詩的衝動力としての「エロス」の問題(7)
‑W. Whitman と R. M. Rilke の場合
新井章慶
On Eros as a Poetic Impulse (7)
‑The Case of W. Whitman and R. M. Rilke
AKIYOSHI ARAI
≪Ⅶ≫
芸術におけるリアリティ(空想と想像力の問題)
(1)序論として(リルケを中心に)
ここにゴーギャンの4花を抱えるタヒチの女≫がある.熱帯の樹陰にたたずむ二人の静かな女 達の絵である.豊かな胸と腕を露わにむきだした女達の顔は,しかし,いささかの淫さも,厚か ましさもない.色濃い縁りの木々は,まるでダイモンの香煙のように彼女らを後ろから護り,正 面を向いたほうの女の肉体は,樹陰の縁りを溶かしこんで艶けしの豊満な黄金色のかがやきを発 している.ふっくらと張りつめて円やかな乳房ばかりでなく,上半身全体が熟しきった熱帯の濃 密な果物のように甘美だ.両腕がかかえる大皿の盛りあがった真っ赤な花々は,両の乳房とかす かに触れあう.花は愉悦の火を燃やす血の赤色だ.一方,この正面を向く女のほうに小首をかし げて顔だけ斜め向きになるもう一人の女は,相手より‑そう年若いらしい.ことさらに青々しく
ぬ
彩られたその槙顔が,まるで未熟な果物のように固くてなんとも初々しい.ゴーギャンは,友ス トリンドベリーに宛てて書いている「あなたがたの文明化した頭が生んだェヴァはあなたを,い や,私たちのほとんどすべてを女嫌いにしてしまう.しかし私の原始的なエヴァはいつかきっと あなたにやさしく微笑みかけるでしょう.」 「私の描いたエヴァ,彼女だけが私達の前で,矛盾
(1)
なく裸体でいられるのだ.」
さて,私がこんなことを書かずにおれなかったのは, P.ヴァレリーの詩について書かれた大 岡信氏のある所感に,強い印象を受けたからである.それは,ヴァレリーの詩語の「新鮮さ」に
(2)
ついて述べた小さな文であるが,これは詩人のく物)を視るということの重大さについて,新た に私の想念を刺戟せずにはおかなかった.私は,大岡氏がその一部を引き合いに出して語ったヴ ァレリーの詩Ete (夏)を手にし,かつゴーギャンの絵(原画につき合わせて見ても,これは決して見 劣りがしない見事な出来の複製画であった)に視線を向けながら,前世紀末から今世紀初頭にかけて
同じ時代を見たこの二人の芸術家のく美)のありようについて考えをめぐらした.一方は詩人であ り,他方は画家ではあるが,いわば象徴主義的な同一の次元でく美〉の稀有な作品を結実させた 点において私の意識が両者の問を往来したとしても当然であろう.
シャガ‑ルは「芸術の偉大さとは新鮮ということである..と言ったが,ゴーギャンの痛切な 憧れの形象化であるこの文明に秘されない「原始のエヴァ.の色彩感と,ヴァレリーの象徴詩 4:夏≫のイマージュと語調感,これら両者の作品のあいだには,我々をたしかに魅する「新鮮さ」
がある.
宜te, roche d'air pur, et toi, ardente ruche, 0 mer !宜parpillee en mille mouches sur
Les touffes d'une chair fraiche comme une cruche, Et jusque dans la bouche od bourdonne l'azur;
(夏よ,純粋な大気の岩よ,そしてお前,燃える蜜蜂の巣, おお,海よ!壷のように爽やかな肌の毛髪の上, 青空のざわめいている口の中まで,
千の斑点をなして散乱する海よ.)
(大岡信訳)
たとえば,大岡氏は,この最初の一連をあげて,ヴァレリ‑が駆使する言葉の音韻的なアラベス ク,呼応しあう音と音の見事な効果などを示し,まぶしいばかりの自然の原素的な輝きを物から 洗いだす詩人の腕まえを称える.そして氏は,この詩をはじめ総じてヴァレリ‑詩が喚起する魅 惑の秘密として,何よりも詩人の透徹したく見る)という能力を指摘している.まことにそうで あろう.あのランボーが,宇宙から,めくるめく「黄金の火花」のヴィジョンを感受するために, 感覚の錯乱と狂気をかけて磨いたものもこのく見る)という,詩人の持ちうる唯一の武器であっ た. 「見者」たらんとして,あやまって地獄に足をつけてしまったランボーは,しかしサンボリ スムの芸術が目指したく至高のもの) ‑の情熱の実践家であった.行く道は当然ランボーとはそ れぞれ違ったが,ヴァレリーもゴーギャンも,ひたすらに己れのく視力)を研いで,万人がかつ
° ° ° °
て見たことのない何ものかを見ようと刻苦した.つまり,前者は,仕問の暖疎さとまやかしを射 つらぬく覚醒しきった意識,あるいは知性の目をとおして,そして後者は,全身的に深化した感 覚の目をとおして何ものかに至ろうとしたのである.
詩4:夏≫の,作裂する太陽のもと,轟く海辺によこたわる夏の処女は詩人の無垢なエヴァであおとめ
詩的衝動力としての「エロス」の問題(7) 123
たわむれ
る.彼女は「宇宙現象の遊戯よりも」,ただ,ただ,己れみずからという, 「影であり恋である眠 りの島」に身をゆだねる.
Aux jeux universels tu preferes mortelle, Toute d'ombre et d'amour, ton ile de sommeil.
蝣IMS
そしてまた,この「若い獣のように(みずからの)肉体」を愛撫する夏の処女は,ヴ′レリーの
モア・ピュール
純粋自我の化身といっていいだろう.一方,熱帯の樹陰にたたずむ,まるで仏像のように静かで
おんな
慎ましいゴーギャンの女達がある.二人の芸術家が内心に見たく処女)の姿は,原初の冷たい朝 霧を浴びているかのように,新鮮で清らかである.それは,ただにく見る)という芸術家の澄ん
だ精神の機能の「新鮮さ」に由来するものであろう.
Rilkeが初めてヴァレリーの詩に出会ったのは,彼が再び≪ドウイノ悲歌≫の嵐に見舞われよ うとするほんの数ヶ月前のことであった.彼は1921年9月8日,タクシス夫人に宛てて, 「素晴 しい≪海辺の墓地≫」その他,ヴァレリー詩からの生々しい感動を彼女に伝えている.詳しいこ とはさけるが,彼が感動した理由の一つとして,ヴァレ))‑詩の,暗さをひめた不思議な澄明と 音楽的な豊鏡さがRilkeの求める心を底の底からゆさぶったものだと言える.存在の昂揚感に かける詩人リルケと,あらゆる形の感動を軽蔑する知性の詩人ヴァレリ‑と,二人は両極にある 異なったタイプの芸術家であったが,この両者の出会い(二人は現実的にも出会っている)と相互の 畏敬と称讃は大いに興味をそそられることである.以下はRilkeの,ヴァレリー発見前の作品 であるが,く見る〉という詩的認識の一点(これは芸術のリアリティと想像力の問題に関わることである が)に問題をしぼって,考えてみよう.
ARCHAISCHER TORSO APOLLOS
Wir kannten nicht sein unerhortes Haupt, darm die Augenapfel reiften. Aber
sein Torso gliiht noch wie ein Kandelaber, in dem sein Schauen,nur zuriickgeschraubt,
sich halt und glanzt. Sonst kbnnte nicht der Bug der Brust dich blenden, und im leisen Drehen
der Lenden konnte nicht em L云cheln gehen
z¥x jener Mitte,die die Zeugung trug.
Sonst stiinde dieser Stein entstellt und kurz unter der Schultern durchsichtigem Sturz
und flimmerte nicht so wie Raubtierfelle;
und br護che nicht aus alien seinen R猛ndern aus wie ein Stern: denn da ist keine Stelle, die dich nicht sieht. Du muBt dein Leben andern.
トルソ‑
古代アポロの胴体 眼球がみごとに熟れた
無類のその頭部を私たちは知らない.しかし,それでもなお トルソーは大きな燭台のように燃えかがやく,
その,只内へと龍められた両の視線が
からだ
凝って,林に燦めくからだ.さもなくば,その胸の隆起は
お前を放しくすることはできないだろう,またその僅かにひねった 腰のあたりで,微笑みが生殖をいとなむ
その真ん中にむかって注ぎ出ることもできないだろう.
さもなくば,この石は両肩の透明な 飛藤の下でずんぐりと歪んでしまい,
SJB
こんなに獣の毛肌のようにつやつやと光りはしないだろう;
'vll
そしてそのあらゆる周辺から星のように
溢れ出はしないだろう:これには,お前を見ていない
ところいきJ:う
どんな箇所もない.お前はお前の生活を変えずにおれぬ.
この作品は, Ri】keが私淑した彫刻家ロダンから学びとった,物をく見る)ということの詩的 実疏の‑成果であった. Rilkeがここで対象として選んだモデルもすでに古代の彫像という‑追
° °
形物であるがRilkeのこれは,写実をこえて,堅牢・適確なコトバののみをもって彫り出した 一つの新しいRilkeのオブジェとなっている.彼は頭部も両腕も欠けおちたこのトルソーを描 きながら,それは我々の想像力を刺戟して,生ける完望なアポロ神の全容を見る思いにさせる.
つまり「眼球がみごとに熟れた,無類のその頭部.を我々はいまだ一度も見たことがないのに,
ひ
それを見る思いに誘いこむ.まるで,長く埋れた地中の暗部から,今陽のもとに発掘されたかの ように,それは燦然たる神の姿をして我々の目をまぶしくする.言葉は像の不完全さを適確に描 きつくし,しかもその完壁な美の神々しさを我々の心中に現出させるのである.これは,あのゴ ーギャン,ヴァレリーのく新鮮な生命)の象徴性に優に達した作品である. Rilkeの鋭利に冷
° °
えたコトバののみは情緒をまじえずして,ずっしりと重たい一つの「客観的相関物. objective correlativeを据えつける. Rilke自身の言葉でいえば, 「外的等価物」である.それならば, 一体それは何んの等価物であろうか.
それでもなお,トルソーは大きな燭台のように燃えかがやく,
宗EUfi
その,只内‑と龍められた両の視線が凝って,鉢に燦めくからだ
詩的衝動力としての「エロス」の問題(7) 125
この詩句のあとには,繰り返し「さもなくば‑‑・」 「さもなくば・‑‑.という言葉がつづく.
さきに,この作品は「物をく見る)ということの詩的実践一一である」と言ったがRilkeは当 時(新詩集時代),たしかに事物を徹底して視つめていた.物の外皮をはぎとって,物の裸身のす がたを見窮わめることは,彼が彼自身に課した苦行であった.しかし,今このギリシャのトルソ ーという物を視つめることによって,彼が感得したものは,もう一つのく見る〉ことであった.
すなわちく見る)彼は,この彫像が啓示するところの,く見る)という,彫像作家の芸術的営為
° ● ●
のふしぎな力を驚きのうちに視つめているのである.彫像そのものの眼の内向性いかんが問題で はない.彫像の頭部は,今は眼もろとも失なわれて,我々に永久に不明である.問題はこれを造 形した未知の芸術家の凝視の内的集中度である.それが驚きに価するのである.この詩のテーマ は,この一点にかかる.だから,ここに強調されるsonst(さもなくば)という否定的な言葉の反 復は,只一つの肯定事すなわち「只内へと龍められた視線」の意味の重たさを逆に強調している.
詩人は,この彫像に"頭部"という最も大切なものが欠落しているのに,その頭部の魂ともいう べき"熟れた眼球"の魅了する輝きを,この彫像破片のいたるところに見るのである.また「わ ずかにひねった腰のあたりで,微笑みが生殖をいとなむその真ん中にむかって注ぎ出」る.微笑
岩EraE
みは眼の変容である.それはアポロの眼が注ぐ絶妙の小波である.それが「生殖をいとなむその 真ん中にむかって注.がれるのである.ここで,内に向けられた静的な視力と,沸きたつ動的な 創造の力,すなわち生殖との完き一如性をシンポリカルに我々は告げ知らされる.だから,内に 寵められた眼は,このざらつく石の破片に野生の獣の肌の艶めきを与えつつも,ついには溢れ出 て,星の光亡を発するのである.
The hero is he who is immovably centered. (英雄とは不動の中心に生きる者のことである.) このエマスンの言葉は, Rilkeが≪ロダン論≫の巻頭に置いたエピグラフであるが, (因みに,こ の言葉はエマスンとの因縁浅くないWhitmanをRilkeに繋ぐ,外見上の只一筋の貴重な糸であるが,そ の事はともかく), Rilkeはここで,行動を本嶺とする英雄の絶対条件を,不動の中心に生きるこ とにあると見ているのである.外に向って行動する英雄がひそかに帰依してあおぐ絶対の静の原 点,それは自己自身の内部にしかない.したがって視線はおのずから内部に寵められる.目は く存在)の源泉をうがって,全身に力が充溢する.泉に洗われて喪えった内心の眼は,魅惑され た眼となる.そして,それは自らとみずからの営みを魅惑し,自らの全身を美の放射線で装うだ ろう.そのように, Rilkeはこの詩において(見る)ことによって充溢する生の不思議さを語っ ているのである.いや,この石の断片に禰浸する美の神々しさがそれを語る.この詩は,く見る) という高度な創造的行為のみごとな「外的等価物」なのである.
1EH5完
それから,詩の最後に我々が聞くDu mu8t dein Leben andern. (お前はお前の生活を変えずに
ひとこと
おれない)の一言.これは,いきなり,咳きのように吐かれた一言であるが,咳きにしては,弾
ひとこと
んだ一言である.それはすぐに途切れて,沈黙してしまうが, 「一つの芸術作品を体験するとい
ひとこと
うことが,一体どういうことであるか̲:,そのことをこの一言は語ってやまない.後につづく沈
黙の言葉を我々は聞く思いがしないであろうか.欠消したこの古代彫像に充満する無名作家の凝 視の探速さに驚嘆するRilkeは,この一片のく美)との出会によって,自己の生活全体がゆす ぶられるのを感じているのである.
かつて,ピカソは,有史前のシュメール女神像や洞窟の野牛絵はどんな当時の人骨や石器より も人間のく存在)を感じさせると言った.この言葉は,現実をも凌駕する芸術の一層現実的な力 をみごとに語っている.芸術は,現実の諸条件に規制されると見えながら,逆に,王国や都市を 築く人間の姿勢を決定する底力を内在しているのではないか.このことは,けっきょく現実と想 像力の問題に我々のこころを振り向かせる.一度は整理しておかねばならぬ問題であろう.
文学にかぎらず,芸術一般が想像力の産物であることは言をまたない.だが,人が芸術からど んな種類の,どんな質の想像の楽しみを期待しているかは,様々であって簡単に言えないことで
イマジネーシヨンフアンシ‑
ある.だが,芸術の楽しみを根底から支えている想像力というものは,すべて空想と同義語であ ろうか.想像力というものが脳中に像を結ぶ機能のことであれば,空想も想像もたがいに変る ことはないが,芸術の分野でこの二つを区別する考えは,貧しい知識の範囲内だけでも,たとえ ば英国では,古くW.Blake (1757‑1827), S. T. Coleridge (1772‑1834)から新しくはR. G.
Collingwood (1889‑1942), H. Read (1893‑1968)に至るまで,珍しいことではない.厳密なコ トバの定義については,哲学の専問家に任せるとして,さきほどのピカソの言葉ほど直感的に, ある種の芸術がもつく尊厳な意味)を我々に感じさせるものはない.
A・マルローはかつて,彼が嘆賞する東西古今の美術諸作品に息づく或る共通の特質の息吹を
(3)
感じとり,一体それは何んであろうかと考えめぐらしたとき,くRealite interieure) (内的現実) という言葉にゆきあたったと言う.すべて良き芸術は,われわれの想像力を喚起して,何か言い がたいく存在)の重み,高貴の内的現存に触れさせる.マルロ‑の言うくRealite interieure〉
とは,この内的現存のことであろう.それは,時代と場所による大きな様式の差違にもかかわら ず,我々の心を捉える共通の言葉となって響きでる.それはまた,美術であろうと,文学また は音楽であろうと,ジャンルの別をも問題としない.私はこの種のことばを響かせる芸術を,
イマジネーシヨン
想像力の芸術だと呼びたい.これは,しかし空想の芸術(そう呼べるとするなら)とは,異質の ものである.空想の芸術とは,結局,現実には遂げられない私的な欲望を満たすための,巧みに 構築された白昼夢の城のことではないか.それは,情欲,復讐心と憎悪,野心,さらにまた場合
によっては美的な快楽欲が,何んの支障もなく,ふんだんに,かつ神妙な装いをこらして供給さ れる空想の城である. ≪芸術の原理≫の著者コリングウッドは,この様な「空想の状況のなかで
ォ
感情を刺戟し,それを,同じ空想のなかで放散する技術.を本来的な芸術とは呼ばない.彼はそ れを娯楽芸術の範噂に入れて,誤ってそう呼ばれた擬似芸術すなわち「再現技術.にすぎないと いう.コリングヴッドによれば,娯楽芸術は現実的な実践のなかでの楽しみとちがって,ただち に現実の側からの報復や代償の要求を受ける心配がないから,そういう空想状況のなかでの楽し みは,無際限の誘惑となり. 「人間はその魅力の前に,現実にたいする生き生きとした関心を失
詩的衝動力としての「エロス」の問題(7) 127
(5)
う危険がある」と言う.といって,コリングウッドは,別に魔術芸術(固定したイデオロギー宣伝 のための,かつ全体的想像体験に欠けた擬似芸術)を肯定するのではないが,彼は現代文明に栄える空 想の娯楽芸術が,現実の生産的な仕事‑の感情を昂揚させる力を持ちえず,文明に「一種の道徳 的な病をもたらす原因となっている・」と指摘する.
一方, A.マルロ‑の言う芸術のくRealite mteneure)とは,この現実とどんな関わりを持っ ているのだろうか.文芸の積極的な擁護者であるA.マルローは,また闘争的な行動の経歴にも 富む,明らかに典型的な西洋の文学者である.しかし,その彼は,古代中国から彼が得たという くRealite interieure)の概念にたいして現代西欧が無知であることを残念とする.元々,これは, 西洋ではかつてくサクレ〉 (聖なるもの)の言葉のもとに,厳たる価値の実感として共有されたも
のであるが,彼によれば,現代の個人主義はこれを主観的なものとみなしてしまった.しかし, これは妄想の怪物キメーラではない.それは,杖で地下泉を実際に発見するス〜ルシェの能力と 同様に実在するものであると彼はいう.たしかに,その存在確認には,人並すぐれた感覚を必要 とはするが,それは「生にその資格(値打ち)‑あらゆる至高価値がもたらすところのそれ‑
をもたらす.のである.しかし現代の芸術には,少数の例外をのぞいて,このくサクレ)がもは や不在である.だが,超在のくサクレ)は,人間が人間を超えてゆくために交わらねばならぬ必
フエノレマン
須な人間の酵素である.もはや沈黙の声は途絶え,半ば土に埋もれた廃都にも等しい現代の文明.
芸術は,それが芸術たることを主張するためには,外界との安易な調和を排し,この生の世界に 彼岸の火を持ちこむプロメテウスの役割を担わねばならぬと,彼は言う.また彼によれば,近代 ヨーロッパで,まず自らの文明への疑問化を敢行し,火を投じたのがヴァン・ゴッホとゴ‑ギャ ンである.このようにして,マルローは,時代と場所の相違にかかわらず,この種の芸術がひび
イデイオマ・ウニヴエルサル
かすくRealite interieure〉の言葉を「普遍的言語.とみなして,現代文明の裂傷を癒やし,人間 変容の力として,芸術を我々の前にかかげる.そして彼は,シュメール美術,インド仏像,日本 の藤原隆信をはじめ,中世ロマネスクの作品や,セザンヌ,ブラック,ピカソ,シャガール, 等々から,くRealite interieure)という「宇宙の顛音.を聴きとる.それが,彼マルローのみな
らず,あらゆる享受する者達をとおして,引き裂かれたこの世界に新しい秩序と語和の力をそそ
(6)
ぐことを,彼は期待するのである.
同様に, Rilkeが詩く古代アポロのトルソ弓においてDu muBt dein Lebenえndern (お
いきよう
前はお前の生活を変えずにおれぬ)と言ったとき,彼は自己の存在をゆすぶった彼の芸術体験を表白 したのである.想像力という精妙無比な彼の目にくRealite intsrieure)の風光が閃めいたので
一ヽり
ある. 「さもなくば,この石は‑‑‑‑あらゆる周辺から星のように溢れ出はしないだろう;これ
ところいきよう
には,お前を見ていないどんな箇所もない.お前はお前の生活を変えずにおれぬ..破消した石 の彫像は消え失せ,燦然たる太陽の神アポロの眼が詩人を見すえて魅了する.内に集中されたは ずの彫像アポロの眼は,そのまま外に注がれて,それを視つめる者の眼と一体になる.眼は,堰 やくくRealite int色rieure)の眼である.詩人は,自分の眼もそうなることを予感させられる.
そのとき芸術体験は,芸術さえも乗り超えて,自己のみならず世界を覆う体験となるだろう.す なわも,変容した詩人の眼には,世界の現実そのものが,あたかも壊れた石のトルソーであり, しかもその有らゆる所から彼自身を視つめている完登な内的現実Realite int色neureの眼を感
swe
ずるだろう.それは,燦たるアポロの眼なざLをもって,彼に,裂かれた社醇のような地上への 愛と,壊れた地上の修復を訴えつづけるであろう.芸術の体験は,人の内部ばかりか外部をも変 えずにはおかない.それは閉された快楽の所有物ではないからだ.ロダンの仕事はRilkeに「芸
ねがい(?)
術家とは,物がみずから在りたいと欲している物の願望を実現する者である.」と教えた.なら ば,芸術家に私心はゆるされぬ.彼は仕える者であろう.この境地はRilke晩年のtオルフォ イス・ソネット≫の中で一斉に開花する.たとえば,次の詩行がそうである.
Aber noch ist uns das Dasein verzaubert; an hundert Stellen ist es noch Ursprung. Ein Spielen von reinen Kr云ften, die keiner benihrt, der nicht kniet und bewundert.
だが存在は,なお,私たちにとって魔術の魅力だ;百千の場所に なお始原の泉がある。脆いて驚かざるものに
たわむれ
触れえざる純粋な力の遊戯.
‑≪オルフォイス・ソネット≫第2部10より
空想的欲望消散の技術としての擬似芸術を批判したコリングウッドは,また,真の芸術は「全体 的想像体験」に裏打ちされたものであるという.彼が,現代におけるその様な芸術の一典型とし て, T.S.エリオットの4:荒地≫を挙げているのは示唆的である.コリングウッドによれば,エ
リオットは宅荒地≫において, 「感情という命を潤す水の流れ,人間の活動全体を養うその流れ
(8)
が干上ってしまっている世界」を描いた.芸術家は,たとえ読者の不興を買おうとも,彼らの胸 の秘密‑彼らの密かな欲望,感情の渦渇,ひとつまみの塵にもすぎない恐怖‑を暴いてみせ ねばならぬ.みづからは決して知ろうとしない胸の秘密を知らしめることによって,彼は共同体 を無知の禍から救わね、ばならぬ. 「芸術とは共同体の医薬,それももっとも重い心の構い,かの
m
意識の腐敗堕落のための医薬なのである..とコリングウッドは言う. i荒地≫は,たしかに,翠 代社会が落ちこんだ無感動という恐るべき脱水症のアイロニカルな治療薬であろう.我々の肥大 する欲望は,いよいよ干からび萎縮する感情(情縮)の兆候を表わしている. ‖Burning burning burning burning"とエリオットが, ≪荒地≫火の説法(The Fire Sermon)のなかで仏陀の ことばを借りて叫ぶとき,彼は燃えさかる火宅から我々を連れ出そうとする,現実‑の「生き生 きした関心」を示しているのである.
Rilkeの場合もまたそうである.彼のイマジネーションは個物の美に感嘆しつつ,かつ彫像作
詩的衝動カとしての「エロス」の問題(7) 129
° °
家のイマジネーションに開眼されて,その個物を大いなる全体(das Ganze)に所属するく何も のか)のシーニュ(合図の印)として視とっているからである. dasGanzeに向けられた眼は, したがって人間の共同体に盲目ではおれぬ. ≪新詩集≫第2部の最後に作品Buddha in der Glone (栄光の仏陀)が置かれたのは,このことと無関係ではあるまい.このRilkeの仏陀は,まるであ のギリシャ美の顔容をたたえたガンダーラ仏像さながらに,あのトルソーの「無類の頭部」に Rilkeが見ずして見たアポロの全的眼差しを備えて壮麗・無辺な宇宙像として現われるのである.
BUDDHA IN DER GLORIE
Mitte aller Mitten, Kern der Kerne,
Mandel, die sich einschlieBt und versiiBt, ‑ dieses A】les bis an alle Sterne
ist dein Fruchtfleisch : Sei gegriiBt.
Sieh, du fiihlst, wie nichts mehr an dir h護ngt;
im Unendlichen ist deine Schale,
und dort steht der starke Saft und drangt.
Una von auSen hilft ihm ein Gestrahle,
denn ganz oben werden deine Sonnen voll und gliihend umgedreht
Doch in dir ist schon begonnen, was die Sonnen iibersteht.
あらゆる中心の中心,核たちの核, 身を閉じて甘美になりゆく巴旦杏‑
これら一切はあらゆる星辰にいたるまで あなたの果肉.あなたに挨拶を送る.
見よ,もはやあなたを妨ぐいかなるものもない;
無限のなかにあなたの果皮はあり, かなたに強壮な汁液はみずみずと巡る.
mm
そしてまた,光輝が外部より力をふりそそそぐ, なぜならはるか高くあなたの太陽らは 満ちみちて燦然と回転するからだ.
しかも,はやあなたの内部には始まっている, かの太陽らを凌駕するものが. ‑
1908
≪新詩集≫第2部より
「あらゆる中心の中心,核たちの核,身を閉じて甘美になりゆく巴旦杏.ここでは,あの
i古代アポロのトルソ‑≫に暗喰されていた精神の求心性が,外界にむかって遠心的に溢れでる.
そして星辰のかなたまで,宇宙を自らの,いわば熟した巴旦杏の果肉としてしまうのである.宇 宙と自己の晴朗な一体性.万有の核の核であるく仏陀)の胸奥の中心点には,万有を不離の自己
° ° ° ° ° °
自身とするみずみずしい愛の感情が湧き起る.そしてこの胸内の一点は,燦欄たる諸天体のみな もとでもある.内界と外界の円融.く存在)の源流に没した自己がよみがえって生命の核となり,
よ
外世界があたかも実る黄金の果実の球体となる.これは束の間,詩人のイマジネーションを過ぎ った変容せる世界のヴィジョンである.この詩的形象をとおしてRilkeは自己が現実世界に関 わってゆく最も精妙で力強い歩みをさぐっているのである.
前に,私はヴァレリー詩についての大岡氏の所感にふれた.氏は,ヴァレリーが「自然の諸相 (人間の肉体をも含め).を「驚くべき裸形の輝き.または「官能性.において捉えうるのは,一
にこの詩人のく見る)能力,その「透徹した視力.に由来すると言う.その通りであろう.
しかし,私は,たとえば氏の取りあげた詩Et6においても感ずるのだが,ヴァレリ‑の視力 が露わにする新鮮で, 「元素的な.物の姿は,むしろ彼詩人のコトバの流動性に逆らって固く自
己完結し,流動することがないのである.つまりヴァレリ‑の視力によって発動されるイマジネ
‑ションは,くもの)とくもの)とが呼び交う万物照応(ボ‑ドレール)の秘めやかな風光を知覚 していないように私には思われる.これは詩Eteの一部である.
Toi, sur le sable tendre oh s'abandonne l'onde, Oil sa puissance en pleurs perd tous ses diamants, Toi qu'assouplit rennui des merveilles du rnonde, Vierge sourde aux clameurs d'eternels elements,
Tu te fermes sur toi, serrant ta jeune gorge, Ame toute A 1'amour de sa petite nuit,
Car ces tumultes purs, cet astre fou qui forge L'or brut aとVとnements betes comme le bruit,
Te font baiser les seins de ton etre ephemとre, Chとrir ce peu de chair comme un jeune animal Et victime et dedain de la splendeur amとre Choyer le doux orgueil de s'aimer comme un mal
Fille exposee aux dieux que l'Ocean constelle D'ecume qu'il arrache aux miroirs du soleil, Aux jeux universe】s tu prefとres mortelle, Toute d'ombre et d'amour, ton ile de sommeil.
汝,波がその身をゆだねる柔かな砂の上,
^Hi
その力が涙となってあらゆる金剛石を失ふ砂の上で,
詩的衝動カとしての「エロス」の問題(7)
この世の不可思議である倦怠がうとうとと睦らせる汝よ, 永遠の原素の騒がしい叫びにも聾者である処女よ, 若々しい胸を汝は締め合せて,己の上に閉ぢ龍っている,
たましい
その小さな夜に対して全く愛を捧げている霊魂よ, 何故なら,これら純粋の騒々しさ,この狂気の天体が
s
騒音のやうに愚かな出来事の生の金を鍛‑て作っているが, これらは,汝の束の間の存在の胸を汝に接吻させ, この僅かな肉体を若々しい動物のやうに愛させ,
さげすみ
そして苦々しい光輝の犠牲と軽蔑といふ
悪の如くに柏愛する穏やかな倣慢を汝に愛著させる.
太陽の鏡から引摺り出す泡沫で
オケアノスちりば
大海神が星座に鉾める神々に顕示された少女よ, 汝は宇宙の遊戯よりも,全てこれ影でありまた
恋である汝の陸眠の島を死ぬほど好んでいる. (鈴木信太郎訳)
iJ臣il
詩人(ヴァレリー)は,作製する太陽のもと,披さわぐ海辺に,何かしいんと静まった純潔な夏
おとめ
の‑空間を感じている.それは蕎夜色の初々しい肉体をもつ一人の処女の姿をとって眠っている.
おとめ
処女は夏の精である.しかしながら,彼女は,周囲の自然もろもろの原素とは分離された異和的
おとめ
な印象を与える.この上なく優しく美しい存在であるこの処女と,絶えず死の威嚇を投げつける
おとめ
「狂気の天体.と.ここには,むしろ相容れない両者間の敵意さえ暗示されている.処女は,今 はあらゆる,外なる膏やかしの騒音に耳を閉ざして,ひっLと我れとわが身をかためて,おのが
アム‑ル
胸内の小さな夜‑の恋愛に溺没する. Toi qu'assouplit l'ennui des merveilles du monde (こ の世の不可思議である倦怠がうとうとと睡らせる汝よ).またAux jeux universels tu prefとres morte】le, / Toute d'ombre et d'amour, ton ile de sommeil. (汝は宇宙の遊戯よりも,全てこれ 影でありまた恋である汝の睡眠の島を死ぬほど好んでいる).ヴァレリ‑的明断が直視する「生の絶対
8ゆ
的な倦怠」感がここにも現われているし,また人間を生んだ原素の母胎,驚きにみちた仕界項象 にたいするヴァレリー的イロニ‑がこの詩のあちこちに響いている.たしかに,女の髪に,また,
やかたいけにえ
ざわめく青空の口に飛沫をあげる海,燃えあがる天の館,犠牲の奉献者たる太陽など,もろもろ の自然現象は,ヴァレリ‑の言葉を得て,まことに生々潜刺たる「裸形の輝き」を発している.
だが,それら自然のもろもろは,人間のいのちを詰め侵す原索の毒をふくんでいるかのように見 える.たとえば,詩の第3連にはこんな言葉がある. Bercez l'enfant ravie en un poreux
そしようおとめ
sommeil ! (粗素の眠りにうっとりする処女をゆすって眠らせよ)粗髭とは小穴の多いということであ る.ここでは途切れがちな眠りを意味してはいるが,この「粗髭」とは,実は自然の毒素に浸透 されやすい状態を陰輸しているのである(それは, i海辺の墓地≫の「一切は遁走する.わが現 実の存在は粗髭」に符合する).
おとめいと
そして,この爽快・静穏な夏の化身,うっとりと眠りに沈む処女は,私に,ヴァレリ‑が愛し
んでやまない彼自身の純粋自我の形相を思わせる.騒擾の現実から遠ざかり自己のみが,自己の 手で点しうる束の間の純潔な自我の光輝,それは,ちょうど夜と昼に挟まれた,あの稀有な金色 のひと時のようである.しかしながら,自我をとりまく諸々の他者たちと自然から成り立つこの く生)は,ついにヴァレ1)‑にとって修復不能の,永久に頭部なきくトルソ‑)であるだろう.
このく生)は,かぎりなく美しく,かつ限りなく醜い.両者は対立したまま,ついに止揚される 見込もないのである.
一方Rilkeの粗髭のくトルソ‑)は,強められた内部視力に修復され,やがてあの玲確たる 宇宙大のく仏陀)となってゆく.
ヴァレリーが死の直前に書いた散文詩≪天使≫がある.夫使は,泉に映った自分の顔が意外に も悲哀の涙にうちぬれているのを見て驚く.万物を認識する観念のすべてが,彼の透徹した頭の 中で,こんなにも整然と王冠の宝石のように煙めいているのに,どうして苦痛の涙を流さねばな らぬのか,と天使は自問する.しかし,何ものも見抜かずにはおかないヴァレリーのこの天使は, ふしぎなことに,この問いには答えず,泉に映ったおのれの悲哀の顔から目をそらして,完望な 認識の調和にみちたおのれの頭脳のみごとさを,只凝視するばかりである.思うに,この天使の 涙とは,人間の斯楠と,いい加減さを髄まで見ぬいて極限に至った知性の,そのあまりの透明さ ゆえに鋭く痛む悲哀の涙だったのであろうか.それともこの冴えわたる知性の鏡に見入る純粋自 我(Moi pur)の完壁なナルシシズムを守る人の,我れにもあらず感じた冷たい孤独のなみだだ ったのであろうか.ナルシシストには愛する他者がいない.近づいてくる無垢な,かぎりなく優 しいエヴァの足音が聞えてこない.人間を信じたかったこの詩人の,しかし信じることのできぬ 孤独な無意識の自己分裂が,思わず天使の眼と顔になみだを溢れださせたのではなかろうか.こ
の人の守りとおした緻密な知性の網目からは,ついにく仏陀)の魚だけはすりぬけてしまったよ うだ.このうえもなく小さくなり,このうえもなく大きくなるく仏陀)の魚.他者のために,悲 哀を食って,歓喜の血を他者に与える慈悲のく仏陀)の頭部には,当然ヴァレリーのく天使)と
は違ったイマジネーションの眼がついていたのである.
Rilkeを讃嘆させた≪海辺の墓地≫には, 「風吹き起る‑‑‑生きねばならぬ」という詩句を中 心にして,素晴しい一連が最後にくる.歌う人は,自我と生(あるいは世界)を二つに割る暗黒の 亀裂から危く身をおしとどめて, 「生きねばならぬ.と決意する.彼が今向って立つ"紺碧の海
は豹の毛皮の斑点をちりばめて擾乱する水の蚊龍" (一部要約)である.
それからまた, Rilkeの詩心をかき立てた≪若きバルク≫には,華麗なイマージュと踊るリト ムの波が交録する絶妙の場面があちこちに散在する.いちめん,あのポッティチェリの≪春≫の 官能が匂いたつのである.ために,ヴァレリーの苦い懐疑と虚無の味は,遠ざかり薄まったか のように見える. Rilkeの鋭敏がそれに気づかぬはずはなかったが,彼の謙虚と美への情熱は, インド神話の白鳥のように巧みに水とミルクを選り分けて飲んだのである.ヴァレリーの静澄・
新鮮な象徴の花は,ドゥイノの絶頂を前にしたRilkeには無くてほならぬ美の糧であったのだろ
詩的衝動力としての「エロス」の問題(7) 133
つ.
(2)現実と想像力(RilkeとWhitmanの詩を中心に)
Rilkeは, 1907年10月(それはまだ,年来の苦渋な仕事宅マルテの手記≫が完了していない時期のことで あるが),パリでセザンヌの遺作展を見ている.彼は会期の1週間余ほとんど連日,サロン・ドオ トーヌに通いつめてセザンヌの前に立った.日々彼の受けた強烈な感銘は,その都度,ほとんど 連日妻クララ(彫刻家)にあてて書きしるされた. 「この赤の,この青の良心.その素朴な真実さ
(II)
が」彼のこころに渉透していった. Rilkeは奇蹟を眼前にした人のように,セザンヌがつくる美
(12)
の「巨大な現実.に圧倒されて立ちつくす. "芸術家がく物)を実現するとは,どういうことで
マ̀スプラン
あるか",そのことをロダンの人間,その量塊と面の仕事からつぶさに学んだRilkeであったが,
サンサ‑シオン
今ここに新しく彼は,色彩によるもう一つのく実現)を発見したのである. 「感覚の実現」は, セザンヌが生涯賭けた絵画の理想であったが, Rilkeにとっては,このセザンヌにしても,また
ロダンにしても,要するに,く物〉そのものを,つまり人間の盗意と偶然に曇らされないく物) そのものを表現しえた二人の先達だったのである.押しても突いてもびくともしない,モデルと
㈹
いう仮象の物よりも千倍も親密で確固たる空間を穫得して持続するく物).外見ではなく,時間
m
と偶然から解き放たれたく物)そのものの自立する美,完全性と真実.この事を,かつてロダン から啓発されたRilkeであるが,今,彼はクララに宛ててこう書くのである. 「セザンヌは作品 を,その微細な部分まで,限りなく鋭敏な良心の天秤で計り,無垢なく存在者)を色彩の内実に 集計しました.それ(存在者)は,色彩のかなたで,古い記憶を反復するのではなく,新しい実
m
存を始めます.一一この無際限の,余計なもの一切を排除する即物性‑・・・.セザンヌの「即物 性.とは, Rilkeにとって,仮象の物(モデル)の複製のことでは勿論なく,それよりも遥かに 実在的で,はるかに牢固とした,あのロダンのく物)の真実性を意味していた.最も真実なもの
° ° °
(Wirklichkeit)は,最も現実的なものであった.
m
Rilkeは,セザンヌの絵を前にして「何んと自分が変ってしまうことか!.と思う.その頃, くマルテ)の現実体験は,まだ終っていなかった.乏しい原稿料を当てにして,極度に切りつめ た生活のなかにあって, Ri】keはくマルテ)の試嫌を自分に課していた.パリの現実;ここで多 くの病める,貧しい人々が耐えている苛酷な現実.そしてまた,悲惨な運命に野たれ死にした過 去の人間たちの現実.これらの現実は, Rilkeにとっては,回避をゆるさないく物)であったと 言っていい.く物)をみごとに実現したと思うセザンヌの前で, Rilkeが呑気であれるはずがな
u7)
い.彼はその前に,足をとめ凝視し,夢中になった.会の最終日まで彼は,サロン・ドオトーヌ
da)
に,まるで「自分の住家.のようにして通いつめた.
こんなにまで彼がセザンヌの絵に震擁されたということの底には. (彼自身そうは言っていな いが),くマルテ)の試棟をいかにして切り抜けようかという必死の思いがあったに違いない.
く現実〉という恐るべき物こそ,彼が描かねばならぬ(解決せねばならぬ)素材であった.彼は,
セザンヌの芸術に,この人生という野蛮な現実を圧倒するもう一つの「巨大な現実.を見たので
レアリザシオン
ある.貧しく,徹底的に孤独で,世間の噸笑にたえながら, 「実現」を敢行したセザンヌに彼は
か
芸術の証しを見た.セザンヌの描いた赤い林檎は只の林檎ではなかった.それは, 「彼の切ない
(籾
愛が永遠にこめられている.美と真実の存在証明であった.それは見るものを変えてしまう力の 現存であった. Rilkeがその時くマルテ)の試棟を切りぬける力をそれから汲もうとしていたこ とは,糠易に想像できることである.
同じ頃, Rilkeはクララにこんな事を書いている. 「セザンヌが晩年になってもボードレール の詩Une Charogne (屍体)を一字一句まちがいなく暗唱したことに僕はどんなに感激したこと
(細
だろう」と.その詩は,夏の朝,恋人と共にそぞろ歩くボードレールが出会った,ある腐欄屍体 のことである.その一部をあげれば,
くう
みだらな女のように足を空に上げ, I 焼けただれ毒気を放って, しどけなく厚かましい姿で,
悪臭にみちた腹を開いていた.
大空はこの壮麗な屍体を 花が咲くかと眺めていた.
悪臭が激しくおまえは草の上に 気を失って倒れんばかり.
腐った腹の上には青蝿が喰り, 姐虫は黒い列を作って現われ 濃い膿のようにどろどろと
生きたぼろに伝って流れた.
どれもが波のように沈んでは高まり, ばりばりと突き進んできた, 肉体はかすかな風を膨らんで
繁殖しながら生きているのかと思われた. (佐藤朔訳)
Rilkeが,サロン・ドオトーヌで魂を奪われたセザンヌの諸作品には,彼の初期すなわち印象派 時代以前のものはなかったようである.その時期のものは,確かにボードレ‑ルの影響を思わせ
ロマンテイク
る極めて文学的で浪漫的なものが多く, "人殺しの現場"とか"頭蓋骨を積み重ねたもの"など
か
が暗灰色の陰気な色調で描かれている.しかし, Rilkeがその即物性に感嘆したサロン・ドオト
詩的衝動カとしての「エロス」の問題(7) 135
‑ヌでのセザンヌは,上のボ‑ドレールの詩とは似ても似つかぬ円熟期の作品ばかりだったと考 えていい.確かに,例えば「セザンヌの林檎はすべて料理用の安ものだし,ぶどう酒場は古ぼけ
糾
た上衣のポケットから出てきた」ようなもので,静物であれ人物であれ,題材はどれもこれも, 素朴きわまりなく日常的なものであった.しかし彼の厳しく築かれたフォルムの堅固さや,沈潜
° ° ° °
した藍や緑や赤の清澄な色彩感,セザンヌの日常的な物たちは,いかにも価高い陶器の感触,真 珠の色と艶めきを内に秘めた床しさ限りないクールな絵肌をかもしている.きっとRilkeには
レアリザシオン
そう見えたに違いなかろう.透徹して深く輝やくセザンヌの即物的実現,それは全身的に見据え る画家の眼に顕われでたく物)本来の織れない姿である(セザンヌのことを「全体的想像体験」の例 として説明したのはコリングウッドである).そんな新鮮な物の存在感を表出したセザンヌが,あのお ぞましい腐欄屍体の詩を終生心に刻みつけていたことに, Rilkeはひどく感動したのである.そ して,そのことをわざわざ親しい人に書かずにおれなかった.そういうRilkeの気持の方が我 々にはいっそう感動的ではないか. i屍体≫の詩のことは, ≪マルテの手記≫のなかに述べられて いることであるが, Rilkeはこの手紙のなかでもう一度書くのである.
「あなたは4:マルテの手記≫で,ボ‑ドレ‑ルと彼の詩≪屍体≫のことを扱った箇所を覚えて いるでしょう.あのとき僕は思わずにおれなかったのです.つまりこの詩がなかったら,我々が 今セザンヌの中に認める即物的な表現‑の全発展はあり得なかっただろうということです.まず あの詩が,その仮借なき状態をもってそこになければならなかったのです.まず芸術家の視力と いうものは鍛えぬかれて,戦標すべきもの,一見ただ嫌悪すべきものの中にさえも,一切の他の 存在をも貰ぬいて価値あるく存在)を見得なくてはならないのです.いかなる選択も,またいか
なる実存からの回避もゆるされません.いかなる時も,たった一回拒否しただけで,芸術家は恩
つみぴと
寵から締めだされて,あわれな罪人となるのです. ‑・‑・」
Rilkeは,セザンヌがあれほどの力強いレアリザシオンを成し遂げえたのは,その出発点にお いて,凡そそれとは似もつかぬ4:屍体≫の人間的情況のきびしい認識が彼の心を打ち鍛えていた からだと考える. Kunst・Ding (芸術の物)とは只感覚を楽しませるだけの享楽物ではないという こと,これが,かつてRilkeがロダンから学んだ教訓であったが,ひ弱な椅麗ごとを突きぬけ たセザンヌの美の生命力こそは,彼のまっ正直で強靭な現実認識の根底から生れでたものである.
Rilkeがセザンヌのエピソードに感銘したのは,このことに気づいたからである.その時,彼は セザンヌから重大な芸術の秘密を打ち明けられた思いがしたに違いない.しかしセザンヌやボー
ドレ‑ルのことはともあれRilkeのこの理解・洞察の仕方がいっそう我々の感動をさそう.
ボ‑ドレールの詩にふれた㌘マルテの手記≫のこの箇所でRilkeはマルテに「現実がどんな に悪くても,僕はよろこんで現実のためには一切の期待感を捨てる.のだと言わせている.まず 現実のありのままを,その嫌悪すべき,恐るべき実態を,ごまかさずに見据えること.絶望する ことを恐れ,人間の絶望的状況から目をそらせて,はかない期待と,偶然にもひとしい幸福感で, 自分だけはく絶望)から免疫されているのだと錯覚しないこと.それがマルテの決意であった.
あのボ‑ドレールの詩はこう続く.
‑しかし,おまえもいっの日か
この汚物,この恐ろしい腐敗に似るだろう, ぼくの眼の屋,ぼくの心の太陽よ,
ぼくの天使,ぼくの情熱,おまえさえ!
i晃体≫は, Rilkeが心血をそそいだiマルテの手記≫を一貫する黒いモティーフの糸であった と言える.たとえば,街角で木株のように萎えた自らの腕を見世物にして物乞いする女.受験期 か近づくときまって片まぶたが切れたブラインドのように垂れさがってしまう医学部志望の落第 壁;彼は絶望の余り,夜中にブリキ権のふたをガラガラと転しつずける.また音楽会場で,巨匠 (ベートーヴェン)の芸術をただ快楽のように消費するだけで受胎する力も失ってしまった無気力 な聴衆.そしてまた,愛する娘の死に衝撃され,以後人生の意味の想いに愚かれる母親,等々.
これら様々な人間の深刻な情況は,すべてこの詩≪屍体≫のヴァリエーションである.それらの 現実を凝視するRilkeは,実にくマルテ)という磨かれた認識の鏡に日ごと自分を映しつつ, いつか変貌した力づよい己れの姿を見ようと切望していたのである.
一方Whitmanにとってのくマルテ)の時代はいつあったのであろうか. 1955年,彼が一巻 の詩集Leaves ofGrassをたずさえて,本格的な詩人の道を進みはじめた時,彼は,もう既に マルテの試煤を抜けて,いわば絶対肯定の詩神オルフォイスの使徒になっていたかのようであっ た.実は,彼はLeaves ofGrass以前から,すなわち21才(1840)の時から詩や物語などを書い てはいたが,到底Rilkeの文学的独創性に匹敵するものは,何一つ書いてはいない.だから Whitmanの初期作品とあの天衣無縫の傑作Leaves of Grassの問には,明らかに大きな断絶が ある.それは,今にしてみれば,謎めいた現象でさえあるが,だからといって,人間ホイットマ
ンに一夜の大転換があったなどとは考えられないだろう.詩人ホイットマンは成るべくして成っ たのである.その成長を助けた要因の一つが彼の現実経験であったことは間違いなかろう.
Leaves of Grass以前のWhitmanの現実経験は,健問的な観点からすれば, Rilkeの比で はない.それは,はるかに豊富であり,動的なものであった.大工仕事かたわら農業をしていた 人の子として貧家に生れ, 11才で学校をやめ,転々と職場を変えながら世渡りをしなければなら
からだ
なかったWhitmanであるから,当然体ごとで世間をたくさん見させられた.成人してからジ ャ‑ナリストとしての経験も豊かであった.したがって,彼の実社会一般と政治の動向に対する 関心は, Ri】keをはるかに凌いでいた.しかも,万人の自由と合衆国未来の物心相伴なう壮大な 発展への彼の熱意は,彼を駆り立てて,一人の非妥算的で真撃な社会改革論者にした.たとえば, 政治運動への積極的参加.期待をかけた自由土地党‑の深い失望と彼自身の孤立無援な状況.日
詩的衝動カとしての「エロス」の問題(7) 137
和見主義に落ちた党への彼の激しい非難の言葉,そして,主筆をしていた地方党機関誌からの離 脱,等々.
かん
しかし,この間に書かれた彼の評論や初期の作品には,あの鋭どく認識し表現する芸術家は見 当らないのだから,彼の詩人開眼以後の作品のなかから認識するくマルテ〉をさがしてみよう.
彼の本格的作品Leaves of Grassが一見豪放無頼の印象を与えようと,現実に直面した人間ホ
ひる
イットマンの慎みや苦悩は掩うべくもないのである.彼の作品のあちこちに開かれる黒い亀裂が, いっそうWhitmanの光明を真率なものにしてくれる.
I SIT AND LOOK OUT
I sit and look out upon all the sorrows of the world, and upon all oppression and shame,
I hear secret convulsive sobs from young men at anguish with themselves, remorseful after deeds done,
I see in low life the mother misused by her children, 、dying, neglected, gaunt, desperate,
I see the wife misused by her husband, I see the treacherous seducer of young women,
I mark the ranklings of jealousy and unrequited love attempted to be hid, I see these sights on the earth,
I see the workings of battle, pestilence, tyranny, I see martyrs and prisoners, I observe a famine at sea, I observe the sailors casting lots who shall be
kill'd to preserve the lives of the rest,
I observe the slights and degradations cast by arrogant persons upon laborers, the poor, and upon negroes, and the like ;
All these all the meanness and agony without end I sitting look out upon, See, hear, and am silent.
‑1860‑71
パラレリズム
例のWhitmanの平行書法がここに見える.我々をうならせるような手法はどこにもない.
実に平易な表現である. Rilkeもi時濁詩集≫で,いきづまった人間の情況を描いたが,彼は精 巧なエッチングの描線で,それを彫り深く形象化した. Whitmanにとっては,その様な審美的 巧緻ははじめから無縁である.だが,我々人間というものは,どんな洗練を好む人も,時として 欲するのでは・なかろうか,少しの美意識も強いられる感じなしに,人間の共有する心の想いを素 直に吐露してくれるものを読みたいと思うのではなかろうか. Whitmanの詩はそんな詩である.
親密感にあふれている.
彼はここで人間の悲哀の種々相を,最も端的に羅列するのみであるが,想いが観念的に薄まら ずに,一つの凝集した切ない感情で我々のこころを押し留める. 「これらすべてを‑すべての
くるしみ
卑しさと苦悩を,いつまでも私は坐って,眺め,局,聞く,そして沈黙する.Jこの最後の二行
が,強くかつ深々と全体を引き締めて,余情あらしめる.この時,彼にどんな具体的な悲哀の動 機があったかは知らない.しかし彼の想像力は,自己自身の苦しみに留まらずに,人間全体の問 題として拡がってゆくのである.そして,ここでは,それらの問題にたいして安易な答えを出す 気にもなれず,彼はただ黙然と,人間すべてを覆い包む闇の深さを見つめつづける.言葉を持た
おもい
ない詩人のこの沈黙には痛切さが寵る.その深い感情の懐に,どんな想念が隠されているのであ ろうか.ただの絶望感だけではあるまい. ‑‑・しかし今は,我々は,彼のオプティミズムに, 決して現実認識が脱落しているのではないことを知ればよい.ちなみに,彼は1948年頃,つまり Leaves ofGrass以前に,次のような未完の詩を手記に書きつけているのである.その一部をあ
げれば,
I am not glad to‑night.I Gloom has gathered round me like a mantle, tightly folded.
0, Nature ! impartial, and perfect in imperfection
Every precious gift to man is linked with a curse and each pollution has some sparkle from heaven.
The mind, raised upward, then holds communion with angels and its reach overtops heaven; yet then it stays in the meshes of the world too and is stung by a hundred serpents every day ‑.
Thus it comes that I am not glad to‑night.
I feel cramped here in these coarse walls of flesh.
The soul disdains [incomplete]
0 Mystery of Death, I pant for the time when I shall solve you !
Whitmanは,少年の時から,どこか風変わり,気債で家族のものにも理解できないところがあ ったが,もともと温和で,愛情の深い人となりであった.弟ジョージによれば, 「金銭の観念が なく.,自然の事物をこよなく愛した夢想家肌の人間であった.したがって長じて生々しい現実 をたっぷり昧わされた彼には,とうぜん色々な悩みが襲ったことであろう.名利のためには内実 の価値を容易にふりすてる世間の軽薄と物質欲を彼は充分見させられた.上の詩は,彼がその頃 すでに悪の存在や,また肉体を持つ人間の生の不条理を強く意識していたことを明らかに示して いる.
Whitmanは自分の身内のことは余り語らなかったが,彼には決定的に不幸なきょうだいや親 族が居たのである.狂人となった兄のジェス(悲嘆にくれる母親を慰めつつ,発狂した兄を精神病院に 連れてゆき,入院の手はずをととのえたのはWhitmanである).病気の悩み(多分梅毒)から飲酒に耽 り,いかがわしい女と一緒になった弟のアンドルー(後,彼が死ぬと,妻は子供達を街頭にやり物乞 をさせ,彼女自身は売春婦となった. Whitmanは嫌われ者のこの女に色々と親切をしている).また不幸 な結婚のため強度の神経症にかかって,何くれとWhitmanの心配をかけた妹の‑ンナ.その
詩的衝動力としての「エロス」の問題(7) 139
上,末弟のエドワードは不具で,また白痴であった(成人すると,きょうだい達から嫌悪され厄介者 扱いされたこの弟に, Whitmanは,よろこんで経済的援助をしつづけた).考えられるかぎりの悲惨な 人達をWhitmanは身近かに持ったのである.幸い彼自身は頑健な身体と堂々たる容姿にめぐま れていたが,本来思念的で情愛深い彼にとって,間近かに見るこうした人間の悲劇は,さぞ骨身
° ° ° °
にこたえたことだろう.
この詩はこのことと直接関係はないとしても,全く無いとは決して言いきれないであろう.
「今晩,自分はわけもなく憂彰だ」. 「たとえ人の心は,ときに引きあげられ天使と交わり,歓び の光りを飲むことがあろうとも,人間はやっぱりこの世の牢獄に捕われて,日ごと百の蛇に噴ま れるのだ.」そしてWhitmanは,いつか死によって,この不可解な世界の謎の解ける日が来る ことを渇望する.溢れるばかりに肉体を礼讃したこの詩人には,肉体の根源的な悲しみと哀れさ が心中深く打ち込まれていたのである.
*
でくわ
Whitmanがその生涯に出会した巨大な現実は何んといっても南北戦争(1861‑65)であろう.
>zォ震
出会したというのは正しくない,彼は白.らすすんでそれに直面したのである. 1863年春から戦争 が終るまで, 3年間に彼がなした傷病兵慰問と看護のための病院あるいは野戦地‑の訪問は600 回を超えた. 1回の訪問で, 1時間からまる1日を費した.重傷者の看護で徹夜をすること
(狗
もあった.また其処に数夜つづけて寝泊りし,瀕死の傷兵を看取ることもあった.彼の死後発見 された手記によれば,彼は開戦直後「自分は今日,この時間,水と純粋なミルク以外の一切の飲
からT='
み物,一切の脂っこい肉と遅い夕食を排し,純粋で,完全な,甘美で,清い血の,遥しい身体を
からだからT='
造ることを誓う‑偉大な身体,楠れない,活められ,霊化された,生気にみちる身体を.」と 決心しているが,その誓いを守って戦中彼は極度に切りつめた食生活をつづけた.その節約した 金'T食料品,日用品などを買いリュックにつめこみ,兵士達を見舞ったのである.
「愛されることは燃え尽されることだ.愛することは尽きざる光りで燃え輝やくことだ.愛さ れることは過ぎ去ること.そして愛することは持続すること.」とRilkeはマルテにi手記≫の 終り近くで言わせているが, Whitmanの内なる芸術家マルテは,必要とあらば密室の言葉を振
り捨てて,己れみずからの肉体を光りかがやく愛の言葉とする達しさをも持っていた.
しかし,今は彼がそこで為した様々な献身的行為のことはさておき,この期問に彼が直面した
ぎようそう
く現実)の相に注意を向けたい.それは,まさにあのボードレ‑ルの戦懐的な詩4:屍体≫の形相 が宥めく一大屠殺場であった.彼は,坤くまま姐のわくまま放置された累々たる肉体の社榎をそ こに見た.死が甘美な救いとさえ見える',のた打つ苦悶の凄じさ.彼は. 「肉体というものの
(惨めさの)完全な標本を見た.のである.ぶち割れた頭蓋骨から脳みそがはみ出,戦野に3日 間生きつづける兵士(その仰向けにひっくり返えったままの肉体は,もがく任で背嚢二つほどの