‑W. Whitman と R. M. Rilkeの場合
新井章慶
On Eros as a Poetic Impulse (5)
‑The Case of W. Whitman and R. M. Rilke
AKIYOSHI ARAI
≪V≫
Whitmanの≪共同体性≫の詩的ヴィジョン(E. H. MillerおよびD. H. Lawrenceの視点をめ zsra
米米
I dream'd in a dream I saw a city invincible to the attacks of the whole of the rest of the earth,
I dream'd that was the new city of Friends,
Nothing was greater there than the quality of robust love, it led the rest, It was seen every hour in the actions of the men of that city,
And in all their looks and words.
‑1860
Hォ」
〔ぼくは夢に見た,全性界の攻撃にも,びくともしない一つの都市を.
ま̀ら
ぼくは夢に見た,それは新しき4友人≫の都市であった.
そこでは,道しき愛よりも偉大なものは何一つなく,それは 他のいっさいを先導した,
ときまち
それは,あらゆる時間,その都市の男たちの行為にあらわれ, そして彼らのいっさいの表情と言葉のなかにもあらわれた.〕
4年間におよぶ同胞殺し合いの内戦(北軍だけで60万人の死者がでた),そして彼我の残虐行為 の数々(たとえば, 3万‑5万人以上の兵士が南軍捕虜収容所で餓死させられ,またそれに対する北軍の ひとしく残忍な報復行為‑Whitmanはそのことも見逃がさなかった)(1).彼は,いたるところに見る 人間の情念のおぞましさに暗猪としながらも,なおこの戦争がもたらすであろう偉大な結果に 切ない期待をよせていた.しかし期待は裏ざられた.彼は戦後のアメリカが本質において少し
も変化していないことに気づく.彼の長論文Democratic Vistas (1871)紘,、幻滅したWhitman
の,同胞‑よせた痛烈な警告の書であった(それは,かつてLeaves of Grass初版(1855)の 前書き論文にかんじられるあの希望にみちた朗々たる調子に比べ,何と暗い苦渋感と皮肉にあ・
ふれていることだろう).興隆の一途をたどるアメリカの産業文明は, Whitmanの目には,む‑
しろ「荒涼たるサ‑ラ砂漠」に映った.戦後,律法はととのい,政策は次々と打ちだされ,デ モクラシーの形態はそなわってゆく.が,魂が抜けていた.けばけばしい流行のなかで権力者 も民衆も拝金思想の乞食になりさがろうとしている.政界の腐敗,民衆におもねる浅薄な好色 趣味の文学.怒りのいなづまが再三,彼のコトバの行間に走った.しかしながら, Whitmanー はWhitmanである.激しい失望にもかかわらず,彼のアメリカへの信頼と愛は少しもゆるが なかった.冒頭の詩は戦前のものであるが,そのcomradeship (友愛精神)の夢は,逆にます ます,彼の内世界を支える強大な柱となっていくようであった.たとえば,彼はDemocratic Vistasのなかでこう言っている.
私がこの物質主義的で低俗なアメリカ・デモクラシ‑の改革と霊的浄化に期待するのは,この熱烈な
コムレツドシツプ
友愛精神の発達と定着と普及によってである(それは従来の文学に支配的であった男女の恋愛に‑
凌駕するとはいわなくとも‑少くとも匹敵する粘着的な愛(the adhesive love)のことである).多 くの人は,それは夢であるといって私の考えに納得しないだろう.しかし私は期待している,アメリカ 万般の知覚しうる世俗的関心事をとおして,男同志の友愛が‑今まで聞いたこともないような,優し くで情愛があり,純粋で甘美,雄々しくて生涯続く友愛が織地の縦糸のどとく見えかくれする時代がく
此ren*
ることを期待している.これこそ個々の人格に色彩を与え,それを未聞の,情緒的,筋肉的,英雄的, かつ洗練味ある姿たらしめ,政策一般に最も深い影響をもたらすものである.私は言う,デモクラシー は,この様な愛深いコムレッドシップを自らの絶対的な半身としているのだ,これなくしてはデモクラ シーは所詮,不完全で,空しく,実現不可能のものであろう.
トランセンデンタリスト
すでに,これより前1840年代には,一群の超絶主義者たちがBrook Farmに共産主義 的な共同社会をこゝろみて,当時すでに弊害を表わしはじめた産業主義‑の批判を実践してい るが,それに引きかえWhitmanのこのデモクラシ‑提言は,まったくの具体案なしの,い一 わば「理念」百パーセントの宣言である.しかも途方もなく高速な理念であるゆえに,一層, 政治的影響力も現実性も稀薄な,一片の幻想のようにみえる.しかしながら, Whitmanなら こう言うかもしれない. 「 "低俗デモクラシーを浄化し高めるものは,異性間の恋愛にも劣ら ない人間同志の厚い友情の発達によってである〝.この私のコトバこそ最も現実的,具体的答 えである.これを抜きにした現実的処理は,逆にすべて抽象的である.それはしょせん芯の腐 った林檎にすぎない.そこから何も生じないだろう」と.
だが彼は, 「それが多くの人にとっては夢である」ことを百も承知していた.しかしながら,
この日Many will say it is a dream"という彼のコトバにどれだけの悲痛の重みがこめられ
ているかは彼のみしか知らないことだろう.しかし,その重み‑の共感なしには,冒頭の詩=I
dream'd in a dream‥."も心にのしかかる詩的真実をもって我々に響いてこないかもしれな
い.なるほど,この詩を書いた頃, Democratic Vistasを書いた1870年代のWhitmanの苦渋
はなかっただろう.だがこの同じ夢は,今も現にこうして彼の苦渋感を担って,さゆるぎも見せ ていないのである.だからこそ,却って我々は, Whitmanの隠されたアイロニー(現実への)
さえこの詩に感じてしまうのだ.一方,こういうWhitmanにこそアイロニ‑を感ずると言 う人も多いだろう(現に,あるWhitman全集の編集者は,脚註で上掲引用文をW.のミス テークときめつけているから面白い).
米米
I believe in you my soul, the other I am must not abase itself to you, And you must not be abased to the other.
Loafe with me on the grass, loose the stop from your throat,
Not words, not music or rhyme I want, not custom or lecture, not even the best,
only the lull I like, the hum of your valv色d voice.
I mind how once we lay such a transparent summer morning,
How you settled your head athwart my hips and gently turn'd over upon me, And parted the shirt from my bosom‑bone, and plunged your tongue to my
bare‑stript heart,
And reach'd till you felt my beard, and reach'd till you held my feet.
Swiftly arose and spread around me the peace and knowledge that pass all the argument of the earth,
And I know that the hand of God is the promise of my own, And I know that the spirit of God is the brother of my own,
And that all the men ever born are also my brothers, and the women my sisters and lovers,
And that a kelson of the creation is love,
And limitless are leaves stiff or drooping in the fields, And brown ants in the little wells beneath them,
And mossy scabs of the worm fence, heap'd stones, elder, mullein and poke‑weed.
‑Song of Myself, sec. 5, 1855
〔ぼくは君を信ずる,ぼくの魂よ,もう一つの僕も君に卑下してはならぬ, そして君ももう一つの僕に卑下してはならぬ.
草上を僕とぶらつこう,君の喉から音栓をはずせ,
ぱくが求めるのは言葉ではない,音楽でも詩でもない,慣習でも講義でもない, 最良のものでさえない,
ぼくの欲しいのは只,和らぎ,君のやわらかな声の噴き.
ぼくは思いだす,ある日僕らは,とっても晴朗な夏の朝,二人して寝ていたな,
そのとき君はぼくの腰に頭をのせていた,そしてやんわり僕のからだにのしかかってきた,
あばら
そして僕の筋骨からシャツを掻きわけ,僕のむきだしの心願に君の舌をつっこんだ,
そして僕のひげに触れるまで覆いかぶさり,僕の両足を抱きしめるほどにかぶさってきた.
やすらぎ
するとみるみる僕のまわりに,地上のあらゆる論議もむなしくなる平安と認識が 立ちのぼり広がった,
そして僕には分った,神のみ手は,ぼく自身の約束であることが,
ssmi
そして僕には分った,神の御霊は,ぼく自身の兄弟であることが,
そしてまた,この世に生れたすべての男らは僕自身の兄弟であり,女たちは ぼくの姉妹そして恋人であることが,
そして創造の内竜骨は愛であることが,
そして野の草たちは,立ってるものも,しおれているものもすべて無限, その下の小さなくぼみの茶色の蟻も,
にわとこ
またジグザグ塀のかさぶた苔も,積んだ石ころも,接骨木も,もうずい花も, 山ごぼうもすべて無限.〕
‑僕自身の歌, No. 5, 1855
Whitmanという無名の男が1855年突如ピュリタニズムの厳格な風土から野放図・無頼な
‑かたまりの詩群を打ちあげた.
上の詩はその一つであるが,たとえば(2)
Who goes there? hankering, gross, mystical, nude;
°°°°°°
Having pried through the strata, analyzed to a hair, counsel'd with doctors and calculated close,
I find no sweeter fat than sticks to my own bones.
(from Song of Myself, sec. 20)
*mm
Walt Whitman, an American, one of the roughs, a kosmos, Disorderly, fleshy, sensual, eating, drinking, breeding,
°°°°°°
Through me the afflatus surging and surging‑through me the current and index.
Through me forbidden voices,
Voices of sexes and lusts‑voices veiled, and I remove the veil,
Copulation is no more rank to me than death is.
(from sec. 24)
ewm
My ties and ballasts leave me‑I travel‑I sail‑my elbows rest m the sea‑gaps,
I skirt the sierras‑my palms cover continents, I am afoot with my vision.
〔そこを行くのは誰だ?欲望し,粗野で,得体知れぬ,裸かのおとこ;
(from sec. 33)
幾重の地層を貫き見,髪の毛‑すじまでも分析し,医者の 意見をきゝ,つぶさに調べもしたが,
ついに僕自身の骨にくっつく脂肪よりうまいものは見あたらず.〕
〔ワルト・ポイットマン,一つの宇宙,アメリカの野人, 乱暴で,肉づきよく,好色で,食い,飲み,生み殖やす.
°°°t°°
僕を通して霊感が波打ちながれ,僕を通して潮流と指標が.
僕をとおして禁じられた芦,
セックスの,情欲の声‑覆われた声,そして僕はそのヴェールをはぎとる, 性交は,死と同様,僕にはちっとも下品でない.〕
〔僕を縛るつなと重荷がのかる‑僕は旅する‑僕は船出する‑僕のひじは 海の割れ目に憩う,
5wa
僕は峨峨たる連山をめぐり‑僕の手のひらは大陸を覆う, 僕はぼくのヴィジョンで歩く.
‑・‑・〕
この様な詩想が奔放にとめどなく噴き出た秘密がここに有る.いや,もし有るとすれば,そ れは,これらの仲間の一つとして出た前掲Sec. 5の詩であると言い変えよう(全文引用).こ れは,一般にWhitman自身の神秘体験と考えられているものである.これは疑いもなく凡 人Walter Whitman (本名)から天才の源泉を蹴り出したペガサスの蹄となったのである‑
たとえ,それが不滅の神泉であろうと,或いは単なる幻想の泉であろうともである.
たとえば, E. H. MillerはこのWhitmanの作品をどう見ているだろうか.明らかに彼 は,フロイト主義的精神分析の観点から,これをこう説明している.要約すれば, 「この詩は, 一見"肉体と魂〝という古いアレゴリの形式をとっているが, Whitmanの語りかたは実に絶 妙である.ここでは,魂でさえ肉体的であり,その"声〝は,Hstop" (オルガンの音せん)がはず されると, a Hlull",あるいは"hum"であり,天体の音楽ではなく,母親のやさしい無言の子 守唄(a lullaby)の様にひびく.恐るべき肉体は魂との接触によってエロス化される.これは 人為的文化抑圧から解放された,明らかに倒錯性欲の絶頂点を表わしている.このようにして Whitmanの不安定な罪悪意識ある肉体は,言いがたい安らぎと静穏に達するのである」と(3).
またこの研究家は, Whitmanがとおりすがりの"目と目の出会い〝や"軽い口づけ〝にも異 常なほどの満足感を覚えたことを,幼児期の口唇性欲で代表されるautoerotism (自己色情)
に起因させて説明する.そして,この詩も彼はWhitmanの極端な性的逆行現象の一つとして
理解するのであるMillerは,無論このことで別にWhitmanの詩をこきおろしているので
はなく,只従来のように"暖味な神秘主義〝の観点からこれを安易に解釈することに反対して
いるのである.むしろ,この詩は, Millerによると,社会的人為物,すなわち自我に加えら れた性的恐怖や抑圧から後退して,ありのままの自我の現実に直面したWhitmanの芸術の, いやおそらくアメリカ詩の重大転機点であるとして,それを高く評価しているのである.ただ, E. H. Millerは,この詩の後半,すなわち"AndI know ‥."以下をどう説明するのだろ
うか.そのことは直接触れていないが,彼の視点から推測すれば,これもオートエロテイズム の‑変形であると彼は考えるだろう.あるいはフロイトの言う,幼児期の第一次ナルチシズム によって説明するかもしれない. (自我と非我の区別がまだなされない幼児期‑の退行現象としてであ る).
すなわち,この詩の後半で, Whitmanは"And that all the men ever born are also my brothers, and the women my sisters and lovers"そして又Ha kelson of the creation is loJe" (創造の内竜骨は,愛である)と言い,又, "草の葉も蟻も苔も石ころも無限
(の存在)である〝と言う.換言すれば,これは自己と他のいっさいの存在が愛において無限 にして,かつ一体の状態であることを意味しているE.H.Millerは,更につっこんで,多 分これを"子宮内回帰〝の欲望のあらわれとして説明するであろう(実際,この研究家は,同 じ1850年代の作品Moby‑DickとWaldenおよびホイットマンのSong of Myselfを,各作家 による, 「混沌的な存在状況における統一原理とアイデンティティを求めての」孤独な旅の足 跡とみなし,それらは"a return to a womblike state"を表わすとしている).
胎児にとって何んの自他の対立も無い子宮内の無意識的平和Whitmanの万有一体の意識 的体験を,子宮のシンボルによって説明するのはおもしろいと思う.ところがMillerは彼の 詩をシンボリックに説明しているのではなく,まさに神経症患者に対するように精神分析的診 断を下しているのである.こういう見方も科学的な理解として一応成り立つだろう.として も,我々が知りたいのはくもの)の外見ではなく,くもの)の意味なのであるMillerの説明 では意味は,依然として謎のまま残っているのである.我々の詩的感動とは,どんな悟性的 説明もとどかないくあるもの) ‑の初々しい共感であろう.たとえばRilkeが泉をうたってい
る.
Quellen, sie mdnden herauf,
beinah zu eihg.
Was treibt aus Grdnden herauf,
heiter und heilig?
L云fit dort im Edelstein
Glanz sich bereiten, um uns am Wiesenrain
schlicht zu begleiten.
〔泉たち,彼女らは,せわしげに湧きでる.
‑1924
何が,地下から溢れるのか 晴れやかに,神々しく.
何が,そこで
宝石の燦めきをととのえるのか,
草地をゆく僕らに,つましく連れ添おうと.〕
たとえ水脈のありかを地質学的にさぐり出し,水と水の燦きを化学的,物理的に分析しようと も,我々は,依然として,何がこんなに湧き出,何がこんなに美しく清らかにきらめくのかを 問いっづけるだろう.たとえば,科学に旺盛な関心を示した,あのゲーテが,色彩論のなか で,色を単なる光学理論の問題に還元することに絶対に反対したというのも,このことと関係 がある.また,ダヴィンチの描いた「モナ・リザ」や「聖アンナ」の微笑が,この同性愛的作 家の幼児期に失った母親イメージの無意識下の猛烈な再現であると説明されても,事は少しも ここで終らないだろう.それどころか,問題はここから始まるのではないか.我々は,これら の微笑がもつ宅意味あの深淵の前に口をつぐむか,さもなければ,僅かな言葉をつぶやくだろ
° ° ° °
う.そして,少数の人がそのつぶやきに黄金のコトバを聞くだろうWhitmanが「創造の内 竜骨は愛である」と言うとき,それは,精神分析的用語で停止して先に進もうとしなかった,
この研究家にWhitmanが逆に,彼自身の内体験の≪意味≫を,こういうつぶやきに似た言 葉で極限的に説明しているのかもしれないのである.
このことはさておきWhitmanは,前述のようにDemocratic Vistasのなかで,アメリカ
・デモクラシ‑をその物質主義的低俗性から救うものとして熱烈なコムレッドシップ(あるい はthe adhesive love(4))を説いた.しかし,我々は既にこういう詩を知ったからには,彼のコム レッドシップ提唱の底に,実は,彼自身の体験のいのちが脈動していることに気づくのである.
そして,もう一つ,このコムレッドシップと表裏一体をなす翠想がある.それはindividuality への自己確信である.すなわち,それは全宇宙にも匹敵する自己という一個の人間存在の尊厳 の自覚である.これなくしてはDemocracyは単なる政治の便法であり,烏合の衆のシノニム にしかすぎない. "O divine average!" (おお,神聖なる平凡入りこれがWhitmanの詩精神 に火花を与えるヴtTイタルな電気的要素となっているのだ.そして,この実感もまた,あの体 験詩のなかにすでに表われているのである. "And limitless(5) are leaves stiff or drooping inthefields,.‥"草の葉っぱも蟻も苔も無限の存在である.そのとき,彼は,人間はもち
ろんのこと,万有悉くの物の無限性に深い尊厳を感じているのである.ついでながら,物の世 界であるく自然)がWhitmanの目に映ずる存在価値は測り知れず大きい.たとえば,
デモクラシーは外界の光り,空気,動物,鳥,野原,そして大いなる空との接触によって筋と活 力を付与されなければならぬ。さもなければ,それは必ず萎縮し枯渇するだろう。 (要約)
‑Specimen Days, Nature and Democracy
僕は大地を,太陽を,動物を愛した,僕は富を軽蔑した‥‥‥
僕はわが歌を野外で自らに読みきかせた,木々によって,星々と川によって,
わが歌を試した. ‑By Blue Ontario's Shore
Whitmanの自然は,人間界の単なる背景ではなかった.だから彼は, 「真の詩人が来るとき, もの言わぬ自然と人間は,手を振りあい,歓喜して合体するだろう」と言う(6)この言葉を単 なるレトリックと取ってはならない.人間の兄弟としての物たちのリアリティは詩人の視力に よってのみ見ぬかれるものかも知れないのである.これは,そのままRilkeの,物にたいす る姿勢にも通ずることである.
Es winkt zu Fiihlung fast aus alien Dingen, aus jeder Wendung weht es her : Gedenk!
〔ほとんど凡ての物が感受せよと合図する, どこを向いても,恩い出せ!と僕に身ぶりする〕
‑1914
話をもとに戻そう.草木であろうと人間であろうとWhitmanはこの地上のあらゆるもの に言い知れぬ≪意味≫と愛を感ずる.彼がDemocratic Vistasのなかで操りかえして言う,
"intense and loving comradeship, the personal and passionate attachment of man to
manという言葉も,く存在)の根元へのある種の内的共感なしには,それは造られた理念と して只しらけた反応を呼びおこすだけだろう.彼は,いっさいの物質的な富,政治,文学,さ らに肉体でさえも,その前には,たちまち存在が稀薄になってしまうような,最も重くて堅固 なものを「自己自身」とし,それへの誇りをさかんに強調する(thedivine pride of man in
アイデンテイテイ
himself).人間の実体.それみずからの内に永遠と宇宙を包含するi全‑≫なもの.彼の 長大なデモクラシー論は,この論証不可能な≪存在意識≫ ‑読者をくり返し連れもどすのであ る.さらに彼は,同論のなかで言う.
そして再び見よ!いっさいの物質,いっさいの霊のなかに永久に脈打ちつづける鼓動を‑物たい0)ち ちのなかなる生命の永遠の脈持,永遠の収縮と弛緩‑それによって私は感じ,知る,死は終りで はなく,むしろ真の始まりなのである‑何ものも決して失われることなく,決して死ぬこともな い,魂も,また物も.
ついでながら,私はこれらのコトバに,あのD. H. Lawrenceのほとばしる感性の口調を憩 いだすのである.此処で,この作家とWhitmanを対比させることによって, Whitmanの詩 的感性を明確にするのは極めて有意義であろう.
D. H. Lawrence (1885‑1930)が現実社会(社会主義体制であろうと,民主主義体制であろうと) を嫌悪したことは周知のとおりである.それは,現代の民衆が技術的な政治論によって集団化
され,平均化され,観念的な軽少人間となってしまったからであるが,根本は, Lawrenceに
よれば,頭脳的観念が,人間と自然の世界から血の色の輝きを放逐してしまったことにある.
r人間にとって,至高の勝利とは,花や獣や烏にとってと同じく,最も鮮烈に,最も完壁に生き ることである.」 「宇宙は生きている.」 「‑たまりの水は,神である.」 「一つの岩でさえ神であ る.」 「かって,人は宇宙とともに生きていた.」太陽も月も星辰も物質ではない,それらは「心 霊的な力」を我々におよぼしている.ところが我々現代人は,それらを「小っぼけな科学的発
msm
光体,燃えるガスの球」にしてしまった. 「我々は生きている,肉のなかに生きている.生命 ある,化身せる宇宙の一部である.その事に歓喜して踊れ.」これがLawrenceの遺書とも言 われるApocalypse (黙示録)の主張である.こういうLawrenceだからこそ, Whitmanの 詩に, 「く現在)の震える,鋭敏な時間」, 「鼓動する肉我」(7)があると感嘆することができたの である.
しかし,此処で我々はWhitmanとLawrenceの相違点にも注目しなくてはならない.前章 で,私はLawrenceがWhitmanのコムレッドシップに全面同意したことについて書いた.確 かに二人とも徹底した個人主義者であったけれど,未来に或る種の人類共同体の出現を切望し ていた点で共通したものがある.特にLawrenceの現社会に対する憎悪と,ときには噸笑, そしてそれに代わるかのような肉欲の讃美は,けっして痴呆的な快楽の毒に侵された芸術家の それではなかった.彼は,頭のさきの思想や,俗物根性に貧血した,ひ弱な現代人の生きかた に野性のヴァイタリティと真の純潔を注ぎこむものは何か,それを問うていたのである.そし て,それに対する彼の答えは,く本能)あるいは存在の無意識層‑の絶対的信頼ということで あった.彼は,そういう生き方を,はるかな古代人のなかに見出すと言う.彼ら古代人が,胸 と胸とで大自然に接触し,自己の肉体を太陽と地球のいのちの交流の場としたのは,彼らの く本能)がLからしめたのである.それは,現代人の日光浴や裸体主義とは大いに異なる.古 代人には,生ける太陽と月‑の礼拝と驚きがあった.こうして,彼らは自然から流入する生気 の実感を味わったのである.
そして,男女の交わり.それは昼の活動と円環する夜の行為である.この夜における性の融 合は,我々を深くて暗い無限性のなかに引き入れ,この一体の大海から我々は真に安らかな存 在の癒しと愛を飲むのである.それは大自然のリズムと流れの円環のなかで行われなくてはな
らない.ところが現代人は,性の快楽を目的化してしまった.だから彼らの性のいとなみは, 卑狼と消耗のゲームに堕している.真の男女の交わりは,ペンテコステの密儀であり,我々の 存在に炎を投げこむ.それは,我々をクローカスの花のように純潔にし,も早や,ドンファン の色漁りは,愚かしい不幸にしか見えなくなる(8)く本能)は,頭脳的なマインドに歪められな い限り,それみずからの道徳性を発揮する.なぜならく本能)には強力な生命のダイナモと共 に,自発的な制御装置があるとLawrenceは言う(9).
ここで思うのだが,あのW・プレ‑クは, 「Sexは永遠に至る最も容易な道である¢ゆ」とし
て,その神聖と純粋を讃めたたえているが,彼には,その前提として"imagination"という
至高の詩的能力(the Poetic Genius)の発動が必須であったLawrenceは,このブレーク
的imaginationを否定したが,しかし,彼の語る性のいとなみには彼独自の豊かなimagination
の発露がある.それは,明らかに,リビドーという用語で解きあかされる生物学的な性欲エネ ルギーとは異なっている.だから彼は,フロイトの,ネガティヴな沈澱物に覆われたく無意識〉
の理論にたいして,半ばそれを認めつつも,なお「我々の存在の奥所には美しい霊たちが住 んでいないのか?」(ll)とシニカルに問わずにおれないのである.確かに, Lawrenceがその小
イ1ジナテイグ
説のなかで性の感動について語るときの想像的な言葉は,まるでく性)そのものが持つ新鮮で 無垢な素顔のように見える.ブレークとは一線を画しながら,しかもLawrenceのイマジネ
‑ションには,何かブレークの意味するrealityにつながるものを感じさせるのである.そ して一方, Whitmanは,性の感動をどんなふうに歌っただろうか.
One hour to madness and joy! O furious! O confine me not!
(What is this that frees me so in storms?
What do my shouts amid lightnings and raging winds mean?) O to drink the mystic deliria deeper than any other man!
O savage and tender aching!.‑ ‑.
‑From Children of Adam, 1860
〔ひと時を狂気と喜びに!おお,凄じい!おお,僕を閉じこめるな!
嵐のなか,僕をこんなに解き放つのものは何だ?
稲妻と荒ぶ風のまんなか,僕の叫びは一体何んだ?) おお,誰よりも深く神秘の錯乱を飲む!
おお,野蛮で優しいこの苦痛!.‥ ‥.〕
肉の歓喜を,怯めず騰せず堂々と歌った大詩人は,ホイットマンをもって嘱矢となす,彼は, 人間の血液の,偉大な変革者であった,と言ったのは,ほかならぬLawrenceである.だか ら, Lawrenceは,さぞや,この詩を賞味したことであろう.しかしながら,気がかりな事が 一つある.すなわち, Whitmanが飲んだ,この性の「神秘な錯乱」の酒の味わいと効き目 は,どこからどこまでLawrenceと一致していたわけではなかろう,ということである.し かし,今はこの事に触れず,先を急ごう.
Lawrenceのことに帰れば,木は,その根と葉によって生きる.その様に,我々も夜と昼に よって生きる.夜における性の融合による,血の大海‑の投入と,生命のよみがえり.夜の自 我は,我々のダイナミックな自我の源泉である.しかし我々はその源泉にとどまっていてほな らぬ,と彼は言う.性は目標ではない.セックスを人生の唯一の主要動機とするような惟界
rt‑*
は,絶望と無政府状態におち入るLawrenceによれば,我々の自我は,夜と昼の円環のなか で完成される.血の情熱に新しくされた我々のちからは,もう一つの未知の自我からの情熱に 応えなくてはならぬ.人類の偉大な目的は,健界の建設.それに向っで情熱的に我々が譜和し 合うこと.多数者同志の真の交りあい.我々はこれに自我を捧げることによって, aunited body (統合された肉体)の一部となる.これは,人間の魂の最も深い欲望である的.この偉 大な魂衝動に従うとき,人は名声と成功,いや自己の生命までも放乗せざるをえなくなると叫, Lawrenceは説く.実際的な物だけでなく,素晴しき何物かを生みだす行為もまた,彼による
と,く本能)からの働きであり,それは存在の源泉に由来する創造的あるいは宗教的動機を持つ.
此処にも,我々はLawrenceとフロイトとの大きな相違点を見るのである.周知のように,フ ロイトは,性本能こそは人間を駆り立てる唯一の快感衝動(後年死の本能も加わるが)であり,社 会的・文化的仕事は,人間の性衝動を抑圧し,或いはその危険を回避する必要から工夫された 人為的なものである,と言う.だからく快感原則)とく現実原則)は永久に相魁する宿命を持 つのである.このフロイト学説を, Lawrenceの無意識論は真っ向から否定する.彼は主張す る,始源の,純粋な,生きた無意識(本能)を不自然な観念で歪めるな.それに全信頼せよ.
それをあるが債に働かせよ.そうしない事のなかにこそ,現代人の不幸の原因がある.仕の堕 落と,もろもろの仕事の乾燥と不毛はそこから来ているのであると.
以上が, Lawrenceのく本能)についての考え方である.これは, Whitmanが生涯の終り まで信じていた世界を進化させる「生殖的衝動」 (the procreant urge of the world)の考えと共 通している.たゞし, Whitmanの場合,それは人間の内のみならず,他界ありとあらゆる物 の内にもひそむ衝動なのである(彼は,それを「完全」の腫種,絶妙な花のつぼみと呼ぶ).しかし, そのことはとにかく, Lawrenceの性描写があれだけの肉の厚み,燃えあがりをもちながら, 淫らというより,むしろ,一種高貴な行情の雰囲気を醸しているのは,その奥に禁欲的なモラ ルが一本強い芯をとおしているからである. Lawrenceの性は,快楽というより,コズミクな 潮のうねりに衝きうどかされた,ある無私の要素をあらわす.しかも,それは魔力的な美をい ちめんに放射する. RilkeがLawrenceの小説≪虹≫に感動したというのも多分ここにあっ たのであろう.そして,また此処にLawrenceとWhitmanの出会いもあるのである.
たとえば,既に述べたように, Lawrenceには,性と円環しながらも,性それ自体を目的化
つムレツドシツフ'
しない,本能のもう一つの衝動がある.それがWhitmanの友愛精神と関係があるのである.
前章に書いたように, 「コムレッドシップは,生命の根から咲きでた,純粋な美の,種子なき (性なき)最後の花である」として,彼は強くWhitmanに共感を示す.結婚は,我々を肉体と意 識の合体によって,存在の暗い深い大地に根づかせてくれる.そして,この情熱と優しさにみず
そそがれた生命の木は,コムレッドシップという究極の花を咲かせなくてほならぬ.それは, 恐れを知らぬ,名誉ある,責任を知る男同志の関係である.同志の愛という永遠の連帯が,人類 の未来を待っている. Whitmanは,この究極の段階に足をつけた詩人である叫とLawrence はいう.かくして,く本能)それ自身の内臓する倫理的法則が,二人を,エロスの情熱を経て, いわば高貴なる野蛮人となし,彼らに,美しい人間の共同体をひとしく夢見させたのである.
その内的衝動にうながされて, Lawrenceは宅虹≫を書き, ≪翼ある蛇≫を書き, Whitmanは 生涯宅草の菓≫を書きたしていった.その様に我々には見えるのである.
さて,こういう風に見れば,ここに,時代を隔てて,いかにも二つの美事な文学の類型が発 見されたことになるのだが,そうはいかない.
それは外でもないWhitmanのコムレッドシップの問題である.なるほどLawrenceは,
W.が提唱したコムレッドシップそれ自体にたいしては絶讃を送ったが,その根底をなすW.の
人間観には強烈な不満を表明しているのである.この事はWhitmanの本質にかかわること だから軽く見すごすわけにはゆかないLawrence自身にとっても,同じく人類の新ヴィジョ ンを抱懐する者として,このことは決して軽い問題でなかったにちがいない.Whitman讃美に 比例する猛烈な攻撃が,彼の第2ホイットマン論(その他,彼のDemocracy論)で展開して いる.たとえば,彼はWhitmanのこの詩を槍玉にあげている.
I am he that aches with amorous love;
Does the earth gravitate? does not all matter, aching, attract all matter?
So the body of me to all I meet or know.
‑1860
〔僕は,恋情に痔く者,
地球には引力,物すべて,痔きつつ,すべての物を 引くではないか.
からだ
そのように,僕の肉体も,ぼくが出会い,また知るすべての人に.〕
「これは,何んと機械的な!」とLawrenceはいきまく. 「死んだ物はいざ知らず,生きもの にはすべて好悪の情がある.あるものには惹かれ,あるものには反擁する.」 「Whitmanは恐る べき間違いを犯した.」たしかに, 「彼は今日においてもアメリカ最良の人々の霊感であり,そ の新しき大いなる道徳,生命のメッセージは生きている.」しかし,彼の, 「この万人‑かた まりの融合(merging, en masse), 「唯一実体」 (One Identity), 「‑我狂」 (Myself monomania) は,古くさい「愛」思想のむし返しではないか,とLawrenceは攻撃する.
Apocalypseで彼が口をきわめて批判するのは,キリストの教えが民衆に,不当な,実行不 可能のことを強要したことである. 「汝の隣人を汝自身のどとく愛せよ.」この世的な力や幸福 を否定し,万人をおのれ自身の如く愛すること,それは, Lawrenceに言わせると,我々の存 在の深層に根づいたものではない.キリスト教は,この様な理想を押しつけることによって, 民衆の生命力を弱めてしまった.それは,星辰かがやく空のもと,樹々と山と海の,この充実
した大地から,民衆を天国という肉体無き観念のシャボン玉に浮遊させてしまった.それは人 生否定の教えである.それは,逆に人々の欲求不満を増大させ,結局は世界終末(あるいは絶 滅)への偏執狂的な憧れ‑と導ぴぃていったのだ. Whitmanもその教えの二番煎じをやって いるとLawrenceは非難する. "我れは凡てである.凡ては我である.されば我らは, 罪‑』
なる実体において一つである.〝このOne Identity思想がこのWhitmanの唱えるコムレ ッドシップの根底にある. 「魂の襟首をひっつかんで肉体のなかに据えつけた」(15)みごとな Whitmanの自我は何処‑いったのか? 「君の自我は,まるで君自身から,ブクブクと漏れで て,宇宙に発散したみたいだ」(16)とLawrenceは挑旅する.
さて,そこで,彼は,面白いことに,フロ‑ベルのあの「姫患者と修道士ジュリアン」を引
合いに出して, Whitmanのなかにも「魂の唯一の救済手段としての絶対的愛」なるものがあ
る,と慨嘆するのである.面白いと言ったのは,このフロ‑ベルの話は,既に第三章で述べた ように, Lawrenceとは反対の意味で, Rilkeの強烈な関心をひいた問題だったからである.
(Lawrenceの宅虹≫と論文≪宗教的ということについて≫に感動・共感したというRilkeが もし,ここのところを読んだとしたら, Rilkeはどんな顔をするだろうか?ちょっと皮肉な感 じである.)つまりLawrenceに言わせると,修道士ジュリアンの様に療患者を愛のうちに抱
ほんねんマインド
きしめることは,魂の本然に反する行為である.慈悲!慈愛!という精神の芦に叱唆されて, 無理矢理に不浄の者に接吻するな.もし相手が我々の健康をねたみ我々を憎悪しているなら,
こっちも憎悪しかえしてやるべきだ. 「私は,私の魂が愛するものを愛し,憎むものを憎む.」
One Identity (一体融合の愛)という抽象観念によって, 「ポイットマンよ,君は君の孤絶せる モ‑ビディックを殺してしまった.君は,君の深い官能的な肉体を観念化してしまった.それ は肉体の死だ.」(17)とLawrenceはきめつける.
かくして, Lawrence晩年の傑作といわれるThe Man who Died (死んだ男)では,あえて 自らの死を選んだイエスが,再びこの地上に引き戻されるのである. 「生きる欲望もなく,只 曜吐感のようにひろがる幻滅に圧倒されながらも」,彼はもう一度この性界を裸かの目で眺め なおす.彼は「広大な生きんとする意志が,地上の至るところに,嵐の,あるいは静穏の波涛 となって湧き立ちうねっている」ことに気づく.彼は,かつて愛をあらゆる人に押しつけ,坐
きることを拒否した自分の非を悟る.だから彼は,二度と自分の肉体を官憲に渡してはなら ぬ.そして彼はイシスの女神のような一人の女を見出し,女の腹こそ「柔らかな白い生命の岩 である」と知る.死と自己犠牲の情熱は今や無にひとしくなる.彼は,祈りよりも甘美な肉体 の苦葱に,新しい信仰を獲得する.この様にして,絶対愛の理想はシャボン玉のようにはじけ 散りLawrenceのイエスが誕生するのである.そして,この地上愛に足を据えつけたロ‑
レンスの神は,同時に自己の内に新しく整える敵意と軽蔑をもひとしく愛する神となった.
個別の世界に生きることは,差別と二元の現象に生きることだからであるLawrenceは,
"gem‑like singleness"'181という言葉を愛する.我々は,すべて宝石のごとく堅い単一体であ り,相互に分離し,けっして一つに融合することはありえない.出会いと反捺.愛と憎しみ.
個の優劣.人間は平等ではない.キリストの絶対愛は,肉体なき理念の「底無し穴」である.
そしてthe Average Man (平均人間)を標模するポルシェヴィズムと現代のデモクラシー(19) は,この肉体なきキリスト教の現代版であるとLawrenceは言う.
同じく, Whitmanも"OneIdentity"という「恐るべき自我抹殺の観念論¢o)」によって「純 粋な自我」の詩人から,たちまち「死の詩人」に転落してしまった. 「しかし」,とLawrenceは 言う, 「彼は依然として偉大なる指導者である.」なぜなら,彼のOne Identity (万人一体の融 合愛)を, 「最も痛烈な憎悪から情熱的な愛まで」の振幅をもった魂の自発性と読みかえること
によって, Whitmanのアメリカ民主主義のメッセージは,今なお生命を持っているからであ る.そして,またLawrenceは言う, 「観念によって,魂の最も深い意志を阻害するな.魂に
コムレ,ソドシツブ
よって魂を認識せよ.卑小な魂を卑小と知り,偉大な魂を偉大と知る.真の同志愛とは,よ
コミユニオン
り偉大な魂への崇拝という霊交における連帯である.」このアンビヴァレンスの見本のような Lawrenceのホイットマン論は,要するに, Whitmanの「完壁無比な自然発生性,喉をふ るわすナイテインゲールのように完壁な人間的自発性」を,その大もとの胴体とも言うべき Whitmanの"One Identity"信念から切断して,それをLawrence流の二元論の胴体にす げかえようとするのである.個の優劣と差別.劣等な個から,より偉大な個への本来的な‑イ ラーキ.その認識をとおして,偉大な個‑の熱烈な崇敬という相互の共感.それによって,対 立し合う無数の個は,一つの語和的な人類共同体を形成するだろう.肉体が生きた大地と海か
いのち
ら生命を受けるように,小さな魂たちは,大きな魂から情熱と喜びの流入を受ける.く本能) は,それを我々に要請している.そうすることによって初めて,人類は情熱的な譜和と連帯を 回復しうるだろう.しかるに,とLawrenceは言う,現代人は,みずからのく本能)の要請 に背き,平等の観念にとりつかれて,物欲とコングェンショナリズムの機械集団と化してしま った.それは,彼らが自らのく本能)を押し殺して,溢れる生命の源泉を塞いでしまったから である.以上が, Lawrenceの,現代人を文化の不毛から救いだすという,いわば彼の本能モ
ラル論である.そしてまた,我々は,ここに,熱烈なコムレッドシップによって新しい人間の 共同体をひとしく渇望したLawrenceとWhitmanの間の相違点を見ることができる.
さて,私は前にWhitmanの神秘体験詩といわれている或る詩を引用した.そこでは, Whitmanは,自分の肉体と魂の融合体験を,あたかも男女交合のエクスタシーのどとく描い ていた.言語に絶する平安と明析な意識のうちに,彼は, "万有は愛から生れ,一にして無限 である〝と知ったとのべる.いうまでもなく,これはOneIdentityの思想である.それに対
して, E. H.Millerはフロイト的精神分析のメスをふるって,この詩から神秘のヴェ‑ルを 剥ぎとろうとする.一方, Lawrenceは,それを古くさい理想主義的観念の遺物として否定す る.つまり, Whitmanのく本能)は, Lawrenceのく本能)にとっては,なお観念的すぎた のである.そして,面白いことには, Lawrenceのく本能)もまた,フロイトのく本能)にと っては,同じく観念的でありすぎる.なぜならフロイトにとって,本能は本来モラル無き衝動 的欲望にすぎないからである.このことは新しい問題を我々に投げかけるが,それは先のこと にしょう.
今は,只,ひとしくHgreat lover"と言われたこの二人の詩人がく愛)という本能的なも のに見せる反応のずれに興味をひかされる. R. Aldingtonは, A♪ocalypse序文のなかで,
「Lawrenceの最も深くて,最も強烈な信念はく愛)であった.彼は激しく愛したがゆえに, く愛)のあらゆる敵たちを激しく憎悪した」と言っている.たしかに,二元の人Lawrenceに とって"汝の隣人を汝白身のどとく愛せよ〝というコトバ程嫌悪すべきものはない.無差別愛 は,むしろ自己の生命を憎悪するにひとしい.生命を愛するゆえに,生命の敵を憎む.愛と は,純粋な生命の実感のことである.だから,例えば,間違った人間の喉もとを,ひっつかん で真赤に怒っている人の姿にも,彼は神のどとく純粋な生命の顕現を見るのである.
"‑ at that moment the angry man was a god, in godliness pure as Christ,
beautiful
‑from Man is more than Homo sapiens愛と憎悪,優しさと怒り,歓喜と悲嘆.激しい二元的極性のリズムにつき動かされるまゝに, Lawrenceの文学は,突発的に,輝き,翳り,明るみ,また暗くなりながら流動してゆく.そ れに対して, Whitmanはどうであろうか.
米米
As Adam early in the morning,
Walking forth from the bower refresh'd with sleep, Behold me where I pass, hear my voice, approach,
Touch me, touch the palm of your hand to my body as I pass, Be not afraid of my body.
〔朝早く,眠りよりさめ身も爽やか, 樹陰より歩みでるアダムのように いま過ぎゆく僕を見よ,僕の声を聞け,
問EZSSi
近よって僕に触れよ,いま過ぎゆく僕の身体に君の手で触れよ,
からだ
僕の身体を恐れるな.〕
‑1860
このアダムのどときく僕)が呼び求める女イヴは,たった一人の女でなくともいい.多くの女 であり,また多くの男たちであったほうが尚さらいいのであるLawrenceは, Whitmanに は特定の名のつく女が居ないと不平を言うが,これがもともと, Lawrenceと区別される Whitmanのくたましい)の生理である.だから,この詩は,前述した"I amhe thataches with amorous love. ‥. ‥ So the body of me to all I meet or know."と完全に照応
するE. H. Millerに言わせれば,これも多形体性倒鑑(性器外の接触欲)の一例であろう.
あるいは, Whitmanの男色漁りの公的装いとみるだろうWhitmanは,彼自身の接触欲に
からだ
ついてSongofMyself,sec.24でこう言っている. 「僕の身体は,内も外も,ことごとく神 聖,だから僕は,ぼくの触れるもの,ぼくに触れるもの一切を神聖にする.」 Whitmanにとっ て,本来この健に不浄なものは一つもない.彼はこの実感を,また凡てのものの実感として感 染させたくてたまらない.上掲の詩も,それを意味しているのであろうが,言葉は,いっそう 抑制をきかされて,言いがたい暗示・余情をひびかせているWhitmanに欠けていると言わ れるSubtlety (精妙さ)が,ここでは最少量に働かされて,殆ど稀有といいたい様な詩的形象 を打ちだしている.とは言え,大体, 「精妙さ」の工夫はWhitmanの敢えて本領とするところ ではない.彼は,彼自身の内に発見した最も大切なもの‑the origin of all poems (いっさ いの詩の起源)に語らせようとする.そこから無垢のコトバを汲みだそうとする.色・形よりも
もとまず鮮度の高さが重要であった.ところがこの詩では,微量にきかせた「精妙さ」が最大の効
果をあげて,まるで,彼のエロス的肉体は,健康でさわやかな芳香となり空間に満ちひろがっ
てゆくみたいである. 「One Identityとは,無でもく個)の抹殺でもないよ」とWhitmanは 笑っているみたいである.その点,前詩"I am hethatacheswithamorouslove ‑‑‑"の ほうが,ずっと直裁で粗野である.それだけ,皐りWhitman的であると言えるだろう.これ
° ° ° °
揺,前述したように, 「生きものの本性に反する」とLawrenceの攻撃をうけたものである が,しかし, Whitmanのはかに誰がこれほど生きた,新鮮なコトバを吐いただろうか‑個 人的なIove songならいざ知らずである.我々は,これに些さかでも, Lawrenceの嫌悪す る隣人愛的観念臭を感ずるだろうか.特に冒頭の一行, =I am he that aches with amorous
see
love." (僕は恋情にうずく者)は,まさに生命の井戸から汲み出してきた天然の酒である.我々は こういうコトバに接すると,審美的にうんぬんしようなどという賢しらな気持を失ってしま う.それでいて,これは詩である.確かに,シェリーやキ‑ツの宝石的精緻さや完成度の美し さはない.またリルケの幽玄もない.にもかかわらず,これには,ポイットマンのみが切り出 しえた美の原鉱がある.彫琢されず無造作に転がされると見えながら,そのかけた断面から我 々の目を射る一・二条の燦めき.それは,我々の口をつぐませ,ありきたりの美意識を空しく
P
してしまうのである.
E. H. Millerは,戦時中におけるWhitmanの,重傷兵への献身は,彼の創造性に刺戟一 つ寄与しなかった,戦後見るべき彼の傑作はきわめて少なかったからだ,と言っている.確か に,戦前の彼が示した,あの破天荒の詩的跳躍力と原初性は,戦後そう頻繁にはやって来なか ったゞろう.しかし,彼のあの驚くべき芸術的発明が今にいたるまで微塵も古くならないのは, 発明性によるだけではない,彼が戦時中,身をもって実証したあの精神的高遠と誠実さが,も
リアリテイ
ともと彼に内在していたからである.それが彼の想像力に分厚い実質を与えていたことを見逃 してはなるまいWhitmanが近代におけるく自由詩)の創始者であるとか,彼が現代英米詩
イマi)ズムいかん
の写象派に与えた影響如何などということはWhitman研究の本質的なことではない.たし かに彼は,詩人であるかぎり技巧に無関心でありえなかった.彼は何んの工夫もなしに,まる で天から降ってきた魚のように丸ごと詩を手に入れたわけでも,想念にまかせて書きなぐった わけでもない.思ったより彼は入念に作品を添作あるいは加筆しているのである.それは改訂 原稿を見れば分る.彼は敢えて旧来の詩の定型を破ったが,それだけでなく,それに代わるに 放蕩無頼とも言うべき特異なポイットマン詩型を打ちだした(たとえば,カタログ的書法,果
バうU'>でム
てしない平行体,比愉ぬきの,特に直愉皆無に近い絶対的即物スタイル,遠近法無視の無焦点 的移動描法など).このことは,むしろ彼の,技巧への積極的関心を示しているだろう.しか
し,それにもかかわらず彼は,技巧家ではなかった.正直言って彼の詩は器用ではない.彼の 天才の最良部は器用さにはなかった.むしろ,彼は革命的な詩の技法を意図しながらも,内か
せ
ら溢れでる新しい酒のいきおいに急かれ,それを盛る新しい皮袋の体裁に意をつかうことが弱
くなったかのようだ.だから彼の巨大な詩などに現われる散漫と冗長はシバシバ我々の眠気を
さそう.それでいて,その散漫と冗長なコトバの連なりのなかで,ふと我々は,何かの底ども
る義めきに触れて,ハッとすることがたびたびある.まさに自然界の,あの有りあまる散漫・
冗長のように,彼の過剰な言葉は,生きた法則に支配されて,森林を流れる風のような,ま
^Lfc
た渚に反復打ちよせる潮のような息吹を潜めている.自然現象の乱雑を一分のくるいもなく 支配している恐るべき沈黙のちから,そして甘美ないのちの息吹.耳に快い音楽を持たない
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Whitmanの粗野な詩に,もし音楽があるとすれば,それは隠れた自然の法にもかよう,弾ん だ内部生命律の音楽であろう.だから,我々が一旦Whitmanを体験してしまうなら, 「精妙 さ」, 「陰影」,あるいは「趣味」の欠如などという批評は場ちがいのように聞えるだろう.そ れほど此処には強壮無比な生命の美感がある.ときにそれは殆ど魔力的でさえある.
しかしながら,ある人々は,そういうWhitmanの裸性のほとばしり,無選択な情熱こそ騒
グt3テクス
々しいもの,醜悪なものと感じるだろう.問題は,いわゆる「内部生命律」の有り無しではな く(有ることは誰れでも認めているら只響きでる,その内的生命のリズムに乗れるか,乗れない かの差であろう.乗れるとは,リズムのよって来たる本質‑の共感のことであって,好み程度 のことを言っているのではない.そしてこの辺に芸術鑑賞以前の根本的問題がありそうだ.あ
'I蝣」ム
れほど敏感にWhitmanの律動に感じ,ほとんど狂喜した人でも,突然そのリズムに異議を唱 えだすのである.言うまでもなく,それはLawrenceのことである.このことは,我々に技 法や趣味以前の文学の根本問題を考えさせる.
"Stop this day and night with me and you shall possess the origin of all poems''(21)
もと
(この日,この夜,僕とともに止まれ,君にいっさいの詩の起源を授けよう.)彼の溢れる内部生 命律が,ある人には騒々しく,ある人には死の臭いがあり,またある人には美しく静々と響き
リズムもとリアリテイ
でる,その詩の起源とは,どんなものであるか.それを, Whitmanは「物の真実」(the reality
じん
of things)と言い, 「あらゆる物象の仁」とも呼ぶ.榊(註:仁とは果物の核のなかにある種子のこと).
"Only the kernel of every object nourishes." (あらゆる物の仁のみが養う.)つづいて,彼は
「僕のため,その殻を裂いてくれる者は,誰だろう」と言う.その時,明らかに彼は, 「その 殻をひき裂き,物の仁を見たのは自分だ」と感じているのだ(そうは言わないけれど).それな
もと
ら,彼の示すところのく仁),つまり彼の内部生命律が由って来たる詩の起源は,はたして,
「騒」なのか, 「死」なのか,それとも美なのか.結局は,それをどうとろうと,人の自由であろ う.只,我々は彼の作品(詩と散文をとわず)をとおして,彼の未聞の感性風景にさぐりを入 れ,それについて語る楽しみを持っているのだ.この事は,可能なかぎりの単純と直裁を見せ
るこの詩人が,なお多くの研究者にとって謎のような影を曳いているだけに一層楽しい.
一十十
Camerado, this is no book, Who touches this touches a man,
(Is it night? are we here together alone?) It is I you hold and who holds you,
I spring from the pages into your arms‑decease calls me forth.
O how your fingers drowse me,
Your breath falls around me like dew, your pulse lulls the tympans of my ears.
I feel immerged from head to foot, Delicious, enough.
‑from SoLong, 1860‑1881
〔仲間よ,これは,けっして本ではない, これに触れるものは,人間に触れる,
(今,夜だろうか,ここに僕は,君とたった二人でいるのか.) 君が抱いているのは,そして君を抱いているのは,この僕,
僕は,ページから君の胸のなかにとび込む‑死が僕を呼びだしてくれるのだ.
おお,君の指が僕をうとうとさせる,
君の息が夜露のように僕のまわりにおりる,君の鼓動が僕の鼓膜をなどめる,
ぬ
ぼくは,頑から足までびっしょり濡れた感じ, いい気持だ,実に,実に.〕
この前の詩では,く僕)は眠りより覚め,樹陰より楓爽と歩みでるアダム,まるで楽園を回復 したアダムであるかの様に,愛の喜びを万人にふりまいた.そして更に,この詩では,く僕) は,わが亡き後の未来の人々に向って熱い愛のコトバを喝やく.再び,この内容にたいして E. H. Millerは心理学的な解釈をくだす.すなわち彼は,現実‑の適応不能と挫折したく性) の暗い悲哀の顔をWhitmanの無意識の洞窟からひきずりだして見せるのである. (彼は, W̲
が大人の世界に適応できず,それから逃れて安定した,愛ある幼年時牡界‑運行することを密かに欲したこ と.また同性愛の挫折と異性愛への移行の恐れを指摘している)脚.したがって, Millerによれば, Whitmanは未来にコムレッドの愛を投影することによって,自己の現実不適応性を合理化し
たものであると言う.つまり,これはフロイトのいう「願望充足」の‑表現ということになろ う.孤独な詩人ホイットマンは,未だ生れざる愛人にSeductive song (誘惑詩)を捧げ,その 歓びを空想して,自らを慰めていると,彼は説明する.その当否はとにかく,今我々がMiller に同感することは,この詩の持つ情緒的リアリティの強烈さである.彼は,これを「アメリカ文 学における最も驚くべきエロティックな求婚の一例」とさえ呼んでいるのである. (私は今, Lawrenceの批判「ホイットマンのOne Identity観念論」を念頭において語っている).
この,詩人の切実な感情は,既に前章で一部引用したように, 1876年版Leaves of Grass序
文のなかにも同じ烈しさをもって脈々と流れつづけているのである.その中で,彼は「この恐
るべき,止みがたい私の(友愛への)憧懐は大多数の人々のなかにも潜在している」,という
ようなことを述べている.蛾や鳥類が,遠隔の見えないともの存在を全身で触感するように,
Whitmanの血は,無数の見えない友‑の憧憶に熱くなるみたいだ.普通,時間と空間の条件
に最も制約されやすいのが我々人間の感性であるが,彼は彼独特の感性を,しかし自己だけの
ものとして特殊視しない.万人に開かれた, 「この古い,永遠の,しかもつねに新しい愛着
(adhesiveness)の交換」.それは,彼のいう"theorigin of all poems言あらゆる物体のく仁〉
以外の何ものでもないのである.少なくともWhitman自身はそう言いたいのである.しかし ながら, Millerはそうは取らない.この詩を異常な性と,社会的不適応になやむWhitman の代償的幻想ととる.だから, Millerは, W.の愛の讃歌に色濃い悲歌のひびきを聞きとる.
彼は言う, Whitmanの詩が優れて偉大なのは,そういう愛(adhesiveness)を何処にも見出し えない,この詩人の孤独さが,我々の胸裡に痛ましくこだまするからなのである,と.まるで
け
Millerは,美しい鳥の羽毛をむしりとって,その丸裸かの哀れな姿を傷んでいるかのようで ある.なるほど,この点Millerは単なる分析家ではない.
さて,上の詩に見るWhitman的感性と関連して,今,私はRilkeが,その若き日,愛人 Lou Andreas‑Salomeに寄せた,ある詩のことを思いだす.
米米
Losch mir die Augen aus: ich kann dich sehn, wirf mir die Ohren zu: ich kann dich horen, und ohne Fdfie kann ich zu dir gehn,
und ohne Mund noch kann ich dich beschworen.
Brich mir die Arme ab, ich fasse dich
tけt
mit meinem Herzen^wie mit einer Hand,
halt mir das Herz zu, und mein Him wird schlagen, und wirfst du in mein Him den Brand,
so werd ich dich auf meinem Blute tragen.
‑1901
〔私の目をつぶせ,私はあなたを見ることができる, 私の耳をふさげ,私はあなたを聞くことができる,
また,足なしに私はあなたのもとに行くことができる, また,口なくとも,なお,私はあなたに懇願できる.
私の両腕を‑し折れ,私は,なお,あなたを抱く, 手のように私の心臓であなたを,
この心願を押し止めよ,そしたら私の脳が鼓動するだろう, そして,あなたが私の脳に燃え木を投げこめば,
私はあなたを流れる私の血で運ぶだろう.〕
Rilkeの場合,この詩を書いたころ,彼には,愛人ルーとの肉体関係に何ら現実的破綻という事
さい
情はなかった.それだのに,相手に対する性的愛(これは時間,空間に制約される諸感性のうちの最 たるものであるが)が,逆に彼をこの様な心境にみちびくのである.つまり,この詩では,肉体 なくして尚持続しうるく愛)の実存‑の鯛芽がすでに芽生えている(そして,これがその後の Rilkeの生涯の歩みを方向づけていくのである).見るように,く愛)にたいするRilkeの感じ方は, whitmanと本質的に同じであるが,その私的情況,あるいは因果関係はどうであるか.少な
くとも, E. H. MillerがWhitmanについて指摘したような"sexualinadequacy"(性的不全)
に由来する孤独感は, Rilkeには全くない.したがって代償的幻想は不要であった.にも拘ら
ずWhitmanと同じく,肉体を超えたく愛)の絶対的な存在‑の予感が鋭く動いて自覚され ているのである.時空に妨げられず密かに姦めく,目に見えない触覚のようなもの.我々はそ れを両詩人に感ずるのである.しかも両者の個人的情況はかなり違うのだ.しかし,だからと 言ってMillerのホイットマン分析を不当視するわけにはゆかないが, (なぜなら, Rilkeには Rilkeで,独自のリルケ分析が成り立つだろうから),しかし,たとえ,その分析に妥当性があったと しても,それはあくまでく物)の対象化による,因果律次元での外的説明であって,く物)その ものの内的意味は決定されないのである("how?"と"what?"とは別物であって混同されて はならぬ).この場合,く物)とは,二人の体験したく愛)のことを指す.彼らが,肉体超絶の く愛)の実在と,その尊厳をこころに感じたとするなら,それは精神分析の判断とは自ら別儀 のことがらであろう.たとえば,ゴッホが垣間見た大自然の絃い光輝感は,彼の精神病と本質 的には関係が無いのである. (一つの因果関係の環は,さらに新しい因果関係の環を予想させ,終局の・
原因は,さらに一層,我々の視界から遠のいてゆく.その上,一つの因が何故ある特定の果となり,別の果̲
とならなかったかの理由は,確定できない.その際,因が一つであろうと,複合していようと同じである.
結局,それは結果からの様々な因の説明であって, "こう成ったから,こう成ったのだ.〝ということと少し も変らない.因果の解明は,現象生起のプロセスをある部分だけ切りとって,固定化するということにすぎ
° ° ° °
ないだろう.他方,もし因果をあくなく探究してゆくならば,逆に宇宙のミュトス性はますます深まるいっ ぽうであろう.)
さらにまた,我々は,あの詩学講義におけるヴアレリ‑とともに, 「科学的な認識は,真の 感性の門口で罪を被いきよめる..‥この感性の領域においては,機械的に真であるものはすべ て偽である.この領域の原動力をなすのは意想外のことがらである.糾」とさえ言うことができ
るだろう.これと全く同じ観点から, Lawrenceは,フロイト性理論の半面を受け入れながら も,尚,宗教的衝動の不可侵性をつよく主張したのである(ヴァレリーと・ローレンスの,この奇妙 な出会い!しかし同時に我々は,真の感性と単なる空想とは,それならどう違うのか?という問題にも当面 することになるが先のことにしょう).
例えば,プルーストは,紅茶にひたしたマドレーヌ菓子の味わいに,急に,人間の死滅性と 凡庸さの感じが消えさったと言う.ワーズワスは,或る川と森の風景の回想によって,晴朗な
ノヽ・・‑モニ