Graham Greene の研究
新井章慶
私の目的は,グリーンの主要作品中にあらわれる諸人間像をとおして,彼の 生追求の特質を抽出することである.それは,あくまでグリーン芸術のこゝろ をさぐるための作業であって,披特有のあの簡潔な文体のなかに凝縮された感 情とイマヂネーションの高い密度にまで触れることはできなかった.
"不幸にみちたこの世界で幸福を期待することは何んと愚かなことだろう.
もしこの世に幸福者がいるとしたら,彼は利己主義者か,無知な人間だ" 岸 にひきあげられた敵潜水艇による遭難者たちの惨状をまのあたりに見たとき, Scobie (The Heart of the Matter)は一切の不幸の重みが自分の肩にかゝ
ってくるのを感ずる.これは,彼があらゆる人間たちと分ちあわねばならぬ責 任であると思う. ≠人間であるためには苦しみのさかずきを飲まねばならぬ〝
また彼は思うtLあの安らかそうで自由な,とおく明るい遊星たちでさえ,もし 人がほんとうの事を知ったら,それらにさえ<あわれみ>をかけないではおれ ないだろう.苦しみこそ事物の真相ではないか〝彼は人生の裏小路にうめく
どんな苦しみの声にもするどく感応し,それに決して無関心でおれなかった.
そのScobieが,二人の女を同時に深く愛したのは,やはりそのような彼の無 私なあわれみのためであった.
一人は妻ルイスである.彼女は,夫のScobieが昇進のチャンスをはずされ たゝめに世間態をひじょうに苦にする.後進から追いぬかれることは,彼自身 にとっては打撃とならないが,そのために妻が不幸であることは,たまらない 苦痛であった.ふだんから,つよい自尊心のために人に好かれない妻.そして や蚊帳のなかに坐っている彼女は,まるで金網のかぶさっている肉のかたまり のように醜い〝そんな妻にたいする<ふぴんさ>ほ情熱にまで達する.彼は,
必死の金策によって,妻のねがいどおり彼女を他国へ静養にやることができ る.彼が愛したもう一人の女は,ヘレンという海の遭難者のひとりであった.
(それは妻の不在中のことであった)やまるで占師の古びたカードのように〝, 薄幸の過去をきざんだヘレンを幸福にしてやることに彼は責任を感ずる. ≠美
しい者,かしこい人間たち〝のことはどうでもいゝが,誰ひとり見向きもしな い,,醜い女‑レンこそは彼が責任をもたねばならぬ女であった. ≠灯りの下に ふりむく彼女の顔のみにくさは,彼の両手にかゝった手錠のように〝彼をし
っかりと<あわれみ>の情にしぼりつけてしまった.孤独だったヘレンは, Scobieの温い情愛をかてとして喜びを知る女となった.しかし,ふとした事 から, <あわれみ>はくあわれみの姦通>‑と発展していった.
やがてScobieの妻ルイスの帰国を知ったとき,ヘレンの執愛は絶頂に達す る.彼女は, Scobieが自分と手を切ったら,自分は自殺するか,身をもちく ずすかのどちらかしかないと思うほどに悩む.そしてScobieの内部には,あ の没我性の天使ムーシュキン(ドストエフスキー「白痴」)が生きていた.彼 は罪の意識のゆえに,いっそう悲劇的なムーシュキンであった.彼は相手の幸 福のためには, ≠自己の守るべき美徳でさえも罪悪のように〝投げすてねばな らなかった.ヘレンとの愛欲関係を断つことは,むしろ彼にとっては甘い誘惑 でさえあった.それは平和と美徳が彼によみがえることを意味していたからで ある.しかし≠ひとりの人間を犠牲にして,神を愛することができるだろう か〝 Scしbieはあえて,ヘレンとの愛欲に自己を<いけにえ>に供するのであ る.我々は,この彼の愛欲行為に,すさまじい自己否定のストイシズムがかく されていることを見のがしてはならない.
"人は二人の女を愛することはできないという.しかし,この自分の,二人 の不幸な女たち‑の恐るべき<いとしみ>のこゝろが愛でなくて何んだろう か〝だが,自分は,そうあることによって,彼らのどちらをも苦しみにつき落 すことがあってはならない.ついに彼は決意する.姦通によって神をけがすこ
とをやめ,また二人の苦悩を最小限度にとゞめる唯ひとつの絶望的な道は,柄 死とみせかけた自殺しかない.自殺のむくいは永遠の地獄である.彼はそれを 信じている. ≠おゝ,神様,わたしは,あなたに永遠の呪い(という捧げも
の)をお捧げいたします.それを二人の幸福のためにお使いください〝彼は, 最後に妻とヘレンのそれぞれに"I love you.〝の言葉をのこして,死んでい
く.まるで悪徳にまみれた汚物のように,自分自身を彼らの道から掃きすてゝ しまうのである.
≠絶望は,ゆるLがたい罪であるというが,それは堕落した人間がけっして 経験することのない罪である.彼はつねに希望をもつ.善意の人のみが絶望と いう呪いを甘受する能力をもっているのだ〝と作者はいう.我々はScobieの 愛しかたの愚かしさを指摘することはできる.しかし我々が安泰なのは,実際 は我々のこゝろが,他人の不幸感にまきこまれるには,あまりに冷たいという ことかも知れないのである.彼の昇進があらためて定ったとき,彼は満足しき った妻の顔のうえに,別の顔々が映ってくるのが見える.それは,あの海で惨 死した男女や不遇な仲間たちの顔々Lであった.また,彼が服毒による死の寸前 に見たところの幻覚は何んだったろうか.それは嵐をはらんだ夜の戸外で,痩 の助けを求めている見知らぬ人の叫び声であった.彼はよろよろと立ちあがっ て,また倒れ死んでいく.この世の犠牲者のさけびは,彼自身が今おちていく 永遠の地獄よりも重大だったのである.
このようなScobieの他苦‑のするどい感受性は,グリーンの主要作品の主 人公たち殆んどによって共有される特質である.たとえば,戦争犠牲者たち の惨たんたる死にざまを黙視できなくなったニヒリストのFowler (A Quiet American).心のよろこびを奪われた一人の女‑の献身的援助をとおして「人 は他のために苦しむとき,はじめて人間の何んたるかゞ分る」と言うQuerry
(A Burnt‑Out Case)がそうである.
それでは, Scobieの,人間世界の苦と不幸にたいする鋭い反応はどういう 形であらわれるかについて考えてみたい.彼の反応のしかたは明かに政治的で ない.たとえば,警察官の彼は,貧乏人が家主にしいたげられる事件などをい ちいち取りあげて,彼らのために泥沼の苦闘をつゞけるのだが,彼はまもなく 気づくのである. tl罪が有るも無いも,これは富とおなじように相対的なもの
ど.いじめられた間借人たちも,やがて自分が金持の資本家となると,また貧 乏人たちをいじめているのだ〝これは, The Power and the Gloryのなか で<司祭>が,唯物論的コミュニストの攻撃に答える言葉と発想がおなじであ
る. 「あなた自身が善い人にならなければ改革しても無駄でしょう.あなたの 党員たちはみんな善い人とはかぎりません.だから,昔のように飢餓,暴力,
利己的な物欲主義があらわれるでしょう」ついでに, 「カラマゾフの兄弟」の なかで社会主義者Rakitinが「君は神のことなんか考えるより,市民権の拡 張や肉の値段を下げることを考えたがいい.そのほうが,ずっと人類愛を発揮 できるというもんだ」という言葉にたいしてMityaが同じような答えかたを
しているのほおもしろい.
またFowler (A Quiet American)は,暴力行為によってひき起された 市民たちの流血の悲惨さに居たたまれず,ついにそれを阻止するために,彼の 友人でもある,首謀者のパイルを殺してしまう.これは政治‑の介入の第一歩 であるが, Fowlerは自分のとったこの行為に疑問をもつのである. ≠パイル を頼りにしているあの女は,このために悲嘆につき落されるだろう.広場の数 人の死体より彼女ひとりのほうが価値少ないときめるどんな権利が自分にある か.苦悩は数によっては増大しない.一人の人間は,全世界の感ずる一切の苦 しみをもちうるのだ.できるなら自分はこの行為をとり消したい〝と彼は考え こむ.彼はパイルを殺すことによって万事うまくいったのに,何んともやるせ ない気持になる.グリーンにとってはめずらしく政策批判的なこの小説でも, 彼の目はつねに人間の不幸や悩みを,政治とは別な次元から,見つめることを 忘れない.政治は数を問題とするが,彼にとっては人間ひとりの存在が世界大 の価値をもっている.またFowlerが監視塔のなかで殺されるベトナム兵の 絶叫を聞いたとき,彼の胸に,政治への怒りがつきあげてくるが,彼は同時に またや世界いたるところで,これと同じ絶叫がひゞいている〝ことを思うので ある.政治によっては解決できない心の苦悶というものがいたる処にあること を言っているのである.
さて,話をScobieにもどそう.彼は,幼い子供が, 40日間にわたる悲惨な 飢えと渇きの漂流のあと悶え死んでいくのを見たとき,彼の心をなやますもの
は, ≠神が愛であるなら,なぜこのような残忍な,長い苦しみが,罪のない子供 に与えられるのであろうか〝ということであった.これがScobieの反応のし かたである. G.オーウェルは,人間の不幸をたくさん描いたが,彼の意識は つねに例外なく社会悪に向けられていた.したがって社会の改革が,オーウエル の不幸にたいする反応のしかたであった.ところが,グリーンの人物が身に感ず る不幸は政治のとどかない分野においてである.このScobieの問題にしても, もし戦争という外的原因がなかったら,これら遭難者たちの不幸,子供の悶死も なかったであろうが,彼らがすでに受けてしまったこの苦しみは取りけLがき かない.これは肉体人間が背負わされているth腹立たしい〝運命の不条理であ る. ≠不幸こそ我々人間が,真に属している世界である〝それかと言って, Scobieはカミュ的人間には属しない.カミュはこれら不条理(人間には凡て 死が宣告されているということを頂点とする)の認識に立って,生存に形而上 的意味を否定し,希望なき反抗の連帯を説くが, Scobieは不条理になやみな がらも,人間個々の救いを神のなかにおいて考えようとする.これが,彼の人 間苦にたいする意識的姿勢である. (初期の作品ヾThe Man Within〝のな かでAndrewsは恋人の崇高な死にかたに出会って, ≠短刀も殺すことのでき ないある不滅なもの〝を感ずる)Scobieは, "神よ,なぜあなたは,あの子 を溺死させなかったのですか〝と悩むことがあるとしても, <神>は,つねに 彼にとって,生命放棄さえも決意させる絶対の倫理であることには変りがな い.
Scobieを失ったHelenの悩みはどういう形であらわれたであろうか.彼 女はもうどんな人間も愛せなくなる. Scobieだけはほんとうに愛していた.
しかしtl死んだ人間は愛せないではないか.死んだ人間はもう存在しないから だ〝死は一切の価値の絶滅を意味する.しかし,一人の人間にさゝげられた愛 が,ほんとうに永遠であるためには神がなくてほならぬ. ≠神を信じたい欲求 が彼女のなかで子供のようにのたうった''<愛>はグリ‑ンの中では絶対の 価値として追求される.遊びがない.だから,神なくしては, Fowler (A Quiet American)の肉愛は,捨てられるという恐怖に脅かされ, Maurice (The
End of the Affair)のそれは,みずからの憎悪心に復しゅうされる,という 風に描かれるのである.
最後にふたゝび, Scobieの人間像を別の角度から考えてみたい.彼の絶望 感が,彼の底知れぬ善意に由来することは前述のとおりであるが,それだけで なかったことは,あの<神>と彼の対話のなかで確かに暗示はされている(す なはち彼は≠神を愛した〝が,自分が死なないでヘレンから去った場合,それ から生じる彼女の苦しみについて,彼は"神のはからいに任せることができな かった〝のである)しかしグリーンは,この事よりも, Scobieの人間愛につ よい聖性のしるLを見ようとしたのほ明かである.しかし,このグリーンのね
らいが,力づよく読者の心に伝わってくるかどうか,私には少々疑問である.
Scobieの地獄落ちをも辞さない,他苦へのすさまじい同情に我々は胸をうた れるが,いっぽう我々はその愛の発現のしかたに余りにもネガティヴな要素を 感じないだろうか.神は彼にとって,内部から彼を律する最高の良心のどとくで あったが,この厳しい内部律が,彼の苦への共感と行動に,いっも何かしら暗い 苦渋の影を与えているのである.それは, "自分の責任〝というある種の自我 意識が,大らかで積極的な愛の流露をさまたげているからである. 「カラマゾフ の兄弟」のなかで, Mityaは,地下に働く流刑者たちの苦しみを自分も分ちも ち,やがては彼らの凍えた心に愛の火を点じようと思う.そして幾千の苦悩の なかで,生きることの喜びを,彼らと共に<神>から受けようと決心する.こ のMityaの受苦精神はポジティヴな輝きが底流しているが, Scobieのそれ にはひどくネガティヴな陰湿さが感ぜられて,彼の人間愛に,一種不毛の印象 さえ受けるのは否定Lがたい.このことは,多少ともThe Glory and the Powerの<司祭>についても言えることである.初期の作品The Man Withinのあの朗々とした,死をも乗りこえるオプティミズムが,後の作品に なるにしたがって"かげり〝を帯びてくるのは,グリーンの深まっていくリア
リズムがそうさせるのであろうか,それともである.
The End of the Affairにおいても<愛>とく神>の問題が徹底的に追求
されている. The Heart of the Matterとおなじ三角関係が扱われている が,様相はまったく逆である.神を信じないSarahは愛欲に生の喜びの一切 をかける.一切をかける,その職烈さによって彼女は,かえって愛欲のよろこ びの不安定性にぶっつかり,未だかってないほどの不幸を感ずる.裏切りのな い,死によっても滅びることのない,常にふっとうする愛といういのちの実感 は<神>以外にあるだろうか.情夫モオリスへの愛欲のなかにひそむ彼女の一 片の愛の真実を手がかりとして,或る日彼女に愛の転換がはじまる. ≠まこと の愛は終ることがない〝それは肉体と共にはじまり,肉体と共に終るものでは ないことに気ずく. "もし神を愛することができるなら,私は,夫とモオリスの 二人を同時にほんとうに愛することができるのだ〝彼女はこうしてモオリス から去っていく(それは死という火の試鎌をともなったが)そして彼女は,し っとに狂うモオリスに,ひそかに神の平和が与えられることを祈る.冷たい夜 の雨にうたれながら,こゝろの内部に射しはじめる,新しい愛のひかりの訪ず れをじっと見つめるSarahのすがたほ,感動的である.彼女は,さらにま た,ある男の醜い赤あざに接吻し,イエスの受苦の意味をさとるに至る.そし て≠自分の美しい肉体などとるにたらないものだ〝と思う.こうしたSarah のつきつめた,愛への迫りかたは,やはりグリーン的人間の典型である.
彼ら(グリーン的人間)は<愛>に関するかぎり,中途半端な態度をとらな い.そのために彼らの行きつくところが,たとえ死であっても,その死は彼ら にとって新しい生の出発であって,終りとはならない. Querry (A Burnト Out Case)もその一人であった.人生のあらゆる事がらの虚しさ,うそを知 りぬいた彼が,失なった神をふたゝび感じたのは,哀れな指のない黒人療患者 を夜の沼池から救いだしたときであった.それから後,彼の暗い意識の底で
ふるさと
<神>は彼が最後にたどりつくべき心の故郷となる.彼が或るひとりの女の孤 独なくるしみを見たとき,彼の愛しかたは,聖者の愛しかたに近かかった.
「人は,他の苦しみをあえて苦しむことによってキリスト教の神秘にあずか
ふるさと
る」そのような愛のために彼が殺されたとき,はじめて彼に故郷への道がひら けたのであろうか.彼はふしぎな笑をのこして死んでいく.
The Power and the Gloryのなかでは,いったん死の追跡をまぬがれた く司祭>が,′混血土人の卑劣なわなと知りつゝも,ある殺人者の最後の告白を きいてやるために,死地に逆もどりしていく.彼の首には200ペソの資金がか けられている.やかわいそうな男,この男はほんとうはそんなに悪くないのだ〝
司祭は,この土人が生活に困らなかったら,こんなに堕落することはなかった ろうと思う. "この男は,必要な金のために私を裏切ろうとしているが,自分 は神を裏切ったではないか〝 <司祭>ほ,かって姦通を犯したことのある自 令,いつも飲酒のゆうわくに負ける自分, "悪がマラリヤのように血管をなが れている〝救いがたい自分をかえりみる.そのような彼は,いっぽう,殺人者 の罪にさえ責任を感じ,臨終時の告白をきいてやるために,裏切る土人の案内 で,あえて再び敵のもうける死のわなに落ちていく. "この世にひとりの呪わ れた人間(殺人者)でもいる限り,自分もまた呪われているのだ〝これは, まさにグリーン的人間を特色ずける受苦の精神である.
この作品における<司祭>の,自己内部の悪徳との果しない闘争をとおして 死の自己献身に至る道すじは,彼の処女作The Man Withinからすでに始 っている.ただ後者では主人公Andrewsがいかにも英雄的な昂揚感にみたさ れて死に面するのに反して,前者は,すこしも,魂の勝利感をもたないのであ る.それどころか彼は自分の一生が完全な失敗であること, ヾ誰のためにも何 ひとつなしえなかった〝ことを思う.処刑の前夜, ‑ぴんの酒に恐怖をまざら せながら,彼は牢獄で祈る.そしてその祈りにおいて,またもや挫折する自分 に気づいて,暗然とする.何度祈っても,彼の祈りはあとに残す自分の娘の魂 の救いにしか集中しないのである.やあの土人,死刑執行者,歯医者,世界の あらゆる魂が自分の祈りを必要としているのに‥‥〝彼は抜きがたい自分の エゴイズムに悲観する.決定的な没我の愛をいくつか成しとげながら,なお自 分のこゝろに巣くう悪徳の一片に血をながす,このすさまじいばかりの倫理性 はScobieと司祭において頂点に達している.
こゝにおいて私は,司祭の絶望感について考察しないでほおれない.彼は, 自己にとって能うかぎりのく愛>をなしたにもかゝわらず,なぜ,このような
絶望感にうちひしがれねがならないのだろうか. ≠自分を拒絶する聖人たちの 冷たい顔〝さえもが彼にうかんでくるのである.このことは, Scobieについ
ても言えることである.死をもっての彼らの自己献身が,神から見すてられた という寂莫のきわみで報いられるのであるから,読者はひょっとしたら‑く没我 的な愛>というものゝ無力さを印象ずけられほしないだろうか.ダリ‑ンのね らいは,もちろんそういう処になかった.それどころか彼は,独自の手法をも って,二人の「たましい」にひそむ神性の輝きを浮彫りにした.これは,キル ケゴ‑ルの言うや絶望のなかにあることさえも意識しない絶望〝の病におかさ れた現代人への痛烈な告発であるかもしれない.しかし,それでも私には,痩 らのひどい罪悪意識が,あるいはそれ以外の何かに起因しているのではないか と思われるのである.キリスト的受苦は,恩寵(神の絶対的愛とゆるし)の喜 びにうらづけられなくては自虐行為となる.カトリック教義によれば,大罪を 犯して,悔い改めずに死んだ者のたましいは,もう絶対に救いの機会がなく,
永遠の地獄に落ちるのである.このような神の呪い,罪の恐しさが,まちがっ た固定観念となって<恩寵>の感覚を傷つけてしまうことがないだろうか.受 苦精神(神的愛の流出)は法悦(神的愛の流入)によって,はじめて豊かで強 じんなものとなる.神のみ手は,地獄の底には差しのべられないと二人は信じ ているのだろうか.彼らの愛の喪失感はあまりにもみじめである.
とにかく原因が何であれ,罪意識,あるいは苦意識は,グリーンにあって, 均衡を失して強調されている気がする.作中人物の,この上ない「たましい」
の高貴さは,もっと豊かな患寵の光りを受容するとき,さらにいっそうの輝き を増しただろうにと思われる.
最後にグリーンの主要作品に一貫してみられる彼の生追求の特質中,最も大 きなひとつを述べてみたい.彼のえがく諸人間像が,それを中心として動く主 題は,神の意識なしには考えられない<愛>の問題である.それは,大ていの 場合,人間の根元的な苦,悪,肉的愛の不安定性‑の自覚からきている.彼の 世界では,愛は,物質的生活にかゝわる政治的,社会的行為として表現され ず,あくまで内面の存在として,それ自体が重視されている.直接このことに
関して,無神論者と司祭の対話のなかで言及してある部分をThe Powerand the Gloryからひろってみよう.無神論者「神か貧しい人間たちにパンを与 えたことがあるか?我々は寄生虫的な僧侶や教会をぶっこわし,貧者を富ま
し,彼らに正しい思想を与えるのだ」司祭「そしてその後はどうなる?」 「そ の後は死ぬだけだ.無だ」司祭「私たちか貧しかろうと富んでいようと,私 たちの不幸はいっこう変らない‑だろう一私たちか聖者とならないかぎりは.こ の世のわずかな苦しみは悩むに足らない.たしかに飢餓は富と同様に人間を堕 落させる.だから私たちは人々か飢えないように努力しなければならない.し かし彼らをそれ以上にすることは,金持とおなじように貧者か天国に入ること を困難にさせるだけである」
グリーン的人間は,生の本質を苦とみる.それは外的・政治的手段によって は解決されることのできない人間の内奥に根ざす苦であり不幸である.その根 を取りのぞかないかぎり,人間には永久に苦がつづく.彼の作品中では,この 世的な幸福は生の真相をくらます,かりそめのイルージョンとして問題になら
ない. (このキリスト教の楽園喪失の原理はヒンズイズムや仏教の無明説を思 わせる)唯物論者にとっては,この世のphysicalな幸福こそ唯一のもので あり,人間の行為と思想はすべてそれに直接つながるものでなくては意味がな い.グリーン的人間にとってはそうではない.彼には不可避の死があり,愛 憎,美醜にかゝわる人間の苦悩がある.これら不条理からの脱出のみちは物質 的な方法によっては見出されない.このことはグリーンの観念のなかでは,明
らかに解決ずみのことである.すなはち,
≠There are celestial bodies and there are terrestial bodies; but the
glory of the celestial is one and the glory of the terrestial is
another..‥. It is sown a physical body, it is raised a spiritual
body.〟 (I Corint. 15)
このパウロの言葉はまたグ1)‑ンの心であろう.だからダリ‑ン的人間たち は,現世それ自体に目的をみない.それは始まりであって,終りではない.彼ら
は永遠の相のもとで存在のありかたを追求しているかのように行動する.美し いSarahが,男の顔半面にわたる,ただれた赤あざに接吻することや,司祭が,
自分を売ろうとする土人の肩にやさしく手をかけていたわることは,ただそれ だけで,それは,かけがえのない大きな行為となる.グリーンの世界では,実 利は問題とならず,人間の<内部>の純粋性と愛のふかさに一切の重みがけか られている.司祭は最後の夜, ≠重要なことは,ただ一つだけある.それは聖 者たることだ〝ということを知る.この司祭にかぎらず, Andrews, Scobie, Sarah, Querryたちはそれぞれの程度に応じて聖者たるの一歩をふみだして
いるのである. (Fowlerでさえも根元苦にめざめるという点において,彼ら と別個ではない)
それなら聖者たるのしるLは何んであろうか.それは必ずしも政治的ではな い.政治家は,みせかけの信者とおなじように自己満足のイルージョンを食っ て生きるとさえグリーンは言う.聖者たるのしるLは,人間ひとり,ひとりの もつ<実存>の尊厳さへの自覚であろう.肉体によって先行される実存ではな い.肉体に先行する<実存>である.愛は,グリ‑ンにあっては, <実存ニ>の 本質であるゆえに,肉体的でない.したがって,それは感覚やマインドの領域 を超えて,絶対性の価値を帯びる.愛の物質的効用よりも,愛において,愛す る者と愛される者とが,自己の実存を完成していくことが重要なのである.
tl人間は神のすがたに型どって造られた〝 (God said, Let us make man in our image, after our likeness ‑ Genesis 1,26)は重大なキリスト教の奥 義であるが,これが人間の実存である.そして,このことが正にグリーンの
<愛>の概念の心臓部であると私はみている.そうみる端的な根拠を彼の作品 中から二・三ひろってみよう.
CD Oh God, he thought, I've killed you; you've served me all these years and I've killed you at the end of them. God lay there under the petrol drums. ‑ The Heart of the Matter〝 (人手にか
ゝって死んだ召使アリはScobieの目には神であった) (註.イタリック は便宜的にしたもの.以下おなじ)
(2) If I could love you (‑God), I could love Henry. God was made man. He was Henry with his astigmatism, Richard with
his strawberry mark,not only Maurice. The End of the Affair (IはSarah; Henryは彼女の夫; Richardは赤あざの無神論者;
Mauriceは彼女の情夫)
(3〕 But at the centre of his own faith there always stood the convincing mystery‑‑that we were made in God's image‑
God was the parent, but He was also the policeman, the criminal,
the priest, ‥‥ He (God) would sit in the confessional and
hear the complicated dirty ingenuities which God's image had thought out: and God's image shook now, up and down on the
mules back, with the yellow tee坤sticking out over the lower
lip, and God's image did its despairing act of rebellion with
Maria in the hut among the rats..‥. He (The priest) said, PDo
you feel better now? not so cold, eh? Or so hot?'and pressed his hand with a kind of driven tenderness upon the shoulders of God's image.‑The Power and the Glory (司祭は自分を裏切ると 知っているのに土人を自分のらばに乗せてやり,自分は足に血を流し軍が
ら歩く.こゝでは,マリヤと姦通した自分も,また自分を死の手にわたす, 憎むべき土人も,ひとしく神の<みすがた>である.彼は愛の思いに駆ら れて敵である土人の肩に手をかける)
まず,私は,以上の引用文にみられるグリーンの発想法が,あまりにもヴェ ーダンタ思想や仏教思想のそれと類似しているのに驚く.むしろ完全な一致で さえある.ヒューマニズムの根源の同一性について考えさせられるものが大い にある.参考までにインド経典より引用してみよう. ≠Thou (‑God) art
the man, Thou art the woman, Thou art the very man who walks in the pride of youth, Thou art the old man tottering on
crutches, Thou art in everything, Thou art everything, O Lord,〟
さて,聖書によればthe image of Godは人間内在のキリストである
(2Corint4)我々の肉体は引きあげられて霊体となる.すなはち栄光のう ちにthe image of Godを顕現するのが人間の窮極の目的である・〔1 Corint.3;
この顕現されるべきthe image of God (‑Christ)はあきらかに地上的存 在を超えたものである.上の三つの引用でも分るように,グリーンの<愛>の 核心は,人間ひとり,ひとりに内在するキリストへの認識にもとずく.この内 在キリストにおいて,白と他は真の意味において一つとなり,あらゆる処に キリストが生き動いていくのである.すなはち,この自覚においてはじめて
<愛>が絶対の尊厳性を持つのである.救いの根本は,人間がこの<実存>の 神秘にあずかり,おのおのの<実存>を成就することである.このことは,グ
リーンの作品を理解するうえに重要な鍵となっている.
「ペスト」 (カミュ)の主人公リユーは医者であるが,彼には犠牲者たちと 苦しみを共にした愛のよろこびがあり,恐るべきペストを撲滅した歓喜があっ たが,それにもかゝわらず彼は,人間たちの勝利が,つねに死という窮極の敗 北におびやかされているのを感じていた.永遠の真理すなはち神を拒否するカ ミュ的不条理人にとって,や人間は死刑囚であり,彼らの日々の闘争はすぐに鎮 圧される反抗〝である.このほかない反抗にしか彼らの生きる希望がない.ダ リ‑ンほ,人間の救いをそのような現世にみない.無神論者Colin (A Burnt‑
Out Case)の言うtl希望があらゆる健康な人間の深部にも育っている癌腫〝
でなくなるためには,一切が,この人間の<実存>をつかむか否かにかゝって いる.グリーン的人間の<愛>と絶望をめぐる孤独なこゝろの闘いは,すべて この根源からの幽暗なひゞきのなかで行われるのである.
(昭和41年9月30日受理)