 「詩は、人々が思

うように、単なる感情ではない。それは経験である」 (iマルテの手記≫)と彼が言 ったとき、 Rilkeは、芸術の分野と、生活の他の分野とに何んの区別もないこと を意味していた。実際、彼の親しい友カスナーが「リルケは手を洗っていても詩 人であった」と言ったのは、このことである。詩心に生きることは、人間のすべ てを全心的に生きることである。そして、その実現は、容易な業ではなかったo

Rilkeのナルチシズムということがよく言われる。憧問との正常な関係をもた ず、ひとりよがりの詩的空想にふける者ということであろう。その意味で、彼の ことを偉大な詩人であるにもかかわらず、ナルチストだときめつける一流のリル ケ研究者も少なくない。 (Whitmanについても同じことが、しばしば言われる)

ところが、おもしろいことに、このナルチシズムこそ、 Rilkeが自覚的にとり あげた唯一無二の詩的実践の方法であった。そして、この「詩的」という形容語 は、彼にとって、同時に、最も厳密な意味において、 「人間的」の同義語であっ た。ナルチシズムという詩的方法の実践がなかったら、彼には、ついにあの畏る べき想像力の嵐はやってこなかっただろう。したがって、あの衝きあげるような 生の肯定感を歌った"春告げ鳥〝の絶唱(≪第7悲歌≫)も、オルフォイス讃歌もな かっただろう。つまり「生」の全心的な自己確信に彼は至ることが遂になかった だろう、ということである。だから、くナルチス) (ナルキソス)は、く鏡)と同様

に、彼の詩作品に一貫して目立つ重要なモチ‑フのひとつとなっている。

NARZISS

Narziss verging. Von seiner SchSnheit hob sich unaufhorhch semes Wesens N邑he, verdichtet wie der Duft vorn Heliotrop.

Ihm aber war gesetzt, daB er sich s邑he.

Er hebte, was ihrn ausging, wieder ein und war nicht mehr im offnen Wind enthalten und schloB entziickt den Umkreis der Gestalten und hob sich auf und konnte nicht mehr sein.

‑1913

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48 i^EH岩国

ナルチスは死んだ。その美しい姿からは絶えまなく 彼の本質に近いものが立ちのぼっていった、

まるでへリオトロープの香りのように濃密に。

けれども自分を見つめること、それは彼の運命であった。3」E

彼は自分から去ってゆくものを愛しかえした

そしてもはやあからさまな風のなかには包まれていなかった そしてうっとりと姿の圏をとじていった

こうして彼は自分を放棄して、もはや存在することができなかった。

まず、伝説のナルチスは、彼に言い寄るもろもろの女たちの美を色あせさせる ほどに美しかったのである。このことは、何よりも重要な、この詩理解の前提と なっている。この世の恋も仕事も、いっさいを空しくするほどまでの超絶的な 美。泉に映った自らの姿がそうであったということは、無量の意味感をもって、

Rilkeの詩心を震わせたにちがいない。上の詩句には、ナルチスのその様な美し さが、最少のことばで、甘美・幽艶に言いつくされている。ナルチスはみずから の美にひたすら見入ることによって、自己の生を失ってゆくのである。見落して ならないことは、ナルチス「みずからの美」とは、 Rilkeにとって、人間‑あ らゆる人間の本質美を暗示しているのである。彼の最晩年にかかれた最後のナル チス詩(フランス語でかかれた)では、 「とこしえに、あまりに純粋な、みずから の姿」 ≪sonimageとjamaistroppure ≫とうたわれているo同じことである。

水の鏡にみずからの真の姿を発見して驚博するナルチス。この情景は、人間の

‑つまり我々‑人々々の自己発見の稀有な瞬間を、 Rilkeに思いつかせ、それ を予感させたのである。 (これが個的な審美に徹したヴァレリ‑のナルチス詩と ちがうところである。 )自己自身の本質。それを、最も澄みきった内心の鏡に発 見する人間の永続的な悦惚感。 Rilkeの想像力は、この予感に、あくまでも忠実 に従って、彼を刻苦から刻苦へと駆りたてていった。言いかえれば、それは、想

° ° °

像力が層一層といのちの振動を新しくし、それを確かなものとしてゆく、自己深 化の苦しい試みであった。馴れ親しんでぶ厚い賛肉となった生を、身から削ぎお

としてゆく作業でもあった。

E3J白配

「けれども自分を見つめること、それは彼の運命であった」この詩句には、ナ ルチスの自己陶粋が、もはや、伝説のそれでないことが示されている。死をあら かじめ覚悟した自己凝視の実践である。この作品と前後して書かれたもう一つの ナルチス詩があるが、そこでは、この事情がもっと克明・悲痛に描かれている。

その一部を訳出すれば、

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詩的衝動としての「エロス」の問題0功

これは絶えまなく私から離れてゆくのだ 私は去りたくない私は待つ私はとどまる それでも私のあらゆる境目がここから急ぎ 逃れ去ってはやあそこにあるのだ

49

そこではそれ(私の似姿)は愛されていないその水底では あけすけな石の無関心のはか何もない

そして私は見る、どんなに自分が悲しんでいるかを これがかつてあの女の眼に映った私の姿だったのかひと

ひと

こうしてそれはあの女の夢のなかに現われて

甘い恐怖となったのだろうか今にして彼女の恐怖を私は感じる なぜなら私がひたすらにわが眼のなかに見入るとき

自分がどんなに死にいたるものであるか、それが感じられるのだ

[文中の(私の似姿)は筆者]

このRilkeのナルチスは、恋する女のなかにさえ、自分自身を見つめようとす る。それは、この世的な甘いぬくもり‑の必死の抵抗であると言える。それは、

女にとっては最大の裏切りであるが、ナルチスにとっては、女にたいする、決し て理解されることのない最高の献身なのである。彼は、我れにもなく、女への魅 力に惹きこまれてゆきながらも、なお真の自己に至ろうとして、遊惰な"我れ〝を

おもて

削ぎとろうとする。そして再び、澄明な水の面にもどってはいっても、そこに映 るのは、ただ寂撃感にゆがむ自分の姿ばかり。それでも、刻々の自己崩壊をひし ひしと意識しながら、なおも究極の美的至福を追求するナルチス。それは尋常一 様のナルチスではない。 (実は、 Rilkeは、これよりはぽ1年前に、第2悲歌のなかで、

すでに成り遂げたナルチスをかいているのである。つまり、彼の悲歌中もっとも輝やしいこ とばで措かれたあの畏るべき美と歓喜の天使たちがそれである。あれは、成ろうとするナル チスの狂おしい情熱の成った極点のすがたである)

さて、ナルチスがこの自己凝視を完遂したとき、彼はこの健に存在することが できなくなるであろう。ナルチスはあえてその運命を生ききろうとする(「彼は 自分を放棄して、もはや存在することができなかった」 )それにしても、自己発見が死 とひとつであるとはどういうことだろうか。死とは、肉体我の完全抹殺のことで ある。もろもろの私的欲望と恐怖の巣窟である肉体我。それを死にきることによ って、ナルチスは、はじめて純粋無垢な本質‑泉に顕われた真我‑の美と合 体することができるcLそのようにRilkeは理解した。彼自身の内に、まるで「運 命」のように衝きでる焼烈な美‑の憧慨が、個の超脱をとおしてしか、実現可能

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50 新井章慶

でないことを彼は知っていたのである。ナルチスの美(それは愛でもある)と死と は、 Rilke自身の問題であった。これらのナルチス詩では、晩年あらわれる超脱の 自由としてのナルチス、すなわち≪klare,gelosteNarziss≫ (オルフォイス・ソネット、

n‑3)はまだ直接的に謡われていない。生身をもった人間がわからの自我超過 の恐ろしさが示されているだけである。たしかに、これらの詩句には、 1910年代 のRilkeの心を領した色濃い苦渋感が反映している。だが、それを支える究極な るものの予感がかすかに入りまじっていないわけではない。

M.ロマネリ、 L.アルベール=ラザール、 M.バッティングベルクなど数々の女性 との濃密な変の出会いと訣別。女のたましいを吸いよせるRilkeの天性の魅力は 魔術的であった。一方、ファウスト的な「永遠に女性なるもの」への憧憶は、彼 の打ち消しがたい衝動であった。そのおのずからなる願力と純な憧懐とが相まっ て、彼を結果的にドン・ファンの悦惚と幻滅‑とひき入れた。このことをどう解 釈するかは自由だが、幻滅は彼の衝動の深さを表わす、と私には思われる。つね に彼の意志によって先取りされる離別には、次の新たな女性‑の期待はなかった はずである。彼は、幻滅のとき、もはやあらゆる女性の愛は拒絶するというナル チスの運命をみずからに課したのである。たとえ、それがどんなに困難であると してでもである。それより外に道はない。内なるナルチスは、彼の、更にもっと 大きな衝動であった。

「互いに満ちたりた恋人たちよ、君たちに問おう、私たちの存在のことを」

(第2悲歌)恋人たちの悦惚に、存在の純粋な持続の証があるのか。彼らは、ただ 口づけを重ねながら、運命をひた隠しに隠しているのではないか。 「草におく朝 露のよう」な人間の運命を。ナルチスは、だから、至高のエロス美を永遠に飲む ために、一切のかりそめの悦楽をはねのけねばならない。しかし、ナルチスとい うこの詩的イメージは、実践するのに至難の業である。彼の新たな実践とそのつ どの挫折は、つぎの手紙にも表われている。

「ああ、私はまだ誰かあるひとの手からく新しいなぐさめ‑の働き) (nouvelle operation)を期待しようとするくせを克服していません。しかしそれでも、私の

運命は言うなれば、人間的なものを素通りして、地の果てまで、ぎりぎりの地点

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まで達することなのですから‑‑・」

ナルチス詩と同じころ、彼がしきりに書いた幾篇もの≪夜への詩≫がある。そ れらも同じ彼のこころの秘密を語っている。彼は広大無辺な暗黒の天に、星辰の 澄めく舞踏を見つめる。彼はこのやりかたで、ナルチスの自己凝視を行じている のである。 「魂をさらう」満天の星の宇宙空間は、ほかでもない、人間それ自身

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詩的衝動としての「エロス」の問題¢功

51

の超絶的な美の顕現である。 Rilkeは、天体の秩序に自分の血の循環を調律させ ようとする。 「いっさいの願望を、いっさいの関わりを脱ぎすてよう。わが心を このいや果てのものに打ち慣らそう。見せかけのものに匿われ、、・近いものに慰め

られるよりは、星辰の恐怖に生きるがましだ」 Rilkeは、茂るべき超個の個に 融解しようとするのである。これらのi夜への詩≫によって、私たちは、ーナルチ スの悦惚と凝視とは、 Rilkeにとって、真の自己の実現のことであり、彼が、 「 人間的なもの」の断念、すなわち私的な欲望と所有と執着からの脱却を目指して いたことを知る。それは、私たちが「人間的なもの」の創こおいて、安んじて蔽 いかくしている麻痔的な自己偽臓からの覚醒を意味する。悪名高いナルチシズム とは、 Rilkeにとって、見せかけの人間的なものから、真の人間的なものへの成 熟のことであった。このようにして、他者とのいつわりの関係、他者‑のいつわ りの責任が払拭される。そしてく純粋関連) (reiner Bezug)の歓喜が示現する。

一つの個と他のあらゆる個とが円融・交流し、生と死さえもがその境界を失なう く全‑世界)が、充溢するリアリティの実感をもってナルチストの内心に迫って くるだろう。いわゆる現実は、うつり変る集団幻影である。ナルチストの内部 (それは同時に世界内部でもある)に見えてくる、いっさいの個の関連世界こそ、

現実の現実である。 (この内部とはもちろん物理的内部のことではない)自己愛が、こ ころの深部において、まっすぐ他者愛につながる、この全‑な生の充実感は、ナ ルチストをおいてない。これをナルチストと言えるならば、である。だが、 Rilke は、言うなれば、つねに青いナルチストであった。それも当然であろう。彼は無 限の成熟にむかって色づいてゆく1個の青い果実であった‑生涯の終りの日ま でそうであった。

*

1920年の終りごろ、彼は、親しい女友達パラディーヌ・クロソウスカ夫人にあ てた手紙のなかでこう書いている。 「私はときどき顔を両手のなかにうずめたま までいることがあります。それは私が自分の心の中味以外の何も感じないように するためなのです。心が増大し、拡充し、ついに無限にまで広がっている状態を

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感ずるためなのです。 」

これは、読みすごすことのできない貴重なことばである。ここには、期せずし てあの美しいナルチス詩の方法がもっとも実腰的に明かされていると恩うからで ある。 Herz (心)は、 Rilkeが生涯もっとも愛用した詩語であると言っていいが、

(10)

52 新井車座

彼にとって、この言葉が持つ深みの感じは、並みのものではなかった。この手紙 の7年前、つまりあのナルチス詩と同じ年に、彼はある詩‑そこには女性への あこがれを超克しようとするゲーテ的な嘆きがあるが、その中にこんな言葉があ

m

Mein Herz : da: sieh deine Herrhchkeit [わが心よ、さあ、見 よ。お前の壮大な輝きを]

この心の「壮大な輝き」には、彼のいう「全‑世界」が表象されている。人間 の憤慨するいっさいの輝やかしいもの、いっさいの愛らしいもの。それらの実質 は外部世界にはない。外にあると見えるそれらのものは、その実質の夢幻的な投 影であるRilkeが顔を手にうずめて自分のこころの内奥に意識を集中している

とき、彼はいっさいの夢幻的な現象からの離脱を図っているのである。私的な欲 望の渇きが外界に見出すもろもろの輝やかしい姿。それらは、自己の手中に落ち

ようと、また逃れさろうと、しょせん、タンタロスのまぼろLにすぎない。もし 外に見るいっさいの輝やかしいもの、愛らしいものが、現実であるとするならば またそれらを一挙に粉砕するく死)は、さらに巨大な、比較を絶する巨大な現実 と言うべきである。それをどうするか。牢獄のなかの飾りつけに、あれやこれや と腐心する死刑囚にも似た我々の幸せは、あまりにも惨めで倭少な幸福である。

Rilkeが、おそらく彼の詩的想像力を駆って、 「無限にまで」拡大・充実させら れた「心の中味」 (坐‑世界)を具体的に描いて、それを観想していたとき、彼

は倭少な欲望の浄化を行じていたのである。それは、指に刺さったトゲを抜きと るのに、もうひとつのトゲをもってする行為に似ている。そのように意識的な想 像のちからをもって、欲望的空想の催眠状態を解くという一種のヨガ的塀想を、

彼はやっていたのである。

しかし、富とか権勢とかでなく、もっとささやかな、人間らしい愛や優しさへ の渇きとまたその満たされない悲哀というものがあると、人は言うだろう。だが、

それすらも、もしそれが私たちの内的生命のバランスを崩すほどに不幸感をかき たてるならば、悪しきイリュ‑ジョンである。 Rilke自身が罷っていた大きな病 とは、この種のイリュージョンであった。ただし、彼は自覚せる病人であった。

自分を見捨てた夫への愛をひたぶるに生きたポルトガルの女性M.アルコフォ ラード。彼女のこころは、その無償の愛によっていつのまにか対象を超えて、ほ とんど法悦的な神のイメージに達した。また、かぎりない貧しさの下に、晴朗な

(11)

詩的衝動としての「エロス」の問題029

53

歓びを生き、愛をいたる処に振りまいた聖フランチェスコ。これらの人々は、

Rilkeにとって、イリュ‑ジョンから清められた、最もみごとな無執着の、無所 有の愛の実例であった。それは、地上の生を否定するどころか、逆に、地上の人

(6

々と自然の物たち‑の「いちじるしい友愛と晴れやかな肯定感」をさそい出す自 我超越の模範であった。

何よりも自己の「心」のなかに深く潜ってゆかねばならない。それがいっさい の始まりである。 「心」は、まだ人類のほとんどが気づいていない探測である。

彼の想像力は「ごく若いときから」このことを感じていた、とRilkeは言う。意 識された「心」の内容は、ユングが意味する「自己」 、すなわち意識に統合され

た無意識のことを思わせる。 Rilkeは、ある手紙(1924)のなかで「意識のピラ ミッド」という愉えで、この心のことをこう説明している。

外部の世界は、とても広大なものです。しかし、そのあらゆる星間の距離をもってし ても、それは、私たちの内部世界の深い次元とは、ほとんど比較になりません。私たち の内部は、それ自体ほとんど無限で、宇宙の広大さを決して必要としません。ですから、

死者たちとか、また未来の人たちだとかが、自分らの住む場所を必要とするなら、この 想像される内部空間ほどに好ましく、挑え向きの、どんな避難所も他にないでしょう。

つまり、私たちの現在意識というのは、ピラミッドの頂点に位していて、その基層は、

私たちの内部に(いわば私たちの下層に)ひじょうに深く広がっているから、私たちは、

その中に降りてゆくことができて、そこからあたりを広く見渡せば、見渡すほど、私た ちは、いよいよ普遍的に、地上の、あるいは最も広い意味における世界存在の、時間・

空間を超越した出来事のなかに、参入できるように思えるのです。私は、ごく若い頃か ら、次のように想像してきました(そしてまた私は、及ぶかぎり、その想像にしたがっ

° °

て生きてきましたが) 。つまり、この意識のピラミッドの深い層部では、単一な存在が

‑すなわちピラミッド上方の普通な自意識の頂点では、単にく流れ去るもの)として しか経験できないところの、あらゆるものの、あの犯しがたい現存と並存が、やがて私 たちにとって事実となって認識されるのではないかということです。

過ぎさったもの、そして未だ現われていないものをも、直ちに最高度の現実性として 把握できるような、ある人物像を予示することが、 ≪マルテ≫を書いていた当時、すで に私の欲求となっていたのです。そして今、私は確信しています。こういう把握力は、

たとえ、それがどんなに私たちの実際生活のあらゆるしきたりによって拒否されようと

0

も、やがて寛実の状態となるのではないかということです。

(12)

54 新井章慶

以上の文は大へん精密な言い方だから、集中的な読みが必要であるが、 E. M.

ォォ;

Butlerも言っているように、要するに、私たち個々の意識は「時間・空間の存

(8)

在しない無限のなかにまで、すなわち個的な存在ではなく普遍的な存在」のなか にまで達しうる深部を内に蔵している、ということなのである。時間というもの は、私たちの表面の通常意識にとっていかにも流れ去ってゆくように見えるので あっても、すべて意識の深部では、あらゆる過去のもの(物・者)も、現在のも のも、未来のものも、それらが等しく分ちがたく現存しているのである。そして 私たちの意識は、いっかこの事を歴然とした事実として知覚することができるよ

うになるだろう。今日の常識がそれをどんなに否定しても、私たち人間には、過 去・現在・未来を見通す能力が潜在的にあるにちがいない、とRilkeは確信して いるのである。

話が少し深入りしすぎたが、先ほどの問題にかえれば、彼が時々、顔を手にう ずめて、ひたすら自分の無限な心の深みを坂祝しているとき、彼は、そうするこ とによって、日常の様々な感情や欲望に擾乱されている意識を静めながら、直観 の回復をはかっているのである。直観は、生きた想像力のよみがえり、あるい は、その深化の結果としてやってくる。はじめに、普通の想像力を、時間・空間

むげ

という物質的な知覚の形式から解き放し、その代り、それに無碍・広大な全‑世 界を生き生きとイメージさせること。これが想像力に活気と深みをあたえ、やが て想像力を精妙・甘美な知覚の形式へと振動させてゆくのである。

Rilkeがたまたま挙げたこの方法の実例は、彼がこころざした芸術の性格を端 的に語っている。真の芸術とは、不可視なく存在)の造形である。あるいは非在 の暗闇に、星のかけらのように、それを象限することである。そして、それが装 う美的シンボルの数々は、それらを享受する私たちをも、無意識のうちに、霊妙 な真実‑とふり向かせてくれる。しかし、媒体である想像力の質が問題である。

キーツの理想としたくnegative capability) (受容的消極能力)とはそんな高度のイ マジネ‑ションであった。その様な詩的イマジネーションも、本質的に、こころ の無私性を離れてはありえないだろう。

≪Mem Herz : da : sieh deine Herrlichkeit≫ (わが心よ、さあ、お前の壮大な輝し さを見よ)いっさいの輝やかしいものを内に蔵するわが心。それを見つめるRilke はナルチスである。詩のナルチスは、完全な忘我の悦惚によって、く私)をゼロ にまでnegateしてしまった。すなわちくnegativecapability)の実現である。彼 はもう存在することができなくなった。だが、そのことによって、ナルチスは真 に存在することができるようになった。いっさいの存在のなかに、彼はみずから

(13)

詩的衝動としての「エロス」の問題0功

55

の超絶的な美を生きることができるようになったからである。これをく純粋関連) (reiher Bezug)の顕現というRilkeの最晩年にかかれた最後のナルチス詩 (フランス語による)に、それがrL^めかされている。 「すべての欲望は還ってゆく。

いのら

それは、遠くより、互いに抱きあうすべての生命に還ってゆく。ナルシスは何処 へ落ちてゆくのか。彼は衰えゆく姿の下で、ひとつの中心を新たにしようとして いるのか。 」

それにしても、ナルチスの実現をめざす人間Rilkeに恐れがないはずはなかっ た。憂欝なとき、彼は自分が人間でなくて、鏡ではないかと、時々感じることが

(g)

あった。鏡は、自己発見をとげるナルチスの泉と同じだからである。すでに述べ たことだが、 Rilkeがかつて彼のパリ生活で遭遇した人間の様々な悲惨と苦悩0 それらも、また、彼にとって、鏡であった、と言うべきであろう。私にはそう思 われる。なぜなら、 「この恐ろしいもの、一見ぞっとするようなもののなかに、

あらゆる存在にひそむ価値高い存在を見るのが、彼の務めだった」からである。

この「見る」ということは、つづけて彼がiマルテの手記≫で言っているように、

「夜の恋人のあの熱情をもって、療病患者と共に寝る」ということでもある。こ れは、もっとも恐るべきもののなかに、自己と同体である恋びとを見るというこ とと等しい。それならば、これは、まさしく、自らの美に見入るナルシスの行な いではなかろうか。しかしながら、彼が見入る現実の鏡とは、最も恐るべき鏡で あった。それをみずからにかかげて見るということは、彼にとって余りに大きな 勇気を要することであった。これを実現する力は、 Rilkeのことばを使えば、

ただ「孤独の代価」によってのみであった。それは、まさしくナルチスの孤独で ある。 R.カスナーのような人の目には、それは「ひとつの驚嘆すべき文学の根

¢o)

底とはな」ったが「役にたたない教え」であり、 「錯誤」であったが、 Rilkeに とって、ナルチスの孤独は、充溢するinnigkeit (情愛、親密)に至る唯一の道で あった。それは、世間的な幸福の抹殺という死の敢行にはかならなかった。 「あ ともう一歩だけ。そうすれば自分の深い苦しみは至福となるだろう。けれどこの 一歩がすすめないのだ。倒れてしまって、どうにも立ちあがれないのだ」 (iマル

テの手記≫)この一歩の困難と心身の疲労に耐えかねて、 ≪マルテの手記≫完了後、

彼は何度か創作を断念し、ただの怪聞人になってしまおうか、という誘惑にから

ll)

れた。ある手紙では、勉強しなおして医者になろうか、と書いている0

とにかくも、現実のRilkeは、このほとんど不可能とみえる使命に立ち向い、

失放しては立ちあがるQカロツサやヴァレリーは、彼が文字通り生きた瓢独とそ の壮絶な雰囲気に接して、強い感銘をうけている。カロッサなどは、はじめて彼

(14)

56 新井章慶

の姿を街の通りで見かけたときの印象、すなわち彼の「鋭いが、まったく放心し たような眼なざし」や「生活に疲れて、そのわびしい住居‑とぼとぼと帰ってゆ

く」 「どこかの素朴な憂欝家」といった印象について語っている。特に、彼を真 近に見たとき、 「その顔の色あせたような表情」は、まるで「いちどその死ぬと ころを見た‑羽の大きな森の鳥」をカロツサに思わせた、という(1914年ごろの

話である) 。ただ、私たちは、彼のその様なナルシス的孤独の実践が、彼のつぶ さに経験したパリ貧民たちの絶望的な生活と運命への、あの痛烈な感受と、けっ して別個のものではなかったということは、見のがしてならないだろう(あの

8勾

頃、彼自身が「幾年もそこで貧困と欠亡のうちに‑暮していた」のであり、また

w

「一杯のミルク・・・これがこの寡欲な詩人の日常の夕食だった」のである。 ) 0

*

Wandelt sich rasch auch die Welt wie Wolkengestalten,

alles Vollendete f邑llt heim zum Uralten.

Uber dem Wandel und Gang,

weiter und freier,

W邑hrt noch dein Vor‑Gesang, Gott mit der Leier.

Nicht smd die Leiden erkannt, nicht ist die Liebe gelernt, und was lm Tod uns entfernt,

ist nicht entschleiert.

Einzig das Lied uberm Land heihgt und feiert.

世界がたちまち

雲のように姿を変えようと 私たちの完き業は

蒼古のいのちに帰りつく 有為・転変を超え

(15)

詩的衝動としての「エロス」の問題09

あなたの原初の歌は、竪琴の神よ なおもいよいよ広く

いよいよ自由に鳴りひびく 苦しみはまだ識られていない 愛はまだ学ばれていない

そして死により私たちを隔てるものは まだ帳をかかげていない

ただ歌のみが

きよは

聖め祝ぎつつ 因原にひびきながれる

‑≪オルフォイスへのソネット≫1‑19

57

訳語では、もちろん、どうにもならない。原詩のもつリズム感と母音の巧みな 駆使によって、これは、 ≪オルフォイス・ソネット≫中でも、特に完成度の高い ものである。簡潔なことば・朗々とした声調は、現世の暗さを半透明化して、作 品を強壮かつ翳深いものにしているo想いと美のかぎりを尽した、あの10の≪ド ゥイノ・悲歌≫の、これは上澄みであると言っていい。以下、これについて述べ てみたい。

ナルチスは死んだ。この世の、人なみな交わりと楽しみの喪失ばかりか、遂に はアイデンティティの喪失をさえ危供し、その前にしばしば恐怖して尻込みして きたRilkeのナルチス。それでも、ナルチスは愚かれたように、自分の心を深く、

奥深く凝視していって、遂に死んだ。死んだのは、しかし、イリュージョンであ った。ナルチスは、自然と人間のあらゆるものの中に自分を取り戻して、心の探 測から浮揚してきた。個我に死んだナルチスは、あのバッカスの狂女たちに八つ 裂きにされたオルフォイスの運命と二重写しになる。こうしてナルチスは外界に 向って解き放たれた。彼は、裂かれて建えったこのオルフォイスの神と合体した かのようである。世界をながれる、竪琴の玲確たる響きと歌声は、ナルチス・オ ルフォイスが飛期する実在の羽音である。

凝視に死んだナルチスは詩人の自己犠牲を象徴し、大地を歌うオルフォイス神 は、自己犠牲によって詩人が成しうる人類への奉仕を象徴する。もちろん、現実 のmkeは、完全なナルチスでもなかったし、したがって完全なオルフォイスで もなかった。しかし、無私への、長い、きびしい錬磨に純化されたRilkeの想像

(16)

58 新井章慶

力は、ここに至って、オルフォイスの姿を、はじめて、生きた精霊として、彼の 心中に、また世界の中に見たのである。

く現象と実在)という哲学は、たしかに言い古された観念論哲学である。しか し、観念論といい、経験論といい、あるいは史的唯物論といい、論であるかぎ り、それらは思弁による永久の作業仮説にとどまるだろう。詩人にとって、生は、

今ここの絶対の充実でなければならぬ。オルフォイス神は、私たちが何処に置 かれ、何をしようと、あるいは、何をさせられようとも、私たちの生の瞬々を充

・・・・

壊するなぐさめの力である。オルフォイスには、 「もしこうなれば」の条件はな い。あるのは、現在のみである。現在とは、最高度に振動する生を盛る器であ る。それは、受容する能力の程度に応じて与かりうる「可能なかぎり完全な内的

B

燭烈の体験」 (die Erfahrung der moglichst vollzahligen inneren Intensitat) であるRilkeは、これを存在と呼ぶ。オルフォイスは、人間がそれに与かろう

と、与かるまいと、世界に遍活するく存在)の詩的具現である(そして、これに

おとめうすぎね

は、あの「ほとんど少女」 、歌と竪琴からひびき出た「春の薄衣を透かして澄み

おとめ

かがやく」少女の優麗なエロスが浸透していることを忘れてはならない) 0

° ° ●

このソネットでは、低落する現代世界へのいたみがある。このことは、これら 一連のソネット群の脈絡から分ることだが、機械の支配に心を委ね、貧しく歪ん でゆく現代人の情況が、ひそかにオルフォイスの神と、ここでは対比されてい

るのである。

そこで、私たちは、おのずから本章の初めにあげた問題に帰ってくる。オルフ ォイスの像が、 Rilkeにとっても、またマルクーゼにとっても、等しく、文明の 亀裂に対する地球的な愛の詣和を表象しているということ。そのことについては、

すでに分ったが、また今まで述べてきたことによって、 Rilkeのオルフォイスが マルクーゼのそれとどんなに隔たっているかということも分ったであろう。簡単

° °

に言えば、前者は、死後もなお生きつづけ、到るところに自らを顕わす現在の神 であるが、後者は、死以前のオルフォイスであって、死後のオルフォイスではあ りえない。地上の悪が彼を永久に抹殺して、もはや、非存在のイメージとなって しまったからである。マルクーゼにとって、地上の、あるいは文明の悲惨は、存 在それ自体の悲惨であって、それ以外の何ものでもない。だから、彼は、この善 意あるオルフォイスの死に人類の絶叫をきく。オルフォイスが、もし今も生きて いるとするならば、彼は我々の絶叫のなかに絶叫の核として生きているのであ る。 ≪was im Tod uns entfernt, ist nicht entschleiert≫ (死により私たちを隔てる ものは、まだ帳をかかげていない)人々はまだ死のことを知らない。だから、死を最

(17)

詩的衝動としての「エロス」の問題0g)

59

大の悲惨とするマルクーゼの意識は、まだ人々の常識でもある。 「愛はまだ学ば れていない」のである。悲惨におののく者に、無償の愛はありえないからである。

ラデイカル

(この点においてマルク‑ゼは決して急進派ではない) Oしたがって、 「苦しみは、ま だ識られていない」 。苦しみは「変容した恩寵である」と言ったRilkeのことば は、人々にとって、いまだ非常識な空言ということになろう。

だから、本章の冒頭にあげた問題は無視できない。すなわち「遊びが、その他 の点では抑圧的な世界のなかで、装飾、奪伊、休日の領域であるかぎり、それは 無責任な唯美主義である。 」という問題。ある種の芸術は、それがたとえ単なる 装飾や薯俸ではないとしても、無味乾燥な労働を強いられている世人の目には、

いかにも特権的な休日の享楽にしか見えないということは、大いにありうる。だ から、オルフォイス的な遊びが、孤立した個人の遊びであるかぎり、それは文化 の建設に何ら役立たず、神経症である、とマルクーゼは言うのである。彼の観点 からは、特にRilkeの芸術は、孤立した個人の遊びというべきであろう。抑圧的 な他界で、彼は、あくまで孤独を芸術の核として、貧しいながらも、休日の閑か さをつらぬいた。それを「無責任な唯美主義」あるいは「文化の建設に役立たな い」とするか、どうかは、結局、判断する私たちが、存在感を意識のどの深みか ら体験しているかにかかっているだろう。選択され、総合された、あれやこれや の知識、まして欲望に被膜された知性の操作では、どうにもならない存在感の問 題である。

少し話がそれるが、 Whitmanは、その当時の流行文学について、しばしば批 判を加えている。彼の眼は、文学をふくめ、文明一般をその見えない中心から、

すでに蝕んでいる病菌の正体をまっすぐに見抜いていた。それにもかかわらず、

以後繁栄の一途をたどってきた私たちの文明(アメリカだけではない)であるが、

ここに至って、私たちの文明は、もはや芯も種子も腐ってしまった一個の巨大な 林檎の華やぎを思わせないだろうか。 Whitmanの文芸批判のなかにこんな言葉

がある。

Present literature, while magnificently fulfilling certain popular de‑

mands, with plenteous knowledge and verbal smartness, is profoundly sophisticated, insane, and its very joy is morbid. It needs tally and express Nature, and the spirit of Nature, and to know and obey the standards. I say the question of Nature, largely considered, involves the questions of the aesthetic, the emotional, and the religious‑and involves happiness. A fitly [born and bred race, growing up in right conditions of outdoor as much as in血or harmony, activity and de‑

velopment, would probably, from and in those conditions, find it enough

(18)

60 新井章慶

merely toJive‑and would, in their relations to the sky, air, water, trees, etc., and to the countless common shows, and in the fact of life itself, discover and achieve happiness‑with Being suffused night and day by wholesome ecstasy, surpassing all the pleasures that wealth, amuse‑

ment, and even gratified intellect, erudition, or the sense of art, can give.

‑from Democratic Vistas

この様な視点は、 ^Democratic Vistas≫の随所にちりばめられていて、この長 大な論文をすこぶる内圧力のつよい、警性的なものにしているが、ここには何よ

りも「自然」と「審美」と「存在」とそして「文明」の根本問題が凝縮されてい る。これは、まさにオルフォイス精神の最良の解説となっている。上の引用文に も出ているようにく自然)は、 Whitmanにとって文学の試金石なのである。

そしてRilkeにとっても、詩神オルフォイスは、もっとも自然にかかわる神で ある。それは、何よりもまず自然界もろもろの美に常住顕現して、私たちの生を 鼓舞し、芸術の規範となる。ところが、自然は、その得も言われぬ優しさの表情 とともに、残酷の相をも合わせもつことを、 RilkeもWhitmanも、共にはっきり と認識していた。自然界は、 Rilkeも言っているように、本来、人間にたいして 冷淡・無関心なのである。それが、私たちにとって、時に、この上なく優しく無 邪矧こみえ、時に、この上なく残酷に見えるのである。 Whitmanは、どこかで 我々の自然なる大地を、 unloving earthとかcold earth, the place of gravesとか

<lォ

いう言葉で呼びさえしている。それにもかかわらず、詩人が一匹の蝶を、あるい は新鮮でかぐわしい草木を讃めたたえるのは、彼らが、その背後に、ある無垢な、

優しい生命の意志を感ずるからである。自然を野蛮から調和‑とひそかに意志す る、ある生成の秘密に、彼らは敏感に反応する。言いかえれば、詩人は、Natura naturata (生成される自然)をとおして、 Natura naturans (生成する自然)杏 讃美しているのであるWhitmanが上で言っているBeingとは、そういう自

° ● °

然のこころのことであり、またそれに浸透されたエクスタティックな存在のこと をいう。これは、大自然に律動を与えるヴァイタルな永遠の音楽である。彼は、

それを"the pulsations in all matter, all spirit, throbbing forever‑the eternal

17)

beats, eternal systole and diastole of life in things"と表現する。そして、こ のあらゆる物質とあらゆる生きものに敢動する生命に、みずからを調律させる者 には、 「考えられていたように、死が終りであるのではなく、真の始まりである ということ、そして何ものも‑物質も魂もけっして失われもしなければ、死に

18)

もしないということを感じ知る」と彼は言う。

(19)

詩的衝動としての「エロス」の問題09

61

「財宝と娯楽そして充分な知性、学識、あるいは芸術でさえ、これらが与えう る一切の快楽を凌駕する健やかなエクスタシ‑に、昼夜をおかず、満たされて いるく存在〉 」の体感。それをもって生きる調和的な人種に、 Whitmanは、真 の文明の創造を期待した。 「科学、肉体、収入、農場、物品、論理、一一ビルデ ィング、いや樹木や大地や岩、等々」これら一切の誇らかな現実を、生滅する

「幻影」 「夢幻」として眺めうる者たちだけが、これらの現象を真にととのえう る未来の人種である、とWhitmanは考える。これはいくら強調しても、しすぎ ることのないく存在)体感の逆説である、と私たちには思われる。

Surely, this universal ennui, this coward fear, this shuddering at death, these low degrading views, are not always to rule the spirit pervading

19

future society, as it has the past, and does the present.

Whitmanが期待しうる人とは、彼自身がそうであったように、死を透過して

「存在」を直観する魂(りenvisioned soul")の人である。く存在)のヴィジョン に生きるものは、生滅する現実にたいしては幻影の軽さのみを与え、それを晴れ やかに処理してゆく。 Whitmanのリアリズムとはそれであった。彼がアメリカ の民主々義文明を誼歌し、また同時に、その腐敗を危倶したのも、こういう「ヴ ィジョンを得た魂」の現実的視点からであった。 「魂意識、不死のアイデンティ ティ。この前には、デモクラシー、芸術、文学の巨大ささえもが収縮し、可軌的 な部分となる。その様な何ものか‑私たちを心から満足させるもの(それらデ モクラシー、芸術、文学にはその様な力はない) 。その何ものかとは、く仝なる もの)である。永遠性の理念をともなうく全なるもの)である。このような魂意 識は、軽々と浮揚し不壊で、船が大海を航行するように、いつも空間を航行し、

糾)

ありとあらゆる地域を訪ねる」 0

(ここで、断わっておかねばならないが、もちろん、私たちは、 Whitmanが仏陀かキ リストなみに、魂の全解放を実現した人と思っているわけではない。ただ、精神病理学 者M.バックも言っているように‑この人は幾年もWhitmanの実生活に直接接触 し、それを医者らしく臭さに観察した人であるが‑ Whitmanが何か"cosmic consciousness'といっていいような意識を経験した詩人であることを、私たちは認め る。)

さて、このく全なるもの〉は、 Rilkeのく全‑のせ界) (dasGanze)あるいは く世界・内部・空間) (Weltinnenraum)に照応する。すべての個が円融無擬に交

(20)

62 新井章慶

感する‑なる内的リアT)ティである.それは心の内奥を降って、過去・現在・未 来のあらゆる他者たちに出会う意識のピラミッドである。

弁護法的唯物論は、世界の本性を物質的であるとし、その多様な現象は、物質 の運動法則にしたがって発展する、物質の種々な運動形態にすぎぬとする。だか

ら、それは、神、霊魂あるいは脳髄から独立した意識一般などはみとめない。な ぜならエンゲルスによれば、 「唯物的自然観とは、外から何物をもつけ加えるこ

t叫

となしに、自然をあるがままに受けとるという」ことだからである。 Whitman Rilkeが意味するく存在)あるいはく全一世界)は、たしかに、個の意識をとお

して直観されるものであり、いわゆる客観的に把握される物質として認知される ことがない。しかし、前にも述べたことだが、もともと物質そのものの実体がい ったい何んであるか、今日の科学ではまったく解明されていないのである。素粒 子の領域に深く入ってゆけばゆくほど、物質の実体は、ますます我々の客観的な 視野から遠のいてゆくばかりであるという。だとすれば、 「 (物質の)外から何 物をもつけ加えることなしに自然をあるがままに受けとる」という論は、今日で は、ますます暖味模糊として、どうとも受けとれる原則論となってしまった。つ まり、脳髄から独立した意識一般(神とか霊魂とかをふくむ)が、果たして、外 から付け加えられた何ものかであるか、言いかえれば、それが果たして自然のあ

るがままでないか、どうかも確定できないのである。

Rilkeは、現代人の生きかたを批判してこう言っている。 「奇異といわれるも の、不可解だと思われる現象に拒絶的であるというのは、人生に非常な害を与え ている。私たちは霊的な体験とか、いわゆるく霊界)とか死とか、私たちにとっ て非常に縁の深いこうしたすべての事がらを、毎日の生活から追い出したために、

私たちの感覚が萎縮して、それらを理解しにくくしてしまっている。 ‑何事も、

最も謎めいたことでも、それを除外しない人だけが、他人との関係を生き生きし

亡増

たものとし、また自分の存在を深く味わうことができる。」 Rilkeは、実際、心 霊実験にも参加したことがあるし、もし心霊実験が正しくなされるならば、それ にはそれなりの意味が充分にあるということを彼は認めていた。

Whitmanにとっても同じである。個の存在が現健の寿命で尽きるなどとは少 しも思っていなかった。たとえば、彼は、 ≪Song of the Open Road≫や≪These / S'nging in Spring≫などで、この地上には目に見えない霊的な者たちが存在す

ることを歌っている。彼が、生の向うがわの他界を、もう一つの満ちひろがる不 可視の事実とし、しかも、それを現世と区別せず、むしろ此処にある我々の生の

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も大きくなるのである.必要感と言って片づけてしまうのが政治的精神かも知れないが,グリ

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 ファウストが言う二つの魂は、天上を志向する魂と地上的快楽を求める魂ではない。メフィストーフェ