詩的衝動力としての「エロス」の問題(2)
‑W. Whitman と R. M. Rilke の場合
新井章慶
On Eros as a Poetic Impulse
‑the Case of W. Whitman and R. M. Rilke
AKIYOSHI ARAI
≪II≫
Sei allem Abschied voran, als ware er hinter dir, wie der Winter, der eben gent.
Denn unter Wintern ist einer so endlos Winter, daB, iiberwinternd, dein Herz iiberhaupt iibersteht.
Sei immer tot in Eurydike‑, singender steige, preisender steige zuriick in den reinen Bezug.
Hier, unter Schwindenden, sei, im Reiche der Neige,
sei ein klingendes Glas, das sich im Klang schon zerschlug.
Sei‑und wisse zugleich des Nicht‑Seins Bedingung, den unendlichen Grund deiner innigen Schwingung, dafi du sie volhg vollziehst dieses einzige Mai.
Zu dem gebrauchten sowohl, wie zum dump fen und stummen
Vorrat der vollen Natur, den uns云glichen Summen, Z云hie dich jubelnd hinzu und vernichte die Zahl.
‑Sonett an Orpheus H‑15
〔すべての別離に先立てよ,別離が既にお前の背後に 過ぎ去ったもののように,今過ぎてゆく冬さながらに.
冬の中にも一つの冬こそまこと限りも知らぬ冬ゆえに 冬を凌ぎつつお前の心はおしなべて凌ぐということを知る.
つねにオイリュデイケのうちに死してあれ‑,いよよ歌いつつ いよよ讃めつつ昇りゆき,かの純粋の関連に戻りゆけ.
ここ消えゆく者らの中にあって,傾きの国にあって 鳴りつつ既に砕けゆく響きうるわしの攻璃の杯たれ.
在れよ‑そして知れ,同時に非在の条件を.
お前の心の振動の限りない奥底を知れ, この一度ぎりの生に剰すなき振動を遂げるため.
充ちみちた自然の,用いられた貯えの,また
未だ鈍く無言のままに横たわる貯えの,量り知れぬ総計のうちに 歓呼してお前自らを加え,そして早や数を滅せよ・(1)〕
‑オリフォイス・ソナタH‑13 (1922)
すでに第‑部冒頭にかかげたWhitmanの詩To the Garden the Worldと対比しなが ら,我々は,このRilkeのソネットを読んでみたいと思う.すると我々は,後者の詩のほう が一見,はるかに現性超越の神秘的なかげりに満ちていることを感ずるだろう. W.は来たる べき世界楽園を目指し,未来のたくましい建設者である若者たちの出現を高らかに歌ってい る.彼はいかにも確信にあふれた予言者のひびきを持つが,それに比べてR.は,この詩で, まず人の世の暗さを歌わずにはおれない.艮きもの,美しきもの,愛しきもの,すべては自分
いと
から背き去ってゆく,あるいは"草のうえの朝露のように〝はかなく消滅してゆく. 、敵意こ そ我らに最も近しき存在.恋人たちは自由の世界を,狩猟のよろこびを,そして故郷を期待す
J.るさと
る,しかし彼らは互いの腕のなかにありながら,はや別れのときに来ているのではないか〝
(Feindschaft ist uns das Nachste. Treten Liebende nicht immerfort an Rander, eins im andern, die sich versprachen Weite, Jagd und Heimat.)(2), "つねに対立,ただ対 立のみ〝(3),また"開花すれば,はや凋落の意識〝(4),などと彼は悲歌でもうたってきた.これら 冬のように寒々とした,様々な人生の離反の相のなかで,わけても「死」は果しもなく長い別 離の冬である. Schicksal (運命)は, R.の詩に,固定観念のように,しばしば現われてくる 言葉である.しかし,生涯も終りに近づく頃(1922年)に至って,彼の眼前に,運命超克の道 が繁然とひらかれた.そして,それは繊細・透明なイメ‑ジをともなって噴出するように歌い あげられたのである.この詩は,その50編に余るオルフォイス・ソナタ連作のひとつである.
Sei immer tot in Eurydike , singender steige,/ preisender steige zuriick in den reinen Bezug.
〔つねにオイリュディケのうちに死してあれ‑いよよ歌いつつ/いよよ讃めつつ昇りゆき,か の純粋の関連に戻りゆけ.〕
美しい妻オイリュデイケの死を悲しみ,ただひたすらに亡き妻への愛をうたいつづけたとい う竪琴の名手オルフォイス.彼は,そのひたぶるな,一人の女への思慕のゆえに,トラキヤの 魔女たちの嫉妬を買い,ついに五体をばらばらに引き裂かれる.だが,それでもなお,オルフ
ォイスの首と竪琴は歌うことをやめず川を漂いながれてゆく.このギリシャの伝説は, R.
の詩心をひどくかき立てたらしく,彼によって独特な解釈を与えられる.すなわち,殺されて
もなお歌いやめずに,漂いながれたというオルフォイスは, R.によって,世界普遍の「歌う
詩的衝動力としての「エロス」の問題 79
神」となるのである.彼はあらゆる時間と空間をつらぬき,一切万有を褒めたたえる神とな る.言いかえれば,オルフォイスは, R.詩語の極点とも言うべきderreineBezug (純粋 関連)の世界の住者であり,同時に彼処から地上への日ごとの使者,となるのである.
「純粋関連」というコトバは, R.の行きついたDasein (存在)の思想を最も端的に表明し ている言葉である.それは,存在するあらゆるものとものとの問を音楽的につなぐ純粋な親近
° ° ° e
関係と言ったらいいであろうか.そこにあっては, "一切のものが横溢である〝 (Alles ist uberfluB.)(5)なぜなら.自己はあらゆる他者のなかに自らを見また自己自身のうちに,あ らゆる他者を見るからである(6).この性では,人々はひしめき合って生きているのに,決して 出会うことなく,いつもすれ違う.しかし,もしも我々に内的視力が開かれるならば,我々 は,万有(自己をふくめて)が,咲きこぼれる花のように調和と一体性の音楽をかなでている のに気づくだろう.こういった感じ方は,あの,生涯に四回,脱我のエクスタシーをとおして
「‑者」の光り輝く存在を体験したという新プラトン学派のプロティノスの「ヌース」説(7)を 我々に思いださせないだろうか.また仏教にも,事事無擬・重重無尽(8)という一種, R・の感
じかたを思わせる関連の哲学があることを私はつけ加えたい.
さて, R.によると,この「純粋関連」の健界内面空間(Weltinnenraum)に住むところの天 使たちとは,キリスト教のそれとは異なって,万物の内面を透視する不動の視力を‑我々人 間も現在それを成就しょうとしているのだが(9)成就しおえた存在者たちのことであった.
R.の天使にとって,生・死は何んの区別もなく,彼らは驚くべき美と歓喜のうちに生・死の 両域をつらぬいて生きている. "我々人間の白熱も,彼らにとっては冷さにひとしい〝.(10}それ ほどの高められた昂揚感をもって, R.の天使たちは「純粋開運」の世界を,互いに交流しあ って生きている.そして,オルフォイスとは, R.自身の意識の振動のなかに直接,親密なす
° ° t
がたを見せはじめた歌う天使の名であると言ってもいいであろう.
オルフォイスの伝説は,詩人Rilkeの想像力をたのしませた単なる審美的主題ではなかっ た.オルフォイスは彼にとって殆ど必然の存在であった.なぜならば,彼が生涯かけて探求し てきた,暗い人間の実存・不条理からの脱出のプロセスは,この神話のモチーフを得て,はじ めて最も生き生きと,しかもR.独自の含蓄をもって語り明かされることができたからであ る. (物や生の表層をつらぬいて,その本質的な姿に至るための,彼の放烈な精神の凝視.そ して挫折の孤独感.こういう状態にあって彼は神経科医者の門をたたいたことがある.詩人で あることをやめて,一介の市井人となろうかと思うほど,暗たんとした何年かを彼がすごして きたことは,よく知られていることがらである。)
先まわりして,一足飛びにこのソナタの核心に触れることになるが, R.の心をとらえた, このオルフォイスとオイリュデイケのmotifは,再び私にプロティノスの,美をとおしての
「一着」へのテオリア(還帰)という神秘哲学を思いださせる.すなわち,詩人リルケは,感 覚美を媒体として感覚を超えた非物質的な絶対境der reine Bezugに迫ってゆくのである.
時梼詩集(1899年)以来,彼の豊かな芸術創造を促した隠れたる動因力と言ってもいい(それ
は同時に彼の人間としての生きかたを方向づけた)ものがあった.そのものは, 「純粋関連」
への意識であったと私には思われるが,それは彼の深部にたえず働く,ある名状Lがたい「女 性的なもの」のイメージによって養われ磨ぎすまされてきたのではなかろうか.女性的なるも の( M云dchentum) ‑それは,はるかな「純粋関連」に至るため,彼にとって必然かつ現 実的な媒体であった.いやそれどころか,彼の内面の鏡には,純粋関連という捕えどころもな い不可視の世界空間は,ひとりの神聖な女性の姿という具体的な形をとって映っていたのかも 知れない(あの10編のドゥイノ悲歌の前半部に繰り返し歌われる,かなしい恋愛の背離性は, このことを逆説的に裏づけている).オイリュデイケこそは,現実の生活において彼の魂をと
りこにした女性たち(優に五指に余る!)の真の名であったと言っていいだろう. "常にオイ リュデイケのうちに死してあれ・‑〝これは,あの熱烈なキリスト者パウロの信仰告白の異教 的表現であるとさえ言える. " I have been crucified with Christ; it is no longer I who live, but Christ who lives in me." ‑Galatians 3;20因襲のなかに生気を失ったキリスト 教を嫌悪するR.は, Erosを彼のキリストとしたかの様である.この事については後に改め て詳述したい.
さて,しばらくの問,話の焦点を変えよう.
この問題のソナタが属している55編のオルフォイス・ソナタ群は,宿願の大作ドゥイノ悲歌 の後允, "何ものかにロ述される〝様にして生れでたもので,そこに開花するメタフォ‑の豊 鏡さば,まるで万華鏡を覗きみる思いがする.それらは,すべてが一種透明なひかりに裏うち
されて,何となく安らいだ表情を持っている‑たとえ,その中に,心の泉の枯渇してゆく現 代文明への嘆きがしばしば歌われているとしてでもである. R.芸術の上澄みである,これら 55のソナタ群は,あたかも,あのバッハの48曲からなる平均率クラビア曲集の高貴な音のよう に,ある高次な中心("die unerhorte Mitte〝)に統一された響きをもって歌われている.
今,我々がとりあげている,このソナタもその一部であり,おなじ透明な肯定感に支配されて いることには間違いない.しかし, R.自身も特にこれを重要視していたというだけに,此処 には,そう単純に見とおせぬ彼の美学のミクロコスモスがある.つまり,この詩の最後の行で 明らかにされているように現世‑の積極的な肯定のありかたが歌われているにもかかわらず, 何か峻厳な拒絶の調子もあって,人は,そこにある種のペシミズムに近い思想的かげりを感ず
るであろう.
Hier, unter Schwindenden, sei, im Reiche der Neige,
sei ein klingendes Glas, das sich lm Klang schon zerschlug.
〔ここ消えゆく者らの中にあって,傾きの国にあって
鳴りつつ既に砕けゆく響きうるわしの政璃の杯たれ〕
詩的衝動カとしての「エロス」の問題 81
この点,あの豪放らいらくなWhitmanはどうであろうか.たしかに,素朴な自然のいの
° °
ちの直弟子だったW.描,リルケの巧緻な言語造形とは無縁な詩人であった.しかし,それ にもかかわらず,私はここでもW.とR.との問に鮮やかなコレスポンデンスのしるLを見 るのである.
Give me your tone therefore 0 death, that I may accord with it,
Give me yourself, for I see that you belong to me now above all, and are folded inseparably together, you love and death are,
Nor will I allow you to balk me any more with what I was calling life,
For now it is convey′d to me that you are the purports essential,
That you hide in these shifting forms of life, for reasons, and that they are mainly for you,
That you beyond them come forth to remain, the real reality,
That behind the mask of materials you patiently wait, no matter how long, That you will one day perhaps take control of all,
That you will perhaps dissipate this entire show of appearance,
That may‑be you are what it is all for, but it does not last so very long, But you will last very long.
‑from Scented Herbage of My Breast (1960)
〔だからおお死よぼくに君の音調を与えよ,ぼくがそれに合わせて調律せんため,
しらべ
ぼくに君自身を与えよ,ぼくには分っているのだ,君たちが,愛と死である君たちが,今では何 にもましてぼくのもので,分ちがたくひとつに重なり合っていることが,
それからむかし生という名でぼくが呼んでいたあのものを君がふたたび持ち出してぼくをがっか りさせたりすることだけはもう絶対に許しはしない,
今ではぼくは知っているのだ,君こそが本質的な意味であり,
これら多様に移り変わる生の形のなかに君がさまざまな理由から潜んでいること,生の形も主と して君のためにあることを,
君が生の外形を超えて現われ,ついには真の実在としてとどまることを,
会こと
物質の仮面の背後に君が長さをいとわず辛抱づよく待ちつづけていることを, ぼくは知っている,恐らくいつかは君が一切を統御するに至ることを, 恐らくは君がここに広がる現象の外観をそっくり追い散らしてしまうことを,
たぶん君こそがすべての現象の存在理由であり,しかも現象はそれほど長つづきはしないことを, しかし君だけは長く長くいつまでもつづくだろうということを.(ll)〕
一般に,現任謡歌の典型的楽天詩人だと思われているW.の作品には,注意してみると, 時おり,現世マーヤ(幻影・虚妄)の思想ともとれる拒絶的な声がきこえるのに気づくだろ う・上はその一つの例である.きわめて不幸な兄弟や身内の生きざまを目のあたりに見た人間 ポイットマンの知られざる苦悩が,これと何らかの関係も持っているのではなかろうか.私に はそう思われる(たとえば,彼の一番下の弟Edwardは不具で精神薄弱者,姉のHannahは 結婚の失敗から神経衰弱にかかり,兄のJesseは発狂して精神病院に行き, Andrewは飲ん
だくれで,街の女と結婚した。まるで嘘のように悲惨な家庭環境であった.)
あの強烈な性の詩章Children of Adamが発表された頃(1960年),すでにW.は,一方
で, 「死」を深く見すえていたのである.このことはW.理解のうえ決して蔑ろにされてはな
らない事がらである. W.が‑なる世界楽園の到来を告げて,人間や物への途方もない愛を うたったとき,それは,実は超絶的な死への賛歌でもあったということに我々はもっと注目し てもいいのではないか. W.は,その確信にみちた生涯を閉じる前年(1891),詩集Good‑Bye MyFancyのなかに,奇妙な詩を一つのせている.それは,まるで,賑やかな座のなかにあ って,ただひとり孤独な人がポッンとつぶやいた一言のようにひびく.
APPARITIONS A vague mist hanging round half the pages:
(Sometimes how strange and clear to the soul,
That all these solid things are indeed but apparitions, concepts, non‑
realities.)
‑1891
〔わが詩集の半分にただよう模糊たる霧:
ときおり,魂はどんなに奇妙にもはっきりと感ずることか,
これら一切の堅固な事物は,まことに,亡霊,観念,虚像にすぎない.〕
これは,病気と,近づく死の予感のため気も弱くなったW.の独自ではない.名声も絶頂 に達した1871年ころ,すでに彼は,代表的論文Democratic Vistasのなかでも,同様のこ
とを,もっとはっきりした形で言っているのである.それは,拙論第一部終りのところで引用 したとおりである.いや,もう二,三度同じことを彼はほかの箇所で言っている.このことに ついては,また後に触れることにするが,機械から芸術・政治に至るまで,草木から人間の背 徳・悲惨に至るまで,あらゆる現象に,パースペクテイヴかつ窮極的な同意を与えた大肯定 の詩人ホイットマンが,ときおりふと峻厳なウパニシャドの哲人のような顔つきになる.そし て" Neti, Neti〝 (之に非ず,之に非ず)と善悪・美醜この世の一切のものに対して,否定のこと ばをつぶやくのである.
"Sei allem Abschied voran〝一切の別離に先立つためにはRilkeは,何よりも「非在」
° ° °
(NichトSein)の条件を知らねばならないと言う.既に述べたように, R.の作品にしばしば現 われるコトバSchicksal (運命)こそはAbschied (別離)の同義語である.そして,坐 は,様々な偽装のもとにあらわれるAbschied (別離)の総和に外ならない.幸福でさえ喪失 の前ぶれだからである(Gluck‥ ‥, dieser voreilige Vorteil eines nahen Verlusts.82)).この様な人 生いっさいの別離を乗り超えるためには,人は「非在」 ‑の跳躍を決意しなくてはならない.
そして「非在」とは,現性的に「死」を意味する.これが,先に引用したW.の詩のなかで の" Death〝に相当するのである.
Give me your tone therefore O death, that I may accord with it, Give me yourself, for I see that you belong to me now above all, and are folded inseparably together, you love and death are,
詩的衝動力としての「エロス」の問題
〔だからおお死よぼくに君の音調を与えよ,ぼくがそれに合わせて調律せんため,
しらペ
ぼくに君自身を与えよ,ぼくには分っているのだ,君たちが,愛と死である君たちが, 今では何にもましてぼくのもので,分ちがたくひとつに重なり合っていることが, ‑‑・〕
Sei‑und wisse zugleich des NichトSeins Bedingung, den unendlichen Grund deiner innigen Schwingung, dafi du sie vollig vollziehst dieses einzige Mai.
〔在れよ‑そして知れ,同時に非在の条件を.
お前の心の振動の限りない奥底を知れ,
この一皮ぎりの生に剰すなき振動を遂げるため.〕
85
NichトSeinといいdeathといい,それは,ひとしく暗い輝きにみちた否定の太陽である.
暗い輝き‑なぜならW.のdeathは「死」であると同時に,それは,同詩にあるように the real realityであるから. (他の詩では:the real of the realすなわちこの現実の母胎となって いる実在的なものと言っている脚)そして一方, R.は, NichトSeinを同ソネットのなかでder reineBezug (純粋関連)と肯定的に呼んでいるからである. 「死」の実体は, W.にとって単 刀直入, "love〝であり, R.にとって「非在」の実体は, (私の読みとりによると)つねに讃美
されるべき神秘の女性オイT)ユデイケである(Sei immer tod in Eurydike‑, singender steige,!
preisender steige zuriick in den reinen Bezug.).共に,輝く永遠なる美の太陽である・ふつう我々 が言う,この現実の「生」は, W.にとって,死の前に消滅すべき"現象の装い〝 (this entire show of appearance)にすぎず,他の箇所で彼は,幻影,亡霊(Democratic Vistas,その他)と
イ11/‑ジヨンアバリシヨン
さえ呼んでいる.そしてR.にとっても,この現性は, "消えゆくもの〝, "傾きの国〝である.
Hier, unter schwindenden, sei, im Reiche der Neige,
sei ein klingendes Glas, das sich im Klang schon zerschlug.
〔ここ消えゆく者らの中にあって,傾きの国にあって 鳴りつつ既に砕けゆく響きうるわしの改璃の杯たれ〕
"鳴りつつ砕けゆく政璃の杯〝たることは,すでに現健を見抜いてしまった者の,見抜いて, しかも果されるべき,現健との最も美しい関わりあいを見事に視覚化している.すなわち,輝 く,不可視の太陽‑のあこがれに存在の昂揚感をいやまLに高まらせつつ生きてゆくこと.そ して同時に,そうすることによって現世と自己を不可視なるNichトSeinの太陽に向って変容 させてゆくこと.MR.はそういう生きかたを自己自身に課して,それを"鳴りつつ既に砕けゆ
く響きうるわしの披璃の杯たれ〝と歌いあげる.いっぽう, W.は"おお,死よ,君の音調を
しらペ
ぼくに与えよ,ぼくがそれに合わせて調律せんため〝と,生から死への変容を素朴に自己自身
に訴える.たしかに,両者にはその歌いぶりに違いはあろう.しかし,等しく感覚的なものの
熱愛者であった彼らの心臓には,熱愛しながらも,どこか一点,冷たく醒めたものがある.
"哲学とは死の演習をすることである〝 (ハイドン)と言ったソクラテス流の厭仕主義が,この 二人の詩人たちの血管にはながれている.これが, R.については勿論のことだが,あのきさ
° °
くな民衆の詩人ホイットマンに,一種寄せつけぬ蔭影をかすかに与えていたのではなかろう か.このことは余り言われないことだが,実際, W.の私生活上の気難しさを(多分に, W.に 批判的だが)指摘している批評家的もいる位いである.また,別の研究家G. W. Allenも言っ ているように, "ホイットマンは,おそらく何よりも友愛の詩人であった.しかし,彼の手記 にもあるとおり,彼は人生に理想的な友を遂に見出しえず,結局晩年は,神のなかに友を求め た孤独な人であった.〟
さて,このソナタの中心問題に入ってゆこう.すでに先まわりして結論を提示したのである が,以下その論拠を詳述したいと思う.
Zu dem gebrauchten sowhol, wie zum dump fen und stummen Vorrat der vollen Natur, den uns云glichen Summen,
Z邑hie dich jubelnd hinzu und vernichte die Zahl.
〔充ちみちた自然の,用いられた貯えの,また
末だ鈍く無言のままに横たわる貯えの,量り知れぬ総計のうちに 歓呼してお前自らを加え,そして早や数を滅せよ〕
さきに,別離といい,非在といい,現実の生にたいするR.のネガティヴな姿勢に視点をあ てて私は語ってきたが,今このソネットの終りに"充ちみちた自然〝という言葉が出てくる.
それは,鈍い(dumpf)岩であり,無言の(stumm)大地や樹々からなる自然である.これ は,不可視のものではなく,まさに我々の五官で見,触れることのできる現実そのものであ る.この自然という現実の生の, "果てしれぬ総計〝に"みずからを加え入れよ〝とR.は言 う.
"Sei‑und wisse zugleich des Nicht‑Seins Bedingung〝 (在れ‑そして同時に非在の条 件を知れ)という言葉が前に出てきたが,この矛盾的な提言が,この詩の終りに至って,より具 体的な形で表現されているのである.キッペンベルクによると, "非在の条件はこの存在(坐)に
こそ開かれている〝.っまり,この現健を,無条件の讃嘆をもって生きることにより,我々は
"非在の条件〝を全うすることができる. 50余のソナタが讃歌と言われているゆえんである.
この詩群よりも15年も前に出された新詩集(Neue Gedichte)のなかで,すでにR.は,オ ルフォイスの伝説を主題にしたもの, Orpheus. Eurydike. Hermes.という詩を書いている.
これは,黄泉に下っていったオルフォイスと,その死んだ妻オイリュデイケとの再会,および
よみ
彼女との悲しい別離の場面をえがいたものである.その詩のなかで,妻オイリュデイケは
詩的衝動力としての「エロス」の問題 85
"夕ぐれに咲きでた花のように,〝触れてはならない処女性(M云dchentum)を巷得している.
そして彼女は,もはやオルフォイス独りだけの所有物ではなくなっているのである.
Sie war schon aufgelost wie langes Haar und hingegeben wie gefallner Regen
und ausgeteilt wie hundertfacher Vorrat.
Sie war schon Wurzel.
〔彼女はすでに長き髪のどとく解きほどけ,!降りたる雨のどとく 流れひろがり,!また豊けき倉のもののどとく分配されたり.
彼女は,すでに「根」となりてあり.〕 (Orpheus. Eurydike. Hermesより)
これも,またオルフォイス伝説に対するR.独自の解釈である.ここで既に,オイリュデイ ケが万有の「根」としてえがかれていることは, R.の感性を知る上で極めて注目に価するこ
とだと思う.したがって,その後にかかれた,このオルフォイス・ソナタのvoileNaturに 我々が,自然に普遍するところのオイリュデイケの存在を感じとっても間違いではないと思
う. (ついでながら,上の引用詩中のhundertfacherVorratと,ソネットの堅堅些der vollen Naturの用語Vorratの一致にも私は偶然ならぬものを感じる.) "自然というもの
は,人間とおなじく極めて繊細・微妙な感覚を持っている.しかし,自然は自ら人間に近づく ことが出来ないから,それを理解するためには,人間のほうから求婚しなくてはならない(16)〟
(下点筆者),とR.は言っている.また,あらゆるものが,人間に"我れを思い出せ〝と目くぼせ している.自然は,人間が彼女の愛人となって情愛のまなざしを送ることを,こがれている.
この様な心境をうたった詩は,すでに第一部に,部分的に引用したが重要な意味を持つので, 吏にいくらか補足して部分をここに引用する。
Es winkt zu Fiihlung fast aus alien Dingen, aus jeder Wendung weht es her : Gedenk!
O Haus, o Wiesenhang, o Abendlicht,
auf einmal bringst du′s beinah zum Gesicht
und stehst an uns, umarmend und umarmt.
Geliebter, der ich wurde : an mir runt
der schonen Schopfung Bild und weint sich aus.
‑1914
〔あらゆるものが,我れを感受せよ,と,ぽくらに目くぼせする.
どちらを向いても,思い出せと,揺れそよぐ.
° ° °
おお家よ,おお草の斜面よ,おお夕べの光よ.
なぞえ
ふいに,お前は,ほとんど,顔となり, ぽくらに寄りそい,抱き,抱かれる.
° ● ●
ぼくは恋人となる,すると美わしい世界が ぼくの胸に顔をうずめ,よよと泣く.〕
1915年,タクシス夫人にあてた手紙のなかで, R.は,ある朝の,彼自身の体験を語ってい る.要約すれば: "外は公園でした.何もかもが,私と調和した状態になったのです.物たち が,ひとつになって,其処に,まるで普夜の花の内部のような静諾な空間があらわれました.
それは実に穏やかな気分に満ちて,天使の空間みたいでした.〟
(これは,彼が何度か経験した,神秘的体験の一つであるが, R.の詩作品は,総じて,彼 のふだんの生活感情の直接的反映であった.彼の詩は,彼の日常生活から切り離されたイマジ ネーションの遊びではなかった.)
さて, "敵意が我々にとって最も近しい〝ような存在の場であるこの現世に, R.は,つかの 問であるが, "苦夜の花の内部のような〝空間を感じた.そのどとく,現に我々が立ってい る,この触れることのできる豊かな大地に,言いがたい何ものかが広がっているのである. R.
にとって,此の世界には,至るところ万有の"根〝であるオイリュデイケの息が芳香のよう に薫っているのであろう.
Sei immer tot in Eurydike‑, singender steige, preisender steige zuriick in den reinen Bezug.
〔つねにオイリュディケのうちに死してあれ‑,いよよ歌いつつ いよよ讃めつつり昇ゆき,かの純粋の関連に戻りゆけ.〕
オイリュデイケのうちに死して,讃めつつ昇りゆくとは,この大地に"歓呼して〝降ってゆ くことである.それは,言いがたい全体("uns邑glichen Summen〝)に,自らの個("Zahl") を滅することである. "此処では一切が距離(対立)であり,かしこでは凡てが息(融合)であ
った帆〝と悲歌でR.は現世を嘆じるが,そのかしこなるderreineBezug (純粋関連)の 健界は,そのまま,この現世に広がっていることを,このソナタは暗示している.
ひるがえって,妻オイリュデイケを喪失したオルフォイスは,天日も暗くなるほどに悲嘆し
た. (かってR.が師事したことのあるロダンの作品に,オルフォイス像がある.竪琴を抱き
かかえ,天をあおいで号泣するこの青銅のオルフォイスを見れば,人は, R.が新詩集のなかで
描いたオルフォイスの惨苦を目のあたりに見る思いがするだろう.)この悲哀のオルフォイス
こそ人間の「生」の象微である.時間と個我のなかに生きる人間の悲劇性が,このオルフォイ
スの口から痛烈なうめき声を立てている.しかし, R.の詩では,オルフォイスの悲哀は,自ら
のいのちをかけた,その限りない憧れのゆえに聖化される,そして遂に彼もまた,個我を脱して
詩的衝動力としての「エロス」の問題
87 万有に変身することができるのである.この様にして,悲劇の人オルフォイスは,永久に失っ たかと見える金髪の恋人オイリュデイケと,ふたたび避追することを得る,しかも三度びと見 失うことのない避逓をである.
R.は別のオルフォイス・ソナタ(I‑5)で,真実の愛に到達したオルフォイスの喜びにつ いて語っている.それに比べて,我々は,はかない欲望にひきずりまわされて,いつまでも存 在を真に生きることができない.
Gesang, wie du ihn lehrst, ist nicht Begehr, nicht Werbung um ein endlich noch Erreichtes;
Gesang ist Dasein. Fur den Gott ein Leichtes.
Wann aber sind wir? Und wann wendet er
an unser Sein die Erde und die Sterne?
Dies ists nicht, Jiingling, dafi du liebst, wenn auch die Stimme dann den Mund dir aufstofit,‑ lerne
vergessen, daB du aufsangst. Das verrinnt.
In Wahrheit singen, ist ein andrer Hauch.
Ein Hauch um nichts. Ein Wehn im Gott. Ein Wind.
〔あなたの教える歌は,欲望ではなく 遂にはやはり達しうる物への求愛でもない.
歌は存在である.神にとってそれは容易の業か知らぬ, だが,いつ,私たちは真に存在するのか.いつ神は
° °
私たちの存在に,大地の,星々の確かさを与えたまうのか.
若者よ,お前が愛し,その時声は沈黙を破って 口から湧くといえ,それではないのだ‑かってお前の 上げた歌声をも忘れるよう努めるがいい.流れ去るのみの歌声は.
真に歌うこと,それは別な呼吸のことだ.
何のためでもない息吹.神の中のそよぎ.風.to)〕
(筆者・註:神とはオルフォイスのこと)
‑1922
歌が存在であり,存在がそのまま歌である.そのような生きかたを, R.は,オルフォイス とオイリュデイケとの窺極の出会いのありかたのなかに感得する.しかし,それは,現世の悦 楽に溺れることには無論ないが,また現世を無視することのなかにもない.まったくその逆の なかにこそある.
Gliicklich, die wissen, daB hinter alien
Sprachen das Uns云gliche steht;
daB, von dort her, ins Wohlgefallen GroBe zu uns iibergeht!
‑1924
〔なべての言葉のうしろに,言いがたきもの存在するを,
また,かしこより,大いなるもの喜びとなりて 我らに現わるるを,知る者は幸いなり〕
(註:"なべての言葉〝とはコトバで呼びうるもの,すなわち,この世のあらゆるもの.)
上は,R.の詩の良き翻訳者,求‑ランドのW. Hulewiczにあてた献詩の一部であるが,彼 が"なべての言葉のうしろに〝 das Uns云gliche (言いがたいもの)が存在すると言うとき,それ は,そのまま,冒頭のオルフォイス・ソナタ最後のuns云glichen Summen (訳では, "量り知れ ぬ総計〝とあるが,文字通りには, "言いがたい総計〝)を説明していることになる.つまり, "unsa一 glich〝という語は, R.のデイクションでは,殆んどつねにNichトSein (非在)という超越
的実在の属性を表わしている.しかもSummen (総計)は, Vorrat der vollen Natur (充 ちみちた自然の貯え)と同格であって,現健的な存在を意味している.であるから,結局R.
は,オルフォイスとオイリュデイケとの「出会い」の成就を,現世‑の超越的な参加のなかに 感じているのである(これに関連して, R.の非歴史的不毛性〔Werden,歴史的発展性の欠如のこと か?〕を指摘する評家もいるが,この事については稿を改めて考えてみたい). R.は晩年ますます,キ
リスト教の現世蔑視(これについては,英国の詩人W. Blakeの考えを恩わせるような彼独特の理解の 仕方があるのだが)の思想を嫌悪し,この現世を心から愛することの重要さを強調している.㈹こ
の世のあらゆるもの(人間をふくむ)が本来的に蔵している,その輝やかしい価値を認識して, それに驚き,かつ愛撫するようにそれを讃美すること.それが何よりも重要なことであった
(勿論,彼の場合,単に役立つからという実際的効用は第二義のことであったが).彼は,彼 の絶唱ドゥイノ悲歌の真意を説明した詳しい手紙(ポーランドの翻訳者, W. Hulewiczへ当てた) のなかで書いている: "Wir miissen versuchen, das groCeste BewuBtsein unseres Daseins zu leisten,〟 (我々は,最も深い存在感の実現を志さねばなりません.)
私は, R.が詩人として生涯探求してきたところのものは,結局このコトバに要約できるの ではないかと思う.これは,当ソナタ中の"wisse‥ ‥den unendlichen Grund deiner innigen Schwingung〝 (お前の心の振動の限りない奥底を知れ)と照応している.今,此処に生きて いる,この存在(Dasein)が,どれだけの密度と重さを持っているか?我々の存在が,大地 や星々の存在の重みに必敵しているか?そうであることが,我々が真に存在しているという
ことなのである.しかし, R.は注意をうながす,それは"純粋に地上的な,深く地上的な, 至福にみちて地上的な意識によって〝果されるべきだと(‥‥, sondern, in einem rein irdischen,
tief irdischen, selig irdischen BewuBtsein gilt es, das hier Geschaute und Beriihrte in den weiteren, den weitesten Umkreis einzufiihren.).このように, R.は"地上的な〝 (irdischen.‥)という コトバを重ねて強調する.この地上を離れてではなく,この地上にありながら,この栓のあら ゆるものの背後あるいは,その内部に存在するdas Uns云gliche (言いがたいもの,彼はそれを"晴れやかなる‑者,〝ともよぶ)¢o)を鋭敏に触感すること.それが, R.にとって,心をこめて現世 を愛することであり,同時に,自己の心が驚きに震えることである.この触感以前において は,人はどんなに,声高くこの世の物と人を愛すると宣言しようと,それは所詮,虚空‑消え
詩的衝動力としての「エロス」の問題 89
さるのみの叫び声にすぎない. R.が芸術家として,また人間として目ざす"最も深い存在感〝
とは,この触感の全心的な振動("innige Schwingung〝)にはかならなかった.そして,そ のような存在感の焼烈さと質とは, R.にとっては,地上の恋人たちが体験する「相逢う」こ との喜びが持つ,あの焼烈さと質とに通ずるものがあったようだ.しかしながら,それは,そ れそのものではない.なぜなら若い恋人たちは,いまだ喪失の悲哀のすさまじさも,またそれ 故に,全存在をかけての限りない再会への憧れをも知らないからである.だから, R.は,伝 説の恋人たちが成就した,あの窮極のありかたによる「出会い」のよろこびによって,人間の
° ° °一
真の存在感というものを表現しようとしたのではなかろうか.
Hoher Gott der fernen Vorges邑nge uberall erfahr ich dich zutiefst:
‑1922
〔気高き神よ,はるかなる頒歌の神よ,
5tz
われは至るところに,深く,深くおん身を感ずる:〕
詩人があらゆる所に,歌うオルフォイス神を感ずるということは,心理的に彼自身がオルフ ォイスになっているということである.すなわち,詩人は,そのときオイリュデイケとの「出 会い」のよろこびに満たされて魂が昂揚するのである.
Uberall Lust zu Bezug und nirgends Begehren;
Welt zuviel und Erde genug.
〔至るところに関連のよろこび,そして何処にも欲求はなし, あり余る仕界と満ちわたる大地よ〕
SEE
これは,オルフォイス・ソナタ連作に先立つ8年前に書かれた短い詩の最終部であるが,戟 々は,もうすでに此処にオルフォイスの鳥のささ鳴きをきくことができる.これを読むとき, 我々は,すでに第一部に述べたWhitmanの詩を思い出さないだろうか.すなわち:
Amorous, mature, all beautiful to me, all wondrous,
My limbs and the quivering fire that ever plays through them, for reasons,
most wondrous,
Existing I peer and penetrate still,
Content with the present, content with the past, By my side or back of me Eve following, Or in front, and I following her just the same.
〔成熟し,多情で,すべてがぼくには美しく,すべてがただもう素晴しく,
ぼくの手足とそのなかを絶えず流れつづけるゆらめく火とが,とにかくまことに素晴しく, 現在に満足し,過去に満足し,
今ここにありてぼくは前方を窺いつつなおも進みゆく, ぼくと並んであるいはぼくの背後からイブがつづき,
あるいは前にまわれば,今度はぼくが同じように彼女のあとにつづいて進む.〕
細かな説明は省くが,これら二つのR.とW.の部分詩をよく比較してみると, R.の二行 の詩は,まるでW.の溢れるこれらのコトバを短かく凝縮したみたいにさえ見える.それほ どに,二人の詩精神には,根底において,気脈相通ずるものがある(実際には, R.はW.から何 らの影響も受けていない.リルケと英語文化圏との関係を研究したE. C. Masonのものを読むと,むし ろ, R.はアメリカニズムの宣布者としてのW.に好感を持っていなかったかの様な印象さえ受ける.果 してどうであろうか.詳らかにしたい点である).(
trberall Lust堅Bezug.ライシュマンはこれをEverywhere Joy主堅relationと英訳してい る.そして我々は,ドイツ語のLustには,単なる"喜び〝ではなく,肉欲,情欲,快楽, 廠望などの多様な意味が複合されていることに注意したい.したがって, "関連に生きる喜 び〝には, W.の詩にあるamorousな要素,五体にうずくthe quivering fireが含まれて いるのである.これこそ,今まで我々が考察してきたところの,讃めつつ昇りゆく"derreine Bezug〝 (純粋関連)に生きる歓喜であり,自らをそのなかに加え入れ,個を滅するところの
"Vorr&t der vollen Natur, den unsaglichen Summen〝 (充ちみちた自然の貯え,言いがた い総計)に生きる歓喜ではなかろうか.そして,それは,万有の「根」として,この現世に欄 漫するdie blonde Frau (金髪の女性)オイリュディケとの不断の交わりの喜びではないか.
W.が,わが行くところ,後ろとなり,前となりEveがつき従うと歓喜するとき, R.は"隻 るところに関連の喜びあり〝と,溢れるこの世のいのちと美を讃頒する. W.のEveは, R.の Eurydikeである.彼らは共に, 「生」がつけている残忍と醜悪のマスクの下を垣間みること によって, 「生」を彼らの最愛なる者とすることができた.
W.は,彼の全作品を網羅する詩集Leaves of Grassをみずから"The Song of Sex and Amativeness〝と公言しているが, R.の詩についても同じことが言えるのではないだろう か.一種のエロティシズムが, W.の繁茂する青草の芳烈さではないとしても,灰かな曹夜の 花のかおりとなって,彼の詩には漂っているのである.これに関連して,以下,彼の作品と生 活との関係を探ってみたいと思う.
〔註〕
(1)訳は高安国仕訳「リルケ選集」 (創元社)より借用.
(2) Duineser Elegien, IVより.
(3) ibid., Wより.
(4) ibid, IVより.
詩的衝動力としての「エロス」の問題 91
(5) 1922年ミユゾットにおける詩よりNeigung‥ wahrhaftes Wort!に始まり, Alles ist UberfluB
Wie konnten wir jemals Verkiirzte/ oder Betrogene sein: wir mit jeglichem Lohn/ 1云ngst
uberlohnten.‥で終る.何ものによっても犯されることのない人間存在の充溢と絶対性を歌って
SES
(6) 1914年の詩(一部は既に引用ずみ),Es winkt zu Fiihlung‥.で始まるものの中に,次の言葉があ
る: Was haben wir seit Anbeginn erfahren,! als daB sich eins im anderen erkennt?/ Als
da6 an uns Gleichgiiltiges erwarmt?この思想の萌芽は,すでに初期,時祷詩集に現われている.
(7)プロティノス(205?‑270?)によれば,この地上の感覚界に,個々のものが存在するのは,それ らを超えて個々の霊および宇宙霊が存在するからである.すなわち霊が質料に個別的な形相を与え ることによって感性的な個物を存在せしめ統一している.しかし,霊が質料に戚与するところの形 相は,真の形相ではなく,それらの霊より更に高次的に存在するヌース(叡智的存在者)の影像に すぎない.したがってヌースは,個物を,いわば,それに生命的な光をそそぐことによって存在せ しめている喜・美のイデアである. (これはプラトンのイデア説に近いが,プロティノスのヌース は個別的したがって複数的存在である).さてこれら個々のヌースの相互関係を言及したところで プロティノスは言う「かしこでは...生成的なではなくして実在的な一切を見る.而も自分をば他 の中に見るのである.何故かと言うに(かしこでは)一切は透明で暗いものもなければ妨げる何物 もなく,むしろ一切は一切にとりてその内部までも一切明かだからである.けだし光は光に囲まれ ている.そして凡ては,自分の中に一切を有ち,又逆に他の中に一切を見る,従って到る処に一切 はあり,一切は一切にして又各々が一切である,そして輝きは無限である.と言うのは,それらの 各々は大きい.小さきものすら大きいのだから.而してかしこでは太陽は一切の星であり,又各星 は太陽にして又一切の星である」 (エンネアデスV. 8,4) (以上は鹿野治助著「プロティノス」
を参考にした)
(8)事事無擬・重重無尽:華厳経の根本原理を要約したもの.事々の事とは現象界の個物のこと.存在 するものとものとの関係は,全体(一切の他者)のなかに個が,個のなかに全体があるという形で
° ° ° °
論じられる. <‑即多><多即‑>の性男観を示したもの. ‑塵のなかにも宇宙の全体が宿ってい る.自・他は,それぞれ差別・対立を有しながらも,本質において相即不離,相互依存の緊密な関 係にある.しかも各個物が,無限の可能性と無限の自由を持つ絶対的存在である. (東京大学出版 会,講座「東洋思想」の第六巻「中国の華厳思想」を参考にした)
(9)ここの箇所はRilkeが彼の詩の翻訳者W.Hulewiczに当てて,ドゥイノ悲歌に出てくる天使 を説明したコトバを,筆者が言い変えたもの: Der Engel der Elegien ist dasjenige Geschopf, in dem die Verwandlung des Sichtbaren in Unsichtbares, die wir leisten, schon vollzogen erscheint‥. (悲歌の天使は,我々も現在それを成しつつあるのですが,可視的なものを不可視の 存在‑と変容させることに,すでに成功したと思われる存在者のことです. ‥.)
1913年の詩: Siehe, Engel fiihlen durch den Raum/ ihre unaufhorlichen Gefiihle./ Unsre WeiBglut wire ihre Kiihle./ Siehe, Engel gluhen durch den Raum.で始まる. (見よ,天 使たちは,空間をつらぬいて/尽きず深い感情を体験するノ我らの白熱も,彼らには冷たさであろ う./見よ,天使たちは空間をつらぬいて燃えかがやく. ‥.)
ul)岩波文庫「草の菓」より大部分を借用.
Duineser Elegien, IXより.
A Riddle Song (1881年)より.
欄Duineser Elegien, IXに次のコトバがあるErde, ist es night dies, was du willst: unsichtbar/
in uns erstehn?‑ ist es dein Traum night,! einmal unsichtbar zu seiniL Erde! unsichtbar!/
‥.und dein heiliger Einfall/ ist der vertrauliche Tod.‥.
(大地よ,おまえが欲しているのは,これではないか:我々の中に/見えざるものとなって整える こと‑それがおまえの夢ではないかノいつか見えざるものとなることが?‑大地よ!見えざる
ものとなることが!!・ ・ ・おまえの聖なる想いとは,親密な死のことだ...)
Edwin H. Miller : Walt Whitman′s Poetry
uG)この箇所は,次の二つを参考にした:
(a) Lisa Heise宛て手紙の中で(1919年) : Die Natur ist nicht f丘hig, an einen heranzurei‑
chen, man muB die Kraft haben, sie umzudeuten und anzuwerben, sie, gewisserma‑
Ben, ins Menschliche zu iibersetzen, um ihren mindesten Teil zu sich zu beziehen;‥.
(自然は人に近づくことができません.自然のごくわずかな部分でさえ自分と関係づけるためには, ひとは自然を解釈し直したり,自然に求婚したり,いわば自然を人間的なものに翻訳したりする力 を持たねばなりません. ‑富士川英郎訳「リルケ,芸術と人生」より借用)
(b) J. B. Leishman : Selected Poems of Rilkeの英文序文より,リルケの言葉すなわち, even for what is most delicate and inapprehensible within us Nature has sensuous
equivalents that must be discoverable. 〟
Duineser Elegien, Wより: Hier ist alles Abstand,/ und dort wars Atem…
(18)訳は高安国世訳「リルケ選集」より借用.
Rilkeの散文作品, Der IIrief des Jungen Arbeiters, 1922のなかで,彼は伝統的キリスト教が人 間を神の前に卑小な存在とすることによって,却ってこの現任の生活を暗く,虚飾,偽善にみちた ものとしたと強く批判している.現世のものや生活を心をこめ,愛情をこめて讃美することこそ天 国の喜びの保証であると力説する.特に「性」の問題について, R.独特の考えかたが述べられて いる.
a)既に本論中に引用ずみの詩, Gldcklich, die wissen,.で始まる詩の第二遠目にso daB wir immer, aus jedem Entziicken in ein heiter Gemeinsames schaun. (されば,我らつねに,な べての魅惑するものより,晴れやかな‑者〔共通なる者〕を見つむ.)
E. C. Mason : Rilke, Europe and the English‑Speaking World, p.164
(昭和46年9月50日受理)